くまさんと椿。
――これは本来ならあってはならないこと。それを犯すというのなら、それなりの制約を受けて頂きます。
(……上等だ。)
――『彼女』はこの椿たちが蕾をつけるころ、やって来るでしょう。其の花が枯れるまでに『彼女』がいつまでも貴方に寄り添うと誓うならば、貴方は元の姿に戻り、願いも叶います。
(もしも、無理だったら?)
――その時は、貴方は永遠にその恐ろしい姿のまま、人々に『鬼』と蔑まれ、恐れられながら生きてゆかねばなりません。もちろんそうなれば、もう『彼女』とは会えなくなります。それでも、よいのですね?
(あぁ)
――ならばその願い、叶えましょう。
*
くまさんと出会ったときはまだ蕾もまばらだった椿が、どんどんと花を咲かせ始めた。
そんな庭先の様子を眺めながら、もうそんなに一緒にいるのか、と考え、同時にまだそれだけしか同じ時間を過ごしていないのか、とも思う。
くまさんと暮らし始めてから、そろそろ百日になっていた。
「巫女よ」
別に巫女服を着ているわけでもないのに、くまさんには出会った時からそう呼ばれていた。いくら話が通じようと、彼はあくまで熊だ。もしかしたら、この人(熊)のなかでは『神社にいる女性』はすべて『巫女』なのかもしれない。
自分は巫女ではない。
はじめのうちは何度もそう訂正を要求したものだが、くまさんは軽く笑ってまともに相手をしてくれなかった。
「なんでしょう、くまさん」
結局巫女が折れ、微笑み応対する現在に至っている。
街では『ラヂオ』なんてものが出来ているらしいこのご時世。
にもかかわらず、巫女が生まれ育った村では山奥の古びた神社には鬼が住んでいる、という伝承がいまだ信じられていた。
儀式的なものだが、今でも毎年椿の花が咲く前に村の娘を一人、すでに無人となった神社に生け贄として捧げるのだ。
もちろん儀式なのだから、今まで帰ってこなかった娘はいない。
だが今年の生け贄である巫女は、椿が咲き始めても村へ戻ろうとはしなかった。
今日もいつものように海老茶袴にたすきを掛けて、庭の椿に水をやり、朝ご飯を作って、掃除をして。そしていつものように縁側で一息つく。
そんな巫女に、くまさんはくまさんで毎日のように訊いてきた。
「貴女は家に帰りたいと思わないのか?」
その度に巫女は微笑んで見せた。
ちょうど何故自分の事を巫女と呼ぶのか、と訊いたときに、くまさんがただただ静かに笑っていたように。
ごまかされている自覚はある。ごまかしている自覚もある。
お互いがお互いにすべてを見せず、それで不安がない訳ではない。
けれど、
家に帰りたくはないか?
毎度毎度のその質問には、いつだって不安の色しか浮かんでいなかった。
少しでもそれが消えるのなら。余計な心配が減るのなら。理由の中にそういった気持ちがあるのも事実なのだ。
――少なくとも、自分の方は。
「ただ」
だから、そう切り出したのは今回が初めてである。
「残してきた祖母が、それだけが気がかりなの。くまさん、一度だけでいいんです。家に帰してもらえませんか?」
これ以上先延ばしにしたらきっともう頼めなくなる。頼む事が後ろめたくなる。そう思ってのことだった。
「そう、なのか」
案の定くまさんは驚いた。
少しの間考え込んで、その大きな手で巫女の頬をそっと、体格差を考えればびっくりするぐらい絶妙な加減で包み込んだあと、なぜか庭の方――椿が咲いているあたりを見つめてから、
「……行っておいで。お祖母さんによろしくな」
巫女に向きなおりそう言った。
その口元が笑っているのは確かなのに、なんだかこっちが泣きたくなるような笑顔で。
「ありがとう」
そう言って逃げるように立ち去るしか、彼女にはできなかった。
*
「いいのか?」
いつの間にか来ていた小柄な狼――山神が尋ねると、くまさんは硬い声で答えた。
「あぁ。あの娘は何も憶えていない。――もう、『私の』巫女じゃないんだ」
目線は巫女を見送ったついさっきのままだ。
くまさんだって彼女を疑いたいわけではない。だが今になって身内の事情を訴えられたのでは――今まで神社から離れた気配もないとあってはなおさら、どうしてもそれは下手な口実に聞こえてしまう。
「それもあるがな、今は椿の方だ。アレもそろそろ限界だぞ」
やはり付き合いの長さだろうか、山神もそのあたりにはあえて触れようとはしない。
「それよか、いつまでそんなカッコでいるつもりだよ。貴方サマともあろうお方が」
かといって容赦というものも持ち合わせてはいないのだが。
くまさんは軽くその金色の頭をはたくと、諦めたように薄く笑う。
「いいさ、五十年間この姿でいたんだ」
それに今さら元に戻ったところで。
くまさんはやけに人間くさく眼を細め、ぼんやりと、しかし睨むように空を見上げた。
「そーかい」
それだけ言って、狼は熊の横にしゃがみこむ。そして同じように今にも一雨降りそうな、真黒い雲におおわれた空に目をやった。
