変革の使者
一
サトルは小さい頃から図書館というところが好きだった。正確にいつから好きになったのかは彼自身、よく覚えていない。どういった経緯でそうなったのかもはっきりしない。気がついたら彼は、大量の本の並ぶ知恵の宝庫に入り浸るようになっていた。
小学三年生のときに、マルクス・アウレリウスの『自省録』を読んだ。何を言っているのかもわからず、とにかく一気に読んでしまった。読み終えて、本を閉じたとき、まるで世界で一番安全なところでくつろいでいるような安心感に包まれた記憶が彼にはある。サトルはそのとき、自分の内に未知の人格が出現したことに気づいた。つまるところ、それはマルクスとサトルの融合した新たなる人間だった。マルクスの語った言葉によって構成された、いわゆる擬マルクスの誕生である。擬マルクスはその後、サトルが判断に窮したり、感情が乱れたりしたときにはヒーローのように参上し、優しく道を示してくれるようになった。小学生でこんな経験をする人間はまずいない。同級生たちから孤立するのはどうしても避けられない。彼自身、自分に起きた変化と、それに伴う友人たちからの剥離は薄々感じていた。だが彼は、もはや不安になったり迷ったりすることがなくなったので、この変化にもさほど動揺はしなかった。その頃からませたしゃべり方もするようになったため、そのことでからかわれたりもした。しかしそれも、ほとんど気にならなかった。
小説も読んだ。まるで鯨が何千匹もの小魚を口に入れるように、サトルは次々と読破していった。小学五年生のときに、彼はナサニエル・ホーソーンの『緋文字』を読んだ。むろん十歳かそこらの少年に内容が理解できるはずもなく、最後まで読んでしまってもちんぷんかんぷんだった。しかし、その小説には今まで感じたことのなかった何かを感じ、暇を見つけては何度も読み返すようになった。母親にねだって『緋文字』の文庫版を自室に置いて、飽きるくらいその表紙を眺めた。その影響かは知らないが、彼はそれから「A」という文字のことが気になってしまい、中学校に上がって英語の授業をするときも「A」に敬意を払うようになった。「A」のつく単語は一瞬のうちに暗記することができた。
さまざまな読書経験を通じて、彼は周囲の人間よりも格段に安定した精神を得ることができた。友人からは「坊主」と呼ばれ(彼は髪型を野球部員のように丸刈りにしていたから、そのあだ名は妥当だった)、尊敬半分、忌避半分の体で扱われていた。高校生になってもそれは変わらなかった。相変わらずサトルは尊敬され、そして孤独だった。しかし彼は自分が独りであることの悲しみは感じていなかった。校庭の片隅で一人で弁当を頬張っているときも、絶えず擬マルクスの声が内側から聞こえていた。おかげで少しもさみしくなることはなかった。自己との対話ほど彼を魅了したものはなかった。「A」という文字にもさらなる敬意が払われることとなった。『緋文字』のヒロインであるヘスター・プリンを、自分にとってのもう一人の母として、常に崇めた。小学生の頃から利用している地元の図書館だけでは飽き足らず、高校の図書室にも足を運ぶようになった。高校生活の大半を、彼は本に囲まれて過ごしたわけだ。おかげで彼の貸し出し履歴は恐ろしいほどに膨れ上がった。高校の図書委員や地元の司書たちとはすっかり顔見知りになり、そのうちの何人かとは個人的に話をした。話す内容はいつも本のことばかりだった。
『自省録』には、本は読むなと書かれていたのだが、サトルはそれだけは彼に従うわけにはいかなかった。読書は小さい頃からの習慣となっていて、なかなか変えることが難しかったし、さまざまな知識を、彼は本から吸収することが多かったからだ。それにマルクスも、幼年時代は文学に熱中していたという。その情報が、サトルの読書熱を後押しした。また、幻想に憑りつかれるな、現実を生きろ、とマルクスは言っているにもかかわらず、サトルはヘスター・プリンに対する崇拝を抑えきれなかった。その点もマルクスに逆らわなければならないところだった。彼は結局、ヘスターを母として、神として崇めているのであって、悪い幻に執着しているわけではないという理由で自分を納得させた。
運動はまったくしなかったから、彼の顔はいつも不健康そうに青白かった。体は痩せており、コツンと石が当たればそれだけで骨折してしまうのではないかと不安になるくらい、貧弱だった。図書館に引きこもっていたのが原因であることははっきりとしている。おまけに彼自身、小学生時代から陽射しが大の苦手だった。部屋にいても、いつもカーテンを閉め切ってばかりいた。そんな環境で文字を追っていたため、目も悪くなる始末だった。坊主に眼鏡、そしてマッチ棒のような体。同年代の子と比べてその様子はまさしく異質だ。背丈は標準的だが、体が細いせいでみんなからは十センチほど低く見られた。彼の数少ない友人の一人は、遠くで彼を発見したとき、七十歳くらいの老人に見えたとあるときに語っていた。それを聞いたサトルは冗談だと思って幸の薄そうな笑みを浮かべたが、友人はいたって真剣な顔つきだった。彼は真面目にサトルの健康状態を心配していたのだ。
読書三昧だったおかげで、サトルはごく普通の男子学生が通るような道とは無縁だった。中学に上がったときから、彼は現実の女性に恋をするということがなくなった。道を歩いているとき、ときどきおやと思うような美人に出くわすことがある。彼も男だ、当然のことながら彼女に目を止める。そして自分の心にその女性の印象が凝固するのを感じながら、つい長々と見てしまう。しかし、サトルはただそれだけだった。彼は幼い頃から哲学に触れてきたので、自分の欲望をコントロールする術を心得ていたのだ。だから、その女性に話しかけて、その身体に触れてみたいという無意識下の欲を彼は容易に封じることができた。それを続けているうちに、どんな女性を見ても興奮を感じなくなった。とはいうものの、いかに哲学に従事していても、人間の、とくに若い頃のエネルギーは完全には抑えきれないものだ。それは必ずどこかで発散させなければならない。彼の場合、抑え込まれた欲望は漏れなく空想世界に持ち込まれた。彼は頭の中で自分の好きな女性(その多くは小説の中の登場人物だ)を思い浮かべては、欲望を解き放ったものだった。
彼はそんな自分を異常だとは思っていなかった。むしろ自分が正常なのだとさえ思っていた。あてもなく恋愛に心を奪われる男たちを彼は好ましく思わなかった。サトルは彼らに言ってやりたかった。「瞬間の感情に突き動かされるのは、精神の弱い証拠だ。もっと情念を統率する力を養うべきだ」と。だが彼の考え方は正直に言って、時代遅れだった。誰も彼の言うことに耳を貸そうとはしないだろう。彼もそのことは百も承知だ。だから、友人がある時期を境に恋の話しかしなくなってしまったときも、彼は何も言わなかった。ただ彼特有の薄笑いを浮かべて、何も考えずに聞くだけにとどめた。そしてときどき、くだらないとは思いつつも、いくつかのアドバイスを施したりもした。彼の聞き手としての能力が高かったためか、それからは友人以外からもよく相談を受けることになった。だいたいは自分の想いを打ち明けたいがために彼を利用するだけだった。ただ真剣に話を聞いてくれる人を、彼らは求めているにすぎない。サトルは自分のカカシとしての役目を確信し、忠実に務めた。そのおかげで彼は、これまでにないくらい広い交友関係を持つことができた。世の中には様々な営みがあるのだと、彼は四方山の恋愛話を通じて学んでいった。
