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あの日に見上げた、つぎの空

作者: 待山宵田

 堂本ビルの屋上は鍵が壊れているから、誰でも簡単に出入りすることができた。

 周りにある高層ビルに比べてやや小ぶりな五階建てのこのビルは、古めかしいタイル張りの外観で、テナント募集の張り紙が二、四、五階に張り出されている。

エレベーターは銀色で、所々にくもりが目立ち、内部の箱には薄っぺらい灰色の敷物が敷かれていて、乗るとギシッと重みで揺れた。

せいぜい五人乗りがいいところ、黒枠に囲まれた小さな丸ボタンは、押すと暖かなオレンジ色にペカッと光った。


 チガヤは五階で下りると、階段の端から端に渡されている、たるんだプラスチックの鎖紐をまたいだ。

 『立ち入り禁止』と吊されている黄色い板など目もくれずに、屋上へと続く短い階段を上った。

 扉の前に立つと、手慣れた仕草でドアノブの中心にある突起を数回押し、右左にがちゃがちゃと回した。

 すると、一分足らずで開いた。

 チガヤは、屋上へ出た。

 

 背の高いビルに挟まれているから、屋上にいても、開放感などはまるでなかった。

 むしろ見上げた空がいくらか近くなったから、どこか窮屈なかんじがした。

 堂本ビルは、駅の繁華街から少し離れた場所に建っていた。

 チガヤは、屋上のフェンスに頬杖をつき、人通りもまばらな通りを見下ろした。

 屋上のフェンスは、所々ペンキが剥げ落ち、灰色の塗装から、茶色い体がむき出しになっている。

 高さは、チガヤの肩までしかない。


 死んじゃおっかな。


 ここへ上る度、チガヤは思った。


 簡単に飛び降りられんじゃん。


 遮る物といえば、この低いフェンスだけだ。

 警備員もおらず、監視カメラもない。

 チガヤは誰にも邪魔されないし、ここで何をしていても気づかれない。

 ここから、下の通りを歩く人の頭が、ハッキリと見える。

 けれど、誰もこちらを見ない。

 今にも柵から身を乗り出しそうな女子高生がいることなど、誰もわからない。

 空と大地の境目にいるのが今の自分で、その境目が、なんだかとてつもなく、あやふやなような気がした。

 

 丁度チガヤの位置からだと建物の間に、メディカルビルの大きな緑十字が見えた。

 

 手を振ったら、誰か気付くかな。

 

 ぼんやりと、そんなことを考えた。

 

 でも、わたしに気付いたら、その人はどうするんだろ。

 ……わたしは、どうするんだろ。

 もし、通報されてしまったら、警察に保護とか、されてしまんだろうか。

 見ず知らずの学生が、平日の昼間から、授業をサボって屋上で手を振っている。

 わたしだったら、普通に無視。

 うぜぇ、って思う。

 もし、駆け上がってきた誰かに、突然注意をされでもしたら、やっぱり、うぜえ、って思う。

 飛び降りちゃうかも。

 

 そんなことを考えて、何だか急に、むなしくなった。

 知らないうちにもれた苦笑が、まるで、自分で自分を馬鹿にしているようにも聞こえた。

 なんだか急に、ぜんぶが、たまらなく嫌になった。

 

 特に理由なんかない。

 ここへ来るのも、ふっと、暗い考えがよぎるのにも、理由なんかないのだ。

 

