終わった図書館
1 (夢の中)
「ようこそ、あなたの図書館へ」
受付のカウンターの垣根の先に、鉛筆のような硬質さを携えた黒髪を腰まで伸ばした司書は、そう言った。
ねっくが彼女を司書だと判断したのは、口からここが図書館だと明言されたからだ。初対面の女が図書館だと定義したここがそうだとねっくが思えたのは、見覚えがあったからだ。
「あなたの、図書館?」
「はい。あなたの図書館です。あなたが口にする場合には俺の図書館。もしくは、進藤根詰の死んだ知恵の墓所。と言い換えることが可能です」
ねっくは、困惑していた。埃が先を譲りながら漂う見覚えのありそうな図書館の中で、ねっくの頭は何よりも早く回転していた。
「ここは、どこだ」
再三同じ問いを繰り返す男に、司書は少しばかり不機嫌そうな顔で答えた。
「あなたの図書館です。もっと現実的なことを仰るのならば、ここはあなたの夢の中です」
「ああそうか」
夢か。夢ならば、と思う。何があっても不思議ではない。
司書は、説明を始めてもいいですか、とねっくに訊いた。ねっくは周りを見渡し、ここには自分と彼女以外には誰も居ないことを理解してから、頷いた。
「わかりました。まず、記憶の確認です。あなたは戦後二年を経てから生まれた女性で、誕生日は元日。現在の住居はハリウッドで、世界中に名の知れ渡った映画監督ですね」
「悪い、俺の認識と違う。俺は1986年産まれの男だし、誕生日は変哲のない二月五日だ。住所は埼玉の安アパートだし、仕事は映画とは無縁の、売れないバイオリニストだ」
「記憶は正常のようです。それでは次に、現状の確認をいたしましょう」
一度だけ瞬きをした司書は、誤った記憶を植え付けようとしたにも関わらず、平然と次のステップに移行しようとする。
ねっくは踵を返し、後ろ手のドアを開けようとした。
開いた。
「帰れるのか」
思わず驚いて、尋ねてしまった。SF小説でこんな展開だと、大体は閉じ込められるのではないか、と思っていたからだ。司書は一言告げた。
「帰れます。今すぐに、この夢から出て行くことは可能です。ですが、それは私にとっても、おそらくあなたにとっても好ましくありません。なので、せめて説明を聞きませんか?」
司書の首が傾ぐ。黒い髪は萎れた菜っ葉のように勢いに揺られた。儚い所作に負けたねっくは、スライド式の扉を閉めた。がたがきていて、ビニールが摩擦する音が遠く聞こえた。
「・・・・・・わかった」
「では、ご説明を。その前に最終確認を。昨晩の記憶はありますか?」
「ある。家に居た。少なくとも、俺は死んでいなかった」
「結構です。あなたは死んでいません。ここは、あなたの図書館です」
「それはもう何度も聞いた」
お前が何度も訊いたからだろうが。司書は沸きあがった怒りを服の袖に隠した掌で握りつぶし、まるで営業職に就いたOLのように頭を下げた。
「失礼しました。続けます。そして、ここはあなたが忘れたことを記録した図書館です。今日であなたは魔法使いになりますね」
聞き違いでなければ、司書はウイザードと称される単語を使った。しかし、ねっくの世界に魔法はない。夢だからか?