高校まではそういう生活が続けられた。大学に入るとまた違う環境が彼を取り巻いた。身長や体格は中学生だったときからほとんど変わらず、本を読む習慣も以前と同じだ。しかし、この新たな契機が、彼を一段と孤絶世界へと導いた。
まず、彼は大学に入ってからめったに話さなくなってしまった。同じ大学に進んだかつての友人が一人もおらず、新しい友人もほとんど作らなかったからだ。サトルはあえてそうなるようにした。友人たちが絶対に進まない、進めないような大学を選んだのである。それはひとえに、これまでとは別の環境に自分の身を置きたかったからだった。今までの人生で、俺は坊主の相談役として定着してしまった。このままだと、俺は俗世間に浸り、駄目になってしまう。そうなってしまう前に、俺は一度、新たな土地で新たな生活を始めるべきなのだ。もっと自分の能力を磨くことのできる、厳しい世界を俺は求める。彼はそう決意して、偏差値の高い、そしてなるべく人気のない大学を受験した。高校生活で、彼のことを崇拝する同級生の何人か(彼らはサトルを、仏様か何かと勘違いしていたのだ)は、彼と同じ大学を受験した。サトルはもちろん、彼らに対して優しく振る舞った。全員合格できるといいですね、と誰に対しても敬語のその口調で彼らを励ました。結局彼らは合格することができず、どこか別の平凡な大学に進んだ。以来、彼らの消息はサトルにはわからない。仲の良かった友人たちにもほとんど会うことがなくなり、メールでのやりとりも自然に消滅した。
独りになれる時間が多くなったことで、彼はより一層本にのめりこんだ。大学の図書館にはさまざまな文献が揃っており、優れている点がいくつもある。彼は活動の拠点を全面的に大学に移すことにした。慣れ親しんでいた地元の図書館は使わなくなってしまった。それは通学が楽になるよう、大学の近くで一人暮らしを始めたせいもある。しかし理由はそれだけではない。彼は昔の知り合いにばったり出くわすことを、ひどく恐れていたのだ。もしそうなったら面倒なことになる。彼らとまた、話さなければならない。恋愛のごたごたに耳を傾けなければならない。そうならないためにも、彼は今後一切、地元の図書館を使うことを自らに禁じたのだ。擬マルクスは、友人は大事にすべきだと口を酸っぱくして言いつづけていたが、今回ばかりは自分の信念を曲げるわけにはいかなかった。擬マルクスは最後にはため息をついて、説得することをあきらめてしまった。
一人暮らしを始めてからはさらに不健康な生活を送ることとなった。彼はよく、食事を抜いた。料理を作る時間や弁当を買いに外に出る時間があったら、彼はその時間を読書に費やしたかったのだ。ときにはパン一切れで一日を過ごしたことだってある。窓をいつも閉め切っていたため、部屋はじとじとして何だか気持ち悪い状況になっていた。だが彼はそんなことはまるで気にしなかった。気にする人間がいないから、どう振る舞っても関係なかったのだ。唯一の注意者といえば擬マルクスだけだが、彼もまた、サトルの生活スタイルについて、もう何も言わなくなった。どれだけ改善させようと努力しても、サトルはもはや、自分というものを確立してしまったのだ。擬マルクスの役割は、サトルが大学に入ったときには終了していたのかもしれない。
彼はより青白くなった。かつての友人が見たら、今度は百歳ちかいよぼよぼの老人に見間違えるだろう。それほど彼は、疲れ切っているような雰囲気なのだ。だが疲れ切っているのは見た目だけで、彼の内部には燃えたぎる力の流れが存在していた。流れの方向はいつも、書物に対してだった。もっと多くの本を読みたい。彼の願いはそれだけだった。自分の健康など二の次だった。よく長い間病気ひとつせずに生きてこられたものだと、彼は自分でも不思議に思った。
アルバイトはちょくちょくやっていたが、どれも長続きしなかった。サトルはどうしても、アルバイトに明確な意味を見出すことができなかったのだ。次第に彼は、神から与えられた自分の役目は読書をすることにあると思い、働くことを止めた。それからの生活費はすべて両親に負担してもらっている。彼は一人息子だったため、そういう無理も多少は利いた。親も息子が勉学することを強く望んでいたので、彼は金銭的な悩みとは無縁の生活を送った。両親からときどき連絡があるが、それに対してはいつも、高校時代に培ったあの気持ちのいい坊主風の外面で対応した。彼はもう、誰に対しても正直になることができなかったのだ。そもそも、もとの自分がどういうものだったのかも忘れかけていた。擬マルクスと話すときだけはかろうじて本当の自分を取り戻すようだが、それもいつまで続くかわからない。擬マルクスはその頃から既に、サトルにとって赤の他人と認識されつつあった。
そんな過去の導き手とは裏腹に、ヘスター・プリンと「A」に対する尊敬は相変わらず保たれていた。独りになってから一層、彼女のことを大事に想うようになったみたいだった。彼はあまりに彼女を愛するあまり、彼女の想像上の似顔絵を描いて、その絵を壁に貼りつけては眺めた。中学生から絵を描くことはやっていたが、こうして壁に貼るというのは一人暮らしを始めてからだ。今、彼の机の前の壁には、とても美しく描かれた女性の顔がA4紙に印刷されて貼られている。それは大学に入学してから一番うまく描けた作品だった。
「スカーレット・レター」というタイトルの、『緋文字』を映画化したものもレンタルして見た。だが、初めてこの小説を読んだときの衝撃に比べたら、まるで敵わなかった。デミ・ムーア演じるヘスターは、自分の知らない誰か別の女みたいだった。役作りにしてもあまり褒められたものではなかったし、シナリオも原作に比べたら凡庸に成り果てていた。彼はその映画のことなどすぐさま記憶から追い払って、そのあと三度ほど『緋文字』を読み直した。
大学の授業には最低限出席してはいたが、そのほとんどは義務的なものだった。授業を教える講師が実力不足だったりと、なかなかうまくいかなかった。一年次はそれで大いに失敗してしまった。そこで二年次は、なるべく評判の良い講師を基準にして授業を選んだ。一応はそれで落ち着いたのだが、人気のある講師ばかりを選択してしまったために、学生の大声の雑談に困らされた。机いっぱいに座った学生は、彼にとってはみんな一緒の顔に思えた。誰が何を話しているのか、彼には全然わからなかったし、わかりたくもないと思っていた。我慢はどうにかできたが、それでも気にはなるものだ。それはおそらく、自分が独りであることを辛辣に認識してしまうからだろう。いかに偏差値の高い大学であっても、雑談はなくならないのだなとこのときほど実感したことはなかった。
