Inning ♯03 受胎 (後)
Ⅴ
なにかを殴った。
金属のような硬さだ。
「……?」
鼻先を横切るものを見て、モニカは眼をぱちくりさせた。
なんだ、自分の腕か。傷ついた拳に巻かれた包帯は、誰が交換したのか新品だ。寝心地のよい角度に倒された座席の上、そのまま頭痛のする額をおさえる。
「男女君……ワイン持ってきてくれない?」
「メニュー表をお持ちしましょう。活きのいい点滴剤が入ってましてね。痛たた」
モニカは跳ね起きた。
低くこだまする音には聞き覚えがある。飛行機のエンジン音。窓をのぞけば、はるか下界を流れるのは雪化粧の山々だ。
搭乗可能人数約千名、最大飛行速度千キロ……おまけに機をハリネズミと化す対空・対ミサイル防衛機構の充実は、快適な空の旅を力ずくで約束する。
大型輸送機〝オリヴィア〟。首都サーコアが誇る世界最高の空の要塞だ。
だだっ広い客室には、モニカを除いて人の姿はない。むしろその静けさが、廃墟入りする前のざわめきを思い起こさせる。
人の姿? ゆったりした間取りの通路、カーペットに倒れてぴくぴくするのは誰だ。
モニカは声を裏返らせた。
「お、男女君」
「ひッ、お許しを……私もパンチングマシーン歴は長いですがね、くくく。いまのは三指に入るハイスコアです」
相変わらず笑ったような表情のまま、シオンは体温計を視線の高さにもたげた。計り終えた途端のことだったらしい。モニカが助け起こさねば、きっと空港まで大の字の状態だったろう。
「細菌その他、感染の危険はなし。ただ、すこし熱がありますね。あとで薬を処方しましょう」
「ごまかさないで。なんで生きてるの、あたし達は」
「すべてドルフさんのおかげです。さすがに今は医務室でお休みですが」
「あたしを客室に追い出したからには、ベッドは満員なんでしょうね。生き残りの怪我人で」
「それは……」
シオンは静かに首を振った。顔を凍りつかせるモニカの体に、ずれた毛布をそっと掛け直す。
「残念ながら、機の医務室はとても狭い。ベッドを占領しているのは、ドルフさんただ一人です」
「全滅……」
うなだれたモニカの背中をさすると、シオンは静かに救急箱を閉じた。立ちあがりかけた白衣の袖を、不意に引いたのは誰の手だったろう。
「本でも読んでくれない? よく眠れる本」
「………横になってください」
小さく溜息をつくと、シオンはふたたび隣の席に座った。懐から、読みかけの単行本を抜く。これ一冊しかない。
うっとりするほど中性的で、柔らかな声だった。
「……火事を起こしていたのは、寂れた安ホテルだった。だが、建物の価値は、中に住む人間の質によって決まる。それが我々警官の持論だ」
「えらく男臭いの読んでるじゃない。かわいい顔して」
「くくく。別のを持ってきましょうか」
「続けて、そのまま」
天井の空の荷物入れを見上げながら、モニカはほほ笑んだ。眼鏡はかけたのに、照明が少しぼやけるのはなぜだろう。
ページをめくるシオンの手に、モニカは囁いた。
「ずっといてくれる?」
「あなたが眠るまで」
窓の闇を、白い線だけが流れていた。
勢いよくドルフは身を起こした。
激しい咳。五つばかりまとめて連結された寝台の横、電灯が床に落ちて割れている。
「ここは……〝オリヴィア〟?」
ぜえぜえ肩で息をしながら、ドルフは汗をぬぐった。真っ白な室内ばかりか、通路にさえ人の気配はない。
「手……ある。足も……ある」
記憶がいまいち不確かだ。視界いっぱいに赤い花弁が広がったのを最後に。
「俺は、助かったのか?」
ドルフはぼんやりつぶやいた。
とにかく、廃墟からは早々に引き揚げたらしい。自分が輸送機の医務室にいるということは、事情を知る仲間にはすぐ会える。この巨体を運ぶには通常、屈強な男手が十人ばかり必要だ。
「!」
こみあげる息苦しさに、ドルフは顔をしかめた。どうにかならないか、この咳。ひどく喉も渇いている。
大きく軋んだベッドから、ドルフは転がるように床へ降りた。咳、咳、咳。背中を丸めたまま、洗面台へ向かう。
コップを探す暇などない。ねじ切る勢いで蛇口を回すと、あふれる水を直接口で受ける。
ドルフの体を、稲妻が駆け巡ったのはそのときだった。
正確には、胸から始まり、喉を、手足の先まで、凄まじい激痛が襲ったのだ。たまらず鏡の下に身を折る。筋肉痛? そんな生易しいものではない。
ひときわ大きなドルフの咳。どちゃ、と洗面台が鳴った。
排水口をぬめり落ちる物体は赤い。なんだこれは。胃の破片?
