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学園伝説の女

作者: 朝日 七尾

 大学の最寄駅に降り立ち、僕は気分を弾ませた。階段をのぼったら駆け込み乗車を目論む学生に弾かれた。軽快なステップを段上で踏んで僕は駆け出したいのを堪える。改札を通って大学へ向かう。

 池袋にある居酒屋の話で盛り上がる男子たちとすれ違った。声に出さず彼らに囁く。君たちは後に居酒屋で、現場にいた学生のツイッターを急いで検索するだろう。

 鼻歌で歌いながら大学の校門をくぐった。足取りは軽く、今にも羽ばたけそうな気分だ。しかし空を飛ぶにはまだ早い。僕はこれから、ヒーローになりに行くのだ。これが成功するとき、それこそ空も飛べるほどの爽快感が僕を待ち受けている。


 薄暗いキャンパスの階段をのぼる。既に十八時を回っている。階を上がるごとにフロアを照らす電灯が一つ、また一つ消えていった。最上階の七階まで上がると、階段の足場をかろうじて照らす蛍光灯しかついておらず、廊下は真っ暗である。闇に吸い込まれるように、廊下を進んでいく。

 無人のフロアだ。時計の秒針のように、終始一定のリズムを保つ音が、胸に迫ってくる。足の裏から響いている。血潮が興奮に沸き立っていた。

 さあ、来るぞ来るぞ。一世一代の殺人事件、その第一発見者となってほしい――ある女子生徒が持ちかけたその依頼を、僕は快く引き受けた。何でも、社会に絶望して死にたくなった彼女は、殺人狂の協力者を得て、死体現場を構築するらしいのだ。彼女は美人だったが、弾力のある頬は青く、空気を噛むように喋る子だった。人生に絶望したか。それとも酔狂か。いずれにせよ僕に声をかけた彼女は、とてもセンスがいい。僕は奇奇怪怪な非日常を、常に渇望してきた。故に、センセーショナルな事件に深く関与出来る依頼が来るのは、最高に喜ばしいことだ。

 彼女の瞳は重さを湛えていた。妖しげな閃きを僕の中に強く残し、言った。演習室で死にます、と。


 窓の外から窺える、夕闇の空を目指す。あの窓の前に、目的地へと繋がるドアはある。足の爪先から頭のてっぺんまで緊張感で突っ張っているのに、口元だけは弛んだ。このフロアにいるのは僕一人ではない。静寂に紛れて潜んでいる、もう一人の気配を求め、僕は目的の部屋に辿り着いた。

 ドアノブを回し、そっと開ける。白い電気がドアの隙間から洩れ、目を細めたが、飛び込んできた光景に思わず「え?」と声が洩れた。


 思考が停止した。数秒間、目の前の光景と睨み合い、もう一度「え?」と言った。


 予想していた光景、すなわち、僕が望んでやまなかった女の遺体は、そこにはなかった。長方形の机が並んだ演習室には誰もいない。そもそも人が出入りした痕跡すらないように感じた。仄かに黄色い電灯の下で立ち尽くした。話が違う。女の死体を写真に撮り、大学に連絡し、あわよくば第一発見者である僕に疑いがかかる。そんな理想の流れが木っ端微塵だ。

 僕にとって、これは大事件だ。

 後ろ手でドアノブを掴もうとするも、空を切る。彼女の言うことは冗談だったのか? それとも、嵌められた? かかとに、何か当たった。振り向くと、内開きのドアが当たっただけらしかった。早鐘を打つ心臓を抱えながら、足をもたつかせ、ドアに向き直る。


 ドアは微かに開いている。


 それが勢いよく外側から開いた。ドアに突き飛ばされた。ボールのように視界が弾んだ。一瞬見えた刃物の鈍色の光が、僕の眼球を抉り取り、それがバウンドしたのかと思った。

 しかし、肩で息をしているうちに、僕の身体にはまだ何も危害が加えられていないのだと悟る。目頭が湿り気を帯び、へたり込む。僕を見下ろす、あの女性は、妖しげな笑みを降り注いできた。

「ねえ、もしもさ」彼女は声を上擦らせて、楽しそうだ。「私が悲劇のヒロインじゃなく、殺人狂の方だったとしたら、あんたどうする?」

 腹に力を入れた、トランペットのように快活な声で、彼女は言った。僕は全身の血液が凍りついたのを感じた。依頼を持ちかけてきた女と同一人物とは思えない。

 刃物の鈍色がぼんやり僕を映す。ここで遺体になるのは僕か?

 女は肩をすくめた。

「包丁を見せ付けられただけで、腰が抜けちゃうほど、ビビりだったんだ。そんなんで非日常に憧れてるなんていっても、高が知れてるわね。興醒めしちゃった」

 気まぐれな恋人のように、澄ました顔で一瞥をくれた。凛々しいとさえ思うその表情に僕は、はっとした。黒髪を翻して去っていく背中から目が離させなかった。

 残された僕は、身体が徐々に解凍していくのに身を委ねながら、記憶を探る。この学園都市には不吉な噂がある。日が沈む頃になると、何処の学校に在籍しているかもわからない大学生らしき女が、周辺の大学に現れて、学生たちに悪戯をしては消えるのだと。あの女だ。艶のある黒髪。眉毛は男性のように凛々しかった。黒目がちの瞳、トランペットの声。非日常の世界に、ずっと足を踏み入れたいと思っていた。

 まさか非日常に惚れるなんて。あの不思議な女性ともう一度会いたい。さすれば僕はすべてを手に入れられる。

 僕の魂は叫んでいた。確かに僕はビビりで、大した根性もない男である。けれどそのときは違った。震える膝に鞭打って立ち上がる。美しい狂人の影を追い、階段を下りた。足取りは軽い。いつしか夢心地になって、僕は鳥になっていた。空中を駆ける僕を、下の階に残っていた学生が口をあんぐり開けて見ていた。


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