ほとんど本のために生きているようなものだ。彼はそういう人生を誇りに感じていた。一つのことに熱中できるのは良いことだ。人によってはそれはスポーツかもしれない。政治かもしれない。サトルにとって、それは書物だったのだ。ただそれだけの違いなのだ。彼は自分が間違っていると思ったことは一度もなかった。三年次に上がる頃には、もう彼の中の擬マルクスは消えていた。それはもはや崇拝の対象ではなく、数ある考え方の一つとしてしか認識されていなかったのだ。サトルは既に、自分独自の思想というものを確立していた。彼はそれに従って生きていた。まともな服を着せれば、サトルはかろうじて大学生に見える。だがその内面を覗いたとき、他の誰にも具わっていない独自の思考システムの潜んでいるのがわかる。
サトルはだいたいそのようにして大学生活を満喫していた。しかし、二十一歳の誕生日を迎えた翌日から、彼の考え方は一変することを強いられた。
二
「くだらない」と女ははっきりそう言った。
サトルはこの女の堂々とした態度にひるんでいた。今まで誰からもそういった強い言葉をかけられたことがなかったからだ。だがサトルはくじけたりすることはなかった。
「しかしね」とサトルは言った。「本を読むという行為自体は決して愚かなことではないと思っていますよ。なぜなら、そこに書かれてある言葉に耳を傾けることで、自己の相対化を図り、根本的な生き方を見つめ直すことが……」
「だから、そういう考え方が、くだらないって言ってんのよ。私の言っていること、わかる? あんた、耳本当についてるの?」と女は鋭く言葉を発し、自分の耳を指で指し示した。サトルはもう、こんな話はやめにしたいと強く願っていた。
大学の、五号館の講義室だ。午後からの授業で、サトルは「心理学A」を受講していた。いつもは教室のなるべく前に座って、静かな環境でじっくりと講義に臨むのだが、今日に限って、教室は込み合っていた。普段後ろの方に座っているようなにぎやかな学生たちが前の方に座っている。だから今日のところは、場所にこだわらずに適当な位置に腰を落ち着けた。そうしたら、隣の席に、見知らぬ女がやってきて、何も言わずに座った、という次第だ。サトルの記憶の通りならば、彼女とは初対面のはずだ。にもかかわらず、彼女は何の遠慮もない口調で、本を読んでいる僕に向かって、「くだらない」を連発し始めたのだ。「何の本よ、それ?」「へえ、そんな本を読んで、何か得することでもあるの?」「わけわかんない、頭が痛くなってくるわ」など、サトルが呆気にとられているあいだにもいろんないちゃもんが彼に飛来してきた。それでついに言い返したところ、一層大きな声でさらに説き伏せられてしまった、というわけである。
いったいこの女は何者なのだろう、とサトルは終始考えていた。俺が忘れているだけで、実は俺と彼女との間にただならぬ因縁でもあったのだろうか? だがどう考えても彼女とは何の面識もなかった。どうしてここまで自分の読書に文句をつけられなくてはならないのか、意味がわからなかった。
サトルは周囲を見渡してみた。他に空いている席があるかどうか、探してみた。しかし、教室はほとんど満員だった。どこを見ても、空きは見つからない。きっとこの女も、座るところがなかったために、不承不承自分の隣まで来たのだろうな、とサトルは想像した。だがどうして今日だけこんなに人が多いのだろう?
「何、逃げようとしているのよ」と女はきつい態度で言った。そのせいもあってサトルはここから動くことができなかった。
「まず、訊きたいのですが」とサトルは言った。「私たちは、かつてどこかで知り合ったことがありましたでしょうか?」
「気持ち悪い、何そのしゃべり方」と女は思いきり顔をしかめた。「あまりにおぞましくて、鳥肌が止まらないわ。どうやって生きたらそんなことになるのかしら」
「俺たちは、かつてどこかで知り合ったことがあるだろうか?」とサトルは言いなおした。もともとが柔軟な体質なのだ。
女は辛辣そうに一つため息をついた。「まだ気に入らないけど、でもまあ、いくらかましにはなったわね」
そう言って女は、サトルから目を離して、じっと何かを考えるような姿勢になった。彼の質問には意地でも答えたくないらしかった。そこでサトルも彼女に倣って、じっとしていることに決めた。本を取り出そうとしたが、また彼女に言われそうなので、やめておいた。
講師はいつまでもやってこなかった。授業開始のチャイムはとっくに鳴り終えているのに、肝心の人間が講義室に姿を見せない。おかげで教室内はかなりうるさくなっていた。講師が現れないかぎり、彼らはしゃべるということを絶対にやめないのだろう。セミと同じだ。夏になったら彼らは死ぬまで鳴いていないといけない。
「馬鹿どもはうるさいわね」と女はひっそりと言った。ひっそりとはいっても、その声は着実にサトルに届いた。それくらい、彼女の声は通りがよかったのだ。運動競技大会に彼女が出場すれば、応援団員として目覚ましい活躍を見せることだろう。そういえば、彼女にはどこか体育会系の雰囲気が感じられた。
女は小さかった。座っている状態でもそのことが容易に察せられる。おそらくは百四十センチかそのくらいだろう。そして丸々と太っている。顔は月のようにまん丸だ。目はブルドックのようで、口は常に開け放たれている。目立たないシックな服を着てはいるが、彼女の溌剌とした表情と態度で、印象がごちゃごちゃになっている。腕の太さのわりには手は小さく、赤子のような愛らしさがある。だが同時に、机をバシンと叩いてもそれなりにさまになりそうな気配も感じさせる。演歌歌手のように声が安定しており、その状況によってさまざまに声質を変化させるらしい。怒っているときは、声を一層張って勢いを出し、人をからかうときには、声のトーンを少しばかり高くして、相手の苛立ちを即発するよう調整している、といった具合だ。姿勢は美しく、そればかりはつい見惚れてしまう。背筋をぴんと伸ばして、いかにも椅子に座っているという雰囲気が出ている。彼女が歩いている姿も見てみたいとサトルは思う。歩くときは、いかにも自分が歩いているという雰囲気を醸し出すのだろう。サトルは彼女を観察し終えたあと、再び前を向いて、講師の現れるのを待った。
