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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

まだ誰も見たことない地平の、

作者: 津籠睦月

 過ぎたるは、なおおよばざるがごとしとは、よく言ったものだ。

 行き過ぎた才能、斬新(ざんしん)過ぎる手法しゅほうは、いつの時代もすぐには評価されない。

 文化人や審査員しんさいんといった人々は、口では「我々の想像を超える才能を求む」と言いながら、所詮しょせんは自分たちの想像の延長線上にある才能しか見出みいだすことができない。

 想像のナナメ上をカッ飛んだ才能は、そもそも視界に入りすらしないのだ。

 

 この真実に辿たどくまで、俺も散々(さんざん)悩まされ、苦しんできたものだ。

 何せ、地道じみち思考錯誤しこうさくごを心が折れそうになるまでり返し、それまでの能力の限界さええて描いた“自分史上最高の傑作けっさく”が、まるでそこに存在しないもののようにスルーされるのに、通常運行以下のに合わせで描いたような及第点きゅうだいてんギリギリの絵が、予想外なほどに高い評価をるのだから。

 自分のがおかしいのではないか、他人と美的感覚がズレているのではないかと、一時は真剣になやんだものだ。

 

 思えば小学生のころから、俺は絵の審査や評価というものに疑問ぎもんいだいていた。

 絵画コンクールの入賞は幼稚園の頃からのことで、もうすでに常連のようなものだったが、初めのうちは、ただ大人たちに言われたものをそのまま描いていただけだった。

 画用紙からはみ出るくらいにタテガミをばした、迫力はくりょくあるライオン。極彩色ごくさいしきの羽根をいっぱいに広げた、ゴージャスなクジャク。

 初めからダイナミックなもの、あざやかなものを、そのままダイナミックに、鮮やかに描くだけ。

 小学校高学年に上がる頃には、既にそんな絵の描き方には興味を失っていた。

 

 元からひねくれ者なのかも知れないが、俺は“誰もが当たり前に注目するもの”には、あまり興味をかれない。

 むしろ誰も目を向けないようなものに、異様に心惹かれた。

 派手なオスクジャクのかげかくれた、地味じみなメスクジャク。学校の校舎の正面・・より、その裏側のサビついた非常階段。

 誰もが“分かりやすく立派りっぱなもの”にばかり注目して、その存在に気づくことすらなくても……それでも確かにそこに存在するものたち。それらに、言いようのない、愛しさのようなものをおぼえた。

 ゴチャゴチャした住宅地のわきの、人工的なコンクリート護岸ごがんのドブ川にさえ目を惹かれた。

 雑草がしげって、ゴミも浮いて、少しも綺麗きれいなんかじゃないはずなのに……なぜだか、綺麗なものに対するのと同じくらい……あるいはそれ以上に、目をうばわれていた。

 

 だが、そんなものを描いても、周りには評価されない。

 周りが綺麗だと思っていないもの、興味を持ってすらいないものを、どれほど精緻せいちに描いたところで、それが評価されることはない。

 ――当時の俺は、そんな簡単なことにさえ気づかず、急に落選続きになったコンクールに落胆らくたんしてばかりいた。

 

 絵の評価は、画題を選んだ時点で既に何割か決まっている。

 審査員には明らかに「こういう絵が望ましい」という先入観や好みが存在する。学生向けのコンクールであれば尚更なおさらだ。

 何だかんだで大人に受ける学生“らしさ”が好まれ、賛否両論を巻き起こすような挑戦(ちょうせん)的で斬新ざんしんな絵など、まず選ばれない。

 

 ためしに一度、俺もわざとそんな“らしさ”をねらってみたことがある。

 大人の喜びそうな郷愁きょうしゅうあふれる田舎町いなかまちの風景を、ノスタルジックなタッチで描いてみた。

 風にたなびく氷旗こおりばた、サビついたバス停、トタンのかべ平屋ひらやの家々、白い日射ひざしに瑞々(みずみず)しく輝く草木……。

 昭和の頃から変わっていないであろう、近所でもとりわけ古めかしい風景を、夏休みの空気感をにじませて、エモーショナルに描いてみた。

 描いていて、我ながら、あざと過ぎて若干(じゃっかん)引いた。

 なのにその絵は、それまで落選続きだったコンクールの賞を、あっさりった。

 俺は、喜ぶよりも途方とほうれた。

 

 俺に、賞にあたいするだけの技術テクニックがあることは理解した。

 皆の好む題材を選べば評価されるということも分かった。

 だが、ただ周りの好みに合わせてうまい絵を描くだけなら、俺にとっては描く意味が無い。

 そんな人気の題材の、分かりやすく巧い絵なら、わざわざ労力を使って俺が描かなくても、他の誰かが描いてくれるだろう。俺はそれをながめて感心していれば良いだけだ。

 俺は、誰か(・・)から評価される絵が描きたいわけじゃない。

 俺にとっての(・・・・・・)最高傑作が欲しいのだ。

 

 そのうちに、やがて気づいた。

 皆が綺麗だと思わないものでも、綺麗に魅せる(・・・)技術を編み出せば良いのだ。

 皆がつまらないと思って注目しないようなものでも、無理矢理その目を惹きつけてしまうほど、素晴らしく描き上げてしまえば良いのだ、と。

 

 当然、それは尋常じんじょうでない努力と研鑽けんさんを要するものだ。どれほど技術を上げても追いつかないほどだ。

 だが、俺の胸にはいつも、荒野の最前線で冒険しているかのようなワクワク感があふれて、全く苦痛に感じない。

 思うように描けなくて、手を止め、描いては直し描いては直しを繰り返し、やがて最適な画法を見出して、嬉々(きき)として筆を走らせる――それはまるで、苦難に立ち向かい、みずから道を切りひら開拓者かいたくしゃのようだ。