またもや困惑する一般男性に、面倒くさいと眉をひくひくさせた司書は、目を男から逸らして、説明した。
「日本では、誰かが漏らしてしまって普遍的な情報として扱われるようになってしまいました。人間には、神が授けた特殊な機能が備わっているのです」
俺はそっと、帰る扉に手をかけた。
「せめて説明くらい最後まで聞きなさい! せっかちな人ね・・・・・・」
半分は本心で目を覚まそうとしたねっくは、海馬を刺激される感覚と共に振り返った。
咳払いをする司書が、少し赤みがかった頬で説明した。赤みがかっているのは、窓の外に夕陽が見えることと関係しているのだと、ねっくは思わなかった。そこまで、彼は幼くなかった。
「つまり、人間は三十歳までど童貞でいたら、こうして、ここに呼ばれるんです」
「どうして?」
女性と触れ合った体験がないことと、図書館という場所に呼ばれる因果関係が、ねっくの夢の中だというのに、ねっくにはわからなかった。
夢の中の登場人物の司書は、先程までの退屈そうな雰囲気を霧散させて、主人公に告げた。
「大切なことを、新しく覚えてもらうためです」
「それってどういう・・・・・・」
けれど、その問いには司書は答えてくれなかった。
司書が椅子を勧めたから、ねっくは受付のカウンター前に座った。
「神様は、人間という種の子孫繁栄を願っております。後世の出来不出来はともかく、今の少子化社会を憂いております」
「いきなり現実的な話になった。後ろの文は俺への当て付け?」
「先にお伝えしますが、神は、全てを見通すことは出来ません。起こったことを、全て理解できますが、これから起きることを知ることはできません」
「預言者は?」
「預言者は、神様からの神託を受け取るもののことです。ですが、それは神が蓄えた人間というデータ群から、似通ったものを取り出し、予測しているのです。天気予報と同じだと思ってくださって構いません」
天気予報は、雲の流れや風向きを、過去の事象と照らし合わせて結論を出すものだ。予測は、確率の範疇を決して出ない。
「そして、そんなデータ群から天使一同で調査した結果です。三十歳を超えても女性とまぐわえない男性は、何においても失敗します」
「ひどい言い草だ。弁護士を呼べ」
「裁判でも敗訴します」
理不尽だった。
「それは冗談ですが、そういう結果が出ていることも事実です」
つまり。魔法使いの称号を授かったものは、何事に置いても上手くいかない傾向があるということだろう。
ここは俺の夢だ。不可思議なことが起きているから信じているが、本当にそうだろうか。俺は寝ている間に誰かに拉致されたのではないだろうか。神様なんて宗教だ。魔法使いなんて笑い種だ。流され易い性格ではないと思っていたが、何故この女を信じなければいけないのだ。
そこまで考えを巡らせてから、ねっくは思考から中座した。カウンターの向こう側にいた司書が、本棚の方に歩いていたからだ。
信じる理由を探していた途中のはずなのに、彼の体は自然と司書の背中を追いかけていた。
「ここがあなたの記憶である証明をしましょう。その前に、お聞きします。生きる知恵、とはどのようなものを指すのでしょう」
司書の語気は、確かに質問であったが、まるで教師が生徒に導くのではなく、生徒が教師に尋ねるようなものだった。予めの答えを用意していなかったねっくは、司書がどこかの本棚の前で立ち止まってから、答えを出した。
「伝統、かな。格式があるなしに関わらず、子に孫に、弟子に部下に言い伝えられたものは、息吹があるように思える」
司書は無表情に、ねっくの答えを気に入らないと断じた。
「広義ではそう取れるのかもしれませんね。定義など存在しませんが。私は、使われる知恵は、すべてそうだと考えます」
司書は、思い浮かべることが出来ない。彼女には記憶というものは存在しないから。でも、いつの間にか根付いて自身が起す行動は全て、生きる知恵だ。
ねっくは不機嫌な司書に、尋ねた。
「お前は天使じゃないのか?」
「私は違います。私を造ったのはあなたです。あなたの中のプログラムを造ったのが天使です」
よく、わからない。それはねっくの率直な感想だった。
なんだか肌寒くなってきた図書館の中で、彼女は何をしたいんだろうか。
「この場所も、私も、全ては自動的な機械です。命があるのはあなただけだと思ってください」
「わかったよ。それで、君は何をしたいんだ?」
ねっくは、そのとき初めて気付いた。この図書館にも、司書の姿にも何かの残滓が見える。見覚えがある筈なのに、名前を知らないことを。
ここは俺の図書館だ。それが名前か?