その間、サトルは過去に起こったことを洗いざらい整理した。記憶を並べ立てて、その中にこの女に関連していそうなものを引っ張り上げようとする。だがその作業はまったくはかどらなかった。彼女に関する記憶はこれっぽっちも存在してなかったからだ。高校生時代まで、サトルは人付き合いがかなり多かったが、彼はそのすべてを記憶している。その中にも彼女の姿はない。しかし女はこちらのことを熟知しているかのような態度である。こちらが忘れているのか、もしくは、初対面であるにもかかわらず文句を言われているのか。彼にはどちらかの判断ができなかった。ついにはこの問題について考えるのをあきらめてしまった。どうせ今日限りだ、もう彼女と会うことはないのだろう。来週になれば彼女は俺のことを忘れて、俺は彼女のことを忘れる。俺たちは相容れない者同士で、二度と話すこともないのだ。そこまで考えたあとで、やっと講師が登場した。徐々に周囲の騒がしさが薄れていった。講師は「いやあ、すまんすまん」と微笑みながら、教壇に立った。およそ十五分の遅刻だった。
「やっと、ゴミみたいなうるささが消えるわね」
女はそうつぶやいたが、サトルは聞こえていないふりをした。
何の因果かわからないし、わかりたくもないのだけれど、サトルは次の週もその女と隣同士になってしまった。
今回もまた、教室は学生でいっぱいだった。この講義を取っている学生のほとんどが集合していることに間違いはない。どういう風の吹き回しだろうか? 学生の大学に対する考え方が変わり、それでこうも熱心に毎回参加するようになったのだろうか? それにしては騒がしい。窓側の席をどうにか得ることができたものの、前からも後ろからも横からも声が聞こえた。その声は混じり合って何とも言いがたい言語へと変換されていた。そんな騒ぎをかいくぐって、またもやあの女がやって来たのだ。真っ直ぐに、何のためらいもなく。
「また会ったね」とサトルは急いで本を閉じて言った。彼女に対しては、もう敬語で話すのを止めることにした。
「ええ、何という偶然かしら」と彼女は皮肉っぽく言った。彼女の言っていることが本当かどうか、サトルにはわからなかった。
講義が始まるまではまだ時間がある。サトルは、もしかしたら今回も込み合うかもしれないと予想して、早いうちに教室へ飛びこんだのだ。そうしたら案の定、教室は大量の学生で騒然となった。もし女の現れるのがもう少し遅ければ、サトルの隣の席は誰か他の学生に取られていたことだろう。彼女がここに来ることができたのは本当に幸運なことだったのだ。
「はあ、頭がずきずきする。どうしてだかわかる?」
わからない、とサトルは言い返した。半ば面倒に感じながら。
「それはね」と女は若干上を向いて言った。「この教室が、まるで世界の終末みたいにうるさいから。それから」と女はサトルの荷物を指差した。「私の視界に、前に読むのを止めさせた本が、ちらっと見えているから」
「ああ」とサトルはゆったりとした動作で本をバッグの中にきちんとしまった。「すまないね、整理整頓は苦手なものだから。ところでその問題に関しては、君がこちらを見なければそれで解決するようにも感じるんだけど――」
「うるさいわね。生意気なのよ」と女は一キロ先まで届かせようとするかのような音量で言った。サトルは何も言い返さなかった。
彼は今回も、席を移動する、もしくは、いっそ教室から抜け出すという手法を使えなかった。どこへ行っても満員状態だし、それに、窓側に座ってしまったから、どこにも逃げ場がないのだ。左に行こうとすれば、窓と壁にぶつかってしまうことになる。右側は、女のでっぷりした体が行く手を阻んでいる。サトルが女をじろじろ見ていると、彼女は目を細めて、嫌悪感丸出しの表情になった。
「何、見ているのよ。私のことがそんなに気になるわけ? 悪いけど、あんたみたいな趣味の人間は恋愛の対象外だから」
結構、とサトルは言いかけたが、また何か言われるのも面倒なので何も言わないでおいた。彼女とはもう何も話したくなかったのだ。
そのあとはしばらく会話がなかった。彼女はじっと前を向いた状態で固まっている。その大きな頭の中で何を考えているのか、サトルには予想もつかなかった。本に関連した思考でないことは間違いない。彼女は本を、目の敵にしているようだから。だとしたら、何を考えているのだろう? 世界の構造について考えているわけでもあるまいに。いろいろと頭を巡らせていると、彼女はサトルの方に目を向けた。どうやら、サトルは気がつかないうちに彼女のことを観察していたようだった。
「そんなに気になるのね。これはもう、万死に値するわよ」と女は針を刺すように言った。声は小さかったが、そこには確かな迫力が具わっていた。
「すまない」とサトルは謝った。「ただ、何かを考えていると、つい君の方に目が行ってしまうんだ。なるべく見ないようにしてはいるんだけど、どうしようもなくて」
「きっと頭のどこかのネジが足りていないのね」と女は静かに言った。「かわいそうに」
女は何か別のことに囚われているらしかった。会話に力が入っていない。サトルにはその原因がわかるような気がした。これは、こちらに何か質問したいことがあるという証だ。サトルは彼女に声をかけようとした。だがその前に、彼女の方が先に話しかけてきた。
「ねえ、ちょっと訊きたいんだけど」と女は以前とは違う、穏やかな態度で言った。「あんた、この教室の馬鹿どもを憎んでいる?」
サトルはこの小さい女のことをまじまじと見つめた。彼女の瞳はぎらぎらと燃えていた。
「君は……一体何を考えているんだ?」
すると女はせせら笑った。してやったりの満面の笑みだ。
「そんなに私のことを知りたいの?」と女は言った。「本は嫌いだけど、あんたはそれほど嫌いじゃないから、どうしてもっていうなら教えてあげてもいいけど」
「こちらからは強要しないよ。君が言いたければ言えばいいだけだ」とサトルはそっけなく言った。こちらがいくら頼んでも、彼女は絶対に教えてはくれないだろうという結末が彼にはわかりきっているからだった。この女はただ、俺をからかうためにそういうことを言っているのだと、サトルは早くから断定していた。
女はきょとんとした顔になった。「知りたくないの? 訊いてきたのはあんたの方なのに?」
「あれは、無意識に出た独り言みたいなものだよ。特に意味なんてないし、明確な答えも期待してない。風に向かって、お前はどこからやって来たんだ、と質問するのと同じだ」
「あんた、やっぱりおかしいわね」
「君も、俺と同類なんじゃないのか」
ここで沈黙が発生した。彼女はもう、サトルに向かってこっちを見るなと注意することはなかった。むしろ見つめてくれて構わない、その代わりこちらも遠慮なくいかせてもらうと言っているようであった。
「わかったわ」と女は言った。ついにサトルの頑なな態度に折れたというわけだ。「私は自分のことをあんたに知らしめたいから、あんたに私の望んでいることを伝える。それでいいのよね?」
「まあ、君がそれでいいのなら」
サトルはぼそりと言った。先ほどまでの闘牛のような勢いはどこかに去っていた。今ではただ、サトルの目の前にいるのは一人の小型の女の子だった。
