第二章 黄泉比良坂(よもつひらさか)
藍は裕貴と御幸を客間に通し、お茶の用意をしている。裕貴と御幸は藍がおかしな突っ込みをしたせいか、二人きりになるとぎこちなくなっていた。座布団に正座しているせいもあるのかも知れない。
「さっきのあれ、本気?」
裕貴は天井を見るフリをしながらも、スカートの裾から覗く御幸の膝をチラッと見て言った。
「本気って、何が?」
御幸自身も裕貴は仲のいい親戚の兄貴という感覚だったのだが、藍の言葉で変に意識してしまっている自分に驚いていた。
「俺が藍ちゃんに会えるから嬉しいとか言った事だよ」
裕貴はイラついた顔で言うが、御幸を見ようとはしない。お互い妙に照れている。
「だってそうでしょ? 裕貴君てば、口を開けば藍姉の話ばかりでさ……」
「そんな事ないだろ?」
裕貴が反論しようとした時、藍がお盆に急須と茶碗を載せて戻って来た。
「何の話?」
藍はニコニコしてテーブルにお盆を置いた。
「裕貴君が藍姉の事が好きだっていう話よ」
何故か御幸はムスッとして言った。藍はビクッとして急須を持ち損ね、裕貴はカアッと赤くなった。
「な、何言い出すんだよ、御幸!」
裕貴は火照る顔を更に熱くして御幸を睨んだ。御幸は顔を背けて、
「嘘じゃないでしょ? 裕貴君の話題って、ほとんど藍姉の事じゃない」
「あのなあ……」
御幸が自分以上に熱くなっているのを感じて、裕貴は一気に冷め、逆に呆れてしまった。
(何なんだよ、こいつ?)
藍は苦笑いしながら急須を持ち直して茶碗にお茶を注ぎながら、
「あはは、私って意外に人気者なの?」
と場を和ませようとして口を挟んだが、裕貴と御幸にポカンとした顔で見られ、赤面した。
「ごめんね、さっきは。私がおかしな冗談を言ったせいで二人の仲が険悪になったみたいで……」
藍は顔が赤いのを感じていたので、俯いて茶碗を二人の前に置いた。
「ああ、いえ……」
裕貴と御幸は顔を見合わせてから応じた。
雅は鳥取分家の当主である令斎が急死した事を知らない。彼は令斎の息子である明斎が何故東出雲町にいたのか気になり、黄泉比良坂の伝承地付近を探っていた。石碑が建てられている場所は周囲が林になっており、すでに日没後なので、目を凝らさないとよく見えない状態である。しかし、黄泉路古神道を修得してる雅は通常の人間より遥かに夜目が利いた。
(泉進のジイさんが言っていた気の乱れとは、明斎の事なのか?)
雅は明斎とは子供の頃に会ったきりだったので、明斎についての情報がほとんどなかった。
「何だ?」
雅は道から外れた林の奥に何かを感じた。
「まさか……」
額に汗が流れた。ずっと昔、まだ小学校にも入学していない頃。雅は父親から何故島根分家が古より小野一門の中で宗家に次ぐ地位なのかを聞かされたのを思い出した。
『雅よ、この島根には恐ろしきものがたくさん眠っていらっしゃるのだ』
父の言葉に雅は只頷くだけである。
『大社、黄泉比良坂、そして……』
雅の記憶はそこで途切れていた。その後も父親は彼に何かを語ったのであろうが、全く覚えていない。いや、聞いた記憶すらないのだ。そしてその次に覚えているのは、
『だから島根分家は第一分家なのだ』
そう言って雅を厳しい目で見下ろす父親の姿だ。途中の記憶がすっぽりと抜け落ちているのである。
(何故記憶が欠落してるのだ? 黄泉比良坂の他に一体何があるのだ、島根には?)
その黄泉比良坂の伝承地付近に姿を見せた明斎。それは自分の気を感じてなのか、それともほかに理由があるのか? 雅は眉を寄せて考え込んだ。
(やはり明斎は何かを企んでいる。何をするつもりだ?)
