Inning ♯04 混血 (前)
……これら九つのピラミッドは、天の子たちが乗る〝龍〟を迎えるための目印だ。
〈中国西安、奉嶺山脈の伝承〉
「おいおい、一緒にしないでくださいよ。俺だって昔は信じてました。空のずっと高いとこにゃカミサマがいなすって、ふわふわ浮かぶ天使たち」
「この防弾ガラス、だんだん懺悔室の戸に見えてきたわ。じゃあ教えて、神父様。女の半分は何でできてるの?」
暗闇に、白い光が舞っていた。
雪?
違う。羽根だ。向こうが透けて見えるほど薄い羽根が、百枚、千枚、一万枚。
夜の道路に降っては消えるそれは、実のところ高度な電磁加速兵器の副産物だった。時を同じくして、ここを起点に半径数十キロの範囲を襲った大停電は、周辺の市街地を石器時代に逆戻りさせている。
つまり、食ったのだ。どこかの誰かが、とてつもない量の電力を。
「グッドラック」
キザっぽく囁いた男……ロック・フォーリングの腰に、奇妙な稲妻をひいて拳銃は納まった。納まると同時に、見よ。夜空のはるか彼方、正確な電磁加速投射に中心部を撃ち抜かれた何かが、大爆発を起こしたではないか。ロックに撃墜されたそのUFOは、火の玉と化して落下し、一瞬、シェルター最終防壁近くの山並みを明るく照らした。
西暦二〇七一年、三月七日。
サーコア郊外の森林公園。
午後九時十分……
エワイオ空軍基地における一連の〝焼死体〟事件の発端となる場所だった。
「熱ち!」
ガソリンの炎に、ロックは目を細めた。くわえたタバコに火がついたのを確かめ、あわてて身を離す。車体をなかばから切断されて、轟々と燃える黄色いタクシーから。ライターはない。
今の今まで、ロックは戦っていたのだ。地球外生命体〝アーモンドアイ〟の群れと。
「……ん」
道ぞいの芝生から聞こえたのは、切ない喘ぎ声だった。
だらしなく倒れたまま、その若い女はまだ気を失っている。アーモンドアイに攻撃されたタクシーから、爆発の寸前、間一髪でロックに助け出された乗客だ。何にうなされているのか、時折、中華風ドレスの太ももを艶めかしく身もだえさせる。
「たまんねえな。たしかにこりゃ半分、モンスターだ」
タバコの先っちょで十字を切ると、ロックは次に背後を見た。
こちらは、おお。燃えるタクシーの横、タールのごとき真っ黒な水たまりに、倒れたまま動かない人影がある。人? いや、違う。この惑星の生物ですらない。栄養失調を思わせる細長い手足にくらべ、さきほどロックの銃に撃ち抜かれた頭部は、異様なまでに巨大だ。およそ四十億年前の大昔から、この惑星にちょっかいをかけ続けるこの異星人を、現代の政府はこう呼ぶ。
〝アーモンドアイ〟
かさ、と音がした。
枯れ枝のようなアーモンドアイの指が、かすかに地面を掻いたのだ。死後痙攣?
道路脇の女を起こしに向かうロックは、まだ気づいていない。癖毛のひどい自分の後頭部を、いつの間にか、静かに見つめる第三の視線に。その名のとおりアーモンド型につりあがった瞳からは、漆黒の体液がいまもおびただしく滴っている。
音もなくアーモンドアイは跳ね起きた。ああ、ロックは振り向かない。四つん這いのまま、アーモンドアイが昆虫のごとく背後へ駆け寄ってくると言うのに。
襲いかかると同時に、アーモンドアイの体は爆発的にふくらんでいる。華奢だった手足を、体を、さらにはその顔を飲み込む真っ黒な流体装甲。ぼろぼろの黒マントから飛び出した腕の中、輝いたのは金属質の長大な棒だ。光の粒子をまきちらして、棒の先端にはレーザーでできた鋭い鎌状の刃が形成された。
死神。
単式戦闘型〝アヴェリティア〟
光の大鎌は、次の瞬間、ロックの頭を唐竹割りに貫いた。
貫く刹那、死神の巨体は、物凄い勢いで真横へ吹き飛んでいる。
「あん?」
ロックは素っ頓狂な顔をした。振り返ったはいいが、自慢の拳銃はまだ半分、腰のベルトに挟まったままだ。まさに危機一髪。
「迎えに現れたわけだね、死神が」
その囁きは、甘くロックの耳に忍び込んだ。それはそれは、蜂蜜をたらしたようにハスキーな女の声。続けて、声は言い放った。
「あたしゃ、その死神を迎えにきた」
死神に飛び蹴りを浴びせた勢いそのままに、鮮やかに宙返りを放って、その声の主は道路へ降り立った。
「……!?」
ロックは顔を強ばらせた。
タクシーの炎が逆光になって不確かだが、ロックの目からも、襲撃者のしなやかなシルエットだけは鮮明だ。中世の甲冑のごとく尖ったその細い体は、全身からときおり有機的な白い輝きを照り返し、くびれた腰から伸びて揺らめくノコギリ状のこれは……尻尾
「……冗談だろ?」
つぶやいたロックの頬に、汗が光った。燃え盛る炎とは別の何かにさらされて。 見たことがあるぞ。あの人影の手の内側で、うれしそうに擦れあう鉤爪の鋭さ。聞いたことがあるぞ、この嫌な音。人影がこらえきれずに漏らした大量の唾液が、道路に落ちては弾ける響きだ。
知っているぞ、あの怪物。
ダリオン。
だが、なぜこんなところに?
ロックの困惑と恐怖を悟ってか、ダリオンはいたずらっぽく笑った。
「なかなか面白かったよ、さっきのおとぎ話」
「しゃ、しゃべりやがった!?」
「しゃべって悪いかい。そんなにコミュニケーション下手に見える? あたし?」
ダリオンは心外げに肩をすくめた。
かつかつ歩く音を鳴らすのは、ハイヒールのように尖ったその踵だ。胸部から下腹部にかけてのその魅惑的な凹凸は、一種、限りなく人間の体型に……それどころか、人間でいうトップモデルに近い。ダリオンの向かう先には、倒れて動かない死神がいる。
ダリオンは続けた。
「あれだね、あんたのおとぎ話。慈悲たっぷりに天国でほほえむ神様。そのまわりで、夢みたいにラッパを吹く天使、天使、天使。だが……」
「よけろ!」
ロック自身、人類の捕食者〝ダリオン〟に対し、なぜそう警告したかはわからない。
止める間もなく、飛び起きた死神の鎌は、下から上に光を残していた。
鋭い音。
真っ黒な液体がしぶく。目にも留まらぬダリオンの回し蹴りが、死神の右腕を、大鎌ごと切り飛ばしたのだ。
ダリオンが格闘技だと? あの理性のかけらもない異次元生物が?
美しい上段蹴りを放った姿勢のまま、ダリオンは語った。
「だが、毎夜毎夜、あたしの枕元で読まれる絵本の話は、こうだ」
残った片腕を、死神は手刀に変じた。風を切って、ダリオンの頭部へ打ち込む。
低く重心を落とすと、ダリオンの両手は美しい円を描いた。巻き取る形で死神の手を防ぐや、同時に、超上段のハイキックを一閃。まっすぐ夜空を向いたダリオンの足の先、まともに食らった死神の仮面が、亀裂を走らせてのけぞる。鮮やかな動きだ……中国武術?
「地面の底、ずっと奥底、熱く焼けた地獄の門の前には、恐ろしく大きな番犬がいる」
歌うように口ずさむダリオンの眼前、死神の手は黒マントの奥へと沈んだ。
横一文字に光が走る。地面すれすれまで足を広げて、それを回避するダリオン。死神の手で空気を焦がすのは、高熱のレーザーで形成された短剣だ。水際立った柔軟性を見せつけながら、ダリオンは言葉を継いだ。
「門をくぐった先、先の先、血の池で罪人と踊るのは……」
しめった音がした。
立ち上がる反動を生かして、閉じる牙のごとく放たれたダリオンの拳ふたつが、死神の顔と腹を同時に直撃したのだ。拳ごと死神の巨体にめりこんで、その背後まで貫通する衝撃。次の瞬間、爆発した死神の背中から、小さな人影が飛び出したではないか。
くの字の姿勢で宙を吹き飛ぶのは、本体のアーモンドアイだ。そのまま炎上するタクシーに突っ込んで、おびただしい火の粉を散らす。パワードスーツの操縦者をうしなった死神が、黒い花火のごとく破裂したのは、ダリオンが左右の拳を引き戻した瞬間だった。
「踊るのは……悪魔」
物語をそう締めくくると、ダリオンは構えを解いた。
腰の拳銃を握りしめたまま、目を剥いたのはロックだ。ダリオンがこっちに振り返ったではないか。
なんだろう。ダリオンが笑った気がした。その口元で開いたり閉じたりを繰り返す物体は……花弁?
ダリオンは首をかしげた。
「こういうのは初めてかい? 坊や?」
盛大な炎を背景に、ダリオンは歩き始めた。長い蛇のような尻尾を波打たせながら、かつかつと。かすかに電磁場の稲妻を溜め始めたロックを、愉快げになだめる。
「そう固くなりなさんなって。優しくしてあげるから」
ダリオンの手が出た。白魚を思わせる繊細な手。
足が出た。小鹿のように細く形のよい足。
黒い影は、完全に闇を抜けた。
ロックの眼前にたたずんでいたのは、ひとりの女だ。まちがっても、あんな寄生生物ではない。女は軽く腕組みしたまま、頭ひとつ高いロックの顔を上目遣いにしている。猫のように微笑む挑戦的な瞳。きわどい中華風ドレスの胸元を隠しもしない。
そして、この恐ろしいほどの近距離。思わずのけぞったロックから、甘ったるい香水の香りと、なにかの柔らかな感触が離れる。さも残念そうに女は朱唇を曲げた。
「ふふ、かわいい。仕事っぷりは聞いてるよ、エージェント・フォーリング」
間違いない。この女、さっきまでタクシーの後部座席で酔いつぶれていた女だ。にしては、口調も表情もがらりと変わっている。ロックは目をそらして答えた。
「人違いだな。そんなに快適だったかい? 俺の運転?」
「次はあたしが運転されたいくらい」
ロックは、かすかなくすぐったさを感じた。
いつの間にか女は、ロックの胸元に妖しいのの字を描いている。こんな綺麗な指先に冒涜されては、ネックレスの十字架もさぞ幸せに違いない。ただ、この細腕が、いかに死神を……地球外科学のパワードスーツを破壊する?