「私はね、うるさいのが大嫌いなのよ」と女はしゃべりはじめた。「うんと小さい頃からね。あまりに嫌いだったから、うるさい場所に行くとそれだけで気分が悪くなってしまうくらい。なるべく気にしないようにはしているんだけど、どうしても気になってしまう。そしてつい、うるささに対して気分を荒げてしまう。そういうのってわかるわよね? 本を読んでいるとき、集中しようとするんだけど、周りの音が耳に入って、ついそっちに気を取られるみたいに。私は本をほとんど読んだことがないからその感覚はわからないけど、たぶんそういうことってあると思うの。私はそれが、日常茶飯事で起こるのよ。何かを考えようとする。でも周りがうるさい。それでうまく頭の中で考えをまとめることができない。このうるささをどうにかしたいと延々と考えてしまう。それでしまいには、それまで何を考えていたのかさえもわからなくなってしまう。こんな私に読書なんてできるはずもないわ。だから、これほどうるさい最中であっても、素知らぬ顔で読書に集中しているのを見ると、つい苛立ってしまうの。理不尽な怒りだってことは承知しているけど、でもこればかりはどうしようもないの。それについては謝るわ。読書、素晴らしいわね」
そう言って、彼女は初めてサトルに向かって微笑んだ。
「私が人間不信だっていうのは理解できたと思う。あんたはきっととんでもなく頭が良いだろうから。でも……先週と、今週、あんたとは二回会ったわけだけど、あんたはどうやら周りの馬鹿とは違うみたいね。まず友達がいないみたいだし、おしゃべりをそれほど重要とは考えていないみたいだし」
「友達がいないというのは本当だ。けど、それを憶測の段階ではっきりと相手に伝えるのはいけないと思う」
「ほら、そういうところが、他人から疎まれるのよ。私はあんたのことなんてほとんど知らないけど、友達を作るのが苦手なんだろうな、っていうのはすぐにわかったわ。先週の段階でね。それで私はあんたに目をつけた。あんたとならうまくやっていけそうだな、って、こうして話していて思った」
「うまくやっていく?」とサトルはびっくりして言った。「俺は君とタッグを組まなければいけないのだろうか?」
「それは、もう決まっていることだから」と女はいけしゃあしゃあと言った。「もちろん、あんたは勘違いしていないと思うけど、それは私たちが男女交際をするっていう意味じゃないからね。私はイケメンとしか付き合わないつもりだし、あんただってそれは不本意でしょうからね」
サトルは黙っていた。思わず首肯するところだったが、それをやってしまったらどうなるかわかったものではない。
「とにかく」と女はサトルを指差した。「あんたは私に協力をしなければならない。それはわかったわね?」
サトルはしばらく考えていた。この女の言う「協力」とは具体的にどういったものを指すのだろう? サトルは断ろうとしていた。このまま平和に大学生活を過ごして、何に対しても深いかかわりを持たずに卒業まで行きたかった。それが彼の望んでいることのすべてだった。あらゆるものに距離を置いて生活をすること。だが、サトルはどうしても、彼女の申し出にはっきりとノーと言うことができなかった。自分の中ではもう答えは決まっており、あとはただ、首を少し横に振ればいいだけのことなのだが、いくら努力してもそうすることができなかった。
サトルが何も言わないのをいいことに、女は嬉しそうな顔になった。「よし、どうやらあんたも嫌じゃないみたいだから、協力は成立ね。これからよろしく」
女はさっと手を差し出してきた。サトルはその手を、しっかりと握った。もう断ることはできない。それは彼にとって、人と交わした約束を破ることが信条に反していることであったからだ。だが同時に、彼女の言う「協力」に、自分が少なからず興味をそそられているからでもあった。
「じゃあ、アドレスを教えて」と女はポケットから携帯を取り出した。「後のことはそれで連絡するから。今日のところはまだ何もしないけど、明日以降、本格的に活動を始めるからね」
「君の最終的な目的は何なんだ? どこへ向かうのかをはっきりさせておかないと、俺としても協力の仕様がない」
女はまた、してやったりの笑みを浮かべた。まさにその質問を待っていた、といったようである。
「それはね」と女は周囲に声の漏れないよう、慎重な態度で言った。「この世界を、理想の世界に作り変えてしまうことよ」
どうやら大変な事態に巻き込まれてしまったようだ、とサトルは思った。
三
あとで冷静になって、やってしまったなとサトルは後悔した。あんな怪しい人間に、簡単に個人情報を開示してはいけないのだ。何に利用されるかわかったものではない。彼女がそのアドレスを使って悪事を働いたりしないことを、サトルはひたすらに願うしかなかった。もし変な事態になったら、まあそのときはそのときだ。
連絡はしばらく来なかった。ようやくメールが届いたのは二日後の金曜日だった。サトルは大学から帰ってきたあと、自室の椅子に座ってそのメールを確認した。差出人の名前は、「女」となっている。アドレスを交換したとき、転送されてきたのがその名前だったのだ。彼女はどうしてもこちらに素性を明かしたくないらしい。ますます怪しくなってくるのだが、今さらどうしようもないこともまた、事実だった。
どんなメールが送られてくるのだろうと楽しみでならなかったが、送られてきたのは、いたって平凡な文章だった。ただ淡泊に、「明日の午後二時に美城公園に集合。」とだけ書かれていた。美城公園はサトルの通う大学のすぐ近くにある。サトルはそれだけを確認すると、携帯を閉じてしまった。そして机に肘をついて、目の前に見えるヘスター・プリンの似顔絵をじっと見つめた。
彼女と会い、彼女の目的に従って動いていったとき、一体何が起こるのだろうかといろいろに想像を巡らせる。サトルはいくつもの小説に看過されてか、現実離れした妄想を好んでいた。その日はいろいろな妄想が頭をよぎってしまい、うまく読書に集中することができなかった。おかげで寝る前に、もっと読むべきだったという強迫観念に襲われてしまったくらいだった。眠りについたのは、いつもよりだいぶ遅い、午前二時過ぎだった。
目覚めたとき、時計は午前六時を指していた。おおよそ四時間の睡眠だ。普段はたっぷり六、七時間は眠っているため、起きたときはまるで地獄の底から帰還した直後みたいに体が重かった。瞼が接着剤で固められてしまったかのようにうまく動かせなかった。手足はまるで他人のものみたいだった。だがそれでも彼は起きた。どうしてかは彼自身もよくわからない。約束は午後二時で、まだ眠れる時間は残っているのだが、どうしても寝ようという気にはならなかったのだ。身体は足りない休息を求めているにもかかわらず。