 ただ、何かの衝動のように、気持ちにむなしさが訪れる。

 これも、理由なんかわからない。

 けれど、そんなときに、堂本ビルへ行きたくなった。

 以前、ここには歯科医院が入っていたことがあって、チガヤはたまたまそこに通院していた。

 ここの屋上の扉が壊れていることは、そのとき偶然知ったのだ。


 頬杖をしていた手の小指が唇の端に当たり、ひっかくと唾が弾けた。

 数回それを繰り返して、甲でぐっと拭う。

 体勢を変えると、自分が生きている人間であるという現実が、手の温みと共に頭の中に戻ってきた。

 そうするとまた、逸れていた思考が元に戻り、死のうか、と視線が下を彷徨い始めるのだ。

 柵越えは容易い。

 チガヤは、腕に力を込めて、一気に体を引き上げた。

 自分を見ている人なんているはずもないから、スカートから下着が見えたって、構うことはない。


「恥ぢ、かっまし!」


 突然、びゅう、と強い風が吹いた。

 扉が、やかましい音をたてて閉まった。

 またがろうとしたフェンスが、ぶるっと震えたようだった。

 チガヤは、とっさに手すりにしがみついた。

 やっと人心地ついて、音のした方に顔を向ける。

 目が丸くなった。

 すぐ後ろには、真っ直ぐにこちらを見下ろす少年がいたのだ。


「え……」


 くずおれるように、柵に寄りかかっているチガヤを、少年は睨みつけている。

 いつの間にこんな至近距離に人が、と疑問が頭の中でぐるぐる回り始めた。

 あっけにとられて、しばらく物も言えなかった。

 少年は、その間、厳しい顔を崩さなかった。


「……な、なに? ……あんた、なんなの?」


 少年はチガヤよりも年下に見えた。

 中学生だろうか?

 目鼻立ちのはっきりした顔立ちをしている。


「なんだ、そのとぼけた面は、ああ? 足を押っ広げてあんなところにまたがって、チガヤには恥、というもんがないのか?」


 小柄な、黒髪の少年が、ぺたんと尻をついているチガヤに向かって、顎をしゃくった。

 少年の目線の先には、フェンスがあった。


 なにコイツ。


 だんだん頭のもやが晴れてくると、むくむくと怒りがふくらんだ。


 なにコイツなにコイツなんなのコイツ。


 頭に血が上っている時ほど、同じ言葉が回転木馬のように駆けめぐる。

 とっさに、文句のひとつも出てこない。


「なんだよその目は、ああ? なんか文句あるのか、チガヤ。あるなら言ってみろ」


 少年は、チガヤの瞳の中に映ったもう一人の自分に話しかけているのではないかというほど、真っ直ぐに見つめてきた。

 チガヤはますます言葉に詰まった。

 さすがに、メンチをきれるほど、喧嘩慣れしていない。


「なんなの?」


 苦し紛れに、鼻で笑う。

 声が震えてしまって、情けなかった。


「なんなのって、なんだ。それは何をおれに聞いているんだ」

「はぁ? ふざけんなよ」

「ふざけるもんか。なんで俺がチガヤをからかわなくちゃならない。そんなこと、するわけないだろう」

「はあ?」

 

 左の表情筋が、ぴくりと上がった。

 イラッとした時に出る癖だ。

 少年が、怪訝な顔をした。

 風が吹いて、少年の白い服が捲れ上がった。


 少年の服は不思議な形をしていた。

 上下とも白く、腰には縄のようなものが巻いてあった。

 服にデザイン性など欠片もなく、なんだかごわごわして、硬そうだった。同じ白でも、自分の着ているシャツとは明らかに色が違う。

 そういえば、この少年は靴を履いていないのだ。


「あんたダレなの。なんでこんなとこにいんの。なんでわたしの名前を知ってんの」


 チガヤは、少年を睨み返した。

 よくよく考えてみれば、この少年は、不審者だ。


 わたしの名前を知っているなんて、ストーカーかなんかか?

 やばい。

 はやく、逃げなきゃ。


「俺は」


 少年が口を開こうとすると、とつぜん、風がその体を包み込むように巻き上がった。

 ぶわっと、不揃いな黒髪が広がる。

 しかし、チガヤの周囲に風はなかった。

 思わず、瞳をこらした。


 なんだ、今の風は。

 まるで、この男のために吹きつけてきたような風じゃないか。


「俺は、ハタツコ」


 少年が、顔にかかった髪をわずらわしそうに払う。


「チガヤと血を同じくする者だ。さらに詳しくいうと、父方、それも祖母の曾祖父の血に通じてる。ようはチガヤの、遠い先祖だ」


 大真面目な顔をして、言った。

 チガヤは、じりっと、後ずさりした。


「本当は、こんなことをしちゃ駄目なんだ。俺も、他の皆みたいに、チガヤのやること為すことに、文句も付けずにこれがチガヤの定めた道と、見守ってるべきなんだ。だけど」


 ほう、と長いまつげを伏せて溜息をついたかと思えば、また息巻いて目を開く。


「だけどさ! 俺にはそれが、どうも我慢できない。見てらんないよ、チガヤ」


 急に、眉をハの字に曲げて、うるうるとした目で見つめてきた。

 演劇部の練習だろうか、と思った。

 大体、この全身の白装束からしておかしかった。見方によってはアシンメトリーカットと言えなくもない、ぼさぼさの髪。

 突然の登場。

 そして不自然に巻き起きた風。

 不可解な設定。

 地元の中学生が、学生演劇コンクールかなんかのために、無作為に人間を選び、リアリティを追求するために演技をしているのだ、と、突拍子もない考えが、もっともらしく浮かんできた。

