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Fire〝ファイア〟  作者: 湯上 日澄
8/8

Inning ♯04 混血 (後)

       Ⅵ


 車窓を流れる人工の空は、灰色に曇りつつあった。

 今日が定期的な降水日であることは、一週間前の天気予定で聞いている。

 午後四時五十一分……

 中華街発、モノレールの車内。

 六両編成で走る車内には、揺れひとつない。席がそこそこ空いているのは、帰宅ラッシュ前の静けさだ。

 席と席を向かい合わせたボックスシートに、ハンとクラスティアは座っていた。

「……とまあ、そういうわけだ。ああ、その娘も一緒だよ」

 席の肘掛けに頬杖ついたまま、ハンはだるそうに小声を発した。会話の相手は、対面のクラスティアではない。ハンは左手首に巻かれた銀色の腕時計……〝ファイア〟特製の超小型通信機とやりとりしている。ずっと外の景色を眺めて動かない少女に、どこか人形めいた雰囲気を感じながら、ハンは通信機の指示にうなずいた。

「わかった。合流地点は三番街、港の倉庫だね。そっちのほうなら人通りもない。ちょうど今、目に見える人間がぜんぶ敵に思える気分だったしさ……ああ、せいぜい気をつけるよ。じゃあね、シオン」

 腕時計との通信を切ると、ハンは溜息をついた。その憂鬱げな眼差しがふと上がったのは、クラスティアが誰にともなくこう囁いたためだ。

「おやすみ、エドガー」

「?」

 ハンはクラスティアと同じ方向を見た。店からはもうだいぶ離れて、煙のひとつも見えない。首をかしげてもとの位置に向き直るや、ハンは目を剥いた。ずっと窓の外に興味津々だったクラスティアが、こちらを見つめているではないか。

 クラスティアは無表情に聞いた。

「つかれたの? おばさん?」

「トシだって言われるほど疲れることもないよ。いいかい、クラスティアちゃん。こいつは約束なんだが、あたしのことはね、おねえさんか、ハン・リンフォン……ハンって呼ぶんだ」 

「うん、わかった。指切りしよう、おばさん」

「………」

「怖い顔。置いてってもいいのよ、あたしのこと」

「そうしたいのも山々だけどね。あんたの親父……客の注文を断るわけにはいかない。それに〝最後の希望〟ってのは、おっと」

 ハンは顔をしかめた。

 腕時計のアラームがまた鳴り始めている。耳障りなそれを止めると、ハンはおもむろに懐へ手を入れた。取り出されたのは空気圧式の注射器だ。持つだけでも吐き気をもよおすが、いまばかりは仕方ない。注射器の先端が首筋にあてられる様子を、透きとおった瞳でみつめるクラスティアへ、ハンは前置きした。

「あんまり気持ちいいもんじゃないよ」

 引き金をひかれると、注射器に揺れる血清〝青虫〟は瞬時にハンの体内へ消えた。前かがみになって頭を抱え、ハンは深呼吸することで目まいに耐えている。

「……?」

 大きく歪むハンの視界の片隅に、ふいに揺れ動くものがあった。

 一匹の蝶だ。

 前の停車駅で迷い込んだらしい。ただ、席の陰に落ちて弱々しく羽根を動かすのは、その寿命が近い証拠だ。いったい、どこへ行くつもりだったのだろう。

 それが幻かどうかも判断つかないハンへ、クラスティアは率直に質問した。

「お薬だよね?」

「ふ、ふふ……麻薬中毒みたいって言うんだろ? これは、その、持病の薬さ」

「知ってる。あたしも、そっくりなのを注射されてたから」

「な、なんだって?」

「あれだよね。〝アーモンドアイ〟だっけ? あの白いお医者さんたちの名前」

「!」

 ハンは、驚きに驚きを重ねることとなった。

 クラスティアの指が、床の蝶をそっとつまんだまではいい。そこから、両手で優しく蝶を包み込んだクラスティアの掌が、あわく輝いたのはなんだ。

 ハンはたしかに見た。色あせて傷ついた瀕死の蝶の羽根が、まるで映像を逆再生するかのように張りを取り戻してゆくのを。   

 気づいたときには、蝶の動きは激しくなっていた。腕を広げた頭上、礼を言うかのように元気に飛び回る蝶を見ながら、続けたのはクラスティアだ。

「あたしの心に話しかけて、お医者さんは教えてくれた。あたしは、すごく細い綱の上を歩いてるのとおなじ。ずっと半分半分なままではいられない。うまくバランスをとらなければ、あたしはみんなとは違う片方の世界に落ちてしまう、って」

 クラスティアは今度は、ハンの片足に触れた。中華料理店で、死神の銃弾がかすってそのままだった傷だ。

 ハンは声もない。まばたきひとつのうちに、その銃創が塞がったではないか。あげくのはてには、裂けたスラックスの布までもが自動で修繕されてしまっている。

 顔を片手でおさえ、ハンはつぶやいた。

「夢だ」

「おばさんヤク中? 簡単なしくみなの。あたしは時間を好きに動かせる。後ろにも、たぶん前にも」

 時間操作能力……クラスティアがこれまで見せた癒しの奇跡の数々は、実のところそんな素っ気ないものだった。だが、この年端もいかない少女が、どうやって?

 答えはすぐに出た。指の間からのぞいたハンの目もひきつっている。

 ああ。能力を発現させた反動か、クラスティアの瞳が、白目ごと真っ黒に染まっているではないか。まるで、タールを流し込んだような漆黒に。それはハン自身、よく見慣れたものだ。すなわち、あの異星人たち〝アーモンドアイ〟の特徴。つまり……

「クラスティア、あんたは〝やつら〟と人間の……混血」

 激しい音に、ハンは我に返った。

 窓ガラスがぶち破られたのだ。

 外から。

 静寂の中、きらめく破片の向こうに、ハンとクラスティアは見た。

 身をかがめて、床に着地したひとりの女を。

 だが、こんなスーツの秘書風女が、時速百数キロで走るモノレールにどうやって?

 席を立ったハンの横を、ひとり、またひとりと逃げ出すのは他の乗客だ。乗客の流れはしだいに激しくなり、ついにはこの車両内にはハンとクラスティアだけになった。残った無賃乗車の女は、静かに立ち上がっている。 

 こちらを見るその死神の仮面……拳を握り締め、ハンはクラスティアへ告げた。

「じっとしてな」

「うん。でもヤバいよ、あいつ」

「汚い言葉遣いはやめるんだ……あたしみたいになりたくなきゃね!」

 次の瞬間、ハンの姿は天井にあった。

 クラスティアの頭上の背もたれに手を置くや、それを軸にいきなり側転したのだ。一気に五メートルの距離をつめると同時に、死神女へ強烈な踵落としを浴びせる。

 冷静に半歩下がった死神女の前髪をかすめて、ハンの踵は床をうがった。お返しに死神女が放った金属の光……奇妙な鉄棒の一撃を、ハンはさらに身を沈めて回避している。

 轟音。

 死神女の顔面をもろに捉えたのは、対空砲のごときハンのハイキックだった。天井に向いた蹴り足と、床についたハンの軸足はほぼ平行になっている。死神女には、まるでハンの背中から突然、蹴りが飛び出したように見えたに違いない。