雅は林の奥にゆっくりと歩き出す。
(気のせいではない。間違いなく何かがある)
やがて彼は、結界に守られた一角に出た。そこは忽然と木々がなくなっている違和感のある更地だった。
「く!」
中に入ろうとすると、強力な光の結界が貼られていて行く手を阻む。闇の術を身に着けた雅には通れそうにない。
(これは一体何だ? 誰がこんなものを……)
結界の性質から考えて、姫巫女流のものである事を感じた雅はまた明斎を思い出す。
(ここに現れた事といい、この結界といい……。無関係とは思えんな)
雅は再び根の堅州国に入った。そして、鳥取県米子市にある鳥取分家を意識した。鳥取分家は以前は県庁所在地である鳥取市にあったが、島根分家を吸収したので、米子市に移転したのだ。その費用は宗家の仁斎が負担した。明斎を養子にしなかった事への詫びを兼ねての計らいである。しかし、当主だった令斎は当然の事と受け取っていて、仁斎に礼も言わなかった。
(鳥取分家と宗家の確執ですら、俺のせいか……)
雅は苦笑いして現世に戻った。
「貴様、何しに来た!?」
その雅に対してまたしても明斎が斬りつけた。
「何!?」
雅は仰天したが、危ういところで明斎の剣をかわした。
「何をしに来たと訊いている!」
明斎は剣を正眼に構え、肩で息をしながら言い放った。雅は眉をひそめて、
「貴様こそ、何故俺が現れる事に気づいた?」
雅は黄泉比良坂の石碑の前に明斎が現れたのは、あの辺りに目的があるのだと思った。しかし、こうしてもう一度根の堅州国から戻ったところに明斎が現れたとなると、そんな単純な事ではないと思えて来る。
「そんな事を貴様が知る必要はない」
明斎は剣を振りかぶり、雅に突進する。雅は舌打ちし、右手に黄泉剣を出した。
「根の堅州国から戻る位置は余程の術者か、黄泉路古神道を修得した者にしか見破れない」
雅は明斎の剣を跳ね除けて言い返した。明斎はニヤリとし、
「俺は貴様など足元にも及ばない力を手に入れたのだ」
雅は明斎から微かではあったが、闇を感じた。
(こいつ、黄泉路古神道を? だが何かが違う。どういう事だ?)
明斎は雅が考え込んだのを察して三度斬りかかった。
「剣を交えている最中に何をボンヤリしている!?」
明斎の剣先が雅の白装束の袖を斬り裂いた。
「どうした、何かあったのか?」
鳥取分家の邸の中から人影が幾人か現れた。雅は仕方なく剣を引き、根の堅州国に消えた。
「剣がぶつかり合うような音が聞こえたが、何があったのだ?」
そこにやって来たのは、京都分家の丞斎と付き人三人であった。明斎は剣を消し、
「黄泉路古神道を使う外道が現れたのです」
「黄泉路古神道?」
その吐き捨てるような言い方に丞斎は眉をひそめた。明斎は丞斎を見て、
「雅ですよ。第一分家を穢し、仇敵である源斎に手を貸した小野一門の面汚しです」
と言うと、そのまま邸の中へと歩いて行ってしまった。
「雅、か……」
丞斎は悲しそうな目で呟いた。
(あいつも何かを感じてここに来たのか?)
