眠れる国の魔女
刃と紛う鋭い声が、光の降り注ぐ室内の静寂を切り裂き響く。
「誰ぞ、ハストラップの魔女を捕らえよ! 王位継承権第一位の王女を呪った罪、その身を以て償わせてくれよう」
それが目覚めてすぐの、王国の宝である王女の言葉だった。そして目覚めたばかりの騎士たちもまた眠りから覚めたばかりとは思えぬ動きで王女の前に息荒く倒れる魔女を捕らえた。
王女の呪いを解いたただ一人は呆然とそれを眺めているしかできず、魔女を引っ立てる騎士と王女を追いかけるようにして彼は集う人々とともに謁見の間に入った。
力によって強引に跪かされている魔女を追い越し王座の足下に立つ王女と、少年。彼に控えよと注意する者はいない。
王女が持つ暖かみの欠片も感じられない冷ややかなブルーの眼差しが、大理石の床に縫い付けられるように捕らえられたハストラップの魔女を見下ろしていた。
言葉は強い怒りを持ち、謁見の間を彩る窓ガラスを、騎士らや王、王妃の鼓膜すらも震わせる冷厳な声を放ったのは城と共に長い眠りについていたこの国の第一王女自身であった。
「王女さま、どうかお待ちを……」
少女の姿で成長を止めていた王女は傍らからの声に応えない。
騎士たちに取り抑えられた魔女は長い髪をこれでもかと振り乱しながら、槍の穂先で首を押さえつけられているために、幾つかの金毛は艶やかな床の上に絹糸のように散る。顔を床に擦りつけられながら色褪せない鮮やかなドレスを纏う王女を、彼女はその真っ赤に燃える双眸に映しこみながら、血の色を思わせる赤い唇を歪めていた。
「ククッいったい我をどのように罰しようというのか。我は魔女。如何に王族の娘といえど、我ら魔女に敵うはずもない小娘が、我を罰すると? おもしろい冗談を言う――」
「黙れ、醜き黄薔薇の魔女めが」
玲瓏とした魔女の声を遮り、ぴしゃりと王女が言う。
眦を釣り上げながら魔女を見下ろす彼女は嫌悪を込めて吐き捨てる。
ドレスの裾から靴先を覗かせ、一歩魔女へと近づく。
「危険です殿下、あまりお近づきになりませぬよう……」
「問題ない。老いさらばえた黄薔薇の魔女などわたくしの恐れるものではない。大層な口を利いているが、ハストラップの魔女よ、何故お前はそのように床に這い蹲っているというのか」
騎士の忠言に案ずるなと手で示す王女の態度は、魔女に向けるものとは異なる優しさがあった。だがそれも魔女に言葉を向けた途端、氷のような冷ややかさが戻ってくる。
騎士たちは眠りに就く以前の王女と今の王女の違いに戸惑いを覚えてしまう。それは当然父母である王たちも抱く気持ちであった。娘がまるで人が変わったかのように冷徹であることに、王妃は目覚めの喜びがとっくのとうに消えてしまい、不安気に眼差しを揺らしながら王の腕に抱きついていた。頼りなく震える彼女を、王も抱きしめて応える姿には彼らの仲の深さを感じさせるも、今はその変わらぬ姿に安堵する者もいない。
それほどにハストラップの魔女に対する怒りを漲らせているのか。心優しい王女の変貌に側付きであった侍女たちも顔色を変えて見守る。
そんな中で些細な疑問を抱く者が現れた。
――なんだ?
