プロローグ
20/6/9 プロローグに詩篇を追加しました。読み返してみて、まどろっこしいなと感じたもので。面倒だなと感じられましたら、サラッと流して次をお読みいただいてOKです。
輪廻は繰り返す、とはよく言ったものだ。
また私は『彼』と出会ったのか。
いや、出会ったことは決して悪いことではない。むしろ、倖せだ。
ただ―。
私は瞑目する。
瞼に浮かぶのは『彼』の黒い背中だ。静かに祈りを捧げる背中。
木枯らしが容赦なく吹きつける。風の音は、まるで泣き声のようにも、責め叫ぶ声のようにも聞こえた。
「行こうか。」
『彼』は振り返り、淡く笑んだ。
悲痛、後悔、罪悪、そして寂寥。それらが濃い影を落とす笑み。
(行く?どこへ?)
問いかけた残像が霞む。
名を呼ばれて、私は我にかえった。
指摘されたのは、紅い水たまりができたソーサー。カップを持つ手をうっかり傾けてしまったらしい。
「大丈夫。考えごとを、していたんだ。」
取り繕うように笑えば、彼も笑顔を見せた。何も知らない笑顔―。すべてを忘れてしまった無垢な笑顔を。
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【1】オンディーヌ
確かに聞こえたのだ
私に微睡みの魔法をかける嫋やかな歌声
まるで耳元に囁きかけるかのような
その歌は、
哀しく柔らかな声で断ち切られた
シャルル・ブリュニュ『二つの精霊』より
聞いて!お聞きなさい!
私よ オンディーヌ
そう 月の光が淡く照らす
菱形の粗末な布張り窓を
その滴で優しく濡らす
ご覧なさい
波打つドレスを纏い
バルコニーに立つ宮殿の主
星散りばめた美しい夜と
眠りに沈む湖を眺めている
さざ波は流れに揺蕩う水の精霊たち
すべての流れは曲がりくねった小径
水の宮殿へと連れてゆくの
私の宮殿はね
流れに護られ 湖の底深く
火と土と風の大三角
その只中に在るのです
聞いて!お聞きなさい!
私の父はさざめく水を榛の木の若木で打ち鎮め
妹たちは腕に泡を纏わせて
睡蓮やグラジオラス咲く瑞々しい緑の島を優しく撫でたり
釣り糸を垂れる長いお髭の老いぼれ柳をからかっているの
彼女は歌うように囁いて
私に哀願した
どうかその指に私の指輪を嵌めて
私の夫になって
どうか共に宮殿にいらして
湖を統べる王になってくださいな
けれど私は答えた
命に限りある人間の女が好きなのだ、と
彼女は不機嫌露わに悔しがり
ぽろぽろ涙を零したが
やにわに高く哄笑し
雨の最中に姿を消した
そのあとは
青いガラスを白く濁して
雨が降りしきるばかりだった
【2】絞首台
絞首台のまわりを蠢くモノはなんだ?
『ファウスト』より
おお聞こえるぞ
キィキィと金切り声をあげるもがり笛か?
煉獄との境辻から首吊り人が吐くため息か?
絞首台の台木を憐れと靴誂えた
苔や実無蔦にひそみ歌う蟋蟀か?
もはや聞こえぬその耳に
獲物仕留めたと高らかに角笛吹く蠅か?
気まぐれに飛びながら
骨も露わなその頭から
血塗れの髪を抜き取る黄金虫か?
さもなければ
そのきつく絞め上げられた襟元に
半オーヌのモスリン織って
クラヴァット誂える蜘蛛か?
それは鐘
城壁に響き渡る晩鐘
地平線の下 夕陽が真っ赤に染めあげる
首吊り人の骸
【3】スカルボ
『何か』が見ていた
ベッドの下から
暖炉の中から
食器棚から
……何もいない
『アレ』はどこから入り込んだのか
『アレ』はどこへ逃げたのか
それは杳として知れなかった
ホフマン『夜話』より
そうとも!俺は何度も聞いた
何度も見た
『スカルボ』、小悪魔を
あれは真夜中
空と輝くお月さま
金糸の蜜蜂散りばめた紺青旗と
まあるい銀貨のようだった
俺は何度も耳にした
翅音みたいな笑い声 閨房の暗がりに
爪軋ませる音 閨の絹の天幕に
俺は何度も目にした
アイツが天井駆けおりて
片足一本くるくると
部屋中転げまわるのを
魔女の糸巻き棒から落っこちた
ちっちゃな錘のようだった
すわ目を回したかと思いきや
小悪魔みるみる膨らんで
お月さま背に 俺を見下ろす
ゴチック大聖堂の鐘楼か
金の鈴揺れるとんがり帽子
されど たちまち巨軀は青ざめて
透きとおりだした 蝋燭が
融けゆくように 青白む顔
そして突然消え失せた
アロイジウス・ベルトラン(1807-1841)
『夜のガスパール』より抜粋