 一般人なら恐らく、頭蓋骨の陥没は免れなかったろう。もっとも死神女は、衝撃にひとつふたつ後ずさっただけだ。顔をおさえたその手のあいだから、ぱらぱらと白い破片がこぼれる。砕けた死神の仮面だ。

 死神女の手が顔をはなれるや、喉をつまらせたのはハンだった。

「カ、カトレア!? あんた死んだはずじゃ……」

「ふせて!」

 クラスティアのその警告がなければ、ハンはあっけなく死んでいたはずだ。

 死神女……カトレアの手元で、例の鉄棒が鍔鳴りの音をたてたときには、周囲の景色は斜めにずれ始めている。その神速の抜刀が、モノレールの一車両をまるごと横に断ち割ったのだ。

 地響きとともに、粉塵と風は車内を吹き荒れた。線路のはるか下では、両断されたモノレールの上半分が建物を叩き潰している。カトレアのいる場所そのものも、かろうじて左右の車両にぶら下がって崩落を止めている状態だ。 

 居合いの姿勢からもとに戻ると、カトレアは煙の向こうを見渡した。間断なく車内を索敵するそのロックオンマーカーには、ハンとクラスティアの反応はない。

 なにかの落ちるかすかな音を、カトレアは聞き逃さなかった。剥き出しになった曇り空のもと、モノレールの窓枠に足をかけて下界を見下ろす。

 十メートル下のビルの屋上に、ハンは転がっていた。必死にかばった腕の中、クラスティアにはかすり傷ひとつない。言うまでもなく、ハンは落下のダメージ大だ。肋骨でも折れたのか、脇腹を苦しげに押さえながら、クラスティアの手をひいてビルの扉へ向かう。

 カトレアの両手は、すかさず太もものホルダーへかかった。

〈ぎゃははは! 待て待て待て! 落ち着きたまえカトレアちゃん! 命令ッ!〉

 かんだかい笑い声に、カトレアは止まった。声自体は彼女のどこかから聞こえているというのに、おかしな光景だ。スコーピオンの口調は、やけに慎重だった。

〈そいつをやっちまった日には、大事なお姫様まで挽肉になっちゃう。さっき調べたんだが、アーモンドアイとヒトの合いの子……あのお姫様には、どうやら〝素質〟があるみたいなんだな♪〉

 カトレアは、静かに車内へ身をひっこめた。

 無言で歩き始めたかと思いきや、突如その右手が霞んだではないか。左手の鞘に、やはり一瞬で刀は納まる。興奮をおさえきれず、スコーピオンは奇声をあげた。

〈お姫様から〝時間の女王〟になる素質が!〉

 モノレールは今度こそ、ひとつ残らず地上へ落下した。線路との連結を、カトレアが容赦なく切り裂いたのだ。

 そして、誰の目にも触れぬビルの窓辺……

 クラスティアに命を救われたあの蝶は、蜘蛛の巣にからまって小さくもがいていた。



 閉じられた搬送ポッドの向こうに、戦士の寝顔は消えた。

 死者の名前は、エドガー・サイラス。人類の皮をかむったこの異星人は、そんな偽名を使っていたらしい。

 中華料理店〝福山楼〟近く。

 午後四時五十一分……

 ほんの数時間前まで中華料理店だった建物は、いまや破壊されて跡形もない。正体不明のテロ集団と警察による銃撃戦の結果、中華街そのものもひどく荒れ果てている。

 半径数キロにわたって封鎖された現場に、乱雑に停まるのは政府の救急車両とジープの群れだった。今現在、ケガ人の収容と消火、それに事実関係の調査にあたるのは、遅れて援護に駆けつけた彼ら政府部隊だ。

 特殊情報捜査執行局〝ファイア〟。

「……エージェント・リンフォン。くれぐれも〝暴走〟にだけはお気をつけ願います。ええ、ではのちほど」

 手首の時計にそう告げると、白衣の医者は通信を切った。

 一台の救急車両を中心にして、道路には臨時の治療スペースが設けられている。中性的な顔立ちを抗菌マスクで隠した医者……エージェント・シオンの視線に首肯したのは、いかにも気難しげなスーツの女だ。〝ファイア〟局長、ジェリー・ハーディンその人に他ならない。腕組みしたまま、ハーディンはうなった。

「異星人と人類、永遠に相入れぬふたつの遺伝子を組み合わせる……話にだけは聞いていたが、まさか、そんな不自然で強行的な実験が成功していたとは」

「その数少ない成功例を、何者かが持ち去ったという情報は、すこしですが私も耳にしていました。リンフォンさんも、幸か不幸か……言ってはなんですが、やはり引かれ合ったんでしょうかね。〝混合体〟の似たもの同士」

 答えたシオンの手は依然、前のイスに座る負傷者の切り傷を縫っている。消毒とともに包帯を巻きながら、シオンは報告した。

「局長。ご指示のとおりリンフォンさんには、三番街の回収ポイントへ向かうようお伝えしました。彼女なら無事、成功例の少女を送り届けるでしょう」

「それはどうかな」

 ハーディンは、鋭い眼差しで横を見た。細菌・毒ガス・放射性物質なんでもこいの化学防護車は、いましも死体の入った搬送ポッドを積み終えたところだ。どこまでも憎々しげにそれを睨みながら、ハーディンは続けた。

「エージェント・リンフォンには、すでに〝奴ら〟の手が回りつつあるようだ。今回の事案、背後にスコーピオンが絡んでいるのは確実と見ていい」

「わたしにはまだ信じられません。一号機……姉が、カトレアが、その、生きていたなんて」

「〝生きていた〟だと? はは。あのね、君。アンドロイドが半信半疑などと口にしてはいかんよ。君たちが出していい答えは0か1のみ。機械人形の面影など、顔の人工皮膚を差し替えればどうとでもなる」

「では……では、少女は、リンフォンさん自身が処分するんですか?」

「だから! 悩むなと言っている! 人工知能ふぜいが!」

 どす黒い曇り空の下、轟音は響き渡った。

 救急車両の側面は、殴ったハーディンの拳の下でへこんでいる。何事かと首を巡らせる政府隊員たちの視線を、その炯眼で弾きながら、ハーディンは声を落ち着けた。

「少女がふたたび奴らの手に渡ることだけは、なんとしても阻止せねばならん。エージェント・シオン。もうひとつ言伝を頼めるかね?」

「はい……おおせのままに」

「エージェント・ブランシェへだ。大至急、回収ポイントへ向かうようにと」

「局長」

 動揺のあまり、聴診器を取り落としたのはシオンだ。このときばかりは医者自身、自機の聴覚センサーの異常を疑った。

「エージェント・ブランシェ……あの〝メイド〟さんを送り込むと仰るんですか? ここからの天気予定はご存知のはずです、局長。彼女の能力では、リンフォンさんまで巻き添えになってしまう」

「だからこその人選だ。いかなる状況に転がっても、ブランシェなら〝成功例〟を確実に仕留めてみせるだろう。ありえんことだが、ともすれば、少女の処分にあらがうリンフォンごと」