魔女を取り抑える騎士の一人が首を傾げる。
王女は老いさらばえた魔女と侮蔑も露わに叩きつけていたが、ハストラップの魔女の美しさは国内外でも有名なものだった。
黄薔薇の園に暮らす魔女。美しくも艶やかな金髪を持つ美女と名高い。その魔女が王女生誕の折に呪いをかけたのは記憶に刻み込まれた忌まわしい出来事であった。
美しい女が吐く呪いの言葉。しなやかな白い腕を揺らして魔法を放った夜の日は王たちにとって苦い記憶として刻みつけられ、騎士らはその言葉を忘れぬように叩き込まれ、同時に王女を守れと強く言い聞かされてきた。だから彼らはどんなに麗しい美女であっても、現れた魔女を迷わず取り抑えることができたのだ。
だが……なにかがおかしい。そう思い始めたのは一人だけではなかった。
「お、おお……どういうことだ、これは!?」
「なんと恐ろしい……ハストラップの魔女が、これではまるで老人ではありませんか」
息を呑み、驚き戦く王と王妃の目は魔女の顔へと釘付けにされていた。
二人だけではない。魔女の急激な変貌を見届けたのは彼女の正面、顔が見える位置に立つ人々全てがそれを見届けていたのだ。目を大きく瞠り、己が目にした姿を信じられないと驚く気持ちをこめて凝視していた。彼らは口々に信じられないと驚きの声を漏らす。
魔女を取り抑える騎士たちも漸く異変に気がついた。魔女の腕を始めとした身体から若さというものが急速に失われていたのだ。
背は丸みを帯び、骨と皮膚の間にあった肉が失われ、ぼこぼこと背骨が飛び出し、美しかった金髪も床に散った物だけがその色を残して後は艶を失った白髪へと変わっていく。
騎士達が逃れないようにと掴んだ腕も細くなり、肌から張りが失われ、黒い斑点のシミがぽつぽつと浮かぶ腕に変わり、ぎょっとして手を離してしまいそうになるのを彼らは堪えねばならなかった。
「王女さま! いったいなにを、彼女に――魔女なにをしたんですか!?」
声を上げたのは王女の近くに立つ少年だった。まだ年若く、成人したばかりという青臭さも感じさせる彼は驚き、慌てて前へと踏み出す。
傷だらけになり、防具もくたびれてほとんど用を成していないそれを身に纏う彼こそが王女を、この城の人間を、国を眠りから解放した救国の英雄であった。
隣国から遣わされた英雄は、王女の行動を押し止めるように腕を伸ばすも、その手は王女の繊手によって払い落とされる。
「あ、あぁ……そんな、馬鹿な」
魔女の薄くなりかさかさとした唇から、枯れ枝を擦り合わせるような声が落ちた。声すらも別人になっていた。
つい先ほどまで恐ろしげな美しさを持った声はまるで夢かのように、力も覇気もない老婆の声によって記憶を塗り替えられていく。
「わたくしはなにも。ただわたくしはハストラップの魔女に己の年齢と姿を思い出させただけですわ。ハストラップの魔女と言えば我が国で三百年以上も魔女としての名を馳せた者。であれば、本来の姿がこのような老婆であるのもおわかりいただけましょう」
英雄を振り返ることもなく王女は囀りのように軽やかな声で謁見の間にいる皆に告げた。
白い手を頬に当て小首を傾げる王女は柔らかな薄紅色の髪を肩から落として、あら? と呟く。
「もう百年か二百年ほど齢を重ねているのかしら。なにせわたくしたち、何年と眠っていたのかわかりませんものねぇ、ハストラップの老魔女」
冷ややかな声に老いた魔女が震えた悲鳴を上げる。
「王女さま……? 髪が……」
戸惑う英雄の声に注目する人はいなかった。何故なら彼はただの英雄だったから、他国の人間であったからだ。
何故彼がこの国に入り王女を呪いから解き放つことができたのか、解き放とうと思ったのか、この国の者は誰も知らない。それを知るのは後でもよいと、目覚めた彼らが真っ先に行ったことが魔女の捕縛であったからだ。だからこの英雄の名すら、彼らは知らないでいた。払う注意も最小限すらなかった。
「馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬鹿なっ! お前が、王女よ、お前が――お前が!」