声を低めて、ロックは疑問を口にした。
「何者だ、ねえちゃん?」
「悪魔みたいな天使か、天使みたいな悪魔。今夜のお相手はどっち?」
「……!」
ちらりと横目にした女の手首を、ロックは反射的にもう一度見た。驚愕に口を開けたままのロックへ、わざとらしく問うたのは女だ。
「時計が気になる年頃かい、シンデレラ? 気づいたようだね」
時計?
そう。この美女にしては無骨すぎる手首の腕輪……銀色の腕時計。どこかで見たことがある。あるどころか、ロック自身が左手につけるものと全く同じだ。この政府お手製の時計には余計なオプションも多いが、重要なのはふたつの機能だけだ。
一に、絶対外れない。
二に、自爆装置。
顔を覆って、ロックは夜空をあおいだ。
「〝ファイア〟……やられた。特殊情報捜査執行局か、ねえちゃんも」
「何度も本部ですれ違ってるってのに、これだ。ま、いいよ。そっちが覚えてるのは、どうせ、あたしの腰から下だけだろ」
「タクシーの中でやった推理ごっこ、ぜんぶ演技だったんだな。そんなヒマあるなら、手伝ってくれよ……ん?」
ふと、ロックは瞳を左右させた。ちいさな電子音が聞こえる。確かめたが、こちらの腕時計からではない。
ドレスの肩紐と、タイツの付け根を手直ししながら、女はささやいた。
「時間だ」
「えっ」
ロックは目を丸くした。時計のアラームを止めたその手で、女がどこからともなく取り出した物体はなんだろう。拳銃によく似たてのひらサイズの物体だ。
注射器だった。空気圧式の。
「えっ」
ふたたび、ロックは間抜け顔を作った。優雅に髪を払い、剥き出しの首筋に針をそえるや、ああ、女がためらいなく注射器の引き金を引いたではないか。かすかな射出音。ぶるっと身震いした一瞬後には、女の顔はすでに虚ろだった。眉をひそめたのはロックだ。
「おいおい、中身はなんだ? そりゃマズいだろ」
「だ、大丈夫……あたしはハン。ハンって呼んで」
「ハン……あのハン・リンフォンか。ときどき腕時計から流れる声、やけに色っぽいと思って聞いてたよ。〝ファイア〟ナンバーワンだって言うエージェントの噂と一緒に。っておい、危ない」
ロックが手を伸ばすも、ハンは倒れそうでなかなか倒れない。
娼婦、ヤク中、暴力の三拍子。落ち着いて胸元で十字を切るロックへ、ハンは弛緩しきった顔でつぶやいた。
「で、でも、おかしいね」
「ああ。イカれてるよ、完璧に」
「あたしの記憶が確かなら、タクシー屋の役は色男のジェイスのはずだ。配置転換かい?」
「局長に言ってやってくれ。俺の本業はもちろん、許しと免罪符の出張販売所……聖なる神父様さ。マジで」
「そいつはいい。あんたが行く場所、どこもかしこも懺悔室に早変わりじゃないか。タクシーの中も、ベッドの中も……あたしの中も」
「はいはい」
疲れた顔で、ロックはタバコをくわえた。火を探すより早く、タバコの先端にハンの細身のライターが差し出される。体こそ斜めに傾いているが、この手際よさ、やはり夜の仕事のそれだ。ライターの火を憮然とタバコにもらって、一呼吸、ロックは紫煙につぶやきを乗せた。
「エージェント・ジェイス……あの不感症なら、バナンの廃墟に弾丸出張だよ。カトレアのお人形ちゃんと、仲良く指をからめて」
「機械も濡らすいい男、か。腰の奥がうずきっぱなしのあたしも、機械?」
ハンの手は、ロックの無精髭の顎をねっとり撫でた。その指先は、やがてロックの唇に辿り着く。
紫煙をひいて掴み取られるタバコ。ロックも困った顔だ。代わりにタバコは、薔薇のつぼみに似たハンの朱唇にくわえられている。
薄く吹かれた煙からは、やはりかすかな花の香りがした。
「安い葉っぱだねえ」
にこやかに非難して、ハンは指先からタバコをはじいた。
闇に赤い螺旋を描くタバコ。それが道路に落ちて火花を散らしたときには、ふたりの影と影は重なっていた。今度こそゼロ距離だ。ロックの首筋をなぞったハンの手は、彼のネクタイに一秒だけ絡んで、徐々にそのベルトめがけて滑り落ち……
ロックの耳たぶを甘噛みしながら、ハンはとろける声でたずねた。
「こっちの味は?」
「OK、俺の負けだ。おっとり刀の隠蔽班が着く前に……」
銃声。
ロックの背後、アーモンドアイの頭は破裂した。最後の力で振り上げた指のレーザー光を消すと、タクシーの残骸が放つ炎に溶けて、そのまま静かになる。すっとぼけた声を漏らしたのはロックだ。
「えっ」
重なり合うふたり越し、目にも留まらぬスピードで抜き放たれた拳銃は、ハンの手で硝煙をあげていた。ロックの拳銃だ。手品のように回転させたそれを、ふたたびロックのベルトに突っ込んで、ハンは嘲笑に鼻を鳴らした。
「こっちも安かったね」
小さくお手上げすると、ハンの白い背中は歩き始めた。
Ⅰ
ビルとビルの間を、轟音が駆け抜けた。
空高い鋼のレールを、宙吊りのままのたくるのは色とりどりの龍……懸垂式の高速モノレールだ。朝に職場へさらった会社人を、夕になれば数千万の家庭へ突き返すこの乗り物は、世に不可欠な奴隷船、失礼、大動脈として、シェルター都市サーコアにも広く定着している。
ただ、最新鋭のモノレールも、眼下、この時代ばかりは運びそこねたらしい。巨大な駅そのものを押し流さんばかりに広がるのは、赤い異次元の俯瞰風景だ。
発展に乗り遅れた時代……中華街。
市場へ続く目抜き通りを、粘液の洪水のごとく人が行き交っていた。
通り?
「てめえ!」「ヒィ!?」「ぎゃははッ!」
人が三人並んだ途端、必ずハネだ慰謝料だの喧嘩が起きるのはなぜだろう。その狭苦しさ、蒸し暑さは、まさしく森の獣道。七色の湯気を噴く露店と露店が、店どうし握手できるほど軒を連ねた結果だ。
「ぎゃはははは……はあ、いいお天気」
急に涼が欲しくなったときには、それなりの財産と少しの勇気を持って、あの角を曲がってみるといい。正体不明の水棲生物の干物を量産する、古びた漢方薬店の角を。
レンガ造りの路地裏にはきっと、綺麗なお姉さんたちが、人前では絶対言えない格好をして待っているはずだ。もちろん、表通りと裏通りの合流点、光と闇の境目には、特定の稼ぎ頭しか立つことは許されない。ひとり見れば、その後ろには、ロケット鉛筆の無尽蔵さで後続の百人が控えている。
「ハイ、お兄さん。そのぐるぐる巻きの包帯、ほどき合いっこしない?」
「びっくりした。負けないよ、病気のうつし合いっこなら♪」
青龍、白虎、玄武、朱雀……東西南北の四聖獣に飾られた巨大な鳥居は、現代と中華街を隔てる目印だ。もっとも、その戸を叩いて帰ってくるのは、生命力にあふれた多民族国家の響きだけとは限らない。
聞け。繁栄する社会の器からこぼれ、貯水池のように溜まった闇、闇、闇を。その笑い声を。
麻薬に偽札、武器密造、臓器売買ときて殺し屋の斡旋。中華街では、あらゆるものが手に入る。代償に差し出すのは、カバンいっぱいの札束と、自分のどこか一部だ。まともな頭であれば、腐った水たまりを踏んだあたりが、もとの世界に引き返す最後のチャンスと悟るに違いない。
そう、まともであれば。
回遊魚のごとく自転車が往来する通りに、その中華料理店はあった。
「………」
中華料理店の中は、静かだった。気が遠くなるほど。厨房の蛇口から滴り落ちた水滴だけが、長く短いテンポを刻んで流し台を鳴らしている。
いや、もうひとつ。小刻みに響くのは、なにかのアラーム音だ。その単調で硬い電子の音調は、いらいらを通り越して狂気すら誘う。電話の着信音? 目覚まし時計? いずれにせよ、持ち主はなぜ止めない。一体、どのぐらい前から鳴り続けているのだろう。
病的なまでに磨き抜かれた厨房、業務用冷蔵庫、ガスコンロ。十人も座れば満員になる客席の端々には、遠く古い国の誰かが、幸福のまじないを込めて織った壁掛けが飾られている。
中華料理店〝福山楼〟
実のところ、中華とは名ばかりで、イタリア料理の雰囲気をほどよくハイブリッドさせたその味は、数ある中華街の店番付でも一・二を争う。
ただ、玉にキズなのは、幾何学的な法則すら疑える店の不定休。とある事情により……人類の存亡に関わる機密により、店主が表立った宣伝を拒み続けたためか、最近は雑誌の取材もあまりない。
隠れた名店。頑固者の美人シェフ。その謎主義が裏目に出たか、この店の噂は、一部の評論家気取りたちに広く知れ渡っている。
が。
「………」
なにをしている、この女。
福山楼のコック。特殊情報捜査執行局〝ファイア〟のエージェント。
ハン・リンフォン。
店内のテーブルに深々と突っ伏した彼女の体は、きつく巻かれたエプロン越しにも、すぐにスタイル抜群とわかる。わかるが、窓の光を映すその瞳のうつろさ。重度の二日酔いか、さもなくば何らかの精神疾患だ。
なにより、これはまずい。自分のこめかみに、ハン自身が押し当てる輝き。拳銃ではないか。本物だ。弾も入っている。
自殺?
