河童殺人冤罪事件
初秋のある日。
オレは釣りをしていて河童を助けた。かなり年老いた河童である。
そこは車で二時間ほどの山あいの川。まず人が立ち入らない、オレだけが知っている穴場だった。
河童の川流れ。
そんなコトワザがあるが、その河童はまさにおぼれた状態で上流から流れてきた。
はじめは人の子供かと思った。で、あわてて流れに入り助けてやった。
ところがなんと、そいつを引き上げてみてびっくりである。
背たけは一メートルほど。細い体は薄い赤茶けた肌をしており、頭部にサラ、背中に甲羅、指に水かきがついていたのだ。
河童はケガをしていた。
手足や甲羅のあちこちにキズがあり、川で流されるさいに岩にでもぶつけたのであろう。
で、なぜか。
両手両足をツルでしばられていた。なにやら事情があって、川に投げこまれたにちがいない。
見るに見かね、オレは聞いてみた。
「なあ、どうしたんだ? よかったらオレに話してみないか」
「おまえら人間にはわからんだろうが、これは決まりなのだ」
老河童がポツポツとしゃべり始める。
聞けば、その話とは……。
ウバステ山ならぬジジステ川である。
死期が近いというだけで川に流され捨てられるといった、そんなおぞましい風習が今も河童界には残っているそうな。
オレは老河童にいたく同情した。田舎で暮らしている年老いた父の姿と重なって見えたのだ。
「で、これからどうするんだ?」
「この老体では食うものはとれん。ひたすら死ぬのを待つだけだ」
老河童が力なく首をふる。
頭にあるサラの水が半分ほどこぼれた。
このままではこの老河童、おそらく今夜のうちにも死んでしまうだろう。
「なあ、オレのところに来ないか? 食うだけならなんとかするよ。それに薬だってあるんだ」
「すまんなあ」
老河童は小さくうなずいた。
手早く釣り道具を片付け、オレは老河童を連れ帰るしたくを始めた。
まず上着をぬぎ、川の水を十分に含ませ、それでもって老河童の体をつつんでやった。皮膚の乾燥を考えてのことだ。
続いてペットボトルのお茶を流し、かわりに川の水を満タンに入れた。
これは頭のサラの補給用である。
車の助手席に老河童を座らせ、シートベルトで固定した。体が細いのでなんとも不安定である。
帰りの二時間。
老河童の体は何度も傾き、またぐらつき、サラの水がこぼれた。
オレはそのたびに、ペットボトルの水をつぎたしてやらねばならなかった。
古い二階建アパート。
この二階にオレの部屋がある。
風呂場にかけこむとすぐに、オレは水道の蛇口を全開にした。
浴槽に水がたまる間。
できるだけのことはしてやろうと、オレは消毒薬で全身のケガの治療をしてやった。
消毒薬がキズにしみるのか、老河童は何度も顔をしかめた。
「だいじょうぶか?」
「ああ、だいじょうぶだ」
「水の中の方が楽だろう」
「ああ……」
かなり衰弱しているようだ。手足はわずかに動かすが、目はずっと閉じられたままだった。
オレは風呂場に老河童を連れていき、抱きかかえるようにして浴槽の水に入れてやった。
老河童が腹を上にして浮かんだ。それで楽になったのか、それからひとつ大きな息を吐いた。
「腹、すいてるだろう」
「そういやあ、三日ほどなんも食ってねえなあ」
「なんか用意してやるよ。で、アンタらはなにを食べるんだ?」
「肉以外なら、たいがいは……」
「ナマでいいのか?」
「ワシらは火を使わん」
「なら、すぐにできる」
オレはすぐさま料理にとりかかった。
とはいっても、キャベツやニンジンといったものを細かくきざむだけであったが……。
その夜。
老河童につきそい、オレはずっと風呂場にいた。
老河童は日を追うごとに体力を回復した。
薬が効いたのだろう、体じゅうにあったキズは徐々に治っている。
食べ物は野菜類のほか、パンや刺身などを好んで食べた。食べる量がしれているのでサイフに影響するほどではない。
最近は一時間ほどなら、浴槽から出てもだいじょうぶなまでになった。それでも頭のサラは、常に水が欠かせないのだが……。
昼の間。
オレは仕事で留守なので、老河童はアパートでひとりで過ごす。その大半は風呂場で過ごしているらしいが、居間でテレビをみることもあるようだ。
オレもひとり暮らしの淋しさから開放された。
家に帰れば老河童がいる。
話し相手がいるのだ。
オレは仕事が終わると、まっすぐアパートに帰るようになっていた。
老河童と同居を始めて、またたくまに一カ月ほどが過ぎた。
その間。
老河童のことはだれにも話さなかった。
ずっと秘密にしていた。
河童の存在を知ったなら、学者たちがしゃしゃり出てくるにちがいない。で、老河童は彼らの研究材料となる。ヘタをすればマスコミのエジキとなり、世間の見世物にされてしまう。
オレは老河童をひたすら隠し続けた。
隠すことに細心の注意を払った。
日光浴は部屋の窓ぎわでさせる。
ちょっとした買い物でも、たとえそれが一分であっても、かならずドアにカギをかけて出る。いつなんどき、だれが部屋に入ってくるかしれないのだ。