魔女が金切り声を上げる。怯えきって恐慌状態に陥った老婆の醜く喚き立てる声に顔を歪める人間が多くいた。老魔女を憐れむ人間は英雄の他には誰一人としていない。
「一国の継嗣を呪うという分を弁えぬその行動。国の歴史を遅滞させ、国の恩恵を受ける魔女にあるまじき反逆行為。お前の罪の重さをわたくしが教えてやりましょう」
凍りついた水を思わせる王女の双眸が鋭い眼光で、ヒイヒイと悲鳴を上げる魔女を射貫く。
「ハストラップの老魔女。わたくしを呪ったお前はこれより死ぬその瞬間まで眠れぬ時の中、茨に覆われ孤独に震えわたくしを呪ったその行いを悔いるがいい! これより先、永劫お前の許に人も動物も訪れることはなく、茨の檻が作る闇の中で逃れられぬ死を恐れるがいいわ」
呪いの言葉を吐く王女の異変に、やがて誰もが気がついた。英雄が真っ先に気づいていた変化は余りにも大きな変化の一つであったからだ。
淡い色合いだった美しい髪。春のようと讃えられた白に溶かした薄紅の髪はすっかり根元から色を変え、異なる色を混ぜながら美しく染まっていた。
その色は薄紫に近い青。
これまでの彼女の髪色からがらりと色が変わっていたが、王女はその変身とも言える変化に頓着していないようだった。元々美しい淡紅色の髪は柔らかに波打ちながら王女の腰ほどまでに伸ばされていた。肩から落ちる毛束。腕に纏わる細い一本一本と微笑みの美しさ相まってが王女を春の寵児と讃えさせた。
それが今や、春の寵児と謳われた影もない。
「陛下、姫が!」
「ぬう……これはいったい。これも魔女の呪いだと言うのか」
王も王妃も狼狽える。それだけでなく騎士たちも、王宮で働く官僚たちも侍女すらも肌寒さに震え、魔女よりも見知らぬ人物となった王女に彼らの視線の全てが注がれていた。
「ハストラップの老魔女を連れて行きなさい。今や以前のような魔法も使えない老婆。恐れることも、あなたたちに危難が降りかかることもないでしょう」
だが確かに、騎士たちに微笑みかけるその姿には眠りに就く前の王女が残っていた。だからであろうか。騎士たちは深く頭を垂れて恭順の意を示す。金切り声を上げる魔女を強引に細い腕を引き、立たせて謁見の間から連れ出そうと動く。
肉を削ぎ落としたように失った魔女の身体は力を入れて引っ張れば簡単に持ち上がる。難しいことも苦労することもなく老婆の身体は持ち上がり、魔女はたたらを踏む。スカートの裾が翻り、老婆の細い足が一瞬覗く。
細い枯れ木のような足だった。美しかった肌の面影もなくしたそれに注目する者はなく、垂れ下がった瞼を一杯に開いた魔女の叫びばかりが反響する。
「お前が、お前が――! ノヴァーリスの魔女か! おのれ、おのれおのれおのれ、青薔薇の魔女めッ! 呪われろッ、呪われてしまえッ! 魔女の王国に災いあれ!」
「魔女……王女さまが、魔女だった?」
呆然と呟かれた英雄の言葉はしかし、扉に遮られても尚聞こえてくる魔女の声によって掻き消された。
王女は、閉ざされた扉を睨みつけるようにか身じろぎせず佇んでいた。薄青の髪を背中に流し、先ほどまでの荒々しさが嘘のような静けさだった。
「力を失った魔女の言葉には呪う力すら宿りはしないというのに、最後までなんと愚かな」
囁き声には嘲る色が濃く滲んでいた。だがそれは小さな声。やがて王女はこれまでの物々しい空気を次第に和らげていくと、そっと穏やかな声音で謁見の間に満ちる空気を震わせた。
「……陛下」
「なんじゃ、姫」
「ハストラップの魔女による脅威もわたくしたちの上から去りました。本日は、目覚めたばかりですが皆を休ませてやってもよいのではないでしょうか」
「う、うむ……そうじゃな。姫の言う通りにしよう。我らの呪いを解きし英雄殿も本日は休まれよ」
「え、あ、ありがとうございます……」
英雄は慌てて頭を下げ、礼を言う。目配せをし、小さく手を振った王の動きを見て、謁見の間に集った侍女の中から一人が英雄に近づいた。中年の、少々白髪が目立ち始めてきた女性だ。背筋を伸ばし、侍女に規定された服を着用し、生真面目そうな顔つきをしていた。
