第92話 暗がりの奇襲
一寸先の足元すら見えない海の中、ルーファンは柔らかい砂利を踏みしめながらたどたどしく歩みを進めていた。アトゥーイが周囲を泳ぎ、時たま自分の近くへ来ては進むべき方向を指で教えてくれる。ルーファンはそれに対して頷くか、或いは指でバツ印を作って地面を指さすというジェスチャーで行動を伝える。後者に関しては休憩を取るための物として出発する際に決めていた。
水の中では腕や脚の筋肉の使い方が地上のそれとは違う。何より行動が重く、鈍いのだ。思考してからの行動がワンテンポ遅れてしまう。頭で理解はしているのに体が追い付いてくれないという何とも奇妙な感覚であった。
「ッ… !」
何かが来る。そう思って身構えはするがやはりバランスを崩してしまう。もたついている内に気配の正体が現れるがただの魚であった。一歩進む度に辺りを見回しながら進む。そんな暗い海中に怯える自分を鑑みた時、<闇の流派>の魔法がなぜ恐れられているのかルーファンは少し理解した。何があるか、何が起こるか分からない視界というのはこれほど恐ろしい物なのか。
ふとまた足を止めてしまう。何か後ろで動いた気がした。アトゥーイも不思議そうにルーファンへ近づく。もうすぐで祠へ着くというのに何をもたもたしているのか。そんな些細な苛立ちも抱えていたが、すぐにルーファンと同じ緊張感に見舞われた。間違いない。何かが自分達を取り囲んでいる。それも決して少なくはない。
剣を握り締める手の力が徐々に強くなっていった矢先、ルーファンの背後から何かが飛び掛かってきた。そして手と腹部に太い物が絡まる。縄や海藻とは違う生物的な不規則さがある力と動き方だが、恐ろしく感触が固い。鉄の様だった。締め付けが強く、腕に力が入らない。巻き付いている何かが腕を強く捻り、やがて人体の構造上決して行ってはならぬ方向へと肘の先を折り曲げようとしている。
たまらず掴んでいた剣の柄を離した時、突然力が緩む。アトゥーイが三叉槍を使って襲い掛かって来た敵を攻撃をしたらしい。再び握力を取り戻したルーファンは背後を向こうとするが、アトゥーイはそんな猶予すら与えてくれなかった。すぐに彼の腕を掴むとそのまま引っ張るようにして泳ぎ出す。かなりの速度と力であり、肩が脱臼でもするのではないかと心配になった。
一方でルーファンを引っ張るアトゥーイは暗闇の中でわずかに光っている小さな岩山の前へと急ぐ。岩山の麓には塞ぐような形で別の岩が置かれており、そこからかすかに光が漏れていた。ルーファンを急かし、二人でそれをどかしてから急いで中へと入る。
中には上の方へと続く洞穴があり、辺りは光を放つ不思議な結晶で埋め尽くされていた。再びアトゥーイはルーファンの手を掴んで、洞穴の中へと泳いで進んでいく。結晶が尖っているため、時折肌や服を切り裂かれそうになったがそんな事を気にしている余裕はなかった。
「ハァッ…!ハァハァ…」
やがてどこかの水面へと到達し、アトゥーイは息を荒くしながらルーファンを引っ張り上げた。深海だというのにおかしな話ではあるが、確かに岩で形成された岸があったのだ。
「何だここは… ?」
ルーファンは困惑を露にする。恐らく辺り一面が岩壁で覆い尽くされている事から岩山の中だというのは分かるが、かなり広く空気がある。おまけに光を放つ結晶のおかげで明るく、苔や植物まで生えていた。
「何とか間に合いました…あそこに祠が」
息を整えながらアトゥーイが指をさした先には確かに苔むした祠がある。かなり広い洞窟のような空間にポツンと寂しげに配置されていた。
「さっきは助かった。ありがとう」
「礼には及びません。急ぎましょう」
急ぎ足で向かう中、ルーファンは礼を言うがアトゥーイは余裕がないのかそっけなく返した。
「随分焦っているが君は何を見――」
不思議に思ったルーファンが問いかけた直後、水しぶきの様な音と何かが岩にぶつかるかのような音が響く。自分達が来た方向を振り返ると、何かが岸に上がろうとしていた。
蛇腹のようになっている金属質の触手がミミズの様に蠢き、先端の鉤爪が岸を掴んでいる。それが十本ほど岸にしがみついた頃にようやく本体が触手たちによって引き上げられた。四足歩行の奇怪な生物だった。両生類の様なヌメヌメとした光沢のある皮膚を持ち、先程の金属の腕達は脊髄の方からあばら骨のように横向きに生えている。顔については分からない。人工的に作られた鉄の仮面を被せられていたのだ。だが口元だけは見える。糸を引いた唾液を垂らし、血に濡れた口内と牙が微かに見えた。
「こんな奴がいるなら早めに伝えておくべきだったな」
剣を構えてルーファンは言った。祠へ向かう気にはなれない。背中を向けてはいけない様な気がしたのだ。
「いや…今まで見た事が無い。こんな化け物は」
アトゥーイは若干冷静さを欠いていたが、辛うじてルーファンに答える。そう言っている内に同じ様な個体が更に四匹現れた。やがて先頭にいた個体が後ろ脚を使って立つと、腹部に巨大な六角形の口が見える。そちらが静かに開くと、汚らしい胃液を吐き散らしながら悲鳴にも近い鳴き声を上げた。