サトルは相変わらず締め切った部屋の中で時間を過ごした。彼女と会うまでにはまだ時間が余っているため、彼は本を読むことにした。昨日はあまり読めなかったから、今日はその分たくさん読んでおかないといけない。彼は机の脇の本棚から、まだ読んでいないもの、あるいはまた読み返したくなったものを選んでいく。そこで目に止まったものが、ホーソーンの短編小説集だった。『緋文字』はずいぶん読み返したが、こちらはまだ二、三度しか読み通していない。約束した時間まではちょうどいい分量だった。間に合いそうになければ、途中で読むのを止めればいい。短編だから、わりかし自由に読み進めることができるのだ。サトルは早速ページを開いて、物語の世界に埋没した。眠気はほとんどなくなっていた。理解の難しい話になると少しだけ瞼が重くなってくるが、そのときは部屋の中を歩いて眠気を吹き飛ばした。
簡単な昼食をとったあと、午後一時前に彼はアパートを出た。
公園に着いたとき、時刻は一時五十四分だった。彼はすぐさま辺りを見回してみる。女はすぐに見つかった。滑り台と砂場が一緒になったような場所に、ぽつんと立っていた。彼女の周囲では子供たちがわいわい騒いでいた。中にはその女をじっと眺める者もいたが、女はその視線など無視して、どこか虚空の一点を見つめるばかりだった。
「いつから待っていたんだ?」とサトルが声をかけると、女は図太い視線でサトルを睨んだ。
「ずいぶんと遅かったじゃない。もう二時になるところだったんだから」
「でも、約束の時間には間に合ってるはずだ」とサトルは言い返した。
「あんた、馬鹿じゃないの」と女は意外なほど怒った口調で叫んだ。「二時に集合って言われたら、その二十分前には集合していなくちゃならないの。これはマナーなの。わかった?」
サトルはこの女の態度に押され気味になりながらもうなずいた。そして、時間通りに来てしまったことを詫びた。指定された時間にちゃんと来たのだから、そんなに怒ることもないじゃないかとも思ったのだが、彼女と言い争うことはしたくなかったため、その意見は引っ込めることにした。
「まあ、いいわ」と女はあっさりと言った。「もともと、あんたになんてこれっぽっちも期待していないから。あんたが来なかったら来なかったで、私は一人でうまくやっていただろうしね」
「一体、これから何をするつもりなんだ?」とサトルは一番気になっているのに一向にわからないことを訊いてみた。すると女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「相当気になっているみたいね?」
「それを知らないと、俺としてもこれからどうしたらいいのかがわからないからね」
「そう。それじゃあ、仕方ないわね」
女は肩に掛けていた茶色いバッグから、何かを取り出そうとした。そのときの彼女の顔は、すごいいたずらを思いついて、今まさにそれを実行しようとするときの悪餓鬼にそっくりだった。
「まずあなたには、これを渡しておくわ」
そう言って彼女が取り出したのは、丸いかたちをした「何か」だった。見た目はまさしく饅頭のようで、全身が濃い緑色をしている。だが、どういう原理でそうなっているのか、その身体は白く光り輝いている。彼女の手に収まってしまうくらい小さく、そしてぶよぶよしている。しかもそれは、まるで初めて海外に旅行する人のように落ち着きがない。全身を隈なく震わせたかと思えば、次は横方向に伸びる。女の手から零れ落ちそうになったところでまた丸いかたちに戻り、今度はすごく小さくまとまってしまう、といった具合に。丸いだけで、目とか、口があるわけではない。けれどもよく耳を澄ませてみれば、かすかに呼吸しているらしいことがわかる。サトルは現実というものがいよいよわからなくなってきた。これは、本当に現実に存在するものなのだろうか? 彼はとりあえず、便宜的にではあるが、この物体を光る饅頭と名付けた。
サトルは饅頭に触れてみようとした。どういう感触なのか、確かめてみたかったからだ。だが饅頭は、彼の手が身体に触れる寸前に身を反らして、手を避けた。もう一度サトルは試してみたが、饅頭は巧みに身体を動かして、回避をする。どうやらこいつは、意志すらも持ち合わせているらしい。彼はもう、唖然とするしかなかった。真夜中に後ろからいきなり知らない人間に頭を叩かれたような心持ちだった。
「この子はね、私の相棒みたいなものよ」と女は淡々と説明をしはじめた。「私たちの目的を、容易く達成してくれるような、すごく良い子なの。この子がいればまず失敗はないわ。扱いが難しいから、慣れるのには時間がかかったけどね。でも、一度手なずけてしまえば、ほら、こんなに仲良くなれた」
女はそう言って、光る饅頭を撫でた。饅頭はその手は避けずに、撫でられるがままになっていた。従順なその態度は、大好きな飼い主に首のあたりを掻いてもらっている小猫のようだった。
「それは生きているのか?」とサトルは半ば興奮気味に訊ねた。
「もちろん」と女は当然のように言った。「この子は生き物よ。まあ、他の生き物とは明らかに違っているけどね。餌もいらないし、しつけをする必要もない。この子は気に入った人間に対して忠誠を尽くすの。だから、犬にお座りを教えたりするみたいなことはしなくてもいい。気に入られさえすれば、可愛いものよ」
女は手を傾けて、もう一方の手に饅頭を移動させた。饅頭は嬉しそうにもう一方の手に飛び乗った。申し訳ないが、とてもこんなものを可愛いとは思えない、とサトルは考えた。
「俺の見識が浅いだけかもしれないけど、こんな生き物が地上に存在していること自体に驚いてしまうよ」とサトルは言った。そしてもう一度饅頭に触ろうとしたが、今回も避けられてしまった。
「あら、そんなに自分の頭に自信があったわけ?」と女はサトルを明らかに馬鹿にしたような目つきになった。「私たちには、この世のすべてを知ることなんて到底できないんだから。私にそれがわかって、あんたにそれがわからない、なんてことはないと思っていたけど」
「それはわかっているよ。しかし、常識的に考えてみても……」
「はい、そこまで。いい加減、認めなさい」と女はぴしゃりと言った。「現にこの子はここにいるんだから、存在しているってことでしょ。それとも、あんたは自分の目に映ったことが信じられないような耄碌だったってこと?」
サトルはもうだいぶまいってしまっていたので、あきらめることにした。「わかったよ。饅頭は生きている」
「饅頭?」
「何でもないよ。ただ、その子の名前がわからないから、印象でそう呼んでいるだけだ」
女は「ふうん」と言って、饅頭をしばらくもてあそんでいた。饅頭は気分が良いみたいで、たえず女の手の内で跳ね回っていた。どこにそんな跳躍能力があるのかと思うほどの跳ねっぷりだ。猿が餌を前にしたときのように、高々と飛んでいる。しかしサトルに対しての警戒心は忘れていないみたいで、サトルが手を出そうとすると、緊張し、跳ねるのをやめるのだ。この反応の違いに、サトルは少なからぬショックを受けていた。
サトルは周囲を見回してみた。これほど光っているのだ、珍しいもの好きの子供たちが、集まってくるはずである。しかし、これも不思議なことなのだが、子供たちはまるで饅頭に興味がないみたいだった。いいや、それどころか、饅頭の正体すら見えていないようであった。興味がないにしても、こちらをちらちらと見る動作はどうしても止められないはずである。そういう気配も、まるで見られなかった。彼らにはこの光る生き物が見えていないのだろうか? サトルはそう疑ってみたが、確証なんてものはなかった。
