カレーを知らない娘(1)
……お腹がすいたときには、絶対に読まないでくださいw
天才少女。ものごころついた時にはそう呼ばれていた。
――母親は、なんとかいう高名な医師の指導で、プールで泳ぎながらわたしを産み落としたらしい。
おかげでわたしは、三歳の頃にはバタフライまでマスターしてしまい、この国では少しは名の知れた、幼女スイマーになっていた。
また、何だかよくわからない抽象画を見せられて、ちょっとそれをマネた落書きをすると
『このコ、すごいじゃな~~い?!』
『あぁ、て、天才かもな!』
『さすが、パインバックのお嬢様』
……などと、周囲のおべんちゃら合戦もすさまじいものだった。
ほんとうは、わたし、周囲の空気に敏感なだけの、少しだけカンのいい女の子なのに……!
それを、寄ってたかってオトナたちは、自分たちの偶像が欲しくて、やれあれは奇跡だ、これは早熟の証明だなどと言って崇めたてまつろうとして。
そんな生活も長く続くと日常になってしまい、そもそも自分はなにをしたかったのかさえ、わからなくなってしまう。
わたし。アーケミスト・P・B。一七才。
あぁ!! 本当の自分、本当のわたしはどこにいるの?
「岡本! わたくし、美味しいものが食べとうございます!!」
いつもの学校の帰り道。
送迎のリムジンの運転手、小さなときから心安かった我が家の雇い人に、私は思わずそんな事を口走ってしまったの。
「は、はい、お嬢様。……それでは今夜、フォアグラのテリーヌなどは……」
「それはもう、一昨日頂きましたの」
「は、それでは黒海産の最高級キャビアで……」
「……今日のお弁当のご飯に、たっぷり乗っていましたわ」
「あぁ……では、ま、満漢全席かなにかを……」
「ツバメの巣も、クマの掌も、もう飽っき飽き! 第一、わたくし、あんなに食べ切れません~~!!」
「は、はぁ」
見方によってはイケメンとも言えなくもない、わたし専属の気弱な運転手をチクチクいぢめるのが、近頃唯一のストレス解消法。
あぁ、誰かわたしを、こんな退屈な迷宮から連れ出してくれないものかしら……。
「……あら、岡本。いつもと道が違うみたいだけど……?」
「はい、お嬢様。実は首都圏国際マラソンの準備とやらで、普段の大通りが使えません。恐縮ながら、裏通りを抜けさせていただいております」
「マラソン……。ふっ、庶民の方々は手頃な娯楽があって羨ましいコトですわ。あんな、四二、一九五キロを駆け抜けるだけの競技の、なにが面白いのでしょう?」
「……おっしゃる割には、お詳しくていらっしゃいます……」
「おだまり!!」
あぁ、なんだかイライラするわ。少し、車内の空気を入れ換えましょう。
わたしはリムジンのパワーウィンドを半分ほど開いた。
雑踏の中でも初夏の空気は気持ちのいいもの。
まぁこの、なんですの? わたしにはよく分からない、居酒屋? だの、ハンバーガー? とかの、庶民のお店の匂いは少々鼻につきますけれど……。
ん……? でも、この匂いは……?
「岡本、車をお停めなさい!」
「は、はい、お嬢様」
あたしたちが停まったのは、庶民の皆様が夕刻の買い物で賑わっている、とある商店街の通り。
「……岡本、どういうコトですの?」
「はい? お嬢様……」
「『はい?』では、ありません! 窓越しに車に入って来たこの匂いは、一体なんの香りですか? と、訊いているのです!!」
それは、わたしが今までに嗅いだコトもないような香りでしたの。
なんというか、鼻にツンと突いて、それが口の中までをもくすぐる様で……。
それでいて、品がなくて野蛮で、でもどこか懐かしさを誘う様な不思議な香り……。
「これは……?」
「……はい、お嬢様……。これは庶民の食べ物……カレーライスの匂いでございます……」
岡本が消え入りそうな声で答えましたの。
「かれぇ……ライス?」
「はい、お嬢様をご不快にさせる様な道を選びましたコト、この岡本、万死に価すると……」
「よい」
「は?」
「岡本……。かれぇ、ライス……とはつまり、辛いご飯なのですか?」
「は、一概にそうとも言い兼ねますが、まぁ、そういった側面もなきにしもあらずと申しますか……」
「……わかりました。なにごとも、百聞は一見に如かず。疑惑の雲は自らの拳で砕けと、祖父・慶造も申しておりましたわ。……岡本、わたくし今晩はここで、『かれぇライス』とやらを食します!!」
「お、お嬢様ぁ~~!」