丞斎は付き人に促され、邸に戻って行った。
藍は御幸に手伝ってもらい、夕食の準備を進めていた。
「今日は泊まって行くんでしょ?」
アニメのキャラの絵が入ったエプロンをした藍がキャベツを微塵切りにしながら尋ねる。
「当然。藍姉と裕貴君を二人きりにはできないもん」
グレーのスウェット上下に着替え、ピューラーでジャガイモの皮を剥いている御幸が真顔で言ったので、藍はフウッと溜息を吐き、
「まさか全然気づいていないの、御幸?」
と包丁を止めて御幸を見た。御幸は手を休めずに藍を見た。
「何が?」
藍は再び包丁を動かしながら、
「裕貴君、貴女の事が好きなんだよ」
「まっさか」
内心ではギクッとしながらも、御幸は一笑に付そうとした。
「だって、藍姉を待ってる間も、あいつの話題はずっと藍姉の事ばっかりなんだよ。嘘じゃないんだから」
御幸は顔が赤くなっていないかすぐにでも鏡を覗きたいくらいだったが、何とか虚勢を張った。
「それは、貴女との共通の話題が私くらいしかないからでしょ?」
藍は刻み終わったキャベツを大皿に盛り付けて言う。御幸は剥き終わったジャガイモをボールに放り込んで、
「ええ? そんな事ないと思うけどなあ」
藍にまた指摘され、御幸は改めて裕貴の言動を思い起こした。
「じゃあ、私が訊いてあげようか?」
藍が妙に嬉しそうな顔で言ったので、御幸はちょっとムッとした。
「結構です。それより藍姉こそ、どうなのよ?」
御幸の切り返しに藍はビクンとして豚肉に衣を付ける手が止まる。
「な、何が?」
藍は嫌な汗が出そうな気がして、顔を引きつらせた。御幸は鼻で笑って、
「雅さんの事よ。まだ引き摺ってるの、藍姉?」
藍は固まりそうになった。雅。その名を思い出したのはしばらくぶりだったのだ。彼は陰陽師との戦いが終わると姿を消し、年を越しても現れなかった。そして現在に至っている。出羽の遠野泉進の所には時々立ち寄ると聞いたので、元気でいると思ってはいた。だが、詳しい事は何も知らされていない。
「それはえーと……」
藍は豚肉を何度も溶き卵の中で揺らしたまま言葉に詰まっている。さすがにまずいと思ったのか、
「ごめん、藍姉、忘れて!」
御幸は焦ってそう言った。
(雅さんの事、まだそんなに重いんだ、藍姉には……)
想像している以上に藍が悩んでいる事を知り、御幸は自分の言った事を非常に後悔した。
「ああ、私がやるね、藍姉」
御幸は藍から豚肉を取り上げ、溶き卵に浸し、パン粉を付けた。
「あ、ありがとう」
藍はハッと我に返り、御幸に場所を譲った。
午後八時を過ぎた頃、黒のスーツ姿の仁斎は葬儀用の衣冠束帯を入れたスーツケースを引きながら米子空港を出たところで、雅の気を感じた。
(何故あいつが?)
するとその雅が目の前に現れた。仁斎は驚きはしなかったが、目を見開いた。
「どうした、雅? 令斎の死を感じ取ったのか?」
仁斎の問いかけに今度は雅が目を見張った。
「令斎さんが死んだのか?」
雅はその時理解した。明斎に感じた例えようのない嫌な感覚を。
「雅か?」
仁斎の後から茨城分家の当主であり、裕貴の父である道斎と御幸の祖父である善斎が現れた。道斎は黒のスーツ姿のロマンスグレーの紳士然とした人物で、善斎は白の長襦袢に黒の着物を重ね、その上に黒の長羽織を着ている白髪を角刈りにしている小柄な老人だ。二人は仁斎から事情を訊いているので、雅に対して警戒はしていない。
「そうか、泉進に言われてこちらに来たのか?」
仁斎が言うと、雅は、
「それより、令斎さんは何故死んだのだ? 殺されたのか?」
「何故そう思う?」
善斎が尋ねる。道斎もじっと雅を見ている。雅は善斎を見て、
「明斎に只ならぬ気を感じた」
「明斎に?」
仁斎の顔色が変わった。
(まさか、ふたたび源斎の二の舞を……)
仁斎はタクシー乗り場に歩き出しながら、
「話はあちらに着いてからだ」
と言った。雅は微かに頷くと、スウッと根の堅州国に消えた。道斎と善斎はそれを唖然として見ていたが、
「おい、何をしている?」
仁斎に声をかけられ、ハッとして彼を追いかけた。
一方、アパートで一人寂しくコンビニ弁当の夕食を食べている剣志郎の携帯が鳴った。
「あいつか。久しぶりだな」
剣志郎は表示された「北畠大吾」の名を見て呟き、通話をオンにした。