「お部屋にご案内いたします。どうぞこちらへ」
腰を少し下げる礼を見せてから侍女は英雄に退出を促す。
彼は王女の姿を何度も盗み見て物言いたそうにしていたが、王女はそれに気を遣うこともなく英雄に視線を向けることはなく、彼は諦めて侍女の後を追うように謁見の間を後にする。その背後では王女が王に向けて腰を落としていた。
「ありがとうございます、陛下」
その動きに合わせてさらさらと、色を変えた髪がドレスの上を滑っていく。
「姫よ……。そなたのその姿はいったいどうしたことか。それにハストラップの魔女がそなたを魔女、と」
「お父様、お母様。わたくしはハストラップの魔女に呪われ、ソワニエの魔女による祝福でこうして助かり、彼の英雄によって目覚めることができました。この髪は呪いと祝福がぶつかった影響を受けてのものでしょう。ご安心ください。わたくしはなにも、眠りに就く前となにも変わっておりませんわ」
確かにと頷かせる笑みと言葉の穏やかさに安堵した者は多かった。
「ですがやはり少し疲れました。わたくしは部屋で休みたく思うのですが、御前を失礼してもよろしいでしょうか」
「姫、もしや体に悪いところでもあるのではありませんか? 髪の色が変わったようになにか他にも……」
不安に瞳を揺らす王妃は大きな目に溢れそうになるほどの水を溜めている。母として娘にかけられた呪いと、目覚めたばかりのこの大きなできごとに肝を潰され通しだったのだろう。母として愛情深い彼女が大切な一人娘に傾ける気持ちはとても大きい。
誰か医者か魔女をと狼狽える王妃を安心させようと王女は花の顔を綻ばせ、声をかける。
「お母様、ご安心なさって。ハストラップの魔女により望まぬ眠りを与えられ続けたための疲労ですもの。きっとお父様やお母様、この国の皆の身体にそれが残っていることでしょう」
そういえば、と謁見の間に集った人々は己の身体につきまとう倦怠感に気づく。鎖とまでは言わないが、ねっとりとした糸のようなものが身体に残っているように感じられ、それが疲労として認識された。
「そう……そうね。今日のところはゆっくりと休みなさい。陛下、それでよろしいですわね」
王と王妃はとても優しい人たちであった。
侍女二人を付けて謁見の間からの辞去を認めた。また最小限の人数を別にして、多くの者たちに今日一日の休養を与える決定を下した。
足音も静かに謁見の間を後にした王女は侍女二人を連れて己に与えられた宮へと繋がる回廊を歩く。
「……まあ。あなたたちは先に言って寝台を整えていて」
歩みを止めた王女は小さく驚きながらも、回廊の途中で足を止めていた英雄の顔を見てなにかを察した。すぐに背後に付き従う侍女に声をかけ先へと行かせる。
英雄の彼に案内としてつけられた侍女の姿は見られない。先に行かせたのかもしれない。
二人の姿がしっかり遠ざかるのを英雄が見届けると、王女に向き直りぐっと結ばれていた口を開けた。
「どうして、あの魔女にあんなことをしたんですか……」
震えた声だった。
それでも彼は問うのを止めない。
「確かに彼女は悪いことをしたけれど、だからってあんなむごいこと……!」
「むごい? ではあなたは我が国がいつまでも眠りに就いているのが当然であったと? それともハストラップの魔女に呪われ、その呪いが見事発動しわたくしが死んでいれば良かった、とお言いになられるのですか」
冷ややかな視線が英雄を射貫く。
彼は英雄と呼ぶには余りにも頼りない肉体をしていた。それに声も覇気が足りず、王女の方がその覇気に満ちていた。
「ちが……そうじゃない、違う。そういうことじゃないんだ! 間違いを犯したなら償えばいいだろ! あんな、一人きりで孤独に死なせるなんて……」
「では、法に照らし合わせてハストラップの魔女を裁けと? ですが彼女は魔女の力を失うまで力を使ってわたくしたちをねじ伏せようとしていました。ハストラップの魔女が謁見の間に揃ったわたくしたちになにもしなかったのではありません。あなたが一時的とは言え、魔女の力を削ぎ落としていたからできなかった」