耳障りなアラームは、ハンの細い手首から漏れるものだった。銀色に輝く腕時計から。
「………」
皮膚を剥がされるような激痛が、ハンの全身を襲った。
まだ幼く未発達な彼女の手に、足に、おびただしい数のコードが突き刺さっている。
いつの間にか、ハンは水の中にいた。息苦しく冷たい液体の中に。ぶ厚い培養槽のガラスに歪んで、外には沢山の白衣の人影が見える。
パニックを起こして暴れるうち、ふとハンは気づいた。視線の高さのガラスに、鋭い引っかき傷がついている。ちょうど五本分。指の数と同じだ。
その傷に触れようと手をもたげて、ハンは目を剥いた。悲鳴のかわりに吹き上がったのは、大量の気泡だけだ。
ああ。幼い手は、いまや鋭い鉤爪と化していた。爪の数も、ちょうど五本。強化ガラスに内側から傷をつけるといえば、これしかない。反射的にハンは、剥き出しの肩を抱いて身を守った。
だが、ハンに返ってきたのは硬い感触だ。肩だけではない。鋼のように頑丈な白い甲殻が、ハンの頭から爪先まで覆っているではないか。ここも、ここも、ここも。
おかしい。嫌だ。自分はふつうの人間……
体中を確かめるハンの手は、ぴたりと止まった。
いま、視界の端に見えた影はなんだ。呼吸のたびに、花びらのごとく閉じたり開いたりする物体は。
恐る恐る、ハンは震える指で自分の顔に触れた。
悲鳴……
「パスパス、ぱ、マックス!」
「あ、テリー、止め、わああ!?」
「!」
ハンが飛び起きるのは唐突だった。
店の外から、なにかの割れる音が響いたのだ。続いて、地元の少年たちの声は、元気いっぱいにどこかへ逃げてゆく。
握り締められたハンの拳、腕時計のアラームはまだ鳴りやまない。
「また花瓶割りやがったね……くそガキども」
絶望的な声でつぶやくと、ハンは倒れたイスを立て直した。ふたたび席に着くと、前髪をかきあげた手で、そのまま思いきり顔を覆う。
拳銃を片手に、ハンの溜息は震えていた。だめだ、今日こそうまくいくと思ったのに……〝血清〟の投与をうながす時計のアラームを、無視して止める。なにげなく見たその文字盤は、ハンに〝福山楼〟開店まであと十分と告げていた。
「畜生……今度、店の前でサッカー遊びしたら、ボール真っ二つにしてやる。手で」
銃をテーブルに叩き置くと、ハンはイスを立った。
いつからだろう。陽のそそぐ対面の席に、なにかが座っていた。
そう。テーブルの上に、たえまなく涎をたらす怪物が。
ダリオン。
笑っている。
「~~~ッ!」
あっけに取られたのも束の間、ハンはふたたび拳銃をひったくった。砕け散る水のグラス。ノコギリ状の尻尾を波打たせるダリオンの頭に、銃口を密着させる。
かすかな鈴の響きが聞こえたのは、そのときだった。
店の扉が開いたのだ。
「………」
まだ準備中の札も裏返してないのに、気の早い客だった。ただ、今は状況が悪い。悪すぎる。逆光にたたずむその男を見もせず、ぶつぶつ呟いたのはハンだ。
「かかってたよね、鍵?」
「ああ」
では、どうやって入った?
今日は陽射しがきつく、気温も高い。男もシャツの袖をまくりあげ、ネクタイを緩めている。それとは裏腹に、霜の張った仮面を思わせるその無表情。どこぞのタクシー運転手みたいな風情の男に、ハンは続けた。
「決まった。夢。ジェイス、あんたも夢だ。だってそうだろ。都合もタイミングもあったもんじゃない。この禁断症状が始まったあたりしか現れないなんて……なんか用かい?」
「ああ」
ハンと同じ政府のエージェント……ニコラス・ジェイスの答えはそっけなかった。
その間にも、ハンの身の震えは全身に伝わり、その指に伝わった震えは、しだいに握った拳銃の揺れをも激しくしている。
もちろん、ハンが自分で自分に向けた銃口のことだ。前の席には何もいない。あるのは木製のイスだけ。自己嫌悪と妄想、ひどい幻覚に彼女が苛まれているのは明らかだ。それでもハンは、死んだ魚のごとく濁った瞳で、なにもない空間を見つめ続けた。
「ちょうどいい、〝こいつ〟を始末しちゃくれないか? 聞いてよ、こいつ。あたしを食うことしか頭にないんだ。半分だけしか残っていない、あたしの人間のかけらまで。おっと、〝ファイア〟が後生大事にするのは、もう半分のこいつの方だったね」
白く血の気を失うほど握り締められたハンの拳銃は、このとき、暴発まで数秒を切っていた。力の入れすぎだ。狂気に満ちたハンの独白は、まだ止まらない。
「わかってるさ、ジェイス。血清……〝青虫〟を届けにきたんだろ。おあいにくさま、メーターの無駄だったね。試してみたくなったんだよ。薬なしで、どこまで耐えきれると思う? 目に入る人間ぜんぶの臓物をえぐり出し、年寄りの手と足と皮をちぎって、子供の首とか刎ねたくなるこの疼きに」
いつしかハンの腕時計は、ふたたび狂ったようにアラーム音を歌い始めていた。寝坊助にも安心のスヌーズ機能だ。
ハンは悲しげに笑った。
「ひょっとして、あれだ。縛りつけてでも打ってこいって命令かい? ジェイス?」
ジェイスの声は冷たかった。
「ああ」
人はそれを地獄と呼ぶ。逃げ道がないからこそ、地獄と呼ぶ。
Ⅱ
〈……まえまえから私は、仲間たちのやり方に疑問を感じていました。吐き気さえ覚えていた。組織は、くる日もくる日も人道に反した実験ばかりを繰り返す。かく言う私も、傍観を決めこむことしか知りません。おこなわれているのが、どれほど残酷なことかわかっていながら〉
〈とりあえず、あんたが勘違いしてることはわかった。ふたつ〉
走るモノレールの影は、代わる代わる地面に光と影を生んだ。
けたたましいその走行音に一瞬遅れて、下界を吹き荒れる突風。どこか憂鬱げにうつむいた歩行者たちに、頭上、蜘蛛の巣のごとく密集した線路を数える余裕はない。
駅の地下歩道は薄暗かった。たよりなく点滅するのは、等間隔に並ぶ電灯だ。普段から人通りが少ない壁には、スプレーの落書きがひどい。
ひん曲がった自転車の車輪も、からからと寂しい音を鳴らしている。おまけに、八つ裂きになったカバンから、風に持ち去られる会社の書類、学校の教科書。
なぜだろう。ひんやりとしたコンクリートに舞い落ちる書類は、どこまでも白紙だ。
「………」
男がひとり、大の字になって地下歩道に倒れていた。
酔っぱらいか、脳卒中か。
いや、違う。切り裂かれた男の体を中心に、地面に広がるこの奇妙な汁はなんだ。まちがっても血ではない。タールのごとくぬめるそれは、まさしく黒い池だった。
男の名はエドガー。エドガー・サイラス。
敵に襲われ、そして戦っていたのだ。
その証拠に、周囲の壁と道には新たな抽象画が生まれている。巨大な人型の血痕がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。こちらの液体もまた黒い。どろどろの液状に溶解した単式戦闘型〝アヴェリティア〟の流体装甲の中、沈むのは累々たる屍だ。
首を焼き切られたサラリーマン、胴体と下半身を分断された老人。買い物帰りの主婦ときて、ラフな格好の学生。まるで法則性はない。近代まれに見る猟奇殺人は、何気なくすれ違った瞬間に生じたのだ。
何気なく?
そしらぬ顔で交差点の人ごみに溶け込んだ彼ら市民……この被害者たちの皮をかむっていたものの正体を知れば、世界は戦慄するだろう。容器としての調整をほどこし、そっくり中身を掻きだした彼らの体には、当然、あってはならないものが潜んでいた。
異星人が。
牛や馬車があぜ道を行き交う時代から、ひとたび戦う姿に戻った彼らを、この惑星の住人は決まってこう呼ぶ。
腐った風に誇らしげになびくマント。魂を収穫する巨大な鎌。恐ろしい道化師の仮面。 死神。
驚くなかれ、そんな彼らにも内輪もめの概念はあるらしい。今回は、仲間どうしで互いを傷つけあったようだ。
なぜ?
生き残ったのは、死神のひとり、エドガーだけだった。
「エドガー、エドガー。起きて」
「………」
自分を揺らす感触に、エドガーはひどい寂しさをおぼえていた。
地下歩道で待ち伏せしていた〝家族〟を退けるのは、エドガーの特殊能力をもってしても限界に近かったらしい。実際、擬態である人体は動かなくなるほど破壊され、襲撃のもたらしたダメージは内部の核にまで及んでいる。〝アーモンドアイ〟と揶揄されるその真の姿は、人類からすればあまり気持ちのよくないものだ。
深い闇の中、声はエドガーを揺らし続けた。
「歌ってよエドガー。あれだよ。カエルさんのお歌だよ」
「………」
自分は死ぬ。
仰向けに倒れたまま、エドガーはそう確信した。徐々に虚無へ落ちゆく意識。死に際にだけ見えるというこの妙な光は、どうやら宇宙共通だったようだ。
光?