 ともすれば、どこかに隠れている仲間がいないか、目が動いてしまう。

 しかし、この何もない事だけが取り柄の屋上に、人間が隠れられる場所などあるはずもなく、いつかテレビで見たような、巨大送風機もなかった。


「ばっかじゃねーの」


 口ではそういったものの、心臓が、どきどきと音を立てた。

 なんだか、この少年の存在に、恐怖に近いものを感じはじめている。

 意識すると、ぞわっと鳥肌がたった。

 関わらない方が良い。

 チガヤは、立ち上がって、放り投げてあった学生鞄を荒々しく掴むと、扉に向かって歩き出した。


 多分ストーカーだ。

 おかしい奴だ。

 演劇部とかでないなら、もう、自分の敵でしかない。

 だから怖いんだ。

 自分に理解できないものには、言い知れない恐怖を感じる。

 わかり合えないと思っているから、何もかもが怖いのだ。

 ストーカーの心理など、わかりたくもないけれど。

 

 ハタツコが、追ってくる気配はなかった。


「……鍵が」


 ガチャガチャと、ノブを回した。

 しかし、いくら引いても、扉が開かない。

 屋上の扉の鍵は壊れている。

 鍵は閉まっても、開けられないはずはないのだ。


「なんで? ……ちょ、まじで……?」

「焦るなよ。ちゃんと、帰してやる」


 すぐ隣で聞こえてきた声にはっとすると、そこにはハタツコがいた。

 立ち並んでみると身長は少しだけ、ハタツコの方が高かった。

 ハタツコは、チガヤの手をじっと見ている。


「あんたが入って来た時はちゃんと開いてたんでしょ。扉が閉まる音したもんね。じゃああんたが鍵かけたの? 早く開けてよ!」


 気持ちを奮い起こして、高圧的に言ったものの、間近にいるハタツコに、悲鳴を上げて逃げ退ってしまいたい気分だった。


「その前に」


 ハタツコは言うと、にこりと微笑んだ。

 ハタツコが笑うと、意外なほど華やかな印象になった。

 チガヤは、図らずも、たじろいでしまった。



「チガヤは俺たちの血の果たてだ。嘉人の、かつ江の、正吉の、さらに遡った親たちの、希望と願いの込められた子が、守られ、継がれてきた血族の、一番新しい今を生きてる。それが、俺にはすごく嬉しい」

「……お父さんとおばあちゃんの名前、なんで知ってんの」


 正吉というのは、名前だけ知っている、曾祖父のことだ。


「知らないはずないだろう。みな俺の可愛い子らだ」


 そのとき、耳の中に直接、風が吹き込んだ気がした。

 というのは、ぐるぐると、目に見えるほどに、ハタツコの周りに風が生じて、竜巻のように渦を巻き始めていたからだ。


「今をこうして生きられることが、どんなに希有なことか、意思と願いの交錯であるか、チガヤは知らない」


 ハタツコの手が伸ばされ、ドアノブにあるチガヤの手に触れた。

 恐ろしく冷たい。

 チガヤは、ぞっとして、手を引き抜こうとした。

 しかし、まったく体が動かなかった。

 まるで、体が石膏で固めらてしまったかのようだ。

 しかし、その割に心臓がうるさく響いた。

 梵鐘が耳でわんわんと鳴り、その中に閉じ込められてしまったような感覚が襲ってくる。


 ハタツコの顔から笑みが消え、あどけない顔立ちの中に、まるで不相応な、大人びた凛々しさが見えた気がした。

 唇が動いて、何か喋っている。

 だが、こんなに近くにいるのに、それはチガヤの耳には届かない。

 ただ、ハタツコの、綺麗な黒々しい眼だけが大きくなって、迫ってくるばかりだった。




                  