激烈な戦闘をハストラップの魔女と繰り広げた英雄は、唇を歪めて王女を見つめた。
返す言葉が見つけられず、噛んだ唇は真っ赤になり、ぶつりと薄い皮膚が切れてうっすらと血が滲んだ。
「例えば牢に入れたところでそんなもの、ハストラップの魔女には容易くすり抜けられる雨や空気も同然。それでなくとも王族を呪った罪には死刑が妥当の処罰。わたくしの代わりは他になく、同盟国があれど敵国もあり。幸いなことに敵国に攻め入られるようなことはなかったようですが、さりとてこの数百年、同盟国との結びつきを強めることはできずに時間だけが経過していた。これは一国にとっては大きな損失であることをあなたはご理解できますか?」
国が正しく刻むべき時間、その損失、そして王族を呪ったその罪。それらを諭すように英雄に聞かせた。
「国民ではないあなたには理解できない感情でしょうね。もう諦めなさい。ハストラップの魔女には魔女としての力は甦らず、その魂ももう二度と魔女の力を宿すことはなく、このまま孤独に死んで行くだけ――」
「彼女が……王女さまを魔女と呼んだ! それは、どういうことなんですか」
英雄はもうハストラップの魔女をどうやっても救えないのだと理解した。それはこの国に入ってからの旅でもぼんやりとわかっていたことだった。
国境近くの村は呪いにどうにか負けずに生活を続ける人々がいたが、ぽつぽつと残った村人たちはもう何百年も目覚めない国に疲れ果て、絶望し、そして王女を呪った魔女を激しく恨んでいた。
彼らは英雄が国の呪いを解くためにやって来たのだと知ると、伏して願いを口にしたものだった。どうかどうか、伝説になりかけた美しい国を取り戻させてくださいと。
国境は茨に覆われ、他国からの侵略はなく、また他国からの援助もないままに呪いによって眠りに就くことがなかった者たちは孤独に生きねばならなかった。
国にはハストラップの魔女を殺す気持ちしかないのだ。
どんなに言葉を重ねても英雄には彼らの気持ちを覆すことはできず、既に魔女は裁かれてしまった。王女によって。
英雄は最後にどうしてもそれだけは知りたかった。どうして魔女が突如老いたのか。魔女が王女に向けて叫んだノヴァーリスの魔女という言葉の意味。
それだけはなんとしてでも問い質す。そんな英雄の気持ちは表情からも透けて見えていた。なんの腹積もりもないのだろう、きっと。児戯のような問いかけには王女の表情も大いに緩んだ。なんて可愛らしい問いかけかと。
「さあ、わたくしには何のことやら。英雄殿。もうあなたはご自身の国にお帰りなさい。この国であなたが成すべきことは終えられたのだから」
「!? なっ、なに――これは、どうして! ま、待って、まだ俺は――」
足下から光の粒が立ち上っていることに彼は気づいた。
その現象は彼にとって見覚えのあるもので、何が起ころうとしているのか察した彼は慌てて王女へと腕を伸ばす。足も踏み出そうとするがしかし、根を張ったように靴裏は床から離れない。
どれだけ足掻いても身体を包む光の粒子は増え、足下に浮かぶ円をいくつも重ねた陣の姿がはっきりとしてくる。
陣は次第に英雄を飲み込むように足下から浮き上がっていき、彼の姿が次第に薄れていく。
完全に消える間際、笑みを湛えた王女の声がぐわんと揺れるかのように奇妙な響きを持って彼の耳に届いた。
「さようなら、異世の英雄。わたくしの呪いを解いてくださったこと、感謝しています」
目を細め、深い笑みを浮かべる王女を見返す者は居らず、光の残滓がただ彼女の目よりも高いところで揺れながら消えていくばかり。
「大変。もう英雄が居ないことを教えてあげなくてはいけないわ」
英雄の案内を負かされた侍女のことを思い出した王女は、軽い足取りで回廊を歩き出す。その背では柔らかに長い青髪が揺れていた。
やがて王国は春を得たように動き出す。
孤独に鎖された世界で死を待つかつてのハストラップの魔女の悲鳴が途絶えたのは呪いが解かれてから十六年後のこととなる。
奇しくもその年数は王女が魔女に呪われ眠りに就くまでに過ごした年数と同じものであった。