カレーを知らない娘(3)
お願いですから、なにか食べてからにしてください!
――しかし――
「……岡本……」
「はい、お嬢様。ただちにお帰りの支度を整え……」
――違います。
「……誰が、帰ると言いましたか。わたくしはさきほど、今晩はここで食します、といったのです」
――忘れるものですか。ものごころついたときからたたき込まれた名家としての矜恃。
「……信義……」
「は?」
「――これは、わたくしの、わたくしに対する信義です。――岡本……わたくしは、今晩、『かれぇライス』を賞味いたします!!」
「は、はいぃ!」
――空いている二卓のうち、適当に奥側のテーブルへ向かうと、そこは岡本も見てとって先回りし、すかさず脇侍して椅子を引く。
さて、何を注文したものかしら……?
慌てて厨房の中から歩み寄ってきた店主らしき男は、わたしの脇でいつものごとく控え立っている岡本に戸惑っているように見える。……おかしなひと。
早速、くたびれたコックコートの料理人にひとこと。
「――La carte, s'il vous plait(ラ・カルテ、シルブプレ)(メニューを下さいな)」
……どうしたというのかしら? 男はキョトンとした顔をして立ち尽くしている。メニュー(カルテ)がなければ注文が始まらないでしょうに。
「pardon. La carte, s'il vous plait, monsieur(パルドン・ラ・カルテ、シルブプレ、ムッシュ)?(失礼、メニューを頂きたいと言っているの、ご主人?)」
「……あ、あの、お嬢様……」
コホン、と咳払いをしながら岡本が僭越にも私の耳元に顔を寄せる。
「このような庶民の店では、その、フランス語などは用いられないものかと……」
え…… およそお代を頂戴して食事を供するお店で、このように注文ができないなどと……?
「――Ca va, mademoiselle.(サヴァ、マドモアゼル)(承知しました、お嬢さん)」
私が不審に思うより先に、料理人は低い声で返答してカウンターの方に向かって行った。
「……岡本、あなた何をでまかせ言ってるの」
「は、あ、いやそのまさか……?!」
狼狽える岡本を尻目に、男はとって返して来、
「Excusez-moi. Je n'ai pas parlé français depuis longtemps.(失礼、フランス語は久し振りなもので)」
それだけいうと素っ気なくメニューを置いて厨房に引き返した。
仕切りに首を傾げる岡本など気にも留めず、手書きのそれに目を通す。 なるほど、さっきの受け答えの割にはフランス語のフの字も見当たりません。
「……当店、カレーは三種類ございます……ビーフ、ポーク、チキン……」
ふむふむ。……辛さについては五段階あり……? 辛いご飯だから、そのへんは微調節できるのかしら。ならばいっそ、一番辛いというものを所望すべき……?
はらはらと見つめる岡本はほっておいて、わたしは料理人を呼び注文を告げた。
ビーフの、ベリーベリーホット。
これにいたしましょう。お肉は良いものであれば特にこだわりませんけれど、およそ辛い物を売りにしているお店であれば、一番辛いといっているものに挑戦するのが信義というものでしょう?
注文を聞いて、メニューを持ち去る男の後ろ姿を岡本は目で追いながらわたしに耳打ちする。
「……よろしいのですか、お嬢様……? 初めての食べ物、それでいきなり一番辛い品などと……」
「よろしいのです、岡本。何事であれ、挑戦するのならばもっとも難い敵から討て、というのが我が家の家訓なのをお忘れか……? それさえ倒してしまえば、他の軟弱など推して知るべし……と」
「……や、敵とかなんとか。その、これはただのスナックみたいなものなのですが……」
いちいち小うるさいわねぇ。これだから使用人なんてものは……。
そんなやり取りをしているうちに、付け合わせのコールスローと、やがて注文したベリーベリーホットのビーフカレーが運ばれてきた。
店の匂いに慣れてきた鼻腔を再び容赦なく刺激するスパイス臭! 嗅ぎ慣れていないはずなのに、なぜかわたしの口元をお皿にたぐり寄せようとするかのような蠱惑感。白いライスの上にドロリとかかった初めて目にする茶褐色の液体の中に、お肉や人参などのさまざまな具が混じりこんでいるようね。
「これが……」
かれぇ、ライスですか。
なぜかわたしの唾液腺を緩ませ、ほのかな食欲を喚起しつつも、間断なく立ち昇るツンとした刺激臭はそれを口もとに近づけるのを強く牽制してくるよう。
しかし、こんなことで怯んでいるようではパインバックの名折れですわ。