      〇






「ねえ、アキさん」


 突然、男の声がした。

 重い瞼を開けて顔を上げると、見知らぬ青年が隣にいて、優しい笑顔で語りかけてきた。


「ようやくお起きだね、アキさん」


 青い着物を着て、黒に近い紺の袴を履いていた。襟間から、白い肌着が覗いている。


「あ。いやだわ、わたしったら……」


 勝手に、チガヤの口が開いて、しゃべり出した。

 顔が、知らない間に動き、表情まで作り変えた。

 男が、チガヤに向かって、柔らかく笑った。


「いや、いいんだ。アキさんは、疲れているのだろうね。ぼくだって、わかっている。ただ、いつまでもこうしていると、風邪を引いてしまうよ、と思って……」


 照れたように笑う男に、今、自分が微笑み返しているのだという事が、鏡を見なくても、わかる。


(なに、なんなの、これ・・・!)


 いくら叫んでも、体が勝手に動き、見知らぬ男との会話が進んでいく。

 彼らは恋人同士のようだった。


「わたしは、平気だわ。でも、わたしといると、そう、あなたに悪いのだわ」


 『アキ』が、身をよじった。

 アキは、公園かどこかで、恋人の男の肩にもたれ、眠ってしまっていたらしかった。

 それを恥ずかしいと思う気持ちと、『邦実(くにみ)さん』に申し訳ない、という気持ちが、チガヤの胸に去来した。


「ぼくなんか、平気さ。けれど、アキさんこそ、困るんじゃないかい。怒られやしないかい」


 心配そうに、青年が顔を覗き込んできた。

 その顔に、なぜか満ち足りた気持ちになった。


「ねえさんのお使いだからね、大丈夫よ。こんな寄り道くらい、させてもらったって、バチは当たるもんか」

「アキさんは、こわいものなしだなあ」

「でしょう? だから、あたしのことなんか、ちっとも気にしないでほしいの。ああ、ねえさん、毎日でもあたしに用を言いつけてくれたら良いのにな。そうしたら、いつでもこうして、邦実さんと会えるのだわ」


 恋人達は、愉快そうに笑い合った。

 アキの、素直な気持ちが、伝わってきた。


 好き。

 大好き。


 その飾らない想いがきらきらと、チガヤの心に湧いてきた。


 アキの中にチガヤはいた。

 自分の意思とは関係なく動く体。

 見える景色、放つ言葉。

 それが呑み込めてくると、すべてが、すんなりとチガヤのなかに入ってきた。

 一つの体に二つの心があって、チガヤはその主体となるアキの心に、寄り添うようにある。

電柱に絡みつく蔦のようだ。


『アキはチガヤのひいひいひい~おばあさんだよ』


 ハタツコの声がした。


「いつか、君を自由にしてあげたいなあ」

「旦那さんに、なってくれるの?」

「うん。女房に、なってもらうのさ」


『遊妓と青年の、実らぬ恋だ』


 幸せそうに微笑む恋人たちを前に、ハタツコの言葉が、冷たく響いて胸に刺さった。

 信じられない思いで、邦実の顔を見たチガヤだったが、急に意識が引っ張られる感覚がして、邦実の声と顔が遠のいていくように思えた。


 思わず目を瞑ったが、チガヤがそうしたのか、アキがそうさせたのかは判然としない。

 チガヤの心が、小さく硬くなって、まるでボールのようにどこかへ投げられているようだった。




「どうして言うことが聞けないんだ!」




 言い争う荒々しい声が聞こえてくる。

 はっとすると、目の前には邦実ではなく、年老いた、小柄な女性がいて、チガヤに向かって腕を振り上げていた。

 あっと思う間に、老女が自分の頬を打ち、短くも鮮烈な音がした。

 チガヤは、衝撃に耐えきれず、打ち据えられるままに、畳の上へと倒れた。


「アキ! ちょっと売れたからって、調子に乗るんじゃないよ! まったく、鼻持ちならない女だ。あんたの首根っこ捕まえてるのは、アタシなんだからねえ、口答えが出来ると思うな。言う通り、小池の所へいきな!」