「どうかお考え直しを。部下に死神を送るようなマネはおやめください。それに、リンフォンさんが〝ファイア〟を裏切るなんて……」

「口を慎みたまえ! シオン!」

 ふたたび怒号するも、ハーディンは今度ばかりは止まった。

 いまのいままでシオンに応急処置を施されていた人影が、静かに席を立ったのだ。ネクタイを結び直しながら、彼、ジェイスは平板な声でつぶやいた。 

「客だ」 

 ほう、と悪い笑みを浮かべたのはハーディンだった。

「珍しいではないか、エージェント・ジェイス。君がじきじきに買って出ると言うのかね? 墓前へ花を手向ける役目。回収ポイントの位置は聞いたな?」

「ああ」

 ぽつぽつと雨が降り始めていた。


       Ⅶ


 灰色の世界を、水の線が横切っていた。

 中華街の外れ、海に面した倉庫街。

 さみしい潮の香りにつつまれた港に、人影はない。いや、倉庫横に積まれた廃材のかたわら、少女の口をおさえ、自らも息を押し殺すのは誰だろう。

 ハンとクラスティアが身を潜める理由は、あちらの物陰にあった。

 ああ。暗がりに浮かび上がるのは、死神の白い仮面だ。闇と同化してうごめく黒いマントの手では、レーザーの大鎌が雨を蒸気に変えている。

 単式戦闘型死神〝アヴェリティア〟

 どうやら死神は、ふたりはいないと判断したようだ。緩やかに暗闇の奥へ引き下がったあと、そこには巨大な人影は微塵も残っていない。

 長く短く波の音を聞いて、ハンはクラスティアの口から手を放した。

「こんなもんかい、政府の……秘密の集合場所なんて」

「おばさん?」

 クラスティアは目を丸くした。

 倉庫の壁をずり落ち、ハンが足元の芝生へくずおれたのだ。ついさっきモノレールから飛び下り、コンクリートの地面に激突したのだから仕方ない。常人なら即病院送りの状態で、ここまで逃げ延びてこれた自体が奇跡といえる。

「血が出てる……」

 つぶやいてクラスティアが伸ばした手を、ハンは静かに掴み止めた。血を流し続ける肩の裂傷は、あのモノレールで、仮面の女が放った裂帛の刃に触れたものだ。破ったシャツの袖で、ハンはきつく傷口をしばった。

「いらないって言ってんだろ、さっきから。ほっときゃ治る」

 蒼白の顔でうめいたあと、ハンは顔を強ばらせた。

 痛みではない。むしろ、その痛みそのものが、おびただしい出血が、嘘のように消え失せたではないか。ちょっと油断したらこれだ。

 ほのかに輝くクラスティアの手を取ると、ハンはその前に腰を落とした。ガラス玉のような少女の瞳を、険しい視線で覗き込む。 

「アーモンドアイへの変異はまだみたいだね……いいかい? 繰り返すが、その力、あんまり軽く使っちゃダメだ」

「やっぱり、おばさんも怒るの?」

「ああ。素直にゃ喜べない。便利だからって、いたずらに自分の強さをひけらかしてばかりだと、あとで後悔するハメになるよ」

「つよさ?」

 首をかしげるクラスティアから目をそらし、ハンはある場所を見た。

 やはり来たか。

 さきほど傷口をしばった肩の布と、腕をつたって血の落ちた芝生だ。見よ。ハンの血に触れた布と雑草は、小さく白煙を漂わせている。政府の血清〝青虫〟によって抑えこんでいた危険な因子は、たび重なるダメージもあって目覚めつつあるらしい。

 やがて布と雑草には、小さく炎まで点り始めた。それらをまとめて地面で踏み消し、溜息をついたのはハンだ。

「知り合いに、あんたと同じ、半分半分のやつがいてね。そいつの力は、あんたほど優しいもんじゃない。むしろ正反対だ。愛する者、憎むべき者、すべてを八つ裂きにしかねない怪物の力」

「そのひと、お友達?」

「とんでもない。情けないやつさ。力を使うたび、まるで自分自身が、自分のもう半分の怪物に食われるような感覚に陥ってる……場所を変えようか、クラスティア」

 クラスティアの手をひくと、ハンは倉庫へ忍び込んだ。

 雨やどりの邪魔をしてしまったらしい。かすかな羽ばたきを残して飛び立ったのは、数匹の白いハトだ。暗がりの中、キャットウォークの窓だけが灰色に浮かんでいる。

 あちこちに蟠る闇へ用心深く目を凝らしながら、ハンはまた走った。

「なにもかも壊したあと、そいつは、ふと自分がしたことの恐ろしさに気づくんだ。もう手遅れだってことには、最後の最後に気づく。そのたびに、遠い昔に壊しちまった大事なモノの記憶までよみがえって、よくひとり、そいつが部屋の隅で泣いてるのを見るよ」

「かわいそう。きっとその人には、なにか守りたいものがあるんだよ。壊したのと同じぶんだけ、その人はなにかを救ってる。やさしくしてあげて」

「慰めてやる資格なんて、そいつにはないわ。自業自得って言葉がある」

 輸送コンテナの陰から、ハンはそっと周囲を見渡した。シオンに指定された回収ポイントはここのはずだが、まだ誰も来ていない。

 クラスティアの手を握ったまま、ハンはうつむいた。

「そいつはいっつも死にたいと思ってる。死に場所を探してる。だからあんたも、ホイホイその力を……」

「いいの」

 クラスティアはほほえんだ。

「エドガーが言ってるの。エドガーにあげるはずだった〝時間〟は、ほかの人たちにあげろって。だから、おばさんを治す力も、ぜんぶエドガーの分……痛い」

 クラスティアは顔をしかめた。

 ハンとつないだ手に、不意に強い力がこもったのだ。なにが起こったのだろう?

 答えはすぐに出た。

 ハンが無言で睨む先、闇に無数の丸模様が浮かんでいる。いや、模様ではない。泣き笑いの表情を刻まれたピエロの仮面だ。死神の顔。十以上はいる。ハンは慄然と笑った。

「待ち伏せかい……どうせ、全部の倉庫に同じ数がいるんだろ?」

 じっとふたりを見ていた仮面たちは、いきなり散った。

 ハンが駆け出したときには、巨大な死神はすぐ眼前に現れている。クラスティアを突き飛ばすのと、ハンの背中から血がしぶくのはほぼ同時だった。床に叩きつけられたハンめがけ、なお輝く粒子をまいて旋回するのは光の大鎌だ。

 倒れたまま、クラスティアは悲鳴をあげた。

「おばさん!」

「なにしてんだ、早く逃げ……」

 かばうように近寄ったクラスティアの頭上、大鎌は無慈悲に振り落された。

 胸の悪くなる音……



 ハンに覆いかぶさったまま、クラスティアは薄目をあけた。

 予想した死は、いつまで待っても訪れない。中央で真っ二つにされた死神の大鎌は、一瞬の滞空ののち、鋭く床に突き刺さっている。その鏡面のごとき切断面から、鮮やかに火を吹きながら。

 おお。襲われたふたりと死神の間に、誰かが立ち塞がっているではないか。大きく前に踏み込んだ姿勢のまま、その男は、右手一本で死神の仮面を掴んで止めていた。真っ赤に燃えるその掌こそが、ぎりぎりのところで必殺の大鎌を切り飛ばし、ハンとクラスティアを救ったのだ。