その目も同じように険しい。
「私もこの国では新参者だからな」
そう呟き、くまさんは自分の拳をぎゅうと握りしめた。
やはり雨は音を立てて降って来た。この分だと、嵐ぐらいのものにはなるかもしれない。
すでに山神も自分の住処へ帰っている。
知らず知らずのうちに、くまさんの口からはため息が漏れた。
本当はどこにもやりたくなかった。この熊にとって少女は、長い間待ち続けてやっと見つけた、最愛の人なのだ。
だが引き留める事は出来なかった。
向こうは何も知らない。そしてくまさんだって、今の彼女の事情は何一つ分からない。
今の二人の間に、引き留めるだけの理由は何もなかったのだ。
ふいに、巫女と出会った頃を思い出した。
少女は熊が喋ることにも厭わず、狼のことはあくまで犬っころだと思い可愛がって。気にしていたのは何故熊が自分を「巫女」と呼ぶのか、とかそんなことで、結局その答えを教えることは叶わなかった。
お前が言ったんだよ、そう呼べって。
今では声も見た目も違う彼女は、もうそれも忘れてしまっているのだろう。
それでいい。くまさんは自分の胸に手をやった。
巫女が笑うたび、うれしいと感じるのと同じぐらい締め付けられたこの場所。こんな思いをするのは自分だけで十分だ。
山神は、椿はもう限界だと言っていた。けれど自身の方が、ずっと限界かもしれない。
雨はいっそう強くなり、止もうとはしなかった。
嵐は五日たった今でも、雨を降らせつづけている。
「よう、巫女サンは戻ってきたかい? ……まだだな、その様子じゃあ。お前、あれから何も食ってないだろう」
もう声を出す気力も無いくまさんは軽く首を上下させ、それを返事とした。
たとえ巫女に戻る意思があっても、嵐が止む頃には椿はすべて枯れている。
そう悟った時から、くまさんは熊として生きるための行為をほとんど放棄してしまっていた。そんな事をしても熊としての一生が終わるだけで、何になる訳でもない事はくまさんも分かっている。
けれど巫女がいないなら――かつて愛した人と会えないなら、わざわざこんな姿でここに留まる意味はくまさんにはなかったのだ。
「もう私の巫女じゃないーとか言ってたクセに、お前も未練たらたらだな」
山神の憎まれ口にも全くの無反応で、これまた随分なすさみようである。そんなくまさんに山神は、やれやれと言わんばかりにふぅ、とため息をつく。
「ま、終わるだけが関係性ってモンじゃ無いしな」
そして妙に意味深な言葉を残し、山神は早々に帰ってしまった。
と、何かが落ちる音がした気がして庭の方を向いたくまさんは、地面に落ちた最後の花を見つけた。
すっと目を閉じる熊。
これでもう、ここに用事はないな。
だがそう思った瞬間、懐かしい――たった五日離れただけでそうと感じる声が聞こえた。
「くまさん!」
彼女はこんな雨の中で、傘も差さずに駆けてくる。くまさんはといえば驚くよりも唖然として、ぽつりと呟くようにその名を呼んだ。
「巫女……?」
さらに巫女が椿の前を通り過ぎると、あるはずのない蕾がぷくりと膨らんだ。信じられないことに蕾はそのまま成長し、小ぶりながらも見事な花を咲かせる。
「服が濡れてるぞ」
訊きたい事がありすぎて結局そんなことしか言えないでいるくまさんに、巫女は相変わらずの笑顔を見せた。
「これぐらい、平気ですよ。おばあちゃんも大した事なさそうで……、良かったです」
「巫女、なぜ貴女のお祖母さんが、調子が悪いと分かったのだ?」
ようやく言葉になった一番の疑問に、巫女はあっさりと答えをくれた。
「あぁ、ヤマガミさんがちょくちょく様子を見に行ってくれてたんですよ。聞いてませんでしたか?」
あの狼。心の中でくまさんは憮然と毒づいた。
さては逃げたか、はたまた気を利かせたか、とっくに山神の姿は見えない。でもまぁ今回はいいだろう。
時間を巻き戻すことはできない。命だって、やり直しがきくものではない。
けれどこの関係は変えられる。もう一度、はじめから。
たった一輪、この椿がつかぬはずの蕾をつけた時、『彼女』は再びやって来たのだから。
懐かしいと感じたのは、五十年前に対してではなかった。今となってはただ目の前の巫女がすべてだ。
もう離さない。この花が枯れるまで――いや、枯れてからもずっと。うっすらと太陽が顔を出した。そろそろ嵐も止むだろう。
古びた神社の境内で、熊が少女を抱き寄せる。
「帰ってこないかと思った」
巫女の笑顔を見ても、もう辛いとは思わなかった。
「あら。そんなつもりなら、最初からこんな山奥に住みつきませんよ」
「そうだな」
彼女がそう答える事は、はじめから知っていた気がした。
ある春の、昼下がりのことだった。
ちなみにお題は「ファンタジー」でした。……かすりもしてませんね(苦笑)。
もう少し仏教の勉強をしたら(あと人気があれば)、続編を書くかもしれません。