プロローグ
日が昇り、空気が温かくなってきた頃、一人の男が精霊の森に侵入しようとしていた。
男は動きやすい軽装で、なんの荷物も持っていなかった。
精霊の森の中は薄暗く、遠くまで見通せない。
夜の月光だけがこの森の中を照らすらしいが、本当だろうか?
だが男は歩を進めていくうちにそれを信じてもいいような気がしてきた。
精霊の森には、どこか冷たい神聖な気運に満ちていた。
3女神の力に満ちた場所である、と男は既に信じて疑わなかった。
聖リーディアス王国のいち国民である男は当然3人の月の女神を信仰していた。
当然、女神に仕える精霊のことも。
たとえそれが、今自分の身を脅かしているのだとしてもだ。
とはいえ、精霊の森に侵入しないかぎり、精霊は人を害さない。
聞いた話では、精霊の森に入って、精霊に見つかり追われたが、森の外に出たら精霊はそれ以上追って来ず、助かったという男がいるという。
つまり、精霊の森にしか咲かない月光草を持ち帰るのも、不可能ではないということだ……。
月光草は万病に効く薬であると同時に希少価値のあるものとして、非常に高く取引される。
たった1本あるだけで、一生楽して暮らせるだけのお金が手に入るわけだ。
それを夢見て、精霊の森に足を踏み入れる者は少なくない。
男もその一人だ。
ただ……もちろん生きて帰ってきた人数はごく少数ではあるのだ。
だが、最初はおびえていた男も、次第にその歩みがしっかりとしたものになってきた。
精霊は現れず、順調に奥へと進めている。
そしてついに、男は淡く光る月光草を発見した。
それは可憐な花だった。
白い花弁は月光のごとく輝き、新緑の茎は折れそうなほど細いのに同色の葉に装飾されて羽衣をまとっているかのようだった。
男はそれに飛びつき、そして一瞬迷ってから、土を掘り起こし始めた。
根まで持ち帰ることができれば、より金になると思って。
しかし、男はそこまで欲張るべきではなかった。
すぐさま手折って一秒でも早く森から出ようとしたのなら、あるいは無事に帰れたかもしれないのに。
「人間」
すぐ目の前で聞こえた声に男はびくっと身を震わせ、顔をあげた。
そこにはこの世のものとは思えない美貌の精霊が冷たい目つきで男を見ており、精霊の指先が徐々に男の方へと向いていった。
男は逃げることもできずにその指先をじっとみつめ、それが自分の眉間を差すのを見ていた。
「約束をたがえた人間に、断罪を下す」
冷酷な声でそう言った精霊の指先にマナの光が宿った一瞬後、その一帯で男の悲鳴が響き渡った。
フェンは落ち着きなく精霊の森の中をちらちらとみていた。
もう日も傾きかけているというのに、朝方、精霊の森に入ると言った男がまだ帰ってきていなかった。
きっともう帰ったんだ、とフェンはそう思うことにした。
ここが街から一番近い場所でずっとここで帰ってくるのを待っていたとしてもだ。
森からはどこからでも出られる。
もしかしたら入ろうとして、けれどすぐに引き返してとっくに月光草を諦めたのかもしれないとフェンは無理やり自分を納得させた。
けれど、どうしても気になって、不安になってしまう。
いつも歌うために森の近くまで怖いのを我慢してきてるというのに、どうしてもうまく声が出なかった。
「もういいや……」
フェンは肩をがっくりとさげてとぼとぼと歩きだした。
フェンの住んでいるのは森のすぐ近くにある村落だ。
そこでは貧しいながらも朗らかで優しい人たちが助け合って暮らしている。
フェンは村の人達が好きだったから、いつも仕事をしている人の邪魔をしないように(そして面倒な仕事を押し付けられないように)森のすぐそばまで毎日来ては大好きな歌の練習をしていた。
まだ日が落ちるには時間があったが、今日はもう歌えないと思って、フェンは帰ることにしたのだった。
フェンがいくらも歩かないうちに、横道から黒ずくめのローブを着た人が通りかかり、フェンと目が合うと、手を掲げてフェンを呼び止めた。
「そこのお嬢さん!」
