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天使は純白の羽根を落とす




 (ドラゴン)に乗るのはこれが初めてじゃない。光沢ある漆黒の鱗に身を包む美しい竜にまたがって、僕は大空を駆けめぐり、全身に風を浴びていた。十歳になる小さい子供の僕を支えるように、背中にはボサボサの黒髪で二十代後半の竜使いグレアムがいて、竜の手綱を引いている。

 僕は上空から下をのぞきこんで、緑の山々や、同じように飛んでいる渡り鳥を眺め、瞳を輝かせていた。

「あんまり下を見てると、落っこちるぞ」

 ニヤリとグレアムが大声で言い、僕は顔をあげて、彼を見上げた。

「大丈夫だよ。落ちたってグレアムが助けてくれるでしょう? なんたってグレアムはいちばんの竜使いなんだからさ」

「あはははっ。おだてたって、何にもやらねーぞ」

 とグレアムは白い歯を見せて、角張った大きな手で、僕の頭をわしゃわしゃとかき乱す。とたん、僕は胸に温かい気持ちと、それに反して泣きたくなる気持ちに揺さぶられて、瞼をぎゅっと閉じた。彼に頭を撫でられるとお父さんってこんな感じかな、と自信なく思う。僕は父親というものに会ったことがないから、想像するしかない。そんな風に思う自分が、なんだかちょっぴり寂しかった。

「おお! オルヴァ。下を見ろ」

 ついさっき、下を見るなと注意したくせに僕の名前を呼んで、はしゃいだ様子で彼は言った。

 グレアムにつられて瞼を開いて首を前に出し、地上を見る。その瞬間、あっと口を大きくあけて、頬が緩んでいくのが分かった。

 下には、まるで楽園のようなお花畑が広がっている。可愛らしい色とりどりの花々が春の風に穏やかに揺れて、手を振っていた。幻想的な光景に、僕たちはうっとりと酔いしれて、互い視線を交わす。

「そろそろお昼時だよね、グレアム」

「だな。そろそろコイツも喉が乾いてきたろうし…」

 グレアムは優しく竜を撫でて、満面の笑みを浮かべた。

 僕らはニコーと笑いあってから、グレアムが竜に指示をだし、地上へと降りていく。目指すはもちろん決まってる。




 ふわっと翼を広げた竜が、ゆっくり地面へと降りて、両足をついた。平坦な川の近くに着地した僕たちは、ここまで飛んでくれた竜に礼を告げた。すると、竜は飼い犬がしっぽを振るみたいに全力で喜んだ。本来、竜は誇り高い種族だけれど、グレアムの竜は少し変わっていて、とても素直で子供っぽい。夫婦と長く連れ添うと似てくるっていうけど、きっとグレアムと一緒に居すぎて性格が移っちゃったんじゃないかな。

 しばらくして竜がグレアムをペロペロとなめてイチャつきだし、グレアムもまた竜を愛おしげに抱きついて一人と一匹の世界に入り、僕は苦笑をこぼした。まったくもって毎回毎回飽きもせず、よくやるものだ。この人たちの主従愛は、こっちが気恥ずかしくなるくらい暑苦しい。

「グレアム。先にお花畑に言ってるから」

 僕は竜に水を飲ませようと手綱を引き始めた彼に声をかけ、背を向ける。

「おう。気をつけてな」

 グレアムは小さくなっていく僕の背中に投げかけて、竜の頭をそっと撫でた。

 草木をかき分け、でこぼこした獣道をずんずんと進み、盛り上がった木の根を跨いで勾配を歩いていく。額の汗を拭うと、いったん一息ついて、また足を前に出した。木漏れ日が地面に落ちて斑模様を描いている。風は葉っぱがカサカサと囁くように音を立て、心地よい響きを鳴らした。

 細い枝を掴んで岩をよいしょと登ると、滑るように落ちて、両手を広げて両足をつく。そして、最後の段差を軽々と枝や石を掴んで登り終わると、頬を紅潮させて口端があがった。


