雨の日の出来事
7/22 修正しました。 三日月レネ→水野レイネ
「災難続きだったわねぇ。去年の地震で教会が半壊して、今度は牧師さんが倒れちゃうなんて。びっくりしたわ。」
細い雨が窓を打つ、緑町にある大学病院の一室で。見舞いに来た信者のおばさんが大袈裟な身振りで言った。
「ええ。まさか新館の方がダメになってしまうなんて思いませんでしたよ。旧館はビクともしなかったのに。」
雨の中大変だったでしょう、と言いながら彼女の話に私は相槌を打った。
この大学病院は御幸台から私鉄で12駅約一時間、さらに駅から歩いて20分もかかるのだ。こんな雨の中来て下さるなんて、と恐縮する私を「涼しかったから良かったわよぉ」と手を振って、彼女は話を続ける。
「震度6でしたっけ。見た目はちょっとヒビが入っただけなのに、半壊なんてねぇ。ああ、牧師さんは何も心配しないで療養してちょうだいね。私たち婦人会で奥さんをサポートするから。商店街でもね、募金活動しようかって話も出てるんですよ。」
街のシンボルみたいなものですもの。みんなで直せばいいんですよ、と彼女はにこにこと笑った。
「ありがとうございます。…牧師冥利に尽きますね。」
教会は街の人たちから愛されている。倖せなことだ。好意に応えるためにも、早く身体を治して復帰しなければ。病室の窓を雨粒が弾けては流れ落ちていった。
◆◆◆
また別の日。午後から本降りになった雨がざあざあと雨音を響かせている。県外に住んでいて数か月ぶりに会う弟が今日の見舞客だ。
「頑丈な兄さんでも病気になるんだなぁ。」
はち切れそうなポロシャツの腕に見合うごつい手で果物ナイフを操り、器用に梨の皮を剥きながら、彼は快活に笑った。
「今日は雨だから涼しいね。」
「寒いかい?」
「いいや。デブは涼しい所がサンクチュアリ。」
静かな部屋に梨の皮を剥くシャリシャリという音だけが響く。
「そういや兄さん。退院したらさ、これ聞きに行かない?」
弟がリュックのポケットから、小さく折り畳んだチラシを取り出して広げた。
「これは…コンサートかい?ああ、裏の文化会館で。」
黒を背景に穏やかな笑みの四十代くらいの男性がポーズを取っている。イベントのタイトルは『イスラメイ~Ayato Moriyaピアノリサイタル~』。
「そこの音大出身だって。すごいよねぇ。ロシア留学して、その後はブルガリアに永住権を取ってヨーロッパ中心に活動しているんだって。才能あるんだなぁ。」
「へぇ。」
折り目のついたチラシをしげしげと眺める。ちなみに文化会館はこの大学病院と通りを挟んで斜め向かい。といっても広い駐車場の向こう側なので中途半端に距離がある。
「よかったら奥さんも一緒にさ。快気祝いだよ。入院生活は退屈だったろう。」
「いやぁ、少し回復してきたらやれ書類を見ろとか、案内文作っといてとか、こき使われているよ。」
苦笑交じりにテーブルのノートパソコンを示すと、なら尚更気晴らしが必要だな、と弟はワハハと笑った。
◆◆◆
コンサートの日も雨が降っていた。傘の滴を払って細長いビニール袋に入れると、先に到着していた弟夫婦に手を振る。
「やあ、時間を読み違えちゃったね。そこでちょっとコーヒーでも飲んでいようか。」
すでに八月は過ぎていたが、31日が木曜日なら今日9月3日は気分的は夏休み最終日だ。渋滞を案じる妻に従って早く出発したのだが、読みが外れた。時計を見れば、開場まで30分近く時間がある。
四人で文化会館内の喫茶店に入り、窓際の席に落ち着いた。店の壁には手書きのメニューの他、近隣の美術館の企画展のポスターが貼られており、その手のものが好きな妻が興味深そうに眺めていた。―童話作水野レイネ作画展。ポスターの全面に、儚げな色鉛筆のタッチでバルコニーに立つ女性が描かれている。
「こういう店は静かでいいよね。ほら、BGMもショパンの《バラード2番》なんか流していられる。あ、アメリカン…ホットでいいかな。」
「相変わらず詳しいね。」
「年を取ると渋いモノが好きになるんだよ。」
下半分だけ青いガラス窓の向こうは、雨に煙る灰色のエントランス。まだ夏なのに、湯気をたてるコーヒーが美味しい。花瓶に生けられた瑞々しい紫色のグラジオラスと菱形模様の冷たいビニールクロスが妙に寒々しい。
「ねえ、晶子義姉さん。私たちはケーキでも頼まない?」
「ブランデーケーキ…酔っ払っちゃうかしら。」
「ヘーゼルナッツのケーキも美味しそうね。」
妻たちがコーヒーだけでは間が持たないと、メニューを見て相談を始めた。
店内には私たちの他には、店のおばちゃんがカウンター席で遅めのランチ休憩を取っており、他は中程のテーブル席に白い髭をたくわえた紳士と黒いスーツの男性の客がいるだけだ。