あたたかい輝きだった。やわらかい、どこか優しい、それでいて懐かしい輝き。
「!」
驚愕に見開かれたエドガーの瞳に、ちかちかする電灯が映った。
だが、瞳孔のないその目は、タールを封じ込めたように一面真っ黒だ。地球外の闇、アーモンドアイのなごり。まばたきすること数回、人間らしい黒目と白目がエドガーのまぶたの下に現れる。
なんと、エドガーは上半身を起こした。致命傷がうそのようだ。
隣には案の定、小柄な人影が体育座りしている。
錯覚か? 彼女が前にかざした手は、あわく光を放って見えた。
「これで歌えるね、お歌」
少女は目だけで笑った。
地獄に迷い込んだ天使か、はたまた街角に放置された西洋人形か。
おそらく十歳の誕生日もまだだろう。三角座りした丸い膝に隠れて、少女の表情はよく見えない。ただ、不純物なしの澄んだその眼差しは、直感的に睨みつけてしまったことをエドガー自身、軽く後悔したほどだ。こんな美術品は、ここにいてはならない。誘拐犯ならずとも、一秒で中華街の闇に連れ去られる。
驚くべきは、エドガーの着る人類の体だった。
痛みが消えているではないか。完全に。全身を見回しても、かすり傷ひとつ認められない。ついでに、衣服の破れまで修繕されているとは、まるで、死ぬ前まで時間をさかのぼった感覚だ。
守るべき彼女に、また救われた。
険しい顔でたずねたのはエドガーだ。
「力を……使ったのか、クラスティア?」
「怒ってる? エドガー?」
「………」
しばし沈黙してから、エドガーはクラスティアの頭をなでた。
エドガー・サイラス。この惑星風に与えられた名前だった。
今はもう、裏切り者の名前だったが。
人類の警察機関にまで根を張るアーモンドアイの追跡者が、都市のいたるところに掲げた指名手配写真の名前。〝実験体〟をさらって逃げた無謀な死神の名前。
悪くない名前だ。エドガーがそう思い始めたのは、よくその名で呼ばれるようになった最近からだ。そう思わせるのは、エドガーに残された最後の希望、彼女の存在だった。
実験ナンバーD‐0……クラスティア。
頭をなでる手に目を細めながら、クラスティアはつぶやいた。
「怒っていいよ。そのために〝戻した〟んだから」
「そのぶん君は、もう後戻りできなくなる……人間に。安易に力を使うのはよせ。自分の〝時間〟は、自分のために使うものだ」
だから、守らなければならない。
死んでは生き返り、生き返ってはまた戦う。
それでいい。
目がくらむほど真っ白な空間。
D‐0の部屋は狭かった。大人が両手を広げれば、楽に左右の壁についてしまう。おまけに、床をふくめた全方位がガラス張り。逃げようにも、出口そのものがない。まさしくモルモットの飼育箱だ。
必要最低限の部屋の調度品は、核攻撃に耐えうる材質なのはもちろん、角という角がぎりぎりまで丸く削られている。そこまでしても、他の実験体の発狂による自傷・自殺行為は後を絶たない。
小さいがふわふわのベッドは、D‐0も気に入っていた。その上で泳ぐ魚のマネをするのが、少女のもっぱらの楽しみだ。海と呼ばれる大きな風呂の存在は、絵本で見てよく知っている。
D‐0はさみしくはなかった。上と隣の部屋に、D‐3とD‐7がいたからだ。どちらも姿形がD‐0とよく似ている。
他の仲間たちとも友達になりたかったが、無理なことも多い。しゃべったり動いたりができないあの子は、代わりに黒色の根みたいな器官を体中から生やし、ある日D‐0が気づいたときには、部屋全部が蔦で見えなくなっていた。最初から手足がなくて、ずっと宙に浮いたままの彼にいたっては、いつも周りの誰かを食べたがってばかりで、口も聞いてくれない。
D‐0たちを隔てるガラスは、叩く音や叫び声をこれっぽっちも漏らさなかった。恐ろしいほど頑丈でありながら、跳ね返す力がケガを防ぐ不思議な材質。それでもD‐0たちは、身振り手振りのつたない手話と、自己流の読唇術だけで意思疎通できる。
直接会って話すなど以ての外だったが、D‐7とはますます仲がよくなった。ちょっと前にD‐3はベッドから起きなくなり、いつの間にかいなくなってしまったのだ。
ある日、がらんどうのはずのD‐3の部屋を見て、D‐0は驚いた。
人がいるではないか。顔も手も包帯ぐるぐる巻き、変な煙の出るニンジンをくわえた大人。げらげら笑ってばかりで分かりづらかったが、その人の口の動きは、D‐0からは確かにこう読めた。
変異。失敗作。標本にしちゃいなさい。
意味はさっぱりだが、D‐3はきっと絵本の国に行ったのだろう。うらやましい。お腹や頭に穴をあける前の注射は、痛くてしょうがないのだ。もっとも、包帯の人がこっちを向いたとき、D‐0はあわてて毛布の中に隠れたが。
包帯の人は笑っていた。
そんなD‐0も、いまは不思議の国の旅人だ。灰色のお城ばかりが立ち並ぶ電気の森。
真っ黒なアーモンド形の瞳をした小人たちが、まぶしい照明と刃物だらけの部屋に、D‐0を連れて行ったあの日から。その扉を、血まみれの手でぶち破ったエドガーと一緒に。 みんな元気かな。
D‐0はさみしくないよ。
二階建ての赤バスが、右に左に道路を通り過ぎた。
安アパートの階下にできた人だかりは、テーブル上で争われる詰め将棋に夢中になっている。中国でいう〝残局〟だ。
洗い上げられたシーツは、ガソリン混じりの黒い風に揺れた。持ち主ふくめ、臭いや汚れを気にする者などいない。端から端まで、中華街の空気はススまみれなのだから。どうしてもと言うなら、頭にかぶったポリ袋の口をしばるか、そもそも中華街に入らないでおくのが良いだろう。
「お花♪ お花♪ きれいなお花♪」
ホウキとチリトリを手に、中華料理店〝福山楼〟の前を掃くのはハンだった。
割れたプランターに、散らかった土。しおれかけた色とりどりの花。一方、それを手塩にかけて育てたハン本人はといえば、不気味なまでに機嫌がいい。ついに結婚が決まったか、はたまたバットで頭を殴られたか。道路をはさんだ福山楼の対面、鳴き声吠え声の大合唱の中、ペット屋の店主も難しい顔でハンの動向を見守っている。
「♪」
鼻歌まじりに、ハンはふと顔をあげた。じっと自分を見つめる視線に気づいたらしい。
中華料理店の前を横切るガードレールに、ひとり、小柄な人影が座っていた。絵に書いたような愛らしい少女。暇そうに足を揺らすその仕草は、また隅におけない。
「なぁに? お嬢ちゃん?」
ハンはにっこり笑った。彼女をよく知る政府の同僚が見れば、きっと天変地異の前触れだと嘆いたに違いない。ただ、愛想にあふれたハンの瞳の奥に、ひどく空虚な風が吹いていることを知ってか知らずか。可愛く小首をかしげて、クラスティアは答えた。
「すごいね、おばさん」
「だろ。頑張ってんだよ、おねえさんも」
ハンに投与された血清……〝青虫〟の効果は劇的だった。彼女の半分をむしばむ凶暴ななにかを、完璧に抑え込んでしまっている。むしろ、麻薬による躁状態にすら近い。
ラリっている。
クラスティアは続けて聞いた。
「体の中で、そんなものと一緒に暮らしてるなんて。おかしくなって、誰かを捕まえたくなったりしない?」
「するよ。するとも。もうちょっと大人になりゃ、たまの寂しい夜、お嬢ちゃんも人肌が恋しくなるさ」
「おとな。おばさんは、どうやって大人になったの? クラスティアもなれるかな?」
「いけるよ、クラスティアちゃんも。おねえさんと同じで、なんてったって元がいい。やり方はだね、まず気に入った男に……」
大声が聞こえたのはそのときだった。
「クラスティア!?」
おお、危ない。急停車した車のクラクションに謝り、人がひとり道路を渡ってくる。黒いサングラスの男。ガードレールに手をつき、息を切らすエドガーを見て、楽しげに手を叩いたのはクラスティアだ。
「キャハハ! 女みたいに長い買い物だったね! エドガー!」
「うるさい、いつか君もそうなる。レジが並んでたんだ。あれほど勝手に歩き回るなと……すいません、店員さん。お仕事の邪魔だったでしょう?」
ぺこぺこしてばかりのエドガーに、ハンは小さく首を振った。
「いーえ」
親子?
にしては、男と少女、いまひとつ似た特徴はない。クラスティアの目線までしゃがみ込むと、ハンは優しく微笑んだ。
「おっきくしてもらいな、クラスティアちゃん」
鈴を鳴らして、中華料理店の扉が開いたのはそのときだった。
なんだろう。クラスティアの肩に手を置いたまま、見開かれたエドガーの瞳。ただの容器にすぎない人間の体が、背筋が、本能的に冷や汗を吹くのを感じる。
エドガーのうしろに、なにかがいた。
ポケットに両手を入れたタクシー運転手が。切れ味鋭いその視線は、静かにエドガーの背中を射抜いている。
ハンの笑顔に、皮肉の色が混じった。
「これはこれは、ジェイス。終わったのかい、局長とのおしゃべり?」
「ああ」
ジェイスの答えは、驚くほど無愛想だ。
風にネクタイを揺らして、ジェイスは歩き始めた。凍ったエドガーの真横を、無言で通り過ぎる。その間のなんと長いことか。
魚群のごとく一塊になった自転車は、大勢で横断歩道を駆け抜けた。錆びた金属音の連続。それらが残らず通過したあとには、ジェイスの姿は影も形もない。
最初から、そんな男などいなかったのだろう。
「あら?」
「ん?」
ハンとエドガーは、ふと我に返った。ふたり揃って、中華料理店の周囲を見回す。油断した隙に、クラスティアが消えているではないか。ハンはつぶやいた。
「どこ?」
「あ」
エドガーはすっとんきょうな声を漏らした。
こぢんまりした中華料理店の奥だ。必死によじ登ったイスの上で、興味津々にメニュー表を開くクラスティアの姿がある。
頭痛でもするように、エドガーは眉間をもんだ。
「店員さん、コーヒーひとつ。あと、ツバメの巣は置いてるか?」
「もちろん。お子様ランチもできますよ?」
「頼む。ただし塩分は控えめで。中華は初めてなんだ。D……いや、クラスティアは」
……中華料理店に入るふたりは、最後まで気付かなかった。
向かいの雑居ビルの屋上、にやにやしながら自分たちを眺める人影に。
「み~つけた! ぎゃはははは!」
屋上のふちに片足を乗せたまま、人影は大笑いした。隙間なく包帯に巻かれた指で、耳元の通信機に触れる。
「また無視? カトレアちゃん?」
スコーピオンは、すこし残念そうだった。
Ⅲ
モノレールの振動に、地下歩道の天井からホコリが落ちた。
風に舞ったのは、しわだらけの新聞紙だ。
廃棄都市バナンへの大規模な空爆はじまる……新聞を飾る一面記事の内容だった。
サーコアから五千キロ離れたこの廃墟を拠点として、テロリストの一団が、長年かけて首都進攻の準備を整えていたことには、赤ん坊すらも驚いたに違いない。なにも知らずに突撃取材を試みたYNKテレビの一団、同じく、誘拐されたそれらを救助するため駆け付けた政府部隊とも、今のところ生存者は一切なし。政府が重い腰を上げるのもわかる。
「………」
硬い靴音は、地下歩道の壁によく反響した。道を這い上がる影は、光が少なければ少ないほど大きい。
出た。エージェント・ジェイスだ。ポケットに突っ込まれた両手。商売道具のタクシーは、ここを抜けたコインパーキングにとめてある。
ジェイスは知っていたろうか。たったいま通過した場所に、壁に、天井に、ついさっきまで凄まじい量の黒血が塗りたくられていたことを。異星人の死体は消えても、この吐き気をもよおす臭気ばかりは隠せない。
代わりに、唸りをあげる清掃車へゴミを投げるのは、作業服の中国人たちだ。聞き取りづらい早口の中国語で、なにやら熱心に会話している。
そして、錆びついた金網の向こう、点滅する電灯のみを頼りに、ゴールのないバスケットボールに興じる若者多数。冷たい支柱にうずくまるホームレスたちはと言えば、ほぼ工業用に近いアルコールに脳を賛美され、もはや失う意識も財産もない。まともな一般人であれば、五キロ遠ざかってでも迂回する汚染地帯だ。
そう、まともであれば。
おや。
ジェイスの足が、静かに止まったではないか。完全に軌道を操られた隕石と、太い荷電粒子ビームが交互に飛び交う戦場でも、近道と聞けば率先して歩くこの男の前進が。珍しい。
闇のどこかで、腐った水がしたたっていた。遠く風に乗って聞こえるのは、モノレール発着のかすかなアナウンスだ。
「………」
一体、いつの間に?