 そよ風が花の香りを運んでくる。白や黄色や桃色や、たくさんの色の花々が辺り一面を覆って、優しくて華やかな世界を作っていた。


 まるで物語の一ページにいる気がして、僕は自然と両手をあげて走り出した。大はしゃぎで花畑を駆けめぐり、花の中へとダイブする。花びらがひらひらと舞い、僕は仰向けになって、群青色の空を見上げた。気持ちよさそうなふわふわの雲がゆったりと流れて、太陽の微笑みのせいで空腹なはずが眠気に襲われていく。重たくなっていく瞼を意識しながら、グレアムが来るのを待っていると、真っ白な羽根が僕の瞳に映った。


 光に反射してキラキラ輝くその羽根を見て、僕は一気に眠気が吹っ飛んだ。目を見開いて、羽根が一本、頬に落ちてくるのを眺める。それを拾ってクルクル回し、空から偶然落ちてきた宝物を観察する。せっかくだからこれを加工してペンにしよう。僕は頭の中で出来上がった素晴らしい羽根ペンを想像し、悦に浸っていたのだが、トンッと地面に何かが着地したような揺れがして、視線を足下に向ける。数メートル向こうに人の影を見つけた。

 風が流れ、花びらがカーテンのように舞う。


 ――え……


 そこにいたのはグレアムではなく、僕と同じ十歳くらいの髪の長い女の子だった。


 少女は稲穂のような輝く金色の髪を揺らし、白いワンピースに身を包んでいた。ワンピースはレースが飾られていて、スカートの部分はよく見れば、ビーズや刺繍を施され、少女を素朴だが華やかに見せている。

 だが、それだけならば、僕はこれほどまでに驚かなかったに違いない。



 決定的に彼女は僕と違っている部分があった。それは彼女の背中に、"大きな翼"が生えているということだ。


 彼女の体を包み込めるほど大きな純白の翼は、ときおり風を起こして、花がゆるやかに揺れる。花の香りと花びらが少女の周りに舞っていて、金色の長い髪がキラキラと光で煌めている。地上に降りたって丸まった翼は、聖なる使者の風格を与え、けれど少女のあどけない表情に、僕は釘付けになった。

 目の前の光景に、しばらく呆然とする。


 だって、いきなり天使が舞い降りたら、誰だって驚くだろう?


 現実味のない視界に、体が固まる。彼女は花に埋もれている僕に気づいていないのか、鼻歌を歌いながら、花の匂いをかいで、にこりと静謐に微笑んだ。

 彼女のその愛らしい笑顔を見た瞬間、僕はクラリとして、心臓があり得ないほど脈を打った。ボッと顔は赤く染まり、感じたことのない轟きが全身を甘く痺れさせたせいで、ピンッと手足が指先まで伸びる。頭はひっちゃかめっちゃかグルグルとして、持っていた羽根がポロリと落ちていた。

「かわいい、かわいいお花さん」と彼女は囁くように歌い出す。「とってもとってもいい匂い。花びらのドレスすてきです。わたしと一緒に踊りましょう」

 と歌いながら彼女はくるくると踊り子を真似て回り出した。

 背中に生えた翼も回り出して、純白の羽根が花びらと混ざって舞い落ちていく。

 思わず僕は見惚れていた。


 ――ああ……なんて…


 彼女の周りだけ聖なる輝きが放たれて、自分とは隔絶された空間にいた。僕は息をひそめて、じっと少女を見つめていた。呼吸することすら躊躇われて、音を立てないよう細心の注意を払っていた。たった一つの音を出せば、この美しいものが儚く散ってしまいそうに思えたからだ。

