カレーを知らない娘(2)
ともかく、お腹を空かせた人は、読まないでください!
――まあまあ、まるで鶏を絞め殺すような悲鳴ですこと――聞いたことはないけれど。
運転席でアワアワする岡本を待たず、わたしはひさしぶりに自分の手でリムジンのドアを開いて表の通りに降り立った。
「むふっ! ……埃っぽい!」
「……あ、はぁ。すぐわきで道路工事を致しておりますから……」
「見ればわかります!」
いつの間にやら脇に控えてきて、いらぬ突っ込みを入れてくる岡本を黙らせると、わたしはしげしげとあたりを見渡す。
……久しぶりの庶民の街……。前回こんな所に来たのは、確かおとうさまと一緒だったから、かれこれ三~四年ぶりかしら……。
ひっきりなしの車の通り道にへばりついているような歩道の上には、そこここに様々な人相風体の人々が往来しており、まるでヒトの百科図鑑のよう。
かさかさと不愉快な音を立てる白く薄い袋の中に、太くて長い草(岡本にあれがネギだと教えられました)をはじめ、様々なものを詰め込んで両手にぶらさげ、踏ん張るようにして歩いているご婦人。
あるいはなにやら、ヒモのついた耳栓のようなものを付けて 首をゆらゆら揺らしながら通り過ぎる若い男性。
そのほかわたしにはどうにも判別不能の人類が、こんなにも巷には徘徊しているものね……。
……埃に慣れた鼻腔を次に襲ってきたのは、様々な食べ物らしきものの混沌とした匂い。
それはまるで、初めて絵の具を手にした子供が、夢中で画用紙を色で埋め尽くしているような無秩序さ。
けれど幼い絵と同じように、それはなぜか不愉快なものではなく、なかでもあのツンとして、それでいてまろやかさを予感させる不思議な匂いは、子供の心を奪う強い色のように、憎らしくわたしを捉えてしまっている。
リムジンを背にして見廻すわたしの目に、夕暮れ時の空の下、様々な色彩の看板が存在を主張する。
そのなかでも、ひときわ薄汚れた黄色い看板……。
「あれ、ですわね……『しろくまカレー』?……」
ところどころ擦れかけた黒い文字で、そんな風に読めますの。
わたしを捉えたあの強い匂いはそちらの方から漂ってくる。
ツカツカと歩み始めたわたしの後ろからとぼとぼとついてくるる岡本。
「あ、あの、お嬢様、そのような小汚い店に入られるのは……」
――あぁ、これこれ。蚊とんぼが臨終の床でささやいてるような、消え入りそうな声。
その使用人根性丸出しの卑屈な感じ、『いい仕事』をしているわよ、岡本。
なおもかけられる女々しい声を無視して、わたしは歩みをゆるめずにその店の扉を押し開けた。
「…………」
例の匂いは、一瞬むせるほどに立ちこめている。
見廻すまでもない、狭い店内。そう……使用人のベッドを四つも置けば、一杯になってしまうかしら。
高くもない天井からは、蛍光灯が直接的な光りを投げかけている。
フロアの右手には、テーブルが二つ。
左手は、逆L字型に巡らされたカウンターにスツールが五つ、六つ。どうやらその奥が、せまくるしい厨房になっているようね……。
元は白かったろう壁はシミだらけで黄ばんでいるけれど、不思議と埃っぽさや不潔さは感じさせない。――ふふん、手入れは行き届いているというワケね。
さて、この『お腹がすき時』に、庶民のお店のお客さんは……?
「……!? い、居ないぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!????」
――正しくはカウンターの隅っこに、ぽつねんと小さな人影がひとつ、なにやらもぞもぞしているのが見えるのだけれど、そのほかにはキッチンの奥にぼぉっと立ちすくんでいる白い出で立ちの男の方。あれが料理人ということかしら……?
「――岡本、どういうことですの? 庶民の方々のお腹のすき具合は、わたくしどもと時間帯を異にしているのでしょうか?」
小声で耳打ちするわたしに、岡本も低い声で、
「いえ、お嬢様、立場は違えど同じ人類。この時間帯にすきっ腹を抱えているのは、不肖わたくしめも含めてなんら変わりはありません。……思いますにどうやらこの店、下々の間でもあまり評判は芳しくないのではないかと……」
――なるほど。
普段、わたしが訪う数々の銘店といえど、評判の高い、低いは確かにあるもの。
日々の研鑽を怠らず、輝かしい評価を勝ち得る新しいお店。――あるいは世間の名声に奢り、怠惰に流されるままに傾いていくかつての老舗……。
――わかりました。
ここは、わたしことアーケミス・リヒトフォーデル・フォン・パインバック――世界
の五分の一の富を支配する、パインバック財団の現当主にして次世代CEO――にとって、幾つもの意味でふさわしくないお店だ、ということなのですね。