ジェイスのずっと後ろに、誰かが立っていた。
さほど間違っているとも言えないが、しかし、まったく奇妙なシルエットだ。
少しきつめだが糊のきいたスーツ。張り詰めたスカート。おまけに、美しい脚線の爪先を包むハイヒール。清潔さの奥にかくされたこの肉感、趣味が趣味なら、口笛のひとつも吹きたくなるに違いない。もちろん中華街の土地柄からすれば、こんな秘書風の女、気づいたときには身ぐるみ剥がされているだろうが。
OL?
〈ぎゃーはははは! ぎゃはははははは!〉
あられもないその笑い声は、女のどこかから響いた。
頭が痛くなるほど甲高い笑い声、聞き覚えのある悪魔の笑い声。笑う、笑う、笑いまくる。天地がひっくりかえっても、こんな堅苦しい仕事女の出すものとは考えられない。
無言のジェイスに、声は自己紹介した。
〈俺だよ俺俺! スコーピオン様だよ~!〉
スコーピオン?
神の名前だった。
あらゆる反政府主義者に武装革命軍、それに猟奇殺人犯や精神異常者が、そろって最後の希望とあがめる犯罪の申し子。人だけを狙う災害。テロのスペシャリスト。
イカれた包帯野郎。
そのスコーピオンの声で、女は続けた。
〈ぎゃはははは! ま、残念ながら! スコーピオン様は、この子のお口のスピーカーを借りてるだけなんだが!〉
スコーピオンの常軌を逸した危険さは、ジェイス自身もよく知るところだ。政府の特殊情報捜査執行局〝ファイア〟が、総力をかけて追う凶悪指名手配犯。西ジノーテの廃病院にて発生した戦闘により、一応は死んだものと判断されていたが……
〈その節はどうも! エージェント・ジェイス! 相変わらずだな! 待ちぼうけ食ってるかわいこちゃん相手に! その冷たさ!〉
よみがえったスコーピオンの声にも、ジェイスは眉ひとつ動かさなかった。
おお、見よ。絶え間なく拡大・伸縮を繰り返す女の瞳孔、その奥の奥を。おびただしい数値の入り乱れる女の視界画面は、すでに、ジェイスの後ろ姿にロックオン表示を重ねている。
人間ではない。女はアンドロイドだった。
〈なあなあなあ、ジェイス。いいかげん振り向いてやんなよ。この子はちょっと前まで〝ファイア〟で一生懸命ご奉仕してたんだぜ。お前と同じ、操り人形♪〉
語るスコーピオンの足元、排水口の隙間から、小さな光点がのぞいた。ふたつ。よく肥えたドブネズミだ。
いや、ネズミは一匹だけに留まらない。押し合いへし合い、地下歩道の隙間から、壁の亀裂から現れる百匹、千匹、一万匹。汚れた絨毯のごとく流れるネズミの大群は、たしかに歩道の出口を目指していた。殺気の手から逃げ切れなかった何割かが、腹を見せて痙攣しているのはご愛嬌だ。
原因はすぐにわかった。
一心不乱にバスケに汗を流していた若者たちが、ぴたりと止まったではないか。ひび割れたアスファルトを、点々と跳ねるボール。獣めいた生命力に支えられた若者たちの視線は、もうそれすら見ていない。
たくましい清掃員たちの手から、なにか諦めたように、都市指定のゴミ袋は落ちた。酒瓶の砕ける音に目をやれば、続々と立ち上がるのはあのホームレスたちだ。
不気味な漆黒に輝く彼らの眼球は、もはやその体が、ただの容器にすぎないことを意味している。アーモンドアイたちが〝着る〟かりそめの姿。
死神。
歪み始めていた。次元そのものが。絵の具を落とした水のごとく。
死神たちの顔は、それぞれ同じ方向を見ていた。
ジェイスを。
ゆっくり死神たちが取り囲むジェイスへ、囁いたのはスコーピオンだ。
〈健気なんだぜ、この子。バナンの廃墟でたったひとり、〝ダリオン〟百匹を道連れに自爆したんだな。ばらばらになった女の体を、また一から組み直す仕事は、昔やったオトナのパズルにそっくりだったよ。んん? ここまで種明かししても、まだわかんないの、ジェイス? なら仕方ねえ。あらためて自己紹介といこう、愛しのマタドール。コンニチワ、ワタシの名前は……さ、言ってみ〉
モノレールのヘッドライトは、高速で闇を切り裂いた。
アンドロイドの女の髪が、突風になびく。美しい。美しいが、どこか作り物めいたその光沢。なんの冗談だろう。光と影が交互に照らす彼女の顔には、目鼻はおろか口もない。
仮面をかむっているのだ。悲しげな涙と同時に、楽しく笑うピエロの仮面を。
彼女もまた、死神だった。
〈早く早く! こうでしょ! ワタシは、特殊情報捜査執行局〝ファイア〟の元エージェント。ワタシは、マタドールシステム試作一号機……〉
せかすスコーピオンは無視して、女の片腕は消えた。
ふたたび現れたその手の中、バトンのごとく高速回転した物体はなんだ。長い長い鉄棒の輝き。上下に彼女の頭を越え、左右に腰を抜けて回転した鉄棒の風鳴りは、やがて、その先端を真正面へ向けて止まった。ジェイスの背中めがけて。
合図だった。殺れ、と。
死神たちの握る大鎌が、レーザーの灼けた音をたてるのを満足気に聞きながら、スコーピオンは言い放った。
「マタドールシステム試作一号機、カトレアちゃんだ!」
無数の大鎌は、次の瞬間、ジェイスの影を串刺しにした。
厨房の窓に目を向けたまま、ハンは止まっていた。
「?」
今、なにか聞こえた気がした。小さな小さな、虫ほどの笑い声。性懲りもなく、また悪ガキどもが舞い戻ってきたのか?