 鼻先をかすめる火の粉を見て、ハンは苦しげに笑った。

「やっと答えたね……ジェイス!」

「………」

〝ファイア〟エージェント……ニコラス・ジェイスは口を開かなかった。

 代わりに、複雑な金属音を残して、ジェイスの肘から、肩から、膝から、踵からは、荷電粒子ロケットブースターの推進口がいっせいに展開している。短い充填とともに、爆発的に炎をほとばしらせるジェイスの全身。ジェイスに捕えられた顔を、体ごと地面に叩きつけられ、死神は勢いよく火だるまと化した。瞬殺だ。

 外の雨音は、刻々と激しさを増していた。

 かすかなアラームの音。

 発信源はもちろん、ハンの腕時計以外にない。体中から煙を漂わせながら、ジェイスは肩越しになにかを投げよこした。うまいこと手の中に納まったそれを見て、顔をしかめたのはハンだ。 

「ようやく現れたかと思ったら、やっぱりこれの配達かい。わかったよ、打ちゃいいんだろ、打ちゃ。助けてもらった借りもある」

 ジェイスに渡された血清〝青虫〟を、ハンはしかたなく首に注射した。意識が飛びそうになるのを必死にこらえ、かたわらのクラスティアを示す。

「こ、このお嬢ちゃんの生い立ちは、あとで説明する。タクシーは外かい?」

 倉庫の闇が、白い光に染まったのはそのときだった。

 ハンの背中の裂傷は、さきほど死神につけられたものだ。その傷は次の瞬間、驚くべきスピードで……そう、あたかも映像を早送りするかのように完治してしまっている。

 あたたかい輝きを発するのは、かざされたクラスティアの手だった。ハンは複雑な表情でジェイスをうかがったが、彼は眉ひとつ動かさない。その冷たい視線は、見返すクラスティアを静かに観察している。硬い顔で、ハンはつぶやいた。

「とまあ、そういう経緯だ。本部までふたり、安全運転で連れてっておくれ」

「子供料金はない」

「!」

 ハンの嫌な予感は当たった。クラスティアめがけて、ジェイスが歩き始めたのだ。自然に開いたその掌からは、すでに荷電粒子の炎が立ち上っている。きょとんとするクラスティアをあわてて背後へ隠しながら、ハンはうなった。

「ヘイ、タクシー。そんな手でおんぶしちゃ、お嬢ちゃんが火脹れになっちまうよ?」

「どけ」

「なるほど、政府の決定かい。危険だっていうんだろ、こんな、まだろくに世間の汚さも知らない子供が。たしかにそうだ。もし敵に回れば、これだけ厄介な能力もない。ちなみにあたしゃ、いまから精一杯、あんたの邪魔しようと思う。そしたら、あたしごと消しちまえって命令だね?」

「ああ」

「やっぱり、過去の復讐か」

 ハンのその一言は、ジェイスの足を止めるという奇跡を起こした。握り締められたジェイスの拳の中で、なぜか炎だけは激しく揺らいでいる。熱気に汗を浮かべながら、ハンは質問した。

「ひとつ聞くが、ジェイス。この娘はなにをした?」

「これからする」

「そう、これからさ。これからこの娘は、ほっといても大人になる。学校へ行って勉強して、かしましく仲間と大笑いして、世の中にはこんなに美味い料理があるんだって感動して、ときには気象管理に注文して、シェルターの天井に映してもらった綺麗な星空に涙する。ま、たぶん全部政府の監視つきだとは思うが、かまやしない。聞きゃあこの娘、この歳まで地獄しか見てないらしいが、ぎりぎり取り戻せる範囲だ。この娘には、まだやることが残ってる。この子には、人並みの生活が待ってる。あんたが今、この娘の人生を焼き払わない限りはね、ジェイス」

「………」

「アーモンドアイが憎くて仕方ないのは、当然あたしも一緒だ。悲しいったらありゃしない。あたしらエージェントみんな、年がら年中いつもいつも、なにもない夜空に動く光ばかり探して……たまに通った〝可能性〟って名の流れ星まで撃ち落としちまうのは、あたしゃもうゴメンだよ。ジェイス、機械より冷たいあんたの心じゃ理解できないだろうがね」

 宣言どおり、ハンは静かに拳を構えた。

 だが、このニコラス・ジェイスに抵抗を企てたのは運の尽きだ。早い。ハンにフットワークひとつ踏む暇も与えず、ジェイスの右手は炎の軌跡を引いている。その超高熱の手刀は、ハンの頬をかすめ、背後に忍び寄った死神の心臓部をそのまま貫いた。

 凄まじい炎上を見せる死神を横目に、間抜け面をこしらえたのはハンだ。

「な、なんでまだ繋がってんだい、あたしの首?」

「……タクシーは、埠頭の入口にとめてある」

 すぐ横のハンの耳へ、ジェイスは無感情に囁いた。

 死神を撃退した腕は、まだハンの顔の隣に置いたままだ。その間にも、重なり合うふたりを目当てに、倉庫の陰からは、大鎌を抱えた死神が続々と涌いている。ハンの足に隠れるクラスティアへ、ふとジェイスは瞳を落とした。

「貴重な人材だ。局長が喜ぶ。本部までは、自分で運転しろ」

 夢か幻か、クラスティアだけは見た気がした。

 ジェイスが、この正確無比の戦闘マシンが、一瞬だけ浮かべた不思議な表情を。コンマ一ミリにも満たないが、それは笑みと呼ばれる感情表現だったのかもしれない。だからクラスティアは、ジェイスの無表情へ明るく笑い返した。

「わかったよ! ありがとう、おにいさん!」

「運転するのはおねえさんだよ、クラスティア。ところであんたは? ジェイス?」

 ハンの質問に、ジェイスは答えた。燃える裏拳を、無言でうしろの死神の顔に打ち込んだのだ。仮面の破片をちらして吹っ飛ぶ死神に構わず、ジェイスは一言つぶやいた。

「客だ」

「……中華料理は好きかい?」

 駆け出すふたりを背後に、ジェイスは床を蹴った。


       Ⅷ


 ふたりが後にした倉庫からは、爆発音が連続している。

 激しい雨の中、ハンとクラスティアは走った。手を引かれながら、ぽつりと口を開いたのはクラスティアだ。

「ねえ、おばさん」

「なんだい?」

「あたしずっと〝生きる〟ってことがよくわからなかった。だから体によくないのに、みんなにあたしの時間を分けてあげてたんだよ。あたしなんかに命があるのが、もったいないって思ってたから」

 でも、とクラスティアははにかんだ。

「あたし、はじめて死にたくないって思った。本当に時間をもらってたのは、あたしのほうだって分かったから。いまは、みんなのくれたこの〝時間〟を大切にしたい……いいんだよね、生きてて?」

 これが、こんな幼い少女の質問か。長い沈黙ののち、ハンは答えた。

「自分で決めな。このまま走り続けるか、立ち止まってそこの海にでも飛び込むか……選択する権利は、もうあんたにある。難しいかもしれないが、それが自由ってもんだ」

 はっと目を見開くや、ハンは足を止めた。

 タクシーはもう、あちらに見えている。同じように濡れそぼりながら、クラステイアは不思議げにハンを見上げた。

「どうしたの?」

「下がってな」

 ハンが目つきを鋭くする理由は、すぐにわかった。

 雨のベールの向こう、静かにたたずむ人影がある。長い金属の棒を片手にぶら下げ、とめどなく水滴を滴らせるのは白いピエロの仮面だ。値の張りそうなスーツはすでに濡れ鼠になっているが、この女、いつからここで待っていたのだろう? 