 そうして彼女はしばらく歌いながら回っていたのだけれど、何かにつまづいたのか、彼女は華奢な体が崩れた。花びらがふわっと宙を舞い、彼女の上と振り落ちる。

 尻餅をついた彼女は、痛そうに顔をゆがめて、腰をさする。

 そんな彼女を終始見ていた僕はハッとして、気がつくと、上半身をあげていた。

「大丈夫?」無意識に声までかけてしまい、僕は自分に驚いていた。

「え……」と痛みに耐えていた少女が呟き、顔をあげる。


 そのとき、僕らは初めて視線を交わした。


 彼女のサファイアの双眸に僕が映し出されていることに、僕はいい知れない幸福を感じた。なんて可愛い子だろう。

 荘厳な翼を広げる少女に僕は顔を赤くして、恥ずかしがりつつも、おずおずと微笑む。

 彼女もまた僕を見つめ、目をまんまるにして、間をおいて火を吹くくらい顔を耳まで真っ赤に染めた。

 僕らの間に風が吹く。彼女の長い髪は波を打ち、花々の香りが鼻孔をかすめ、辺りに花が舞い落ちる。ふわりふわりと蝶や花びらが浮かんで沈んでいく。

「わ……ぁ…え……ひゃ…………」

 彼女は一人だと思ってしていたことを見られていた羞恥心からか、目尻に涙を溜めて、金魚のように口をぱくぱくさせた。そして、長い髪を右手左手それぞれ掴んで顔を隠すように髪で頬を覆い隠した。

 彼女の金色の髪には沢山の花びらがついていて、僕は彼女に吸い込まれるように凝視する。

 いっぱい花がついてる―――――そんなことを考えながら、惚けて、

「すごく…綺麗だ……」ぽろりと出たそれは彼女のことだった。

 少女は僕の言葉に双眸を揺らし、息をのむ。

 

 

「おーい。オルヴァ。待たせたなー!」

 そのとき、グレアムがお弁当を持って、お花畑にやってきた。



 その声は止まっていた僕と少女の時間の針を動かした。

 

 僕は熱に浮かされて呟いた言葉を自覚し、口を押さえた。

 今、なんて気障なことを!

 カァッと全身が羞恥でむず痒くなる。

 彼女も混乱して逃げるように立ち上がって背を向け走り出す。駆けだした彼女を追いかけようと慌てて僕も立ち上がるが、格好悪いことに途中で小石に足をひっかける。派手に前屈みに額から地面にぶつかって、刹那、風が切り裂いた。

 白い羽根が周りにこぼれおちていく。

 彼女の翼が左右に大きく広がり、上下に揺れ、宙に浮いていく。僕は顔面に当たる突風を両腕で防いで、それでも、飛び去ろうとする少女に視線を向けた。

 僕は顔を上げ、必死に腕を伸ばして、叫んだ。「待って!」


 行かないでよ。驚かせたことは謝るから、もっと君といたいんだ――…


 僕の伸ばした手は空振り、少女は翼を羽ばたかせて、空へと駆けだしていた。スカートが風に揺れて波打ち、翼がバサバサと清々しいくらい気持ちよく遠くまで飛んでいき、いつしか姿は小さくなって消えていく。


 少女が飛んでいった方を僕はぼんやりと立って見つめ、深々とため息をついた。


「うっわぁー! 今の翼人じゃん!」とグレアムは興奮した様子でこちらに近づいてくる。

 そう、さっきの天使の少女は、翼人という種族なのだ。一応、僕ら人間と祖先は同じだと言われている。

「お前、超ラッキーだぞ。翼人を見た人間には幸運がもたらされると言ってな。知ってるか?」

 僕は力なく首を横に振り、「うんん」と言った。グレアムには悪いけど、彼の話が全然耳に入らなかった。むしろ恨めしげに、もう少し遅れて来てくれたら良かったのに、と思っていた。そしたら、彼女とお話ができたかもしれない。僕は彼女の姿をもう二度と見ることがないのかもしれないと思うと、胸が詰まって苦しくなった。こんな偶然はきっともうないだろう。

 僕はグレアムの弾んだ声を聞き流し、そっとまた嘆息した。

「しかし、翼人なんて珍しい。あいつらの里が近くまで来てるのかもしれないな」

 とグレアムは天を仰いだ。

 ふと学校で習ったことを思いだし、僕は口を開く。「翼人の里って雲の中にあるんだよね」

 グレアムは肯定する。「そうなんだよ。俺もまだ行けたことはないんだよなぁ。いいなぁ。行ってみたいなぁ」

 探るようにたくさんの雲を僕とグレアムは見つめるが、あれだけの雲を全部捜索するのは、骨が折れそうだった。それに朝から竜を飛ばしてきたのに、こっちの我が儘で竜を無駄に疲れさせるわけにはいかない。