まあいい。ひとつ首をかしげて、ハンはふたたび手を動かし始めた。透き通ったオイスターソースをまぶすや、中華鍋の底から火柱があがる。
いれかわりに、外からはかすかな騒ぎ声が聞こえた。
低賃金の見直し、不当解雇の根絶、前途ある若者に未来を。ひとめで手作りと知れる横断幕を閃突に、十人十色のプラカードを掲げるのは労働者のデモ隊だ。喧嘩じみた叫びの合唱と共に、彼らはいましも福山楼の前を通り過ぎつつある。
店内のテーブルに身を乗り出したまま、クラスティアの瞳は輝いていた。おずおず行儀をただしたのは、イスに半分立ちかかった足を、エドガーに注意されたためだ。不満げにふくらむ色白のその頬。彼女の興味は、店の棚から選んできた絵本ごときを、報告書のように読むエドガーの寡黙さにある。
「倒されたヒーローに上着をかけると、保険屋さんは怪獣のほうを向いた。保険屋さんは言う。〝こんなとき、はいって安心、ハニー損保の怪獣保険〟。保険屋さんは、ぽきぽき指を鳴らして、屈伸運動を始めている。怪獣と喧嘩するつもりだ」
「ストーリーのひきのばし? のんびりするなら亀さんでもできるよね? エドガー」
「………」
唇をへの字に曲げて、エドガーは絵本から顔をあげた。小さくテーブルを叩いて催促してくるクラスティアへ、咳払いして続ける。
「ヒーローはことわった。〝すまないが、乗らん。あれだろう。船で事故にあったときのあれ〟。保険屋さんは答える。〝海上保険ではございません。〝怪獣〟保険でございます〟。怪獣のほうへ駆け出しながら、保険屋さんは最後に言った。〝ぜひ、ご加入を〟……おしまい。なに涙目になってる? クラスティア?」
「プ。ククク」
こらえきれず、しまいにクラスティアは笑い始めた。手をたたき、足をばたつかせて全身で喜びを表現する。こういうところは、やはり子供だ。絵本とクラスティアを交互に見比べながら、エドガーは不思議そうにつぶやいた。
「語り手がよかったか。子供向けにしては、やけに社会的な物語だとは思ったが」
「キャハハ! わけわかんない! バトルばっかりで中身もない! 読む人が悪いね、かんぜんに!」
「~~~ッ!」
音をたてて絵本を閉じると、エドガーは手を伸ばした。いつものことだが、怖い顔。げんこつを予想してか、クラスティアも頭を抱えている。父親代わりとして、たまにはこういうスキンシップも必要だ。
防御の姿勢をとったまま、クラスティアは半分だけ目を開けた。
「……なにしてるの?」
「まったく、なにしてるんだか」
エドガーは憮然と鼻息をついた。
クラスティアのおさげをくくるゴムが、外れかかっている。それを手直しするエドガーと、ゴムについたウサギの飾りの瞳がぶつかる。エドガーはつぶやいた。
「動くな。せっかくの美人が台なし……」
銃声とともに、クラスティアの頬に黒い斑点が散った。
ふと鼻歌を止めたのは、皿に盛り付けをするハンだ。上目遣いにしたハンの視線の先には、きりきり宙を舞うエドガーの片腕が。
銃弾の雨に、店の窓ガラスは木っ端微塵になった。一秒間に五〇〇〇〇発。暖かい色調の壁が、右から左に破片の粉を噴きあげる。甲高い悲鳴とともに弾け飛ぶのは、棚に整列した調味料の数々だ。
いち早く通行人が消えた店の外、見よ。道路に積もる待遇改善のビラ、さっきまで署名運動に活躍していたバインダー。ただ、例のデモ隊が逃げ出したのとは少し違う。
どういうことだ。ハンの店を狙っておのおの銃を乱射するのは、その労働者の一行ではないか。およそ百人。
もとより彼らは、不景気の零細企業にこき使われていたわけでも何でもない。中華街はおろか、そもそも、この惑星の住人とも違う。
人食いザメに似たデザインの超大型機関銃。水銀を流し込んだかのように、一面銀色の労働者たちの瞳。
射撃型死神〝スペルヴィア〟の群れだった。
「旅の終わりが近いことは、なんとなく感じていたが……」
暗い声を残すと、蹴倒したテーブルを盾にして、エドガーはクラスティアの頭をかばった。肘から切断された腕も気にせず、残った左手で拳銃を抜く。
「……まさか、こんな形で迎えることになるとは。残念だ」
銃声がやむのは突然だった。
いんいんと反響する銃声。かすかなその風音を聞いたものは少ない。濃い硝煙のベールを裂いて、なにか輝く物体が窓から店に投げ込まれる。
手榴弾だ。
怒号したのはハンだった。
「馬鹿がッ!!!」
カウンター席を飛び越えざま、ハンの足は一閃した。空中で蹴り返され、入ってきた窓に逆戻りする手榴弾。高周波じみたアーモンドアイの悲鳴とともに、店外の道路で大爆発が起きる。
銃撃は再開した。派手に側転して逃げるハンを追い、蛇行しながら床をえぐるのは無数の銃弾だ。足をかすった一発に顔をしかめながら、ハンはエドガーの横に舞い降りた。その身のこなしに、エドガーも軽く驚いている。
「いい動きだな。どこもそうなのか、中華街のコックは」
「コーヒーのおかわりも取りにいけるよ。お客さんこそ、やけに落ち着いてるね」
ぜえぜえ息をついて強がりながら、ハンは自分のエプロンを振りほどいた。銃撃にちぎれたエドガーの腕に、きつくそれを巻いて止血する。
ハンは目を剥いた。
開いた彼女の指の先、黒く糸を引くタール状の液体は一体? こんな気味の悪い血に手を染めることは、むしろ、エージェント・リンフォンにとっては日常茶飯事だ。
すなわち、地球外生命体の血。
アーモンドアイにしては精悍な顔つきのエドガーへ、ハンは皮肉げに笑った。
「入りやすい店を目指した甲斐があった。ようこそ、地球へ」
「五つ星級のもてなしだ。〝ファイア〟ハン・リンフォン」
エドガーの答えを待たず、ハンの手は足元の輝きを取り上げた。同時に、細い体が急旋回。額に出刃包丁の突き刺さった〝スペルヴィア〟が、でたらめな発砲を断末魔に窓の向こうへ沈む。死神がまだ人の姿にとどまっているのは、ここが目撃者の多い中華街だからに違いない。
息つく間もなく、店の左右には多くの足音が散開している。
逃げられない。
ハンは聞いた。
「あんたのところも、仕事サボってコーヒー飲んでる奴にはこっ酷いクチかい? ちょっと行って、始末書でも書いてきなよ」
「すまないが、ペンを持つ手がない。ハン・リンフォン。きっちり代金も払って、君のことはやり過ごすつもりだったが」
テーブルの脇から覗いたエドガーの拳銃は、轟音を連続させた。
着弾のダンスを踊って、あおむけに倒れる死神。つられて真上を向いたのは、その手が握る多連装ミサイルランチャーの砲門だ。一直線に煙の軌道をえがいたミサイル弾は、空を束の間、炎と光の絨毯で埋め尽くした。
「わあ」
クラスティアは目と口を丸くした。綺麗な花火でも見た気でいるのだろう。爆風を片腕で防ぎながら、冷静に語ったのはハンだ。
「こっちのクラスティアちゃんは……あんたとは少しニオイが違うね。とりあえず、裏口まで走って食前の運動といこう」
「走るのは君たちだけだ」
決然たるエドガーの答えだった。
「いい店だ。もう少しゆっくりしたい。逃げろ。できれば、この子も一緒に」
「おやおや。宇宙のどこかには、まだ男ってもんが生き残ってたんだね。素晴らしい自己犠牲の精神だ。残される大事な娘のこれからなんざ、これっぽっちも頭にない」
ハンの叱咤に、エドガーは顔を強ばらせた。
じっとエドガーを見上げるクラスティアの顔には、怒りも恐れもない。あるいは、その両方が入り交じった悲しい眼差しにも見えた。ふと微笑んだのはエドガーだ。
「できることなら、この子の成長をそばで見守りたかった。だからこそ、俺はこの子を奴らの手から奪った。やっと自分の役目が見つかったと思った。演技でもいい、ずっと父親と娘のふりを続けていたかった」
「……よしな。それでも宇宙の侵略者かい」
そっぽを向いたハンはさておき、エドガーの手はクラスティアの頬に触れた。触れかけて、その手前でやめる。
少し手が汚れすぎだ。今はこの原始的な武器……拳銃の方を抱きしめることにする。
「残念ながら俺には、この子の未来に関わる資格はない。この子は、クラスティアは、この雪の惑星に芽生えた最後の希望だ、リンフォン」
「最後の……なんだって?」
やさしい光が、店内を満たしたのはそのときだった。
おお。このときばかりは、アーモンドアイたちも静まり返っている。ただの木枠と化した中華料理店の窓から、蜂の巣になった扉から、ほのかに漏れるその輝きを見たのだ。遠い時代に失われた本当の春の香り。生命の息吹を感じさせる切ない陽射し。
なにが起こった?
ハンは目をしばたいた。エドガーはといえば、止血のエプロンがほどけた右手を無表情に見つめている。そこにあったのは、傷どころか、袖のほつれ一つない新品の右腕だ。
前にかざした手を、クラスティアはそっと下ろした。
「ごめんね、エドガー」
「……謝ることはない。たしかに受け取ったよ、君の〝時間〟のかけら」
目線の高さに跪いたまま、エドガーは、今度こそクラスティアを抱きしめた。抱きしめることで、お互いの顔が見えなくなるのは皮肉だ。エドガーの耳に届いたクラスティアの声は、細く小さい。
「さよなら」
「元気でな。この星の風邪はタチが悪い」
店の床は、重い音をたてた。
窓の下を見れば、アーモンドアイの銀色の瞳がふたつ、ゆっくり立ち上がろうとしている。それも、ひとりではない。広がり始めた炎の向こう、窓枠を飛び越え、扉から侵入するのは機関銃を掲げた無数の人影だ。
テーブルの影から跳ね起きると、エドガーは銃を構えた。まっすぐ前進しながら、撃つ撃つ撃つ。
もういい。銃を投げ捨てたエドガーの腕は、そのまま腰にまわった。ふたたび抜き放たれたその手には、金属質の棒が握られている。
エドガーが一振りした鉄棒は、鋭い音とともに左右へ伸びた。弾け飛ぶ光の粒。長大なレーザーの大鎌を、回転しつつ腰だめに構える。
死神。
エドガーは叫んだ。
「行け!」
「ったく、なにが親子だ、淡白な……すぐ助け呼ぶよ!」
答えて、ハンはクラスティアの小さな手を掴んだ。身を低くして厨房に走る。
胸糞悪いが、事情が事情だ。手首の通信機、銀色の腕時計にハンは早口に喋った。
「ジェイス! まだ近くにいるね!?」
銃撃に火を吹くガス管、木の葉のごとく舞い上がるフライパン。クラスティアをかばいながら、ハンは裏口の扉を蹴り開けた。
「答えな! ジェイス!」
Ⅳ
血と火薬の臭いでできた霧を、赤青のパトライトが切り裂いた。
骨組みだけになって燃える乗用車。シェルター都市の天井部に投影されたレプリカの太陽を、もうもうと覆い隠す煙。ひび割れた道路。
激しいターンを描いて、パトカーは続々と中華街に停車した。パトカー側面に躍るS・K・P・Dの文字。サーコア市警のおでましだ。
すくなく見積もっても二十台はくだらない。ドアの開く音、音、音。道路になだれ落ちる警官の数とくれば、その実に四倍近い数だ。
「ぎゃはははは! 宴もたけなわッ!」
問題の中華料理店の対面、雑居ビルの屋上で、包帯の手を叩いて喜ぶ人影があった。まるで子供だ。
スコーピオン。
地上十階の屋上……強い風の中、スコーピオンは問うた。
「実験ナンバーD‐0……〝混血〟。まだ捕まんないの? カトレアちゃん?」
「………」
隣のOL、カトレアは答えない。ほっそりと、しかし鉄の芯を通したかのごとき直立不動。真っ白な仮面だけが、標的のいる中華料理店を静かに見下ろしている。歯ぐきを剥き出しにして笑うスコーピオンの口で、太い葉巻は煙の輪っかを飛ばした。
「無視ィ? ま、お姫様を守るのが、あの防衛型のエースならしかたねえな。エドガー・サイラス……〝インヴィディア〟」
轟音が響いた。
スコーピオンたちの背後、昇降口の鉄扉が勢いよく開いたのだ。特殊装備に身をつつんだ警官数名が、狙撃銃片手に駆けこんでくる。悪人にせよ平和の番人にせよ、こんな高い場所が好きなのは同じらしい。
それこそ警官たちを無視して、スコーピオンはへらへら笑った。
「さ、カトレアちゃん、今日の下着の色を教えるんだ。勝負のダンスパーティーにゃ、レースにガーターって相場は決まってる」
もちろんカトレアは無言だった。
ピエロの仮面に包帯人間。ぽかんと口を開けた狙撃手たちだが、ハロウィンじみた二名は振り返りもしない。お互い顔を見合わせるや、警官たちは瞬時に殺気立った。
「動くなッッ」
彼らが聞いたのは、鋭い風の音だった。
まっすぐ横に伸ばされたカトレアの右手。高速回転しながら空中をUターンしてきた輝きを、かすかな反動とともに掴み取る。
掴み取ったかと思いきや、警官たちは膝からくずおれた。残された胴体が、大事な頭部を失ったことをふと悟ったように。切断された警官たちの首の断面は、どれをとっても鏡面のごとき鮮やかな切り口をさらしている。いそがしく指示を吐き出すのは、彼らの肩にかかった無線機だけだ。
雀の涙ほどの水滴は、カトレアの足元に赤く弾けた。
カトレアの手に輝くのはなんだろう。無数の刃を、おそるべき正確さでその周囲に生やした円盤。フリスビーを一兆倍凶悪にした無音兵器といえばわかりやすい。この刃の円盤こそが、警官たちを瞬時に二階級特進させたのだ。
凄まじい金属音が響いた。円盤の刃が、まとめてその内部へ引っ込んだ音だ。コンパクトになったそれを、カトレアは無言で太もものホルダーに差した。
そのまま、おお。強風の吹き荒れる屋上のふちへ、カトレアはためらいなく歩を進めたではないか。壁面を這い上がる風に、つややかなその髪が静かに波打つ。
カトレアの手に、長大な影が旋回した。
あの奇妙な鉄棒だ。
うまそうに葉巻をふかすばかりで、スコーピオンにもカトレアを止める気配はない。笑顔のまま、軽くウィンクを飛ばす。
「踊っておあげなさいッッ!!」
風……
ところかわって、下。
「~~~ッ!?」
警官隊の指揮者……ウォルター・ウィルソン刑事は愕然とした。
廃墟と化した中華料理店の窓を越え、複数の人影が道路に吹き飛んだのだ。中華街の労働者? だが、逃げてきたとかいうレベルではない。地面をバウンドして転がったときには、労働者たちの体は胴体から真っ二つにちぎれている。
中華街で、マフィアどうしの派手な抗争が始まった……そう聞いて駆け付けたウォルターたちだったが、このありさまはなんだ?