 アキが唇を強く噛みしめる。

 泣きたいくらい憎い、という憎悪の気持ちが、チガヤの中に雪崩れ込んできた。

 この老女を、この手ではっ倒し、足で踏みつけてやりたい。

 今までに感じたこともない衝動が、胸にせめぎ寄ってきた。


「あた……あたし、あたしには、今……」

「ガキなんざ、堕ろしちまやあいい。ったく、手間かけさせて、どうしてとっとと自分でできないのかね!」

「絶対にいや……。絶対に、いや!」


 アキが、叫んだ。

 しかし老女は、アキの腹に足を乗せて、力を込めて押してきた。


「や、やだ。やめて!」

「お前が自分では無理だというから、アタシがお流ししてやろうと思ったのに、聞き分けのないバカだね。子持ちの女郎なんて、置いておけると思うかい? お前を買う時、里の親たちにやった金も、そっくり返してもらわなきゃいけないよ。今まで世話してやったのに、恩を仇で返すような真似されちゃ、やってらんないね。まったく、なめられたもんだよ」

「やめてっ」


 ぞくりとするほど冷たいものが胸に迫ってくる。

 雪に閉ざされた村の景色が、一瞬、頭の中に広がった。

 男に手を引かれて、橋の上をすり切れた草鞋で歩く少女。

 何度も振り返るが、白い景色の向こうには、どこを探しても人影はない。


「お願い、おかあさん、それだけはやめて」


 体を起こしたアキは、おかあさん、と呼んだ女の足にすがり付いて泣いた。

 女がわずらわしそうにアキの腕を払い、伏して、床に額をこすりつけるアキを冷たい目で見下ろしている。

 老女は腰を下ろし、震えるているアキの肩に手を置いた。


「いくら待っても、無駄だというんだ、アキ。あの貧乏人にお前を買うだけの金はこさえられない。いいね、聞くんだ」


 雪景色の中の少女も、同じように泣いている。

 生涯の別れを前にした悲しみが、今、あの時と同じように胸に迫っていた。

 チガヤの心の中に、黒くて重い、塊が落ちた。


「子さえこさえちまえば、あの男と一緒になれるとでも思ったんだろうが、そりゃあ馬鹿な考えだ。何年、ここで生きている? お前の生きている世界は、そんなにゆるゆると、甘く綺麗なものでできていないよ。わかったら、さっさと腹をお出し」