 

 俺にとって絵を描くとは、挑戦ちょうせんすること。新しい技法、新しいセンス、新しい自分を求め、常に足掻あがき続けることだ。

 既に持っている技術だけを集めて“完成度の高い”絵を描くことより、時に失敗してでも、新しい何かを求めたい。

 他の誰にでも描けるような絵ではなく、俺にしか描けない絵を――まだ誰も見たことのない景色を、白いキャンバスの上に描き出したい。

 もしかしたら俺は、ものすごく傲慢ごうまんだいそれた野望を抱いているのかも知れない。

 

 新しい絵のスタイルを求めて試行錯誤の日々を送っていると、ふと自分と周囲とのちがいに気づかされることがある。

 周りの人間は意外と“新しい何か”なんて求めていない。失敗や完成度の低さというリスクをってまで、新しい何かに挑戦しようなんて思っていない。

 所詮しょせんは学校の部活だからかも知れないが、皆の目標はせいぜいがコンクールの一番上の賞止まりだ。コンクールというわくにすらおさまらない“何か”なんて、考えたこともないようだ。

 逆に「我が道を行き過ぎる」俺の方が奇異きいの目で見られていたりする。

 だがまぁ、それも想定の内だ。新しい道を拓く挑戦者が、世間せけんから理解されないなんてことは、歴史も証明する、ごくありふれた“宿命”だ。今までどれほどの巨匠が、生前あるいは草創期そうそうきに、真っとうな評価を受けられず苦しんできたか知れないのだから。

 まして、まだ画風も確立していないヒヨッ子が評価されなかったからと言って、何を不思議がることがあるだろう。

 

 美術の教科書には必ずる「印象派」も、発表当初は酷評こくひょうされた。

 美術史を動かすような革新的エポック・メイキングな作品でも、その始まりが順調だとはかぎらない。

 だが、そんな不遇ふぐうにもめげずに作品を描き続けた人々がいたからこそ、それらは今、名画としてたたえられている。

 歴史を知る現代人なら、その努力を当たり前のことのように受け止めるだろう。

 だが、当時の彼らは将来得ることになる評価など知らなかった。笑われて、けなされて、自信を失ったとしても全くおかしくない状況の中、それでも自分の描きたいものを信じて描き続けた。

 

 それだけの強い精神力メンタルを持っていたと、言ってしまえばそれまでだろう。

 だが俺は、少し違った見方をしている。

 彼らはきっと純粋に、自分たちの生み出す絵にせられていただけだ。

 自分にとって最高に魅力的な作品を、自らの手で描き出すことに、夢中になっていただけだ。

 

 歴史の中には、存命中ぞんめいちゅうに日の目を見なかった芸術家も少なくない。生きているうちには認められず、それでも多くの名作をのこした芸術家たちが……。

 なぜ、名声めいせい称賛しょうさん対価たいかも得られず、それでも作品を生み出し続けられたのか。

 ただ精神が強かった、あきらめが悪かった、だけでは説明がつかない。

 他の誰に認められなくても、当人だけは自分の作品の価値を理解していた――そうでもなければ、説明がつかない。

 

 ものの価値なんて、結局は相対的なものでしかない。

 ある人にとっての宝が、別のある人にとってはゴミに過ぎないように、芸術もまた、る者によって価値を変える。

 真に美しいと思えるものと出逢であい、それに取りかれてしまった者にとっては、他人の評価などつぎだ。

 

 自分の手で、自分にとって最高の宝を生み出し続けられるなら、何をなげくことがあるだろう。

 自分とは価値観も美的感覚も違う“他人”の評価を得られなかったからと言って、なぜ絶望する必要がある?

 他人から否定されたからと言って、なぜ自分までそれを否定する必要がある?

 

 俺が綺麗だと思うものを、綺麗だと思えない人間がいる。

 俺が目を惹かれたものを、見つけることすらできない人間がいる。

 それは、その人間たちにとって不幸なことかも知れないが、俺にとっての(・・・・・・)不幸ではない。

 

 誰も認めてくれなかったとしても、誰一人ついて来なかったとしても、俺はひとりでも新しい道を切り拓く。

 そうして、まだ誰も見たことのない、新しい地平に辿たどり着く。

 

 考えてみれば贅沢ぜいたくな話じゃないか。

 まだ誰も知らない絶景を、一番乗りで独りめできるのだから。

 

 きっと多くの人間たちは、そんな地平があることにすら気づかずに、“見やすく整備された観光客向けの景色”だけで満足して去っていくのに。

 俺はきっと、俺自身が切り拓いたその絶景の中で、そこに辿り着けずに終わる人々を不憫ふびんに思うことだろう。

 

 ……だけど、たぶんそのうちに、少しさびしくなったりするのだろう。

 見たことのないような美しい景色でも、それを他の誰とも共有できないのは、かなしい。

 どんなに素晴らしい地平だったとしても、ひとりきりでそれを見ているのは、やっぱり寂しい。

 

 だから、きっと待つのだろう。

 まだ誰も見たことのない、想像すらつかないだろう美しい景色を、白いキャンバスの上に描き続けながら――これまで歴史上、何人いたかも知れない有名・無名な芸術家たちと同じように……いつか、他の誰かがその地平に辿り着いてくれるのを。

 そうしてその誰かが、俺の切り拓いたその景色をじっと眺め「綺麗だね」と微笑ほほえんでくれる……そんな日を、たぶん、ずっと待っている。

Copyright(C) 2020 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

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