 マタドールシステム試作一号機……カトレア。

 剣の死神。

 どこかで誰かが指を鳴らすのと、ジェイスのタクシーが爆発するのは同時だった。

「スッキリしたッ!!」

 炎と煙の先、そう大声を放った人影を、ハンは険しい顔で横目にした。

 手前の倉庫を見れば、そいつはひとりだけ屋根の下で雨やどりしている。紫煙をくゆらせる葉巻をつまんだ手も、革靴からのぞいた足首も、大笑いする顔も、すべてが包帯ぐるぐる巻きだ。この神がかって凶悪なテロリストが、中華料理店〝福山楼〟の襲撃に関わっている可能性があることは、ハン自身、政府の医者からちらりと聞いていた。

「スコーピオンだね……色紙の一枚でも持ってくりゃよかった」

 ハンのつぶやきに、すかさずスコーピオンは反応した。

「あげる! 何枚でもあげるよ! エージェント・ハン・リンフォン!」

「そっちもご存知か」

「そんな怖い顔しないで。ごめんね、タクシー消し炭にしちゃって。でも、ちゃんと代わりの足は用意してあるから。あれだよあれ。U・F・Oッ!」

 天を力のかぎり指差す姿は、スコーピオン恒例の決めポースだった。濡れた髪をかきあげながら、不敵な笑みを浮かべたのはハンだ。

「ああ、あれねェ。悪いが、そんなポンポン撃ち落とされるキャデラックに乗るつもりはない。あたしも、この娘も」

「来るんだ。お前も、そこのガキも」

 うなったスコーピオンは、うってかわって恐ろしい顔つきになっている。倉庫の壁にもたれたまま、スコーピオンは低く笑った。

「〝ダリオン〟ハーフ、ハン・リンフォン。おねえちゃんのことは、俺たちも前から興味津々だったよ。もっと野獣みたいな姿を想像してたが、うん。もしかしてダリオンの血にゃ、美容とシェイプアップの効果があるのかもね。パンツの色は?」

 ハンは、静かに拳を鳴らした。首を回して柔軟しながら、答える。

「青だ」

「いい! ますますいい! そんなスタイル抜群の成功例と、もう一匹、別世界の成功例がいっしょにいる。こっちの原石も、磨く前からもう輝いているな。おら、そこの。アーモンドアイ〝プリンセス〟もとい〝クィーン〟。時間の怪物……実験ナンバーD‐0、クラスティアちゃんんんッッ!」

 狂ったように投げキッスするスコーピオンから、怒った顔でハンの足に隠れたのはクラスティアだ。陽気に肩を揺らしながら、スコーピオンは葉巻の煙を吹いた。

「かわゆい♪ 安心しな。俺のストライクゾーンはな、上下左右斜めに無限大だ! できれば生け捕りがいいんだけど、なんなら細切れの肉片でも結構。ぜひお二人ともども、来てくれたまえ。俺の愛の巣へ。月の裏側にある実験室へ……さ、説得の時間だよ、カトレアちゃん」

 音もなく歩き始めた仮面の女……カトレアから視線を外さず、ハンはクラスティアへ囁いた。

「あんたが女王様だって? はは、あんたみたいな小娘が? ま、あんたの力を目にすりゃ、どんな星のやつだって手の甲にキスしたくなるか」

 最初にいた倉庫の入口から、火柱が突き抜けた。中ではまだ、たった一人あいつが戦っている。だが、倉庫の窓から内部へ侵入する影、影、あふれんばかりの死神の影。まるでゴキブリの大群だ。そちらを呆然と見るクラスティアの顔を引き戻し、ハンはその肩に優しく手を置いた。  

「いいかい? こいつは、あんたとあたしの最後の約束だ。あたしがやられたら……死んだり、もし〝それ以外〟のことになったら、さっき、あの面白いお兄さんがいた場所へ駆け込むんだ。うしろなんて見ず、まっすぐに。あっちもとんでもない地獄だろうが、すくなくとも雨に濡れずにゃ済む」

「いやだ!」

 じだんだ踏みつつ、クラスティアは断固として言い張った。

「何回でも時間はやり直せる。あたしが治す。だから、負けないで!」 

「やれやれ、人使い荒いね。だから女王様なんて呼ばれんだ。だが、ひとつはっきりしてるのは、あの包帯馬鹿の言ったとおり、あたしに選択権はないってことさ」

 激しい風雨は、衝撃に弾けた。

 なんも前触れもなく放たれたハンの後ろ回し蹴りが、カトレアの鉄棒の一閃を食い止めたのだ。ハンは吠えた。 「あんたを守る以外はね!」

 そのまま、ハンは竜巻のごとく逆回転した。

 軽くのけぞったカトレアの鼻先を、鋭いハンの爪先と、弾丸のごとき掌底が順番にかすめる。隙間をぬって飛来したカトレアの鉄棒を、腕の甲で鮮やかに受け流し、ハンは地面すれすれまで身を沈めた。素早くもう一回転。カトレアの足元を襲ったのは、ハンの美しい水面蹴りだ。

 破裂音とともに、ハンの蹴り足はカトレアのハイヒールに踏み止められていた。視界の外から跳ね上がったカトレアの鉄棒が、ハンのみぞおちを強打する。軽く打っただけにしか思えないのに、その威力。地面の雨水を左右に割り、ハンは十メートルも広場を吹き飛んだではないか。

 ふらつきながら、ハンは身を起こした。今にも駆け寄ってきかねぬクラスティアを、視線ひとつで制止する。唇の血をぬぐうハンへ、スコーピオンは大笑いした。

「やめときやめとき! カトレアちゃんは、人間どころかダリオンの天敵なんだぜ」

「んなもんと一緒にすんな!」

 雄叫びをあげるハンの闘志は、いささかも衰えていない。

 大声に首をすくめたあと、スコーピオンは疲れたようにお手上げした。

「そういや、夜までに会議の資料を作らなきゃいけないんだった……休憩は終わりだ。やっておしまい、カトレアちゃん。おしとやかに」

 スコーピオンの指示に従い、カトレアは姿勢を低くして身構えた。腰にひきつけた鉄棒の先端へ、流れるように手を添える。添えた途端、カトレアの体から広がったのは、目も眩むような稲妻の輝きだ。

 超電磁加速居合いの構え……ひとたび閃いたカトレアの一刀は、触れるすべての血を吸わずにはいられない。

 雨空の下、ハンは大きく息を吸った。

「来な!」

 止めてみせる!