「いや、いや!」


 邦実とは一緒になれない事は、アキは十分すぎるほどわかっていた。

 けれど、あの人が好きだった。

 その気持ちさえあれば、きっとどんなしがらみも乗り越えられるのだと、思えてしまうのだった。

 しかし、現実にはなにも手立てはない。

 これからもきっと、邦実にはアキを身請けするだけの金はもてない。


 それを理解したのは、いったいいつ、何歳のときだったろうか。

 邦実ではなく、自分が、ただただ、情けなかった。


「おかあさん、あたし、ちゃんと、小池さまのお話を受けるから、お願い、この子だけは許して。ねえ、許して……お願いします」

「許すったって、あんた。むざむざ、子持ちの女を身請けするヤツがどこにいるってんだ」

「この腹の子は、小池の子として、産みます」


 アキはもう、泣いてはいなかった。

 老女を見上げるその瞳には、鈍い光が、居場所を求めるかのように揺れていた。


「生きて、ほしいの」


 あの人のよすが。


 声にならないアキの声が、チガヤの耳へ届く。

 アキの頬に、一筋の涙が流れた。

 アキの視界が曇るにつれて、チガヤの目に映っていた景色も、次第に色あせ、遠のいてゆく。

 やがて暗闇しか見えなくなってくると、ハタツコの声が響いてきた。


『可哀想か?』


 頭の中に直接聞こえてきた声に、チガヤは正直に頷いた。


『そうだな。せっかくの想いが無駄になって、アキが可哀想だ。アキの血の果たてであるチガヤを見たら、彼女は何を思うだろう』


 重い息を吐き出すようにして聞こえてきた言葉に、批難された気がして、チガヤは眉をひそめたが、それも少しの間だった。

 目に見えるのは暗闇だけだったが、不思議と恐怖はない。

 むしろ、心地よくさえあったのだ。

 優しい水の流れに体を押されているようで、眠ってしまえそうでもある。

 だが、その快楽にも似た空間は、突然の声によって崩れ去った。




「あにうえ!」




 誰かが叫んでいる。

 まどろみの中にいるような気分で、ぼんやりとその声を聞いていると、自分の口が、また勝手に喋っているのだということに気がついた。


「あにうえ、はやく、はやくっ……」


 今度は少年のようだった。

 体が軽くて、声もすこし低い。

 そして、すこし汗臭かった。


「逃げて! 一緒に行ってください。あ、あにうえっ」


 手を伸ばした先の、もっと向こうには背の高い青年がいた。

 少年の兄だ。

 どこからか、野太い男たちの叫び声が聞こえてきた。

 はやく、はやく、と焦る思いが、チガヤの胸を焦がしてゆく。


「私のことは良い。だが、お前はもう行け。さ、はやく! 走れっ」


 戸に手をかけた兄が、髪を揺らしてふり返った。

 その顔は、なぜか、微笑んでいるように見えた。

 

 あにうえを、行かせてはいけない!

 行かないでくれ!


「あにうえ、あにうえっ! 宝珠(ほうじゅ)は、どうしたらよいのですか。あにうえがいなくなれば、宝珠は。家も、土地さえも奪われてなお、生きなければならないのですか。あにうえ、宝珠にも、お供を命じてください!」


 今にも、泣き出してしまうのを、必死に堪えている顔だった。

 しかし、あの兄に、少年の懇願が決して届くことはないことは、チガヤにはわかった。

 少年にも、わからないはずがなかった。

 弟の必死さとは対照的な、兄の静けさ。

 まったく力のない微笑み。

 やるせない思いが、憤りが、胸を焼く。


「あにうえ!」


 それでも少年は叫ぶ。

 死にたいと願っているのではない。

 ただ兄と共にいたいのだ。


『今直面しているのは、ホラ。いくさというやつだよ』


 ハタツコの声が、響いてきた。


『二人の名前は、茂里(しげさと)に宝珠。年の離れた兄弟さ。初めは、荘園の小競り合いだったんだよ。でも、ひどいもんだね』


 荘園?

 歴史の授業で、習った気がする。

 でも、よくわからなかった。


『いくさって、ほんとうに、ひどいもんさ』


 ハタツコの声が消えてしまった。

 

 いくさ。

 それって、戦争のことだ。

 この人たちは、いま、そんなただ中にいるの?

 どうして?


 そのとき、何かが破裂したような大きな音が響いた。

 兄は刀を抜き、さやを宝珠のほうへ放った。


「宝珠。お前は元服もしていない、まだ小さな子供だ。父上やわたし、家人たちと運命を共にすることはない。こんなこと、お前にはまだは早いのだ。頼むから、今すぐに逃げてくれ」

「いやです! あにうえ、あにうえっ」

「聞きなさい。お前の使命は生きて、我らの血を伝えることだ。お前が果てれば、この家の血も果ててしまう。それは我らがもっとも忌むべきことではないか?」

「……っ」


 宝珠はぐっと拳を握りしめた。

 兄を睨み付けるも、全てを受け入れたような、兄の瞳には届かない。


「行け。隠し通路の道は知っているだろう。今行けば、母上たちに追いつけるはずだ」

「……あにうえ……」

「行くんだ」

「……はい」


 宝珠は歩き出し、襖障子に手をかけた。


「どうか、達者で」


 背後で、兄の声が聞こえて、ふり返る。

 しかし、兄は部屋を飛び出していったあとで、そこにはさやが転がっているだけだった。

 宝珠は、走った。

 足を止めてしまうと、堪えていた涙があふれ出してしまいそうで、疲れても、決して止まることはしなかった。


 父上。

 兄上。

 また、宝珠、と呼んで、笑ってください。



『良い時代に生まれたよね、チガヤ』


 ハタツコの声が聞こえてきた。

 すると、宝珠と共にあった意識が、強制的に切り離された。


『自由に死を選べる時代なんて、彼らにとっては考えもつかない』


 突き放すように聞こえてきた言葉に、なにも反論ができなかった。

 もう、宝珠の荒い息使いも、走る足音も聞こえない。

 いつしか、目の前に暗闇が広がり、チガヤは浮き草のようにぷくりと闇に浮かんでいた。

 自分自身が、とても情けなく思えた。

 