まるで、あの小さな中華料理店の中にとんでもない怪物が一匹いて、それが片っぱしから人々を八つ裂きにしている。そうとしか思えなかった。
「ひでえ……いったい、あそこでなにが起こってる?」
ショットガンを握っていないほうの手で十字を切りかけ、ウォルターは止まった。
被害者? 罪のない一般人?
なら、体のいずこかを致命的に失った労働者たちが、でたらめに、しかし確かな意思をもって銃を乱射するのはなぜだ。ウォルターに火器の知識が足りないせいか? そのぶっとんだ形状の超大型機関銃は、どう見ても人間の……地球上のものとは思えない。
おまけに、死体が動いている。面白いほど大量に吹き上がるのは、やけに黒ずんだタール状の血だ。
射撃型死神〝スペルヴィア〟
中華料理店めがけて撃ち込まれていた死神の火線は、ふと角度を変えた。自分たちを取り囲むパトカーを、横薙ぎに掃射する。
「はァ?」
つぶやいて身を投げ出したウォルターの頭上で、パトカーの窓は滝のごとく崩れた。叩き開けた防弾ドアを盾に、警官たちの銃がいっせいにあがる。
「タイガーファミリーか!?」
「いや、落龍会だ!」
「聞いてねえぞ! 中華街があんな武器仕入れたなんて!」
「……あれはッ!?」
それに気づいたひとりを皮切りに、警官たちの狙いはあちこちへ散ることとなった。
見よ。現実離れした跳躍力で、通学バスの屋根に飛び乗ったあの人影を。ビルの窓を突き破って生えた死神の銃口を。多い。
多連装ミサイルランチャーの発射音は小さかった。天高く火柱に押し上げられたパトカーが、とぎれとぎれのサイレンとともに道路に激突する。蜘蛛の子を散らすように逃げながら、口々に叫んだのは警官たちだ。
「奴らいったい、何と戦ってた!?」
「ヘリの援護はまだか!? あと軍隊!」
「ナパームだ! ナパーム落とせッ!」
警官たちに上を見る余裕はなかった。
風を切り、ビルの十階から宙返りとともに降下してくる人影を。
轟音は、ウォルターのすぐ背後から響いた。飛び散るガラスを避けて、周囲の警官たちも思わず首をすくめている。
お次はなんだ?
「……?」
ショットガンに弾込めするのをやめ、ウォルターはゆっくり振り返った。あっけにとられる部下たちを、怒鳴りつけるヒマもない。
パトカーの屋根に、その女はいた。
どれほどの重量を受けたものか、彼女が片膝をついたパトカーの天井は大きく陥没している。だれがどう見ても、上から降ってきたとしか考えられない。上といっても、女のうしろにそびえる雑居ビルは十階建てだ。
そして、何階から落ちたにせよ、カトレアは悠然と立ち上がった。その顔には、なんら痛痒の気配もない。こんな不気味なピエロの仮面をつけていては当然だ。
カトレアのタイトなスーツの周囲、それぞれ赤と青に輝きながら、パトカーの破片は空へ逆流していた。炎を照り返す繊細なその髪、片手に握られた金属の長い棒。ウォルターふくむ現場のプロたちが、半秒近く見とれてしまったのも無理はない。
ふと我に返ったように、警官たちは次々と拳銃を跳ね上げた。
「手を上げろッッ!?」
なにか上げるどころか、むしろ、カトレアは重心を低く落として構えた。
なんのまじないだろう。彼女が体ごと背後へ引きつけたのは、例の奇妙な鉄棒だ。鉄棒の先端には、カトレアの薄い手が緩やかに添えられている。同時に、その全身を稲妻のような細い光が駆け巡ったが、はっきり見たものはいない。
「おい……落ち着け、お前ら」
制止するウォルターの顔は、蒼白だった。
本能的な恐怖を感じたのだ。引き金に力をこめた警官たちも、同じなにかに突き動かされている。たったひとり凶器らしい凶器も持たぬ女に対して、なにもできない。
だが、そんなカトレアの仮面の向こう、瞳の奥の奥の奥、視界モニターの索敵マーカーは、間断なく警官たちの手を照準していた。正確には、そこに握られた拳銃を。銃爪にかかった警官たちの指の、筋繊維の一本一本の動きにいたるまで。
どこかで爆発が起こった。
「よせエエッッ!!」
ウォルターの叫びは、警官たちの発砲を後押ししただけだった。
撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。
カトレアの鼻先に、なにかが浮いていた。
警官たちの銃から放たれた弾丸ではないか。それも百発以上。ゆっくりゆっくり、弾丸はいまも螺旋状の回転を続けている。発砲する警官たちの手元、緩慢に開いたり閉じたりするのは銃火の花だ。極限まで加速されたカトレアの迎撃システムは、彼女いがいの時間をここまでスピードダウンさせていた。
遅い。
カトレアの右手は、激しい鞘鳴りの火花をひいて走った。
鞘? そう。かすかな裂け目の生じた鉄棒から、鋭い光が飛びだしたのだ。優美なカーブを描くその白刃は、恐ろしいまでに薄く研ぎ澄まされている。
刀。
カトレアの腕は、横殴りに一閃した。刹那、彼女を襲った銃弾は綺麗に二枚おろしになっている。カトレアは止まらない。一歩前に踏み込むと、返す手で逆袈裟、つまり斜め下から次の銃弾を斬る。そのまま急旋回したカトレアの周囲で、今度は立て続けに銃弾が割れた。まとめて二十発だ。
斬る。
斬る斬る斬る斬る斬る斬る。
銃を撃つ警官たちの目には実際、かすんだカトレアのまわりで、音と光が乱れ舞ったようにしか見えなかった。三百六十度、カトレアが銃弾を叩き斬るかんだかい音と、ひるがえった白刃の残す光の線だ。
最後に上から下へ銃弾をなぞると、カトレアの刀は天を指して止まった。ひとつ回転させた刃を、顔の前にかざした鞘へ納める。
その硬い鍔鳴りは、沈黙する警官たちの耳によく聞こえた。同時に、ぱらぱらとカトレアの足元にこぼれた物はなんだ。警官たちがそれを、空中で残らず真っ二つにされた銃弾だと悟るより、カトレアの姿が掻き消えるのは一瞬早い。
パトカーの屋根にいたはずが、気付けばカトレアは警官たちの背後にいた。さきほど同様に、納刀の音をたてたのはカトレアの握る鞘だ。いつの間に抜いた?
おお。カトレアのうしろ、パトカーの車体がゆっくり斜めにずれ始めたではないか。いや、それだけに留まらない。立ち尽くす警官五名の体までもが、血を噴いて積み木のようにばらける。
大爆発を起こしたのは、両断されたパトカーだ。吹っ飛んだウォルターの体は、郵便局の壁をバウンドし、道路に落ちてようやく止まった。顔を歪めて苦鳴を漏らすウォルターの耳に、カトレアのハイヒールの靴音は静かに近づいてくる……死神の足音が。
サイレンの音に、カトレアは仮面の顔をめぐらせた。
増援のパトカーだ。炎と煙の中を五台、やかましく突き進んでくる。
突如消失したカトレアの姿は、次の瞬間、その五台のうしろに現れていた。急ブレーキをかけられたカトレアの踵から、摩擦の火花が飛び散る。
奇妙な稲妻をひいて、刀は静かに鞘へ納まった。納まったかと思いきや、パトカー五台はボンネットからトランクまで正確に分断されている。たて二枚おろしだ。残る警官たちの悲鳴も、爆発の閃光に飲まれて消える。
振り返ったカトレアの髪は、激しくなびいた。今度は、空からの強風だ。
警察のヘリだった。搭乗口から狙撃銃を構えたまま、拡声器越しに怒鳴る声がある。
「そこの、ああ、女! 武器? その棒切れを捨てて投降……」
鋭い音が響いた。
カトレアの姿はない。
いや、あった。はるか上空、ヘリのすぐ後ろに。
ヘリの狙撃手は、夢見がちにそれを眺めた。美しい。上下逆さまにきりもみ回転する女の右手、粒子のように散るあのきらめきはなんだ?