 僕は地面に落ちている彼女の羽根を拾った。

 さっきまであの少女がここにいた証のそれを、僕は未練がましく、そっと懐にしまった。




 * * *




 竜使いグレアムにピクニックに誘われたのは、昨日のことだった。学校に行く途中だった僕をグレアムが突然捕まえて、強制的に参加させられた二人きりの旅は、実はかなり楽しかった。

 一泊二日という少々長いピクニックを終え、グレアムの竜に乗って、僕が暮らす街についたのは夕方のことだった。

 暁色に染まる見慣れた懐かしい町並みを、グレアムと並んで歩く。竜はグレアムが所属する運び屋ギルドの竜小屋に置いてきていた。

 石畳の坂道を進み、赤い煉瓦の家の脇の小道に入る。所狭しと並ぶ家々を過ぎると、小さな広場に出た。学校終わりの昼間になると、ここに沢山の子供たちが遊んでいるが、日が傾いて、子供は家に帰ったようだった。たまに通り過ぎていく大人や浮浪児を横目に、僕はグレアムの隣をピッタリとついて行く。すると、グレアムは唐突に小さな僕の手を握りしめ、ニカリと歯茎まで歯をむき出して笑った。

 その大きな手に僕はとてつもない安心感を覚えて、つられるようにニッと笑う。

 僕たちはまるで兄弟や親子のように手を繋いで、ブンブンッと腕を振った。

 グレアムは不思議な人だ。大人なのに、心は子供のようで、けれど、やはり僕より年上だから頼りがいがある男だった。

 住まわせてもらっている一軒家に近づいてくると、僕は急に足が遅くなっていく。考えなしにグレアムについていったが、無断で家を留守にしたから、"家主"は怒っているに違いない。ガミガミと怒られるところを想像し、僕はブルリと震えあがった。

「ねぇ。グレアム……」青ざめた僕は立ち止まって彼を見上げる。

「ん? なんだ?」

「夕飯食べてから帰ろうよ。ほら、お腹を満たしてからの方が、人間って冷静になってると思うんだ…」

 事態を後回しにしたいがゆえに、家主が食事を終えてから戻ろうという提案に、グレアムは瞼をパチクリさせて、数秒考えてから、満面の笑みを浮かべた。

「そうだな。今日は"アイツ"と俺とお前の三人で外で飯でも食うか。なーに、お金のことは心配するな。全員分、俺が奢ってやるよ!」

 さわやかに言う彼に、僕は胸の内で頭を抱えた。どうやったらそういう解釈になるんだよ! 僕はグレアムに引きずられるようにして、重い足取りで家へと向かう。

 一軒家は小さな細い通り道にあった。そこはいくつもの小さな店屋が並んでいて、日が昇っているときは買い物客で賑わう。そんな通りの端っこに立つ家には、男物の靴の絵が掛かれた金物の看板が掛けられていた。 この靴屋が僕が住まわせてもらっている家だった。


 どうしよう。帰りたくない……。


 僕は店のドアに手を伸ばし、逡巡して、腕をおろし、深々とため息をつく。

 そもそもグレアムが発端なのだ。でも、うっかりピクニックを楽しんじゃった僕も同罪なわけで。常識を考えれば、通わせてもらっている学校をさぼって遊びつくすって、かなりまずい。しかも、"あの人"はそういう曲がったことを嫌う傾向が強い。

