私が、助けてあげる
以来、彼女は僕の房へと絵本を読みに現れるようになった。
それ以外は何もない、日が昇り目覚めれば彼女は房からいなくなっている。最初はこの少女の形をした異分子をお父様に報告しようとも思ったが、絵本を読む以外の行動は見受けられなかったため、何となく、何となく報告は見送る事にした。
それは考えてみれば奇妙な行動だ。当時の僕はお父様に報告する以外の事を考えつくなんて不可能だったし、そもそも異分子たる彼女を排除しようとしないなんて理解が出来ない。
もしかしたら彼女は無意識に何か魔術でも使っていたのかもしれないと、今では思う。
或いは、既にその時、
僕は
それから数ヶ月、彼女の訪問は続いた。
それが普遍であり、不変であると、僕はいつの間にか思い込んでいた。
いつものように楽しそうに本を音読する少女の声はともすれば掻き消えてしまいそうな程だ。そんな心地良い囁きが突如として静寂に置き換わる。
その沈黙が突然だったので、僕は薄く目を開けて少女の方を確認する。
少女は房の壁を、いや、壁の向こうに感覚を研ぎ澄ましていた。
「どうしたの?」
なんとなく、本当になんとなく声をかけてみると、彼女は少しだけ苦しそうな目で僕を見た。
「誰かが……泣いてる声が聞こえた」
その言葉の後に耳を澄ませると、確かに何処かの房で被験体が啜り泣く声が聞こえる。
「ああ……外から新しい被験体が来た日は大体そうだよ。よく分からないけど、“お父さん”や“お母さん”がいつか迎えにくると思ってるみたいだ」
恐らく、今日入ってきた被験体の内の1体だろう。お父様が紹介する中でいつまでもぐずっている小さな被験体がいたのを思い出した。
「迎えには来ないの?」
少し億劫だけれども体を起こして首を横に振る。
「?……お父様がいるのにどうして迎えに来るの?」
不思議そうに尋ねる僕に対し、少女は眉間にしわを寄せて詰め寄る。何か怒る事を言ってしまっただろうか。
「シロちゃんは……お父さんやお母さんはいないの?」
「お父様はいるよ?」
「お母さんは?」
その問いに僕は何も考えずにこう返した。
「“それ”はお父様より偉いの?」
少女の顔が痛々しげに歪む。
どこか怪我でもしていたのだろうか?
「……シロちゃん、外がどんなところか知ってる?」
少女は僕にどんな答えを求めているのだろう?
「資料でなら見たことはあるよ」
僕は本で見た情報をつらつらと語る。でも、少女は俯いて「違うよ」と呟く。
「自分の目では?」
僕は少し驚きながらも首を横に振る。
被験体が外に出る事はけんきゅうじょでは禁忌だ。そんな事をしたら処分される。今まで解体してきた被験体のように、お父様に蔑みの目で見られ他の被験体の手によって破棄される。
少しの間、不思議に思い苦しそうに歪んだ少女の顔を眺めていると、少女は小さくて短い腕でそっと僕を包み込む。背中に回った手が、僕のシャツを力強く握っているのが分かる。近くなった少女の髪からはどこか甘いような香りがした。少女は僕の肩に額を押し付け、震えながら声を絞り出す。
「ごめん、ごめんね。私、知ってたの。ここのけんきゅうじょの事。でも、見ないふりしてた。ごめんね、シロちゃん。ごめんね……」
僕は彼女の行動の意味が分からなくて、何のことだろうと口を開きかけたが、直後に首筋に小さな痛みを感じた。
「!?」
正直、油断していた。首筋を噛まれた事に気付く。
「ぐっ……!」
反撃の為に少女をつき飛ばそうとした。
だが、腕が上がらない。
それどころか指先すら動かない。
『きゅうけつきだよ』
彼女と最初に会った日の言葉が頭を過る。
体が冷たく凍えていく。
段々と意識が遠のいていく。
「私が、助けてあげる」
その言葉を最後に、混濁した意識は途切れた。