「大切なことを新しく覚えるためです。・・・・・・たまに勘違いする人がいるとレポートにはありますので、訂正を加えておきます。これは、決して、更生プログラムではありません」
強く、司書は断じた。それが俺に何の意味をもたらすのか。ねっくはそのとき知らなかった。
骨の出来上がっていない幼い腕が、本棚の紙を一枚取り出した。本棚を注意深く見ていなかったねっくは驚いた。本棚の中にあるのは本ではなく、一枚一枚の紙きれだった。
「これは?」
記憶力が悪いな。そういう目線を向けて、司書はねっくを睨んだ。
「忘れられた記憶です。例えば、ここはあなたの『雑多な思い出その6』の棚です。読み上げましょう」
俺は、悩んでいた。ギターかバイオリンか。
どちらがモテるだろうか。それはギターだろう。幸いにしてこの中学には軽音楽部がある。ギターは格好いい。エレキギターは超格好いい。テレビで見ていたら一番は譲ろう目立つボーカル。次にスカートの履いたドラマー。同率で頭を振るギタリスト。
俺には、ギターだ。ギターこそ買われるべきだ。
「どうでしょう?」
ねっくは、顔を夕陽で染め上げて、背中で絨毯を転げまわった。
「ど、どうして! いや、そんなことより違うんだ! 若気の至りだそんなもの! 俺だって忘れてたわ!」
司書はどうしてねっくが言い訳を私にするのかわかっていた。けど、ねっくはその理由に気付かず、それでも弁解を続けようとした。
司書がそれを遮って、証明を終えようとする。
「忘れられた記憶。その意味がわかりましたね。これが誘拐や拉致など低俗な」
「ここが現実じゃないのはようやくわかった。わかりました。わからせていただきました」
見目が三十歳の男は、中学生ぐらいの少女に頭を下げたのだった。
少しばかりの優越感を感じた司書は、こうするべきだと思った。
続きを読み上げたのだ。
「これは、翌日ですか」
俺は、バイオリンを手にしていた。男同士の約束を交わしたはずの父親がばあちゃんに話したせいで、バイオリンを買ってきてしまったのだ。「誕生日じゃけんなあ。それにあんな悪うとげっとげした髪になっちゃあいかん。いかんぞお」と、バイオリンを渡されたのだ。
お年玉が浮いたと思うことにした。バイオリンといえば吹奏楽部だ。中学には弱小だが吹奏楽部がある。弱小だからこそいい。俺が女子目当てに入部して、腕が上達しなくても周りと同調していて逆にいい。もしかしたら、「あら進藤君? どうしたのこんな遅くまで練習して。屋上にまで聞こえてきたわよ」「あ、いつも艶かしくリードを舐める先輩。お疲れ様です。実は、上手く音が取れなくて」「簡単よ。見てなさい。ここを抑えれば」「そこは、あ、逆に陥没しちゃう!」といったことに
「って、何読ませるんだこのド変態! 陵辱か! これが陵辱か!」
ねっくの記憶が綴られた紙面で、司書は国体に出る力士のような張り手を繰りだした。ねっくが思わず世界を狙えると過信してしまったのも、致し方ないことだろう。
「中学生男子なんてこんなものだろう。大体、お前だって俺の妄想なんだろ。だったらそんな辱めを受けたみたいな顔をする理由がわからん」
「私を妄想の具現化みたいに言わないで・・・・・・間違ってないけれど」
三十路を迎えたねっくは、それ相応に趣味も変化していた。中学生に欲情することはなかった。ただ、思春期の妄想を垂れ流しにされるのも困るので、目の前の棚を離れることにした。
「あれ、ここ少なくないか?」
他の棚を見回っていると、ほとんど空の棚があった。記憶の紙きれは数枚程度。司書は、その棚の淵に触り、厳かな喋りをした。
「ここは『芸術』の棚です。他の棚はぱんぱんなのに、ここだけはガランとしています」
「俺の覚えがいいってことか?」
「そうでしょう。・・・・・・よく、勉強されているのですね」
司書は、嘘偽りなく褒めた。それは、純真無垢な子どもが聞けば喜ぶ言葉だったろう。
けれど、ねっくは大人だった。結果を出さなければ生きている意味がない世界に住む、大人だった。
「売れないバイオリニストは、時間が有り余るからな。勉強くらいしか、することがない」
芸術の棚から一枚取る。譜面だった。
ねっくは、一目見ても思い出すことが出来なかった。バイオリンを始めた出来事はあんなにも素早く脳裏に浮かんできたのに、譜面についての記憶を引っ張り上げることができなかった。
「なんで曲の題名が読めないんだ」
譜面の上部には空白がある。見慣れた譜面の形式では、そこに題名があるはずだった。しかしねっくにも、司書にも読めない。
「あなたが名前をつけていないからですよ。ご自身の処女作に」