 ハンが踏みしめた地面で、ふたつ、水柱が爆発した。右の拳を強く引き絞り、ハンが構えたのだ。外したら当然、次はない。この一撃にすべてを賭ける。

 ふたりの距離、約十メートル。そのちょうど中間地点で、葉巻を持つ手を、静かに上へ掲げたのはスコーピオンだ。彼の手が振り下ろされたとき、勝負は決するだろう。

 にやつくスコーピオンとは裏腹に、クラスティアは気が気ではない。彫像のごとく動かないハンとカトレアを左右に、子供ながらにも祈りに手を握っている。

「レディー……」

 スコーピオンのGOサインは、意外とあっさりしていた。

「のこった♪」 

 次の瞬間、カトレアの姿は、コマ落としのごとくハンの背後に現れている。

 その方向へ吹いた突風に包帯を持って行かれながら、スコーピオンは見た。

 ハンの渾身の突きに打ち砕かれ、粉々になるカトレアの仮面を。

 横一文字に斬られたハンの腹から、大きく鮮血がしぶくのを。

 沈黙を破ったのは、クラスティアの悲鳴だった。ひとつ回転したカトレアの刀が、脇の下から、背中合わせの状態でハンを貫く。白煙をあげるのは、地面を叩いたおびただしいハンの血だ。視界の片すみでぼやけるクラスティアへ、串刺しにされた虫のように仰け反ったまま、ハンはつぶやいた。

「カゼ……ひくよ」

 刀を引き抜かれ、ハンは血溜まりへ倒れた。



 クラスティアは逃げなかった。

 むしろ、うつ伏せに倒れたハンへ歩み寄ってゆく。ハンの体の下、うち広がる血の勢いは止まらない。

 堂々と進むクラスティアの肩を、誰かの手が掴んだ。包帯ぐるぐる巻きの手が。うしろに立つスコーピオンへ、クラスティアは囁いた。

「触らないで。今ならまだ、やり直せるかもしれない」

「おもしろいこと言うじゃん。とっくに見失ってんだよ、後戻りのタイミングなんか。俺も、この女も、この世界も」

「大事なそれを探す時間を作るのが、あたしの役目」

 雨に打たれながら、クラスティアはじっと前を見据えていた。うつむいた前髪の間から続ける。

「おばさんを治したら、あたしのこと、どこへでも連れてっていいわ。実験室でも、この星の外でも、どこへでも。だから」

 にぶい衝撃とともに、クラスティアの視界は暗転した。動かぬハンの横へ、しおれる花のように崩れ落ちる。無言で刀の柄尻をひいたカトレアに代わって、唇を歪めたのはスコーピオンだ。

「話はよく聞かなきゃな、お嬢ちゃん。言ったはずだぜ。〝俺の愛は死体にも平等〟なんだってば。ナイスな子守歌だ、カトレアちゃん」

 気絶したクラスティアを肩にかつぐ間にも、カトレアの表情は冷徹なまま動じない。死神の仮面こそ失ったが、すでに素顔そのものが仮面のようだ。

「さあ、明日へ向かって走りだそう! 俺たちの未来は、夢と希望に満ち溢れてる!」

 うきうきと身をひるがえしたスコーピオンに続き、カトレアも雨の帳に踵を返した。

 どくん。

「!?」

 どしゃ降りの中、スコーピオンは思わず足を止めた。

 なんだ、いまの薄気味悪い音は?

 どくん。

 気付けば、地面の血溜まりはかすかに泡立ち始めていた。倒れたハンの流す血が、勢いよく沸騰しているのだ。摂氏六千度にまで達する超高熱のそれは、もはや溶岩に近い。実際、白煙をあげてアスファルトは溶け落ち、ハンの周囲には赤い炎が広がってゆく。

 どくん。

「おいおい……心臓の音が、こんな大声なわけあるかよ」

 スコーピオンにはそうとしか聞こえなかった。すぐ耳元で脈打っている感覚さえある。

 また、地面の炎は震えた。

 まるで、この世ならざる異次元の足音に怯えるように。

 まるで、煉獄の胎内から、いままさに這い落ちんとする魔性の王を讃えるように。

 狂ったように激しく躍った鼓動は、しだいに、一回ごとのその間隔を短くしてゆく。

 音が途絶えるのは唐突だった。

「……!」

 スコーピオンの背後、燃え盛る強撚性の血液から、そいつは静かに身を起こした。操り糸にからんだ傀儡のごとく、ぎこちなく立ち上がる。尋常な生物の動きではまずない。

「だから、死んじゃっててもいいんだって。うん、ぜんぜん。がんばって生き返ってこなくたってさ」 

 声を裏返らせるスコーピオンの頬を、汗は包帯からなお滲みだして伝った。振り返ろうにも、その足は地に根を張ったかのごとく動かず、背中でつぶやく。

「そうか、なるほど。うっかり忘れてたよ。今の時代、この世もあの世も結局は地獄だったな……おはよう。ひとつ提案なんだが、女みたいに泣いて逃げ出してもいいかい?」

 両手をだらんと垂らしたまま、ハンは答えた。

「……そいつは残念だ」

 ハンの瞳は、次の瞬間、爛とふたつの光点に姿を変えた。

 幾万、幾億もの血を吸った赤色へ。

 呪われた炎の色へ。

「あんたの悲鳴は……」

 囁きとともに、ああ、ハンの体は爆発した。正確には、その全身を突き破って、数えきれぬ本数の〝根〟が生えたのだ。見る者が見れば、その現象こそ寄生生物〝ダリオン〟の孵化、ないし発芽の瞬間だと叫んだに違いない。

 だが、ここからが違った。ハンの内側から顔を覗かせた大量の〝根〟は、しばし当てもなく蠢いたあと、思い立ったように方向転換したではないか。ハンの手を、足を、すべてを一片の隙間なく巻き込んだ〝根〟は、またたく間に硬い甲殻へと変じてゆく。

 ハンは告げた。

「あんたの悲鳴は、誰にも聞こえない」

 ノコギリのような尻尾は、嬉しげに地面を打ちつけた。

 蠢くその手の中から、鉤爪のこすれるおぞましい音が響く。

 花弁じみた口腔がゆっくり四方へ開くと、奥に輝いたのはおびただしい牙だ。

 雨につや光る甲殻の体は、この〝混血〟のモンスターを醜くも美しく飾っていた。

 決して呼び起こしてはならぬ獣の血を、死に瀕する傷が目覚めさせてしまったらしい。

 ハン・リンフォン……ダリオンハーフ。

「~~~~~~~~~ッッッ!!!」

 雨空めがけて、ハンは凄まじい咆哮を放った。まるで、この世のすべてを呪うかのような声だ。腰を抜かすことで、スコーピオンはようやく逃げる動きを可能にした。地面を這って後ずさりながら、震える指でハンの成れの果てを指差す。

「こ、こいつァ一本取られた! 惨殺はいやだ! カトレアちゃん!」

 返事もなしに、カトレアは一歩前へ出た。スカートの下、繊細なその指が両足のホルダーにかかったかと思いきや、カトレアの腕は左右それぞれかき消えている。

 雨を切り裂く輝きはふたつ。

 踏み込まれたハンの片足が、地響きをあげた。飛来した刃の円盤と激突したのは、ハンが素早く上下から繰り出した両手の拳だ。かんだかい響きを残し、円盤のひとつは横の倉庫を紙のように切断して消え、もう一方は海に飛び込んで水面を爆発させる。

 ゆるやかに両腕で円を描くや、ハンはぴたりと隙のない構えをとった。

「あらら……中国武術じゃん」 

 スコーピオンの結論は正しかった。

 だがそれでもハンは、開閉する花弁状の顎から、湯気をあげて涎をたらしている。おまけに、この獅子のごとき唸り声。ハン自身、どう見てもダリオンの肉体を制御できていない。完全な暴走状態だ。

 刹那、破裂音とともに、カトレアとハンは肉薄していた。ハンの掌と掌の間に絶妙のタイミングで挟まれ、カトレアの刀は止まっている。超電磁加速居合いに対しての異次元真剣白刃取りだ。今度は通さない。