 チガヤの見た景色の中には、必死に、その時、その瞬間を生きて、命を繋いでいる人々の姿があった。

 切ないほどに、彼らは他人を愛していた。

 生きて欲しいと願い、生きて欲しいと願われていた。

 ふいに涙がこみ上げてきて、チガヤは闇の中で顔を覆った。


『俺はね、チガヤ』


 静かな、ハタツコの声が聞こえる。


『俺は、姉の代わりに、王の墓に入ったんだ。だって、姉ちゃんはもうすぐ結婚する事が決まっていたから、そんなの、可哀想だろ』


「ハタツコ? ……なに、言ってるの?」


『二人とも、俺にとっては大事な人だ。だから、代わりに、王の死後の世話をする人間として、土の中に入ったんだ。ちっとも、こわくなんかなかったよ』


「……ハタツコ? ……なに、それ」


『でも、笑っちゃうだろ。あの世に逝っても供に困らないように、生きた人間を一緒に埋めて守り番とするんだ。きっと、どこかの土を掘り返したら、俺の骨もそっくり綺麗に出てくるんじゃないかな』

「生き埋めってこと……?」


 チガヤが問い返しても、ハタツコからの返事はなかった。


『チガヤは、姉ちゃんによく似てる』


 代わりに、すり切れたような声が返ってくる。

 顔を隠していた手が、無意識のうちに離れた。

 瞳は闇の中で、ハタツコの姿を探している。

 だが、なにも見えはしなかった。


『もう、意味もなく終わりを望んでほしくないんだ』


 その言葉が、耳の奥で渦巻くように聞こえてきた。

 まるで、重力がのしかかってきたように、体が下へ下と引きずられる。

 苦しくなって、思わず眼を瞑った。


『チガヤは俺たちの願いなんだよ』


 あたたかい、くすぐったくなるような言葉が、息使いと共に耳元で聞こえて、チガヤは目を開けた。

 すると、真っ白な閃光が瞳に射して、あっ、と思った時には体が傾ぐ。

 座り込んだ地面は固い。

 よく見慣れたコンクリートが、そこにはあった。

 髪が、吹き付けた小さな風にそよいだ。

 肩にかけていた鞄がずり落ちる。

 見上げると、空には太陽が輝いていた。


「ハタツコ……?」


 声が風に乗って運ばれ、むなしく広がってゆく。

 手は汗ばみ、体がじっとりと汗をかいていた。

 初夏の風が清々しい。

 学校では、冷房が入り始めた季節だというのに、どうしてか、哀しくなるくらい、髪を揺らした青嵐が心地よかった。


「……ハタツコ」


 チガヤはふらふらと立ち上がった。

 目線の先にはフェンスがあり、さらに奥にはメディカルビルが見えている。

 さっきまで、そこにいて死んでやろうと思っていたはずだった。

 思っても、いつもの通り、実行に移すことはなかっただろうけど。

 チガヤはその場に佇み、ぼんやりと、ビルの間の緑十字を見つめた。

 そして、しばらくして、くるりと背中を向けた。

 ドアノブに手を掛けると、今度は、あっけないほどすんなりと、扉が開いた。

 けれどもなんだか、よくわからない寂しさが、胸の中にこみ上げてくる。


 チガヤは屋上を出て、階段を噛みしめるようにして下りた。

 すると、階下から上ってくる男性と行き会った。

 男性は、制服姿の少女が、こんな所にいるのに少し驚いたような顔をした。

 しかし、すぐに視線を逸らし、チガヤをよけるようにして、壁際を歩き出した。


「あの」


 すれ違いざまに、言葉をかけた。

 男性は、チガヤの声に振り向くと、いぶかしんで眉を寄せた。

 四十代ぐらいの、体格のいい男だ。


「……屋上、鍵、壊れてるんですけど」

「……ああ、うん。……そだね」

「直した方がよくないスか」

「ああ、うん。……そだね。業者に、ゆっとく」


 男はそれ以上何も言わずに、チガヤの横を通り過ぎ、上へと上がっていった。

 ビルの管理人か、それともここに入っている会社の人間か、チガヤにはわからない。

 けれど、そんなことはどうでも良かった。

 何かを始めなければいけないような、はやる気持ちが、チガヤの中にはわき起こっていた。


 ハタツコ。


 チガヤは、ビルを出て、空を見上げた。

 呼びかけると、いつも遠くに感じていたあの空が、微笑んで、近づいてきてくれるように思えた。


 ハタツコ。


 答えはない。

 だが、風が流れて白雲がたなびくと、少年の声がすぐ耳元で、聞こえてくるようだった。



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