 だらだらと大量の汗が全身から流れていく。遊んでるときは考えないようにしてたけど、いざそのときが来るとめちゃくちゃ胃が痛い。

 僕は助けを求めるように、土気色になった顔で、グレアムを見上げる。

 グレアムはいつまでもドアを開けようとしない、僕を不思議そうに見つめ、小首を傾げていた。

「どうした?」とグレアム。

「……」

 こういうとき平然としていられるグレアムが本当に羨ましい。間違ったことをしても悪びれないその堂々とした姿勢を、僕も見習いたい。

 けれど、流されやすい小心者の僕には、一生グレアムみたいな対応は無理というもの分かっていた。


 唾を飲み込んで、意を決して、僕はドアを前に押し出す。カラン…とドアベルが鳴って、静かな室内へと足を踏み入れた。

「た、ただいま帰りました」

 靴屋の敷居をまたぎ、おずおずと声を上げる。つづいてグレアムが「帰ったぞ~」と楽しげに言い、ひょいと僕を追い越して店の奥へと入っていった。

 きっとグレアムは今、この店の主と対面しているところだろう。

 僕は気が気でない気持ちで、ハラハラとじっと二人が出てくるのを待った。しばらくの間のあと、予想通り、靴屋の店主の怒鳴り声が轟いた。

「バッカヤロォオ。このチャランポランがぁあっ!!」

 その聞き覚えのある店主である男の叫声に、肝がヒヤッとする。

「何がピクニックだ。人づてに伝言だけ残して、子供を連れ去る奴があるかぁあああっ。あの子の保護者は俺だぞ。ちゃんと許可をとれ! しかも一泊もしやがって、俺が一晩どれだけ心配したと思ってんだ。あ゛あ゛!!」

 真面目な店主の意見に僕は感動するが、それ以上に恐怖が勝っていた。

「えー。俺もオルヴァの保護者じゃん」とグレアムが暢気に言う。

「たまにウチに帰ってくるだけの居候が何言ってやがる。テメーのケツも拭けない奴にその権利はねえよ!」

「ケツくらい拭けるけど」と言葉をまんまにとらえてグレアムが言う。

「そういうことをいってんじゃねぇええっ。お前、わざとか? わざとトボケたふりしてんのか!? 喧嘩売ってんなら、勝ってやるから、表に出やがれ!」

 と店主が鼻息荒く、なにやら物をグレアムに投げつける音がした。店の奥で起きていることのため、僕からでは見えないが、けっこうヤバメにガラスが割れる音もしている。

 かなり硬いものが投げられる様子がうかがえて、僕の心臓はバクバクと激しく脈を打った。恐ろしい。修羅場になることは想像していてが、店主は本当に心底怒っているらしかった。

 グレアムがこれなら、僕はどうなるんだろう…、と考えて、血の気が引いていく。こんなことなら、グレアムを全力で止めれば良かった。けれど、大人と子供の力では、どうしたって勝てないわけで。

 時間が止まればいいのに、と僕はブルブルと水に濡れた子犬のように体を震わせる。


 数分して、怒号は止まり、ふらふらと覚束ない足取りのグレアムがやってきた。

 僕は彼の姿に唖然とする。

「オルヴァ……」とグレアムは何かをやり遂げた勇士ように爽快な笑みを浮かべて親指を立てた。

 けれど、グレアムの頭からは血が流れている。

 あわわわっと僕は狼狽して、腕を上下に振る。

 次の瞬間、グレアムは前屈みに額から床に倒れた。

「グレアムーーー!」

 と僕は涙目で、彼に駆け寄る。

 グレアムは震える血の付いた手で、"アンドレア"とダイイング・メッセージを残すと、ぐったりとうつ伏せに屍になった。

 "アンドレア"とはこの靴屋の店主、つまり今さっき怒鳴りつけていた張本人だ。

 靴屋の工房を営む職人のアンドレアという男は、グレアムと同年代の独身だ。妻も子供も弟子もいない赤の他人である彼の家に僕は縁あって住まわせてもらっていた。

 アンドレアが奥からやってくる。

 彼は躊躇なく、倒れているグレアムの尻から背中の上を歩き、肩胛骨の辺りでしゃがんで僕と同じ目線になる。グレアムの苦しげな声が耳に入り、僕は喉を上下に揺らした。

 アンドレアは額に青筋を立て、ギロリと鋭い双眸を向けている。無言で睨みつけられ、僕は竦み上がった。

 終わった、と僕はガクガクと両足が震えて涙目に俯く。

 きゅっと瞼を閉じて、両手で拳を作り、うなだれたまま、小さく呟いた。

「ごめんなさい。アンドレア」

 グズグズと泣きそうな僕を見ているアンドレアは後頭部をくしゃっとさせて、唇をとがらせた。

「俺がどうしてここまで怒るか、分かるか?」とアンドレアは冷たく言う。

「……うん」

 僕は鼻をすすり、袖を拭いながら、

「学校さぼって…、無断で出かけて心配かけて……、ご…ごめんなさい」

 と思い切って吐き出すと、アンドレアは呆れたように深々とため息をついて、腕を振り上げた。

 僕はぶたれると思って、瞼を硬く閉じた。痛いのは嫌だけど、僕はアンドレアを失望させてしまったのだ。ならば罰を受けなきゃいけない。

 やってくる衝撃をじっと待って、体を硬くする。近づいてくるアンドレアの気配がして、僕は恐怖で埋め尽くされる。

 