「よう、元気か? どうしたんだ?」
すると大吾の声が、
「また藍さん達が大変な事になるかも知れないので、お前に教えておこうと思ってさ」
「え?」
藍が大変な事になると言われ、剣志郎の鼓動が一気に加速した。
「月に一度している吉凶占いで、西の方で騒乱の兆しありと出たんだ。何か聞いてないか?」
大吾の問いかけに剣志郎はシュンとして、
「最近、あまり会話してないから聞いてない」
「そ、そうか」
大吾は剣志郎の口調で何かを感じ取ったのか、
「わかった。悪かったな、こんな時間に。今度そっちに行くから、どこかで飲まないか、藍さん達も一緒に?」
「お前、相変わらず藍狙いなのか?」
剣志郎は口を尖らせて言った。大吾はクスクス笑い、
「何言ってるんだ? 俺はお前の応援団長だよ」
「そ、そうか」
そう言われるとそれはそれで照れ臭い剣志郎である。
「それから、俺の高校の同級生の小野裕貴が藍さんのところに行ったはずだ。注意しろ」
大吾の唐突な言葉に剣志郎はキョトンとした。
「何でさ?」
「お前はつくづく鈍感だな、竜神。小野裕貴は藍さんとは昔からの知り合いなんだよ。親戚だしさ。 多分、藍さんに気があるぞ、あいつ」
大吾の説明に剣志郎はビクッとした。
(もうこれ以上恋敵に増えて欲しくない)
泣きたくなりそうだ。返答がない剣志郎を心配したのか、大吾は、
「どうした、竜神?」
剣志郎はハッと我に返る。
「あ、すまない、ボオッとしてた」
「そんなにショックか、恋敵が増えたのが?」
大吾は嬉しそうだ。剣志郎はその口調に少々カチンと来て、
「余計なお世話だよ。俺と藍はそういう関係じゃない」
「この期に及んでまだそんな白々しい事を言うのか、竜神? 情けない奴だな」
大吾はますます嬉しそうに言った。剣志郎は更にヒートアップし、
「うるさいよ! お前には関係ないだろ!?」
「悪かったよ。また連絡するよ」
大吾はしのび笑いをしながら通話を切った。
「全く……」
剣志郎は携帯を切り、ほぼ敷きっ放しの布団の上に投げ出した。
仁斎は鳥取分家の数十メートル手前で一人でタクシーを降りた。道斎と善斎を乗せたまま、タクシーは邸の前まで走って行った。
「どこだ、雅?」
仁斎は道路脇の空き地の暗がりに向かって言った。
「ここだ」
雅はスウッと姿を現した。仁斎はチラッと分家の邸を見てから、
「何故邸の前にしないのだ?」
「明斎が何故か俺を目の敵にしている。だからここにした」
雅のその言葉に仁斎は表情を曇らせた。
「彼奴は宗家の養子になる事を強く希望していたからな。それにあの当時は藍も目当てだったのだろう」
仁斎は吐き捨てるように言う。雅は仁斎が明斎に良い印象がないのを知り、明斎との事を全て話した。
「なるほど。お前は令斎は明斎に殺されたと考えているのか?」
仁斎の声が低くなる。雅は軽く頷き、
「ああ。奴は力を手に入れたと言っていた。それが何なのかはわからないが、奴が現れた近くの林の中に結界が張られていた」
「結界だと?」
仁斎は眉を吊り上げた。
「そうだ。光の結界。あれは姫巫女流のものだった」
雅は仁斎を真っ直ぐに見て答えた。仁斎は腕組みをし、
「しかし、令斎と明斎が不仲だという話は聞いた事がない。明斎に令斎を殺害する理由がないと思うが?」
雅もそこだけが疑問だった。
「確かに動機は不明だが、令斎さんが突然死んだ以上、そこに何かがあると考えた方がいい」
「その辺りは丞斎に訊いてみよう。奴の方が詳しい」
仁斎が丞斎の名を出すと、雅は目を伏せた。椿を思い出したからだ。
「何度も言うようだが、椿が命を落としたのはお前のせいではないぞ」
仁斎は腕組みを解き、雅を見た。雅は目を上げて仁斎を見ると、
「それはわかっている。しかし、切っ掛けを作ったのは、紛れもなく俺だ」
仁斎はそれ以上何も言うまいと考え、口を横一文字に結んだ。
「とにかく、明斎には気を許さないほうがいい」
雅はそれだけ言うと、またスウッと消えてしまった。仁斎はフウッと溜息を吐き、邸へと歩き出した。
(まさかとは思うが、明斎の奴、あれに気づいたのではあるまいな? 黄泉比良坂を開くと言われている開けてはならぬ玉手箱の存在に……)
仁斎の表情は険しくなり、見るものを射殺しそうな眼光を放っていた。