 涼やかな音がこだました。高分子複合チタニウムでできたカトレアの刀が、いとも簡単にへし折られたではないか。同時に、数百キロを超えるカトレアの機体は、とんでもない勢いで後方へ蹴り飛ばされている。薄く煙をあげるのは、上体を深く落とし、背中を回って振り放たれたハンの踵だ。その柔軟な体術は怪物らしからぬが、体はまだ身につけた内容を覚えているらしい。

 倒壊した倉庫の瓦礫を払いのけ、カトレアは身を起こした。起こしかけた途端、その美しい顔は、鉤爪の手で乱暴に鷲掴みにされている。

 轟音をあげて、倉庫の支柱はまっぷたつになった。いったん引き寄せたカトレアの後頭部を、ハンがコンクリートのそこへ容赦なく激突させたのだ。もちろん、それだけでは終わらない。ふたたび溜めを作るや、今度は、目についた外の作業車にカトレアの頭を叩きつける。すかさず次の障害物へ、次へ、次へ。叩きつける、叩きつける、叩きつける。

 頭の形に陥没した太いパイプから、猛烈な白煙が吹きあがった。

 雨の下、ようやく手放されて、ハンの足元に落ちたのはカトレアだ。無惨に金属の骨格をさらした顔に始まり、体中を故障の放電が駆け巡っている。

 両手の拳を握り締め、ハンは勝利の雄叫びに震えた。

「今だ! カトレアちゃんッ!」

 バネ仕掛けのごとくカトレアが跳ね起きるのは、スコーピオンが合図したまさにその瞬間だった。左右から打ち込まれたカトレアの両腕には、装甲を割って現れた隠し剣が二振り輝いている。

 鋭い音が響いた。

 カトレアが断首したのは、ハンの残像だけだ。肝心のハンはといえば、体を丸めて回転し、カトレアの背後へ四足獣さながらに着地している。その腰から生えたギザギザの尻尾は、まだ綺麗な一直線を描いて硬直していた。そう、まるで研ぎ澄まされた剣のように。

 また背中合わせの状態だ。両手の刃を交叉したまま、カトレアは動かない。

 いや、動いた。ハンが静かに立ち上がり、力を緩めたその尻尾が地面をひと叩きした瞬間、カトレアの体は、頭頂部から下腹部まで輪切りになっている。

 ふたつになって地面に倒れたあとも、カトレアは無表情にどこかを見つめていた。雨を弾いて放電を弱めてゆくその体が、半分半分とはすこし皮肉だ。

「……ホイっ!?」

 足を滑らせ、スコーピオンは思いきり水溜りに転んだ。一目散に逃げる途中、頭上のクレーンを上下逆さまに四つん這いで走ったハンが、いきなり眼前に降り立ったのだから仕方ない。

 食われる……醜悪な花弁を口元で開閉するハンに対し、スコーピオンにできるのは、体の前で手を振ることだけだった。

「仕事とデート、どっちが大切かって? そりゃもちろん……あぷッ!?」

 殴り飛ばされ、スコーピオンは空中をきりもみ回転した。冗談や命乞いが通じる相手ではない。その体が水しぶきをあげて地面をバウンドしたときには、スコーピオンは白目を剥いて気を失っている。

 鼻血まみれのスコーピオンに馬乗りになると、ハンは大きく吠えた。もはや身動きひとつできぬスコーピオンの顔を、殴る。殴る殴る殴る殴る殴る殴る。ひたすら殴り続ける。 煙すらあげる包帯の顔めがけて、ハンは最後に腕を振り上げた。その鉤爪は貫手……とどめの一撃を形作っている。  

 雨の空が、真っ白に染まったのはそのときだった。


       Ⅸ


 その激しい輝きは、いったいどこから現れたのだろう。

 とにかく、大きい。奇妙な飛行物体は、なんとわずかな風や音も漏らさず、静かに雨の港に滞空している。

 飛行機ではない。最新鋭のヘリなどとも違う。

 UFO……異星人たちの空飛ぶ円盤だった。

 そちらへ振り向くや、飢えた唸りを漏らしたのはハンだ。胸倉つかんだスコーピオンの体を、ゴミのように横へ投げ捨てる。

 雨の中、ハンは走り始めた。時速百キロに達するまでは、一秒もかからない。UFOでもなんでも切り裂いてみせる……絶対的な自負に輝くのは、両手の鋭い鉤爪だ。

 穏やかな声が聞こえたのは、そのときだった。

「もう、戦わなくていいのよ」

 おお。

 その暖かい光を浴びた途端、ハンの疾走が鈍ったではないか。それだけではない。凶悪な爪を生やしていたハンの手は、またたく間に女の柔肌へと戻り、気付けば全身の甲殻は消えている。まるで時間が逆戻りするかのように。

 なにが起こったのだろう?

 惰性で二、三歩進んだあと、とうとうハンは地面にへたりこんだ。傷どころか、その体は衣服の破れに到るまですべて修繕され、治ってしまっている。ただし、見えない鉄鎖に雁字がらめにされたように、全身が動かない。幾度となく人々を癒したこの奇跡は記憶に新しいが、その力はますます強まっているようだ。

「クラスティア……」

 かすれた声で、ハンは呼びかけた。

 まばゆい光の中、静かにたたずむのはクラスティアだ。なぜじっとしている? 頭上高くのUFOを仰ぎながら、クラスティアは答えた。

「これ、あたしが呼んだの」

「……!」

「ぼろぼろになって、必死に戦うおばさんを見て、あたし思った。このまま、なにもしないのはいけないって。あたしも変わらなきゃ、って」

「まさか……ほんとに、アーモンドアイを従えるつもりかい?」

「うん。〝クィーン〟のお仕事はきっと大変だけど、やってみる。いままでみんなが守ってくれた分、今度はあたしがみんなを守る番。全部の半分のアーモンドアイは、すぐに賛成してくれた。やっぱりみんな、この星の自然の眺めや、小鳥の歌、青い海が好きなんだって」

 クラスティアはほほえんだ。

「戦争はいったんお終い。またね、おばさん」

「待って!」

 ハンは手を伸ばして叫んだが、届かない。

 クラスティアの姿は、UFOの光へ吸い込まれてゆく。

「今度また、おばさんのレストランに行かせてもらうわ。他のみんなも一緒かもしれないけど、そのときは、怒らず注文を聞いてね。約束だよ?」

 その囁きを最後に、港からはぷっつり輝きは途絶えた。

 いつの間にか、雨はやんでいる。クラスティアとUFOの姿は、もうどこにもない。旅立ったのだ。耳に届くのは、打っては寄せる切ない潮騒だけった。

「………」

 ひざまずいたまま、ハンは動かなかった。

 水溜りの弾ける音。やり場のない感情をこめて、ハンが地面を殴ったのだ。何度も何度も……うなだれた彼女の顔の下、雨ではない塩辛い水滴は、ぽつぽつと水溜りに波紋を生んでいる。

 水面に反射する泣き濡れた自分へ、ハンはつぶやいた。

「約束しただろ……あたしのことは、おねえさんか、ハンと呼べって」



 ところかわって、港の倉庫。

 床や天井、輸送コンテナや壁といわず、倉庫内はあらゆる場所が破壊され、陥没している。めらめら燃える炎の中、ひとり立ち尽くのは傷だらけのジェイスだった。

 次から次へと彼に襲いかかっていた敵の姿は、すでにひとつ残らずない。戦いは唐突に終わったのだ。おぞましい死神の群れは、ふと何者かの指示を聞いたように、そこかしこの闇へ揃って身を消している。