フェンは足を止め、黒ずくめが駆け寄るのを待った。
黒ずくめは近くで見ると、ずいぶんと疲れた格好をしていて遠くから来たのだとすぐに見当がついた。
「旅人さん?」
黒ずくめが立ち止まるのを待ってフェンが訪ねると黒ずくめはうなずいた。
「君、この近くに住んでるの?」
「近くの村に住んでるよ」
「お、ちょうどいい。しばらく滞在できる村を探してたんだけど案内してくれないか?」
「いいけど……悪い人じゃないよね?」
フェンは本気だったのだが、そのあまりにも直球な物言いに黒ずくめの旅人は一瞬唖然としたかと思うと楽しそうに笑い出した。
「大丈夫だ!私はもちろん悪人じゃないし、そのうえ強いから村に悪い奴が襲ってきたら泊めてくれるお礼にいくらでも追い払ってやろうじゃないか」
旅人は村に受け入れられ、しばらくあちこちの家に泊めてもらうことになった。
お礼として、旅の話をするというので、皆こぞってウチに泊まれと言ってきたので、そういうことになったのだ。
同じ話を何度もするのは疲れるけど、せっかくの好意なんだからね、と旅人は苦笑してフェンにそう言った。
フェンは家に帰るなり、家族に旅人との出会いを語った。
両親も祖父も一生懸命なフェンの語りを優しく微笑みながら聞いていた。
話終わったとき、最初に祖父が言ったのは、旅人についてではなかった。
「フェンはお話しするのが上手になったね」
「本当に!?」
フェンは身を乗り出して聞き返した。
「ああ。それにシアンと声が似ている。懐かしいよ」
「お婆様に?それじゃあ、私お婆様みたいに村一番の語り部になれるかなぁ?」
「ああ、きっと」
にっこり笑ってそう言う祖父に、両親も穏やかに頷いて同意した。
シアン、フェンの祖母は村中の人に好かれる語り部だった。そして、村で一番の美しい歌声を持っていた。
フェンはシアンが大好きで、シアンのようになるのが夢だった。
今、シアンは村にはいない。先祖がえりらしく、人より成長が遅いため、村から離れて人が気軽に尋ねられない場所に暮らしていた。
先祖がえりがどういうものなのかは皆はよく知らなかった。皆を怖がらせてしまうかもしれないから、とシアンは何も教えてくれなかったからだ。
誰もシアンのことを怖がったりしないのに。皆がどうしてか愛してしまう、精霊と同じ月のような黄金の双眸の若い彼女のことをどうして恐れることがあるのだろう。
ずっとフェンは不思議に思っていて、それは今もそうだった。
フェンは、明日は一番にシアンの住む森の小屋に行こう、と決意した。
精霊は怖いけれど、どうしてか、シアンの家に行くときだけは精霊もフェンのことを無視してくれているように感じていたのだ。
精霊は神世の月、シンのマナによって生まれた3女神の眷属だ。
昔、人々が3女神と3つの約束を交わしたとき、3女神はここ聖リーディアス王国を守る結界を張り、維持するために地にはいられず、マナの満ちる神世に帰らざるを得なかった。
そのとき、地と神世をつなぐための女神の預言者であり、また力の代行者である精霊を地に残した。
精霊は最初人に対して友好的だったが、何時頃か「約束を破った」と言って人を襲うようになった。
そして精霊の森から出るのを拒むようになり、国中に漂っていた女神のマナは徐々に減って今ではもうほとんどなくなってしまった。
それと同時に、女神のマナの満ちるところでしか育たない月光草も消えていき、今や神世と唯一繋がっているはずの精霊の森は死の森として恐れられるようになった。
「だけど、人は精霊を憎むことができない……」
フェンは森の中を進みながらそうつぶやいた。
どうしようもない。フェン達人間は女神と精霊によって今でも確かに大切に守られているのも事実なのだ。
現に、国を囲む敵意をはじく結界は今でも残っている。
シアンの語りによると、昔、結界がなかったときは地の底からおぞましい化け物が地に這い出ては人間を襲っていたという。
人々は女神のマナによって強力な魔法を操り、その化け物を倒していたという。