「俺の・・・・・・処女作・・・・・・?」
ねっくが作詞作曲を始めたのは、音大に入ってからのことだ。バイオリニストという卒業後の就職が網戸のように狭き門であることを知ってから手を出し始めた譜面作りは、彼の道を示した。処女作は、忘れてしまったが、そのときのどれかだろう。
そう思っていた。
けれどねっくは、最初期の、まだ音符の並びに対する癖もないその譜面に、見覚えがあるような気がし始めた。
「覚えて、いる?」
そう、司書は尋ねた。
「・・・・・・いや、わからない」
アルバムの中の写真を眺めている気分だ。知っている筈の顔と名前でも、その素状までは救えない気分。
司書は理解したように頷き、別の棚へ進んだ。その棚の前で司書が手を翳すと、棚一杯に直立するほど詰め込まれていた記憶の紙が、トランプマジックのように飛び出てきた。
「・・・・・・魔法?」
「望むなら、あなたも手品を使えますよ。もっとも、何を取り出すのかを把握しておかなければなりませんが」
意地悪なことを言う。忘れられた記憶を忘れた男が引きずり出せるわけもなかった。ねっくは肩をすくめて、棚を回ってマジック行脚をする司書を眺めていた。やがて十枚ほど取り出した司書は振り向いて、ねっくをテーブルまで連行した。
「独断と偏見で、私が選んだ過去の記憶です。あちらで見ましょうか」
ねっくは引き摺られ、紙は海原に浮くようにふわふわと浮遊し、テーブルに落ち着いた。その一枚を取ってみる。
中身は、バイオリンを始めてからのことだった。
「・・・・・・お読みになられましたか?」
紙を放り投げたのを、読了の合図と取ったのだろう。
「そうだ。俺は、中学の時、吹奏楽部に入れなかった」
優しく、やんわりと、俺の入部届けは突き返された。曰く、女子のみの花園に異分子は必要がなかった。それを、バイオリンは部活としての調和を乱すと言われたのだ。拒絶があまりにも悲し過ぎて、いつの間にか心から追い出すことに成功していたようだ。
「こんなこと。忘れておけばよかった」
読了して、放り投げたのではなかった。自分の過去を客観視しながら読み進めながら、紐解くように文字の続きを知っていたのだ。だから、自分がどれほど嘆いたのかを書かれたのを読みたくなかった。淡白に書かれていればいるほど、怒鳴りたくなる。
お前が何を知っているのか。
おかしいことに。お前とは、俺のことである。俺自身が忘れていたのに怒鳴る資格もない。
この場にはねっくと司書しかいない。実質、司書は人ではないから、ねっくの怒りの矛先はどこに向くこともなかった。人形に怒りをぶちまけてストレスを発散できるような安い大人ではなく、くだらないながらにプライドもあった。
図書室にひびを入れるような、紙が擦れる音がねっくに近づいた。司書が紙を滑らせたのだ。
「読め、ってか」
「あなたは、いつ三十歳の誕生日を迎えても構いません。私は、引き止めることはできません。自由意志でご決断ください。続きを、読むことを」
質問ですら、なくなった。
彼女もほとほと愛想が尽きたのだと思った。中学生のような服装。俺のなよなよとした精神を反映させたような女性像。過去の俺から見れば、倍の年を生きた俺に呆れた眼差しを向けるのも至極当然だ。
ねっくの手の中には紙がある。記憶の紙。俺が体験したのに知らないこと。日記になんか書きたくもない事実。それが、眠っている。
そしてまた、現実の俺も眠っている。布団の上で、安らかに。
大切なこと。彼女が俺に享受させんとするもの。その正体を知りたかった。そうすれば、俺は変われるだろうか。起きた眼で見る世界は変わるだろうか。
窓の外では、変わらない夕暮れが続く。それは永劫続くものなのか、一時的な現象なのか、俺にはわからない。少なくとも、目覚ましを鳴らす時間ではないだろう。
ねっくは滑ってきた紙に目を通した。紙面には、本の名前がたくさん載っていた。『コーラステッキ十一月号』『芸術は何故心に響くのか』『チャイルドチャレンジ』。
司書が、解説を加えた。
「その紙は『読んだ書籍』の棚から拝借したものです。あなたが今までに読んだ本から、忘れたタイトルを書き出したものの一部です」
「時期は、中学生か」
「そうですね。とある一時期の前後を抜粋したものです」
「懐かしいよ。この雑誌とか、妄想垂れ流しのエロ漫画だった。女の子向けなのに。問題集もなんでか勉強しなくちゃいけないって、思って、親に頼んで・・・・・・。こんなんも、読んだっけ。覚えてないけど」
懐かしく目を細めたねっくだが、その内心では疑念が渦を巻いていた。
どうして、この本を読んだっけ?