 女王に命じられたのだ。

 無表情に、ジェイスは窓を見上げた。

「………」

 雲の切れ間からは、美しい星空が顔をのぞかせていた。


       Ⅹ


 クラスティアの一件以来、特殊情報捜査執行局〝ファイア〟の仕事はずいぶん楽になった。

 その大きな要因は、アーモンドアイがまっぷたつに分派……過激派と穏健派に別れたことに端を発し、また、異星人の煽動者である諸悪の根源〝スコーピオン〟を政府が逮捕したことにもある。身を犠牲にしてそのマニフェストを果たした少女の存在は、あまり知られていない。

 つまり、クラスティアは立派に約束を果たしたのだ。

 西暦二〇七一年、六月十二日。

 午前九時二十一分……   

 中華街。

 その真新しい中華料理店の名は〝双龍居〟。ちょっと前にマフィアの抗争に巻き込まれて潰れた店にかわり、場所を移して新装開店したのだ。

 ただ、肝心のコックにはいまいち元気がない。開店時間も近いというのに、店内の席にひとり座って、ハンは力なくテーブルに突っ伏している。

 差し込む朝日から、ハンは逃げているようだった。そこだけ動いた手が、テーブルの拳銃を撫でる。そして、おもむろに遊底を引くや、ああ。ハンは、自分のこめかみへ銃口を当てたではないか。

 いつものことと言えばそれまでだが、ここ数日間、ハンは何度もこんな動きばかり繰り返していた。重要な成功例をみすみす取り逃がした容疑で、嫌というほど政府の審問につつかれたせいもあるが、それだけではない。

「なにが〝約束〟だ。なにが〝守る〟だ。あたしなんてただ、適当に暴れて、大口叩いてるだけじゃないか……ごめんね、本当に。ごめんね」

 うわごとのようなハンの独白には、嗚咽さえ混じっていた。

「あたしには、なにひとつ守れない。ただ、壊して引き裂くだけだ」

 拳銃の引き金にかかったハンの指は、かすかな音をたてた。

 今日こそうまくいきそうだ。

 店の扉が、どんどんと叩かれたのはそのときだった。

 乱暴なノックからは、知性のかけらも感じられない。プレートに記された準備中の文字も読めないとは、どこの国の出身だろう。当然、居留守を決め込むつもりだったが、いつまで経っても音がやまないものだから、ハンはついに席を蹴った。

「馬鹿が……いい夢見れそうだったのに」

 後ろ手に拳銃を隠すと、ハンはおもいきり険悪な顔で入口を開け放った。降り注いだ陽光に、思わず瞳を細める。

 予想通り、立っていたのは変質者だった。ひどい寝ぐせ頭をおさえつける黒いソフト帽に、喪服のような同色のスーツ。特に、顔を隠すまん丸のサングラスと、その胸元にかかった十字架のネックレスは、世間に対して後ろめたいことがある証拠だ。

 ハンは気の抜けた顔をした。 

「あら」

「よう」

 呑気に片手をあげた男は、政府のエージェントだった。溜息をついたのはハンだ。 

「ロック・フォーリング……あたしを狙撃するなら、もっと遠くからでもいいだろ?」

「いや、な。なかなか乙なもんだぜ。ぴったり体と体をくっつけて、安い銃をぶっぱなすってのも」

 ずかずか入店すると、ロックは遠慮なくファミリー席を陣取った。くわえたタバコに火をつけながら、えらそうに言い放つ。

「ツバメの巣ひとつ。あとキムチ。ビールは先に持ってこい」

「あんたねえ……あたしの店は午前中、禁煙だ。それに、仕事はどうした仕事は。ちょっとばかり世の中が平和になったからって、朝っぱらから呑んだくれてんじゃない」

「いいか、ねえちゃん。これは礼拝と一緒だ。朝、昼、晩、明け方、澄んだ心で神様と対話するためにゃ、ずっと頭をアルコールで消毒し続けなきゃなんねえ。そう、そうなんだよ実は。いつだって神父様の言うことは正しい」

「イカれてるんだね、完璧に……」

 硬いアラーム音が、店内に響くのは唐突だった。ハンの腕時計からそれが鳴るということは、血清の投与の時間だ。顔をしかめて、ロックは蠅でも払うように手を振った。

「うるせえぞ。止めろ」 

「なんだい、フォーリング。〝青虫〟を届けに来たんじゃないのかい?」

「俺が? なんでそんな、めんどくさいこと。ま、代金によっちゃ用立てしてやってもいいけどな。アッパーからダウナー、生理痛薬まで」

「……知ってて言ってるんだね? 〝青虫〟を打たないと、あたしがどうなるか」

「人間の部分が食われちまうんだろ? ねえちゃんの半分の〝ダリオン〟に」

 即答して、ロックは懐へ手を入れた。テーブルの上に転がされたのは、空気圧式の注射器だ。中には、たっぷりと血清の液体が満たされている。ハンは皮肉な笑みを浮かべた。

「やっぱり。ちなみに聞くが、〝打ちたくない〟ってあたしが言ったとしよう。あんたならどうする?」

「どうもしねえよ。そいつの引き金を引くのはねえちゃん自身だ。俺はただ、黙ってビールとアテのキムチを待つだけさ。いつだったっけ……あのポンコツタクシーの中で言ってた〝ほんとは打ちたくない〟ってのは、本音だったらしいな」

 帽子とサングラスをテーブルへ置くと、ロックは頭をかいた。イスにふんぞり返りながら、続ける。

「俺がねえちゃんの立場だったら、迷わず打つね。この世にゃ、薬そのものが足りなかったり、薬で治そうとしたって死んでく人間も大勢いる。じゃあどうするよ? 打って生きれるんなら、とっとと打つべきだ。悪いが、ねえちゃんの細かい事情は知らねえ。だが少なくとも、自分の半分ごときに負けてる場合じゃねえだろ? 俺たちにはまだ、なくしちまった大事なものを探す仕事が、山ほど残ってるはずだ。な?」

「大事な、もの……」

 うつむいたまま、ハンはその言葉を口の中で反芻した。

 その横顔を不意にかすめたのは、あきらめたような笑みだ。そこにはなぜか、さきほどまでの絶望じみた色はない。それとなく腰の拳銃に安全装置をかけると、ハンはもういちど微笑んだ。

「ほんと、あんたの行くとこ全部、懺悔室だ」

「あん? なんか言ったか?」

「なにも。神父様」

 放りっぱなしだったエプロンを腰に巻くと、ハンは厨房へ向かった。血清は手元を狂わせるので、打つのはすこし後でもいいだろう。腕まくりして手を洗いながら、ハンはロックにたずねた。

「ツバメの巣、だったね?」

「やっぱ、ビールは駄目?」

 西暦二〇七一年、六月十二日。

 午前九時三十四分……   

 街は、いつもどおりの喧騒に包まれていた。


♯04 Stoper knock out

みなさん、おつかれさまでした。

長い間Fire〝ファイア〟を応援いただき、本当にありがとうございます。

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