それだけじゃない、豊かな土地を狙って他国からたびたび侵攻を受けていたため、当時の王国はほとんどないようなものになっていたそうだ。
そういう数々の敵意からこの土地を守るため、精霊との契約者、ルーナフィアナという英雄が3女神と約束を交わし、このような敵意をはじく結界を張ったという。
その結界は神世の3女神と地の精霊によって維持され続けている。
精霊は人間に対し怒りを持っているようだが、女神の力を地につなぐことはやめていなかった。
森を少し入ったところに小さな広場がある。
そこに人が一人住めるだけの小さな小屋があり、そこがシアンの住む家だった。
フェンがノックすると、自然とドアが開き、フェンは小屋の中に入って行った。
「お婆様!お久しぶりです」
フェンはそう叫んで、20歳くらいの女性に抱き着いた。
亜麻色の髪は床に届くほど長く、派手さも地味さもない顔は美しく整っていた。
彼女がこの家の主、フェンの祖母であるところのシアンだった。
「いらっしゃい、フェン」
シアンはフェンの髪を優しく梳いて言った。
「また大きくなった、フェン」
「えへへ」
フェンはシアンの顔を見上げてはにかむと、シアンから離れて、シアンの座っている椅子とテーブルを挟んだ向こう側の椅子に座った。そして自分の目の前に座るフェンの姿を見て、シアンが眩しそうに眼を細めた。
「フェンは私の友人に似てきた」
「そうなの?」
思いがけないことを言われ、フェンは首をかしげた。
「その茶色の髪も、森のような美しい緑の瞳も、そっくりだ」
「でも私はお婆様みたいなのがよかったなぁ」
「ふふ、私と同じか?それは困るな」
「どうして?」
フェンの問いかけにシアンは曖昧に笑って、答えなかった。
その代わりというようにシアンはフェンの鼻を突いて言った。
「だが私の孫らしく似ているところもあるよ。髪質も、面差しもそうだ。それになにより、お前は私の歌の才能をちゃんと引き継いだ」
シアンにそう言われ、フェンは嬉しくなって、満面の笑顔で頷いた。
「お爺様にもお婆様と声が似てるって言われたよ」
「そうか?……他人が聞くとそういう風に聞こえるのかもな」
「自分で聞く自分の声は他人が聞くのとは違うって言ってたあれ?」
「ああ。だから、自分が聞く自分の声も他人しか聞けない自分の声も特別なものに思えるだろう?」
「うん。本当だね!私の声がお婆様とそっくりなんて嬉しい……あ、そうすると私が聞いてる私の声とお婆様の聞いてるお婆様の声も似ているんだよね!そっかぁ……お婆様は自分の声がこんな風に聞こえるんだね」
うっとりとフェンは自分の声を聴き続けた。
そのどこか滑稽な様子にシアンは苦笑し、そしてフェンを歓迎するためのお茶とお菓子を用意し始めた。
陽が暮れて、シアンはフェンを家から追い出した。
フェンはまだいたいとぐずったが、暗くなるとさすがに危険も増す。
フェンが森の外に出て村へ帰ったのを確認すると、シアンはクローゼットから今着ているドレスとは違う、身軽な衣装を取り出しそれに着替えた。
ずいぶんと久しぶりに着たその服はドレスなんかよりずっとシアンにとって慣れた感触を持っていた。
シアンはずっと腕にはめていたルビーの石の嵌ったブレスレットを外してテーブルに置いた。
そして家の外に出るとき、長年付き添ってきた半身のようにも思えたブレスレットを見つめた。
特別なそれは、これから主を変える。
……フェンの歌声は森の中にまで響き、シアンの耳にも届いていた。
きっと頑固な彼にも聞こえていたことだろう。
それに私とフェンの声は似ているらしい。
それはますます良いことだった。
彼は渋い顔をすることだろう。
だがきっと守ってくれるはずだ。
2人と精霊と2人の半精霊が想いと未来を託した精霊の森の民の正当な末裔である、リーフェンリア=シャルのことを。
私たちを照らしてくれる木漏れ日のことを。
shinlia-赦し-
慈愛の女神シンリー
直訳では月の光
意味するところは『赦し』