本屋でたまたま見かけた。その程度の理由なら、俺はきっと思い出そうともしない。でも、海でもがくように必死に思い出そうとしている。思い出すほどのエピソードがあるのだ。
ねっくの視界には図書室が映っている。前方から司書室、カウンター、机の島、本棚。窓側には、本を読むための個人用のスペースがある。夕陽を迎え入れた机には盗み見されないように板が立てられていて・・・・・・何かが足りない気がした。
そこまで考えてから、はたとねっくは気付いた。司書室の存在だ。
これは、どこにでもあるものだろうか? 広大で職員も多いような市立図書館に、優雅に休める司書室が建設されているとは思えない。
そうだ、ここは。
「谷中・・・・・・」
司書は、嬉しそうに手を叩いた。
「名答です。ここは、あなたが一ヶ月だけ通った中学校の図書室です。件の吹奏楽部に入れてもらえなかった中学校でもあります」
家の都合での転勤。音楽に造詣なんかなく、恪勤なサラリーマンであったねっくの父は仕事の都合で日本各地を転々とした。ねっくも連れられて引越しを繰り返した。
谷奥第一中学は、その過程でねっくが一月だけ通った場所だった。父方の母の家が近く、家族は一緒に暮らしていた。バイオリンをお婆が購入したのもこの時期だった。
一学年に二クラス。もっと長く居れば、仲の良い友達も作れたかもしれないが、ねっくは一月の間に友達を作ることはできなかった。
だから、記憶から忘れていた?
「・・・・・・違う。なにか、あった。思い出したい。思い出せ俺!」
叫ぶねっくに、司書は物怖じすることなく、まるでご褒美と言わんばかりに、水筒から紙コップにお茶を入れ替えて、テーブルに置いた。
「朝に入れたから、もうぬるいけど」
「・・・・・・ありがとう」
よっぽど喉が渇いていたねっくは、司書が言ったとおりのぬるいお茶を飲み干した。冷え込んだり、熱くなったりする部屋に、うんざりしたねっくは思いついた。
「さっき、紙を自在に操ってたよな」
「・・・・・・そうですね。夢の中で物理法則を遵守しろ、とは神様も仰っていませんから」
「だったらこの部屋の温度も思うだけで変えられるのか?」
司書の顔には苦悶に似た表情が浮かんだ。折れた骨を触るような痛ましさだった。
「調節は、できます。ですが・・・・・・」
「そうか。じゃあ丁度いい温度にしてくれ」
「・・・・・・はい」
次第に、部屋は元の温度を塗り替えて、成長しきって外にも出なくなった男の好みに合わさった。夕陽は、その刹那の瞬間を進めようとしていた。
「うん、これでいいか。次の紙をくれ・・・・・・どうした?」
司書は、思い切った。時間が残されていないことを悟ったのだ。
「あなたが起きてしまえば、この夢は終わります」
「それはそうだろう。いつまでもここには居られない」
果てのない夢の世界を旅をするほど、現実に未練がないわけではない。
「だから、もう終わりにしましょう」
司書は、テーブルのの十数枚の紙を棚に飛ばした。紙は乱れなく、元の隙間に着座した。そこで、永遠に思い出されずに眠るのだ。
テーブルの上には、二枚の紙。
「思い出して欲しいのは、これか?」
「思い出さなければいけないのは、これです」
二枚の紙。一枚はコピー用紙の上にインクが垂らされた、社会人なら、常日頃目の当たりにするサイズの紙切れ。もう一枚はピンク色の便箋。
司書は、白地の紙をねっくの前に差し出した。
「私が、読み上げますか?」
司書が読み上げる速度と、俺が集中して読み込む速度のどちらが速いか。
考えるまでもなく、ねっくは紙を取り上げて読み出した。