 けれど、大きな手は痛みどころか、優しく撫でるような感触で頬を叩いていた。


 僕はハッと顔をあげて、肌に残るアンドレアの感触を確かめるように頬に手をはわす。


 アンドレアはしゃがんで頬杖をつき、片眉をあげて仕方なさそうに微笑んでいる。

「もうこんな心配かけんじゃねーぞ。な?」

 なんて柔らかい声だろう。さっきまでグレアムに怒っていた人物とは同じとは思えない。

 僕はたまらなくなって、目尻が熱くなっていくのを感じた。どうしてだろう。怒られるよりずっと、こっちの方が心が痛い気がした。

 ジクジクと痛む心臓の上に手をおいて、ポロリと涙が一滴落ちる。とたん、僕は堰が切れたかのように涙が押し寄せてきた。

 嗚咽をこぼす僕にアンドレアは、頭をぽんぽんっとした。


 ごめんね、アンドレア。ごめんね。


 僕は心の中で何度もアンドレアに謝った。

 アンドレアはとっても怖いけど、それ以上に優しい人だ。でも、彼の温かい部分に触れて、気持ちが和らいだはずなのに、余計に涙がこみ上げてくるのはどうしてだろう。

 アンドレアは男がめそめそ泣くんじゃない、と言いながら僕の頭を撫でたり、背中をさすったりして慰めてくれていた。僕は必死に泣きやもうとするけど、どうしても止まらなくて、だんだん情けない気持ちになってくる。

 鼻水をすすり、目あたりが痛くなるまでゴシゴシと拭った頃、アンドレアに踏み倒されていたグレアムがバンバンッと床を叩いた。

「マジギブ…。アンドレアどいて…。し…しぬぅ……」

 グレアムのうめき声に、僕は急にキョトンと涙が引っ込み、ようやく小さく口端をあげた。





 その日の晩は、グレアムの宣言通り、三人で外食をした。近所の手頃な値段のレストランで、僕は大好きなオムライスを頼んだ。アンドレアはステーキを注文し、奢ると言ったグレアムへの腹いせに高いワインを頼んで一人で飲み干していた。ワインの値段を見てさすがに青ざめるグレアムは可哀想だったけど、なんだか可笑しくて、僕はこっそり笑ってしまった。

 楽しい楽しい夕食が終わって、僕らは三人そろって家に帰る。

 家の一階はアンドレアの靴工房と台所で、二階に二人の部屋がある。僕は屋根裏部屋を使わせてもらっていて、二階の一室から梯子を上って自分の部屋に上がり込んだ。風呂にも入って、すっかり寝る準備を整えた僕はベッドに潜り込もうとして、ふと体が静止する。

 机の引き出し開けて、白い羽根を取り出す。ランプでそれを照らして、ぼんやりと眺めた。

 羽根はランプの光でキラキラと白銀に煌めく。


 翼の生えたあの女の子には、きっともう会うことはないだろう。

 けれど叶うなら、と僕は窓の外の月を見上げる。


 どうかまたいつか、あの子に会わせてください。


 僕は月にいる神様にそっと願った。

 脳裏にお花畑にいた翼人の少女が甦る。あの子のことを思い出すと、胸がきゅっとなって、切なくて、けれどなんだが幸せな気持ちになった。

 少女の笑った顔が浮かび上がると、僕はおもわず微笑をこぼす。


 白い羽根を引き出しの中に大切にしまい込む。ランプの火を消すと、僕はベッドに潜り込んで、夢の中へと足を踏み入れたのだった。






ここまでお読みいただきありがとうございました。

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