「……で、俺はこれを使ってどうすればいいんだろう?」とサトルはついに口を切った。
「うん。それがあんたの一番知りたいことだもんね」と女は一旦饅頭を抑え込んだ。饅頭は動きを止めた。「あんたには、この子を大学のどこかに埋めてほしいの。大学の敷地内であれば、どこでもいいわ。ただし、建物の中に置いてきたりしたら駄目よ。必ず、外でこの子を扱うこと。建物の中に入れていいのは、自分の家だけにしておいてね。それは絶対に守って」
サトルはわけもわからずうなずいた。
「埋めるんだから、なるべく人目のつかない場所が良いわね。よからぬ噂でも立てられたら、あんたも困るでしょうから。どのくらい深くまで埋めたらいいのかは任せるわ。深く埋めれば埋めるほど、この子の能力はより発揮されるの。だから、地上にいる間、この子はまったくと言っていいほど無害ってことになるわね。地球の中心に近づくほどに、この子は本来の力を取り戻すんだってことを覚えておけばいいわ。そして、埋めたらあんたはどこか別の場所に避難しなくちゃならない。なるべく遠くが良いわね。まあ、それはあんた次第だけど。でも、私はずっと遠くまで逃げることをお勧めするわ。でないと、あんたもこの子の影響を受けることになるから。で、次の日にまた大学を訪れるといいわ。そうしたら、まるで変わってしまった大学を目撃することになるだろうから」
「いつまでに埋めなくちゃならない、という決まりはないのかな?」
女は丸い顔をぶるぶると振った。「そういうことはないわ。ただ、早めに埋めた方がいいかもよ。でないと、この子に同情心とかが芽生えてしまって、埋めるのをいつまでも先延ばしにしてしまうだろうから」
女は饅頭を愛おしそうに撫でまわした。こんなものに同情する方がおかしいだろうと思いはしたが、サトルは何も言わなかった。そのあと、女は釘を刺すように言った。
「可愛がることは別に構わない。でも、この子は人間にとって有害な存在だってことは忘れないで」
「わかった」とサトルははっきりとうなずいた。
女は饅頭をサトルに渡そうとした。サトルはそれを受けとるために、両手を受け皿のように構える。饅頭は簡単にサトルの手に飛び乗った。先ほどとはえらい違いだ。饅頭は少しの間、自分の主人が代わったことに戸惑っていたみたいだが、それも一時のもので、すぐに小躍りしはじめた。最初は低く、次第に高くまで飛び上がるようになった。それを見て、サトルはつい嬉しくなってしまった。
「あと、この子の名前はアルルっていうから、もう饅頭なんて呼ばないでね。私の方が、悲しくなってくるから」と女は懇願するように言った。それからサトルはこの饅頭のことをアルルと呼ぶようになった。
アルルを手の平に乗せたまま、サトルは帰宅した。物は試しと、彼はそれをわざと見せびらかすようにして、道を歩いたり、電車に乗ったりした。そして、通り過ぎる人々がこちらをまるで気にしていなかった、という事実から、アルルは特定の人にしか見えないのだという確信に至った。どうりで子供たちが集まってこなかったわけだ。これだけ異質な物質なのに、俺とあの女にしか見えないとは。サトルはこの球体にたいして、憐れみの気持ちすら抱いてしまいそうになった。
アパートに戻って、携帯を覗いてみると、女からメールが届いていた。そこには、「もし今回のことが成功したら、あんたを全面的に信用することにするわ。その暁には、大学だけじゃなくて他の場所にもアルルを埋めてもらうことになるから。」と書かれていた。
サトルは思わずため息をついてしまった。とすると、アルルはどうやら一匹ではないらしいのだ。彼女の家がどうなっているのかが気になって仕方がなかった。サトルは何百匹ものアルルが家を跳ね回っている様子を想像してみた。確かに楽しいだろうが、夜眠るときに苦労するだろうなと思った。彼らは明るいから、せっかく電灯を消してもまぶしくてとても寝つけられないだろう。俺だってきっと、今夜はこの球に難儀させられるに違いない。そう思うと何だか憂鬱な気分になってくる。
だがその心配はまもなく消えた。夜になり、部屋を暗くしたときにそれは起こった。それまで机の上で光っていたアルルは、周囲が暗くなったとわかると、自動的に光るのを止めたのだ。サトルは急いで部屋の明かりをつけて、アルルがどうなったのかを見てみた。すると、アルルは死んでしまったかのように冷たく硬くなっていた。触ってみても、かつてのぶよぶよした感じはない。本当に死んでしまったのではないかとサトルは不安になったが、やがてアルルは身体を震わせて、上下左右に身体を伸ばしはじめた。そして、こちらの方を向いて(顔がないから、サトルの方を向いたように思われるだけだ)、ぴょんと飛び移ってきた。サトルは慌ててそれを手の平で受け止めた。そこでサトルは、アルルも睡眠をとるのだということを知った。眠っているときは光らないのだ、ということも。
その日は天使のようにぐっすりと眠った。異生物を目の前にして疲れてしまったのだろう。朝、起きると枕元の時計はちょうど七時を指していた。久しぶりに長く眠ったので、身体を起こした際の調子はすこぶる良いみたいだった。
机の方を見てみると、そこにアルルはいなかった。まさか家を飛び出したわけではあるまい、と若干ひやりとしながら、アルルを探す。なにせ小さいから、なかなか見つからなかった。ベッドの下にも、トイレにも、風呂場にも、いない。部屋全体をまさぐるように歩いてみたが、なかなか発見できなかった。
再びリビングに戻ったところで、アルルを見つけた。どうしてここを出るときに目に入らなかったのかと不機嫌になってしまうくらい、わかりやすい場所にいた。アルルは机の横の、縦長の本棚の前でじっと動かないでいる。寝ぼけて机から落っこちてしまったのだろうかと一瞬考えたが、アルルはしっかり発光しているため、その可能性もないようである。アルルは自分の意思でそこに立って(?)いるのだ。
サトルは見守ることにした。今声をかけることは、何だか仕事に集中している人を邪魔してしまうみたいだったからだ。彼は少し離れたところで、アルルが次にどう行動するのかを待つことにした。アルルは依然として動かない。ただ、本棚を、行く手を遮る険しい崖を眺望するみたいに見つめている(と思われる)。そのまま五分ほどが経過した。その五分はひどく長く感じられた。きっと空気が張り詰めていたからだろう。
アルルはついに動きを見せた。じっと身体を引いて、飛びだす構えを取る。一体どうしようというのかをサトルが見極める前に、アルルはそのまま、本棚に向かってタックルをした。