「あら、芳美さんそれ…確かモネ?かしら。お洒落でいいわね。」
「ふふ。ありがとう。夏休みに娘も連れて京都に行ったの。この人のウィスキー工場見学に付きあってね。近くに隠れ家みたいな美術館があったから、そこで。」
「地中の宝石箱なんて素敵な名前ね。」
そこから話題はかの有名な『睡蓮』のことに移った。
◆◆◆
窓際の席で中年の男女が会話に花を咲かせている。クロード・モネの『睡蓮』は実は歌川広重の浮世絵にインスピレーションを得たのだという蘊蓄に興奮しているようだ。…おかげで自分たちの会話など聞こえてはいないだろう。
「それで…日本には帰ってこないのかね。」
何度目かの問いに、困ったような笑みを浮かべる。
「ええ。向こうの生活が捨てがたくて。」
お決まりの答を返す。向こう―ブルガリアでの生活が捨てがたいのは本当だ。音楽の濃度が日本とはまるで違う。それに、ロシアへもフランスへもイタリアへも気軽に行ける。
「向こうではフリーなんだろう?苦労も多いんじゃないのかね?」
師匠の問いに苦笑する。安定した仕事に就いていないのは確かだ。けれど、居場所を固定するには躊躇いがあった。
「戻ってくれば、大学で教える道もある。君の音楽学の知識は埋もれされるには惜しい。いくつか執筆もしている。君ならこの世界でも出世できるだろう。なんなら、君の故郷――お母様のご実家が十和田湖のそばだったね――その近くの音大に私の弟子がいるから、推薦状を書いたっていい。遠慮なんかいらないよ。」
流れるBGMは、いつの間にかマルティーニの《愛のよろこび》に変わっていた。ピアノ曲から歌曲にCDを変えたようだ。
Tant que cette eau coulera doucement
vers ce ruisseau qui borde la prairie,
(草原に沿って続く小川に穏やかに水が流れてゆく限り…)
優しく物憂げな声が歌う。
「お言葉、傷み入ります、先生。ですが…」
もともと柔和な顔立ちの眉をハの字に下げて、守谷はかつての師匠に詫びた。
「もう少し、もう少しだけ…向こうで音楽をやっていたいんです。ご厚意を無下にして、本当に申し訳ありません。」
視線を床に落とした『向こう側』で師匠の溜息が聞こえた。
「向こうの音楽か。今は何をしているんだね?」
壁に掛けられた古そうな油絵にちらりと目をやって師匠が尋ねた。油絵の情景はヨーロッパのどこかだろうか。深い色の湖に臨む白亜の宮殿が描かれている。
「小さな仕事を引き受けながら、民謡の研究を。取材は体力が要りますが、楽しいです。」
話題が逸れたことにホッとして、淡く微笑む。師匠は、「そうかい」と相槌を打つと、一口コーヒーを飲んだ。銀色の結婚指輪がその骨張った指に半ば同化したようにはまり込んでいた。別に恋人がいるわけではないが、自分には無縁のものだな、と守谷は心中で独りごちた。
「君はまだ若い。やれるだけやってみたいと言うのを、どうして止められよう。けれど、君は私のかわいい弟子だ。命ある限り、いつでも私を頼ってきなさい。」
まっすぐな眼差しで師匠は言った。そして、懐かしそうに店を見回した。
「もう…何年も前になるね。覚えているかい?金森百合くん。彼女がここで《イスラメイ》を弾いたのが昨日のことのようだよ。確か君もお手伝いで来てくれて。」
「ええ。」
「きっと彼女も君を祝福してくれているよ。」
「ええ。」
「おっと、話し込んでしまったね。君の《イスラメイ》を楽しみにしているよ。」
白い髭をたくわえた口許に好々爺然とした笑みを浮かべる師匠に今一度軽く頭を下げ、守谷も席を立った。窓際の中年男女は、ゴッホの『星月夜』に話題を移していた。よほど盛り上がっているのか、真横を通っても守谷に気づきもしなかった。
◆◆◆
雨足が強くなってきた。水紋が灰色の地面に白く細かいドット柄を描いている。
「そういえば、いつの間にか人生折り返してたなぁ。」
二杯目のコーヒーを飲み干して、弟がしみじみと漏らした。
「ハハハ。折り返し地点なんかどこだったか。私なんか七十が見えてきた。もうお爺さんだよ。」
光陰矢のごとし。ひと言で言ってしまうと味気ないけれど。
「もう、『あっち側』からのお迎えを気にする歳になったか。」
「やあねぇ、辛気くさい。」
妻たちが笑う。
「子供が大学出るまでは、逝かないで下さいよ。」
「わかってるよ。定年後は契約社員として働き続けますって、母さん。」
明るい笑い声が響く。妻が時計を見て、そろそろ行きましょうか、と伝票を握ったのを義妹が「ここは私が」と伝票を争奪しにかかった。結局、二人はくっついてレジまで行った。
何かを隠した、その1
さり気な~く、いろんなところに隠れております。童話作家の名前とか。