司書は、ねっくの横を通り過ぎ、本棚の方に歩いていった。すれ違いざまに、呟きながら。
「これは、あなたの売れない作品群が伝える、あなたの恋のルーツです」
2 (谷奥中学)
中学時代。彼は、転校をたくさんした。
一躍人気者になれる方法をたくさん探した。
足が速ければいい。だが、人並みの運動神経しかない根詰にスポットライトはあたらなかった。勉強ができればいい。だが、周りより少しテストの点が取れるだけの中途半端さは顰蹙を買うだけだった。面白いことを言えればいい。買った本の知識は、誰を目の前にしても不発だった。顔がよければよかった。家が大金持ちならよかった。他人を顎で使う度量があればよかった。クラスを統率する手腕があればよかった。
何もなかった。
それにいたいけな少年が気付いたのは暗黒の中学時代を抜けた後だった。寮暮らしで三年間を過ごした高校生になってから、周りと同調することの本質を理解した。
自身に何があるのかわからず、暗中模索の一端に、バイオリンがあった。
今にして思えば、悩んだ選択肢のひとつが大人になった俺の職となり血肉となっているのだから、何が有益になるのかはわからない。
バイオリンを手に取った次の日に、吹奏楽部の入部を断られた。
曰く、彼女たちにバイオリン奏者は必要なかった。一人だけのバイオリン奏者では、ただでさえ未熟な中学生の輪を乱すだけだということも、音楽の道に進んでから理解したことだ。
折角のバイオリンを埃と白アリの餌にしては婆ちゃんに申し訳が立たないと思い、しかたなく学校で弾いた。既に、来月か再来月に引越しをするであろうことは父親に聞かされていたから、素人がバイオリンに悲鳴をあげさせるのを誰に聴かれたところで問題はなかった。
「あ。バイオリン弾いてる人だ」
「え?」
昼休みの図書室で、前振りもなく呼ばれた。呼ばれるときに前振りがあるわけもないのだが、俺は誰かに話しかけられるということに臆病になっていた。
冬で、ストーブの近くの窓際の席に座っていた彼女は、手を口にして勢いだけの発言を恥ずかしがっていた。
「ああ、ごめんね」
「はあ」
恥ずかしそうなら無理に話す必要はない、と俺が離れようとするのを、彼女は止めた。
「いつも、聞いてるよ」
「・・・・・・」
まだ、初めて一週間と経っていなかった。いつも、と言われるほどの日数は経っていなかったのに、彼女は愉しそうに「いつも」と言ったのだ。
このとき、俺は彼女の顔を覚えた。
バイオリンを弾く毎日の中で、彼女のことを知った。
とは言っても。昼休みは毎日図書室で本を読んで、三年生の先輩であることしか知ることができなかった。名前さえ、聞く勇気がなかった。
「じゃあ、昨日に弾いていたのはおばあちゃんが好きな曲なんだ」
「なんか、テレビで観たら気に入ったとかで。演歌だし、譜面もないから、これに入れながら」
胸のポケットから校則違反の再生機をちらと取り出す。
「悪い人だ。重そうだね」
「でも、クラスに置いておくのは心配で。こんな重いから、疲れちゃいますよ」
恒例のような、フリだった。
「せっかちだね。はいこれ、お茶。また、ぬるくなっちゃったけど」
「ありがとうございます・・・・・・先輩」
「・・・・・・うん、後輩君」
父親との約束をした一月は、あっという間だった。
渡すことを躊躇った恋文の代わりに、俺は渾身の一曲を演奏した。拙作と名乗ることさえおこがましいその曲が、彼女の耳に届いたかはわからなかった。
父に抗うこともせず、涙のお別れを誰とすることもなく、俺はその街から出て行った。