サトルは声が出なかった。声だけでなく、体もまったく動かなかった。アルルが体当たりすると、本棚に収納されていた本が、ひどい音と共に床に落ちた。ざっと概算しただけでも二、三百冊はあるだろう。文庫本は文庫本で、単行本は単行本でそれぞれまとめ、作者別に分類したりもした。大きさをきちんと揃えて、時間をかけて作り上げた聖域のようなところだった。それが、この生き物のおかげでたやすく崩壊してしまった。声が出なかったのは当然の反応だった。本棚もその勢いで倒れるのではないかと心配になったが、幸いというべきなのか、本棚は無事だった。書物だけが、無惨にも床中に散らばったのである。
そのあとアルルは、くたびれた書物の周りを飛び跳ねて、儀式めいた動きを見せる。床に魔法陣でも描いているみたいな動作だ。一通り跳ねたあと、散らばった本の中心まで移動する。そこで三回くるくる回転したあとで、アルルはいきなり眩しく輝きだした。サトルは思わず目をつぶってしまう。世界が白く染まり、何も見えなくなってしまう。次に目を開けたとき、サトルの視界には一冊の本も存在していなかった。『緋文字』も『自省録』も、なくなってしまった。
アルルだけが、何もかもが消えた床の上で、楽しそうに踊っていた。一体どうして、こんなことになったのだろう。原因を追究しようとするが、どうしても頭がうまく働かなかった。そこで彼は、一旦落ち着こうとしてリビングを離れた。洗面所に行って、顔を濡らす。タオルで顔を拭き、多少すっきりしたところでもう一度リビングへと戻る。本はやはりなくなっていた。サトルは自殺したくなってきた。
あの女の命令か? 彼はふと思い至った。女は俺の持っている本を消すために、アルルを渡してきたのか? だがどれだけ憶測を巡らせたとしても、本がなくなったという事実に変わりはない。そこで彼は想像するのを止めることにした。彼はただ事実のみを受けとることにした。アルルという変な生き物はここに存在している。今まで本棚にあった書物は漏れなくどこかに消えてしまった。それが現実なのだ。
女は世界を変えると言っていた。もしかすると、今の出来事が世界変革の第一歩なのかもしれない。現に俺は変わりつつあるのだから、成功といえば成功なのだろう。サトルは飛び回るアルルを見つめながらそのように考えた。彼女の理想とする世界がどのようなものか、細部まで想像することは難しいが、その世界には書物が一冊もないということぐらいは予想がついた。でなければどうして、アルルは本を消したりしたのだろう?
そのときにサトルは戦慄した。アルルを大学に埋めてしまったら、大学にある本がすべてなくなってしまうのではないか、という危惧が、彼の頭に浮かんだからだ。そうなってしまったら、今後どこで、暇な時間を潰せばいいのだろう。俺だけじゃなくて、多くの人間が困ってしまうはずだ。図書館は、静謐を望む人間にとっては絶好の場所だ。本は孤独を慰め、古今東西の知識を無限大に与えてくれる。もしも女が本のない世界を望んでいるとしたら、それは間違っているのだ。こうなれば俺はアルルを埋めるわけにはいかなくなる。女の本心がわかるまでは、何もすることができない。
午後に女からメールが届いた。そこには、アルルのことについて詳しく書かれていた。
「アルルを埋めようかどうか、迷っているみたいね。それはわかるわ。この子は本が嫌いだもの、きっとあんたはひどい目に会っているだろうから。あんたがアルルに対してすごく困惑している様子は、くっきりと浮かんでくる。でも、アルルを埋めるということと、本がなくなるという現象には、全然繋がりがないから、安心して。
アルルには、ものを消滅させる力があるの。それは物体に限らず、人の心の一部分すらも消滅させてしまう。その力は地中深くに埋めることでより発揮されることになる。効果の及ぶ範囲は限られているけれど、でも強力よ。その場の人間は漏れなく影響を受けるし、範囲外にも少しだけだけど影響することになるから。私がなるべく遠くに避難するようにって言ったのはそういうことが理由なの。私はもともと大学の近くには住んでいないから大丈夫だけど、あんたはそうとは限らないじゃない? 私はあんたを心配して、こうして親切にメールで説明してあげてるんだから、感謝しなさいよね。
もちろんどうするかはあんたの勝手だけど、私に関わった以上、もう本を手にすることはできないと思いなさい。あんたはもう、そうする必要はないのよ。これからは、本から離れた実際の知識を身につけないといけない。それを私は、少々過激な方法で教えてあげる。だから、何も心配せずに、私についてきなさい。たぶん、文字を追っているよりずっと面白い知識が手に入ると思うから。
じゃあ、あとはよろしく。」
すべて読むのにだいぶ時間を要したが、サトルは最後まで読んだ。そしてもう一度頭からその文章を読み直した。彼女の言っていることが本当だとすれば、本は守られるらしい。だが俺自身は本を持ってはいけないという。その部分だけがサトルを落ち着かなくさせた。一体彼女は俺を、そして世界をどうしようというのだろう?
だがサトルは、このメールを読んでからいやに気持ちがすっきりしているのを感じていた。これまで思い悩んでいたことが、全部まやかしだとわかったときのような、そんな爽快感だ。自分の中の濁りのようなものが取れたような気がする。それは本がなくなってしまったことと関係しているのだろうか。俺は実は、本から解放されたかったのではないか? そこまで考えたあとで、何だか馬鹿らしくなってきた。自分の人生があまりにもすかすかであることに気づいて、笑いだしてしまうところだった。
サトルはアルルを呼びつけた。アルルは召使いのように素早く手の平にやってきた。女がこの生き物を可愛いと言っていた理由が、今ならわかるような気がした。くねくね動くその身体。魅惑的な光。従順な態度。これのどこに憎らしい要素などあるだろう?
結局のところ、俺は逃げることだけを考えて生きてきたのだろう、と彼は思う。そしてこれからもやはり、俺は逃げ続けることになるのだろう。今回のことを通して、俺は本という逃げ場所から別の逃げ場所へと移動するだけなのだ。俺自身は、何も変わることがないのだ。サトルの頭には、もう何も浮かんではいなかった。ただ、次にどう行動するか、そのスケジュールが綿密に立てられているだけだった。日曜日に大学がやっているかなんて知らない。だが、行ってみればどうにかなるだろう。アルル一つを埋めるのに、さほど手間はかからないはずだ。十分もあれば、作業は完了する。
何が起こるのかはとても想像がつかないけれど、ひとまずはあの女の言うことに従ってみようと思う。考えるのはその後だっていいじゃないか。サトルは自分がだんだんおかしくなっていくのを感じていた。だが、それに対してどう対処していいのかも、彼にはもうわからなくなっていた。そこで彼は、考えるのをやめた。アルルを大事そうに抱えて、大学のある方向へ、彼はまっしぐらに駆けていった。
部屋を出る前、ヘスター・プリンの似顔絵がサトルに向かって微笑みかけた。彼がそのことに気づいていたかどうかは、ついに判明しなかった。