オレは今の生活を失いたくなかった。
ただ、それが長く続かないこともわかっていた。
この老河童には、わずかな寿命しか残されていないのである。
そこのところを、それとなく老河童にたずねたことがあった。
「アンタ、年はいくつなんだ?」
「三十三回、ワシはこれまで山桜の花を見た」
「なら三十三歳だな。で、アンタらは何歳ぐらいまで生きられるんだ?」
「山桜の花を三十三回見たら、それで命が尽きる。それより多く見た者などおらん」
「アンタのように捨てられるからか?」
「いや、その年の冬に死ぬからだ。だからその前に捨てられる。そうした決まりなのだ」
「それでアンタも?」
「ああ、そういうことだ」
すべてを受け入れているかのように、老河童は静かにうなずいた。
オレは思いをはせた。
年寄りを川に流すという、おぞましい風習。これは食いぶちを減らすため、死期の迫った年寄りを捨てることである。
だが、ただそれだけではない。
最愛の者――その者の弱りゆくサマ、生きたシカバネ、ひいては死にゆく姿を目にしたくない。
いや、そうだからこそ、この風習がある。いわばある意味、最愛の者との別れの儀式なのだ。
この冬、老河童の寿命は尽きる。
その死を見送る勇気はオレにはなかった。だから死ぬ前に老河童を川に帰すことにしていた。
老河童もボロアパートの浴槽なんぞで死にたくはなかろう。
生まれた川で死ぬのがいいのだ。
ジジステ川ならぬ河童の風習をやる。
オレは心にそう決めていた。
冬に入った。
老河童は食欲が落ち、目に見えて衰弱していた。
ほとんど動かず、以前のように居間でテレビをみることもない。一日の大半を浴槽で過ごしていた。
この日。
「じつは、アンタを川に帰そうかと。アンタも、そのほうがいいかと思ってな」
オレは思いを打ち明けた。
老河童が小さくうなずく。
「じゃあ、まだ体力のあるうちに。どうせなら、アンタを助けたあそこがいいだろう」
「ありがたいことだ」
「じゃあ、今度の日曜日。仕事が休みだから……」
いい知れぬ思いがこみ上げてきて、オレはたまらず浴室を飛び出していた。
その翌日である。
会社から帰ったオレを、ドアの前でアパートの大家が待ち受けていた。
「もうしわけないが、無断で部屋に入らせていただきました。一刻を争っていたものですからね」
「どういうことなんです?」
オレは内心おだやかじゃなかった。
大家に老河童を見られたかもしれないのだ。
「下の部屋の天井に水が漏ってましてね。もしかして水道の止め忘れじゃないかと」
「それで?」
「ちがいました。それで原因は配管だろうってことになったんですがね。そのことを伝えたくて、こうして帰りを待っていたんです。工事のときは迷惑をかけることになりますので」
「で、工事はいつ?」
「さっそく明日の朝からでも。工事は床をはぐことになるそうです。それでですね、立ち会っていただきたいんですよ」
河童の話は、大家の口から最後まで出なかった。
老河童には気づかなかったのだ。風呂場はのぞいたが、水道の確認をしただけで、浴槽の中までは見なかったのだろう。
すぐに風呂場をのぞいてみた。
浴槽の水に、老河童がいつものように腹を上にして浮いていた。
なにごともなかったように眠っている。
おそらくここも、なんらかの工事があるはずだ。
とにかく急がねばならない。
老河童に今回の事情をおおまかに話して、これからあの川に連れていくことを伝えた。
肌の乾燥は命取りになる。水でぬらしたバスタオルで老河童をくるみ、旅行用の大きめなトランクの中に寝せてやった。
川に着いたのは九時をまわっていた。
「これでお別れだ」
オレは老河童をトランクから出し、目の前の川の流れに入れてやった。
「せわになったな」
老河童がひさびさに笑顔をみせる。
老河童は漂うように下流に流された。
それからじきに、まわりの暗闇にとけこむようにして消えた。
このとき。
悲しくも、淋しくも、つらくもなかった。
老河童を川に流す。
これは河童界の風習、最愛の者との別れの儀式なのだ。
その夜。
アパートにもどったオレを、数人の刑事たちが待ち受けていた。
オレはその場で身柄を確保された。
大家の証言と、大型トランク、水でぬれたバスタオルなどが物証となったようだ。
やはり大家は見ていたのだ。
風呂場をのぞいたときは、ただの人形だと思ったらしい。……が、よくよく思い返してみるに、浴槽に人形が浮いているというのは奇妙なことである。
子供の死体だったのでは?
その思いを決定的にしたのは、車に大きなトランクを積みこむオレのあわてた姿を見たときで、念のために警察に通報したらしい。
でもって。
オレは逮捕の身となった。しかし、これは明らかに冤罪の誤認逮捕である。
ただし無実を証明するには、河童の存在を証明しなくてはならない。
はたしてオレ以外、河童を見た者などいるのだろうか……。