深く身を伏せて着地したカトレアの足元で、アスファルトは大きく陥没した。背中に回された彼女の両手の間で、鉄棒の裂け目は徐々に狭まってゆく。
涼やかな金属音。
震える手はついに拳銃に届かず、ウォルターは弱々しく笑った。
「は、はは……無理無理」
ヘリが真っ二つになるのを見届けて、ウォルターは気を失った。
Ⅴ
いったい何人斬ったか。
ずたぼろになった中華料理店の奥、肩で息をするのはエドガー……いや、さっきまでエドガーだったものだ。光り輝くその大鎌の下には、例外なく一刀両断された〝スペルヴィア〟の累々たる死体の破片が転がっている。
死神。
だが、エドガーのまとった流体装甲は、他とは一味違う。熱気と火の粉になびくそのマントは、周囲の炎の色と同じく真っ赤だ。死神の追跡者どもを一身にひきつけ、ハンとクラスティアの逃走を死守するためとはいえ、この防衛型死神〝インヴィディア〟には、狭い中華料理店の中は好都合な戦場だった。
轟音と、地響き。店の近くに、なにか大きな乗り物……ヘリが墜落したらしい。
「!」
真紅の死神は、音をたてて鎌を持ち直した。
店の入口から、硬いハイヒールの足音が響いてきたのだ。
炎と煙の向こう、人影はエドガーにたずねた。
〈そうまでして、お前が守ろうとするものはなんだ? あのお嬢ちゃんに残った〝人間〟か? それとも、もう半分の〝時間の怪物〟か?〉
「……〝可能性〟だ!」
エドガーの叫びに、激突音が重なった。
疾走とともに一閃されたエドガーの大鎌を、侵入者が受け止めたのだ。レーザーの鎌と鍔迫り合い、火花を散らして震える金属の鞘。鞘をたどった先には、エドガーと同じ死神の仮面をつけた顔……カトレアの姿がある。そのアンドロイドの女は背丈・体格ともに赤い死神の半分にも満たない。
カトレアの口はまた、男の声を中継した。聞き覚えのあるテロリストの声を。
〈可能性、かァ。うん、拍手だ。そんな冷たい雪の底から芽生えた〝希望〟〝夢〟〝未来〟もろもろを綺麗に刈り取るのが、俺たちの仕事なんだけど〉
「スコーピオン……」
エドガーの声は戦慄していた。
「その人形、完成したのか」
〈まだテスト段階だけどね。さて、実験ナンバーD‐0……〝混血〟はどこかな? 素直に教えてくれたら、あんまし苦しまないように殺してあげる♪〉
「もう十分、苦しんださ!」
かんだかい音は、今度はカトレアの背後で生じた。
背後?
おお。どういうことだ。エドガーと鍔迫り合うカトレアの背後に、なんと、もう一体の死神が現れているではないか。刀を抜き放つのが一瞬でも遅れていれば、カトレアは串刺しにされていたろう。大鎌を防がれた死神の姿は、真紅のマントといい背格好といい、エドガーとなにひとつ変わらない。
味方?
いや、そうではない。離れた別の体を、まったく同時に操って戦う……他の死神にはないこの分身能力こそが、防衛型〝インヴィディア〟エドガー・サイラスの真骨頂だ。
油圧モーターが全速力で回転する音は、カトレアの全身から漏れ始めている。左右の大鎌をそれぞれ刀と鞘で押し返しながら、スコーピオンの声は涼しかった。
〈大丈夫? カトレアちゃん? いまネットで調べたんだけど、イアイの世界じゃこんな状態を〝死に体〟って呼ぶんだって〉
力をこめ、カトレアは大きく前に踏み込んだ。コマのように回転したカトレアの白刃の領域から、上に下に、死神たちは身をかわしている。文字通り鏡合わせのごとく、しかし不規則にエドガーが繰り出す大鎌、大鎌、大鎌。すさまじい連携だ。両手でそれをさばくカトレアの背中も、徐々にうしろへ押されてゆく。
銃声とともに、赤い死神のひとりが膝をつくのは突然だった。撃たれたらしい。床を見れば、上半身だけになった労働者……アーモンドアイの擬態が血まみれの手で機関銃を掲げている。すかさずその首を刎ねたのは、旋回したもう一方のエドガーの大鎌だ。
十分な隙だった。
凍えた鍔鳴りがエドガーの耳に届いたときには、カトレアの刀は完全に鞘へ納まっている。同時に、腰を深く落としたカトレアの腕に、体にほとばしったのは激しい稲妻だ。
充電完了。
赤い死神の背後で、床をえぐってカトレアは急停止した。目にも留まらぬスピードとはこのことだ。膝が地面にこするほど前傾したカトレアのうしろで、ああ、エドガーの体はゆっくり輪切りになった。
なんだろう。振り抜かれたカトレアの刀に走る電流は。数十トンにもおよぶアンドロイドの腕力に、特製の鞘を発射台として、高エネルギーの電磁加速をプラスした斬撃……これこそ、カトレア自身に記録されていた特殊情報捜査執行局ファイア〟の技術だとは、応用元の神父も知らない。
いわば超電磁加速〝居合い斬り〟
まっぷたつになったエドガーの流体装甲は、赤い液体と化して床に広がった。
だが、それだけだ。
本体がない。
「外れだ! スコーピオン!」
エドガーの声で叫ぶや、赤い死神は鎌を振り下ろした。
さきほど撃たれたほうの死神だ。ふたつのパワードスーツを操作する核部分は、実はこちらにある。二分の一の賭けだった。たたき落とされた刀と鞘が、カトレアの足元を跳ねる。床を弧状にえぐって旋回したレーザーの刃は、そのままカトレアを……
しめった音がした。
床にそそいだのは、バケツをひっくり返したような鮮血だ。真っ赤な流体装甲がすべて流れ落ちたあとに、エドガーの姿は現れた。口の端からしたたる血はどす黒い。弾き飛ばされた大鎌が、回転しつつ床に刺さる。
〈ぎゃはははは! 大・正・解♪〉
痙攣するエドガーの耳元で、スコーピオンは大笑いした。
見よ。カトレアの両腕の甲には、新たな刃が二振り輝いている。両の袖を裂いて瞬時に現れたこの隠し剣が、エドガーの体をつらぬき、壁に縫い止めたのだ。
剣を引き抜くと、エドガーはゆっくり前のめりに倒れた。体の下に池を作るタール状の血。剣をひっこめられたカトレアの腕部装甲が、すばやく元の状態に閉じる。
拾いあげられたカトレアの刀が、鞘に戻る音をエドガーは静かに聞いた。ハイヒールの靴音がすぐ横に止まると同時に、エドガーの体は一気に宙へ引きずり上げられている。
片腕一本で宙吊りにしたエドガーへ、カトレアはスコーピオンの声で囁いた。
〈当然、クイズの勝者にはプレゼントが贈られる……正義の騎士よ、お姫様はどこ?〉
虚ろな目付きのまま、エドガーはにやりとした。
「ああ、あのモルモットのことか……売ったよ、貴様らの天敵に。とんでもない高値がついたものでな。お次は〝ファイア〟であれこれ実験されるそうだ」
〈気に入った♪ このど外道♪〉
炎と煙を切り裂いて、ふたりの周囲には次々と後続の死神が現れている。絶体絶命のエドガーに、スコーピオンは嬉しげに告げた。
〈さ、おうちに帰るよ、エドガー・サイラス。優しく治療してあげよう。長い長い拷問の前にね。血っちゅう血をぜんぶ抜いて、頭を開けて脳みそなんか取り出しちゃって……もちろん生きたままだから、安心して〉
死神の大群が、左右に吹っ飛んだのはそのときだった。
〈んあ?〉
振り向いたカトレアの仮面は、陽炎に歪んだ。
将棋倒しになった死神たちの中心から、なにかが歩いてくる。人の形をした炎が。握り締められた拳から、足から、全身から展開されて燃えるのは、荷電粒子式ロケットブースターの推進口だ。
こんな熱い男はひとりしかいない。あんな冷たい無表情のタクシー運転手は、他にはいない。そう。特殊情報捜査執行局〝ファイア〟のエージェント……カトレアの中継の向こうで、スコーピオンは瞳を輝かせた。
〈ニコラス・ジェイス! 今日は遅かったな! 渋滞にでも巻き込まれたかい!?〉
「………」
火の粉が舞う中、ジェイスは無言で前進を続けた。
四方から飛来した大鎌をまとめて弾き、正面の死神の仮面を鷲掴みにして、そのパワードスーツを一気に焼き払う。ジェイスがすでに傷だらけなのは、地下歩道での死神の襲撃に手間取ったためらしい。
高出力のブースターに加速され、ジェイスの手足は数えきれぬ灼熱の軌跡を描いた。十発、五十発、百発。鮮やかに顔面を破壊され、腹や胸を貫かれて、死神たちは続けざまに薙ぎ倒されてゆく。
カトレア、もといスコーピオンはたじろいだ。
〈ぎゃはは! こいつは厄介だぜ! カトレアちゃん! 〝混血〟を追いなさいッッ!〉
静かに構えたカトレアの手元に、ちんと鍔鳴りの音は納まった。
同時に、天井を駆け巡る無数の光……カトレアにめった斬りにされた中華料理店が、ついに倒壊を始めたのだ。
一方、店の外は静かだった。ただ、ひび割れた道路には排薬莢と銃火器、破壊されて燃えるヘリとパトカー、それにおびただしい屍が山を作っている。まるで、つい今しがた戦争が通り抜けたかのようだ。
爆発した中華料理店から、火の玉が空へ上昇した。全身のブースターを逆噴射して、静かに中華街へ降り立ったのはジェイスだ。救い出したアーモンドアイの擬態……エドガーの体を、そっと道路へ横たえる。
白濁したエドガーの瞳は、頭上のジェイスを誰と見間違えたのだろう。
「つぎは……どの、お話がいい? クラス……ティア?」
「………」
煙のベールの先から、多くの政府車両が近づいていた。