「バイオリン、上手くなるといいね」
3(谷奥第一中学図書室)
ねっくは、半分まで読んで、その一ヶ月を思い出すことに成功していた。それでも、残った思い出を丹念に読み込んだ。
しかし、たかが一ヶ月の記録でしかない一枚の紙は、読むのに時間はかからない。
「思い出されましたか?」
声のした方を振り向いたねっくは、何かが足りないと思った座席の正体がわかった。
「先輩が、足りなかったんだ」
ねっくの言うところの先輩の姿をした司書は、半笑いだった。
「私は制服を着ているのに、司書の言葉を信じたときはどうしようかと」
「ああ・・・・・・」
本当だ。今まで気付かなかったが、それは十六年前、半月ほど毎日見ていた制服だった。
「こんなことも、忘れるのか」
「中学生と図書室の司書の制服の違いも見極められないのは、あなたが滅多に外の世界に触れないからですよ」
自分の肉をつまみながら、毒づく。
中学時代のねっくは痩せていた。今は正反対だ。
転向した作曲家としても名が挙げられずに引き籠った現実での毎日。一人の女の子への純粋な気持ちを媒介にして作った曲さえも、その日々に埋もれて忘れてしまっていた。
「これが、思い出すこと?」
先輩は、頷く。
「あなたの作品には、人として大事な愛情が含まれていません。それをお伝えすることが、私は有益だと判断して、こうなりました」
初恋に似た感情を有した一ヶ月を思い出すためだけの時間。
「それで、この便箋は?」
ピンク色の便箋。裏面になっていて、文字の書かれた表面は見られない。持ち上げようとして、持ち上げられない。
「それは、あなたでは無理です」
「俺の夢なのに?」
「先程の、題名のない譜面と同じです。あなたは、伝えようとした気持ちを、言葉にせず、譜面にしようとして、結局諦めてしまいました。優柔不断な指揮者を奏者は追いません。だから」「だから、俺の音楽は売れない、っていいたいのか?」
「・・・・・・私は、あなたの中から生まれました」
司書はそう言って、図書室の奥で座りながら、手をスライドさせた。ガラガラと軋んだ音を立てて、入口が開く。
「夢は、終わりか」
「はい。最後に、注意事項がありますが、聞きますか?」
そのおっかなびっくりの言い方に、ろくでえないことを言おうとしていることはわかった。しかし、ここで切り上げてしまっても目覚めが悪いだろう。
「きく」
「はい。再度申し上げますが、これは更生プログラムではありません。したがって、目覚めたときに、知人でもない美少女が膝枕をしていたり、キッチンで裸エプロンをした若奥様が包丁で手を切っていることもありません。先輩と、偶然街で再会する奇跡も起きないでしょう」
いつも通り。
どこかで、彼女は俺を忘れて幸せに暮らしていることだろう。
俺は、譜面だけが散乱した汚部屋の天上を見ながら起きるのだ。
「わかった」
ねっくは、扉の向こうに足を投げ出した。
先輩は、夢の中で彼の願望を叶えるためだけにその一言を発した。
「お誕生日、おめでとう」
4 (二月五日)
現実世界では、節分の豆掃除が終わったと思ったら、今度は雪が降ってきた。
俺の誕生日は、窓の外の雪を見て始まった。
白い粒は雪。雪は寒い。寒いは痛い。痛いは嫌だ。
外に出る気が起きない。
「・・・・・・コンビニでも、いくか」
クローゼットの奥からコートを取り出す。一年ぶり、いや数年ぶりかもしれない。思い描いた近場のコンビニは、まだ経営してくれているだろうか。
俺はせめてもと床に散らばった譜面をファイルに綴じ込み、ダンボールに封印した。
あとがきその1
供養です。