すさまじい悲鳴とともに、ドルフはのけぞった。背骨が折れるほど。血と内臓の混合物を、天井まで盛大に噴きあげる。
周囲の家具を破壊しつつ、ドルフはがくりと膝を折った。四つん這いの巨体を襲う猛烈な痙攣、悪寒、灼熱感、そして激痛。毛穴という毛穴から、おびただしい血の珠が滲みだしたではないか。
皮膚の下を、音をたてて何かが這い回っていた。まるで植物の根。百本、いや千本はあるだろうか。
鼓膜の破れたドルフの耳から、鼻腔から、驚く量の血が床を叩いた。脳漿混じりの鮮血が。壁に飛んでへばり付いたのは、視神経ごと千切れたふたつの眼球だ。
生まれる。なにかが。
「~~~ッ!」
窓に映った巨体のシルエットから、無数の触手が飛びだした。
牛や馬……はては、執行日を延々と待つだけだった死刑囚。人身売買組織から、臓器取りの部品として譲り受けた子供たち。
ありとあらゆる生物が、強化ガラスの檻に放り込まれた。生きたまま。後悔はない。興味深い実験結果が得られたのだから。
意外にも〝花〟は、獲物をすぐには殺さない。寄ってたかって手足をもぎ、バナナのように生皮を剥いで、鋭い尻尾で串刺しにしても、ほとんどの場合虫の息にとどめる。
なぜか?
寄生のためだ。
ダリオンが生物に埋め込んだ〝種〟は、効率よく体内の養分を吸って成長。だが、発芽した新たなダリオンの周囲には、これもまた餌となる生態系が必要になる。縄張りを広げるためには、むしろ寄生した宿主に、遠く見知らぬ場所まで逃げてもらったほうが好都合なのだ。蜜蜂に花粉を運ばせるがごとき習性は、数億倍凶悪とはいえ、やはり花の眷属にふさわしい。
「!?」
ふと眼を醒ますと、モニカの鼻先に赤い花が咲いていた。
剣山の密度で棘が生え揃った口。白くぬめる腕に首を掴まれ、身動きどころか、モニカは声ひとつ出せない。
震えるだけで恐怖を訴えるモニカへ、見せつけるようにダリオンの尻尾はとぐろを巻いた。眼前ぎりぎりまで迫った尻尾の先端は、突如、粘液の輝きをまとって四方八方に裂ける。裂ける? いや、開いたのだ。尻尾の先が、花のごとく。
間違いない、卵管だ。獲物の体内に、子孫を植えつける特別な器官。ただ、これを通常の〝兵士〟型が手に入れる確率は万にひとつもない。ということは、こいつは……
「!?」
激しい衝撃に揺さぶられ、モニカは眼を覚ました。荒い息。全身汗だくだ。
「夢……」
なんの変哲もない客室に、もはや怪物は影も形もない。ついでにシオンの姿も。そう言えば見たことなかったが、あの医者も一応は休憩するらしい。
客室がまた、地鳴りを発した。明滅を繰り返す照明。機体が思いきり傾いている。飛行機乗りが飲酒運転とは、いよいよ世も末だ。
席を立ってから、モニカはよろけた。手すり伝いに、なんとか操縦室へ進む。
「……?」
この音はなんだろう。手当たり次第に操縦室の壁を叩く響き。狭い箱の中、猫がネズミを追って暴れる様子とそっくりだ。
操縦室の扉を前に、モニカは地面が震えるのを感じた。震えているのは、彼女自身の足だ。ありえない。少なくとも、悪夢は雪のかなたに遠ざかったはず……
モニカの頬が、浅く切れた。飛び散った扉の破片が、遅れて床を跳ねる。
ぽかんと立ち尽くすモニカの真横、外皮のこすれる音を鳴らすのは鋭い尻尾だった。扉の穴から揺れるその部分だけが、尻尾の先端が鮮やかに裂ける。いや、開いたのだ。たったいま刺し貫いた操縦士の血をたらしつつ。
第二の口とも言える花弁……卵管!?
巨大な爪が、扉を八つ裂きにした。
操縦室をにじり出た影の後ろ、必死に暴れる二本の足がある。顔をおさえて苦悶するのは、その尻尾に宙吊りにされた人の体だ。
なんだろう。覆い隠す形で彼の顔全体を捕えた尻尾に始まり、操縦士の喉が、腹が、たえまなく蠢いているではないか。まるで、ビールでも一気飲みするように。
植えつけているのだ。卵を。種を。
鋭い吐息とともに唇を痙攣させながら、怪物は客室を見渡した。さっきまで扉の向こうにいた別の獲物の気配がない。代わりに、床に転がるのは通風孔の蓋だ。
高度一万メートルの監獄を、飢えた遠吠えが駆け抜けた。
Ⅵ
蹴り開けられた通風孔の蓋が、けたたましく床を踊った。
天井から下へ、重い音。着地失敗だ。しこたま体を打ち据えたらしく、倒れたモニカはなかなか動かない。
広い実験室。百科事典のごとき取扱説明書を要する機材たちが、暗がりのあちこちで電源ランプの光を点滅させている。幸か不幸か、輸送機は自動制御に移ったらしい。
ひびの走った眼鏡も気にせず、モニカは手前のキャビネットへ歩み寄った。薬液の揺れる容器を集める、集める、かき集める。ろくにラベルも確認しない。
ダリオンを枯らす特殊な薬……毒。名前が〝青虫〟とは、発明者もよく考えたものだ。
材料は満足にほど遠いが、これからそれを合成する。技術を正確に把握する者はとうに〝ファイア〟に消されたものの、実物の組成式だけは見たことがあった。あとは、この天才の記憶力と勘だけが頼りだ。
遠心分離機、加圧濾過機と、モニカは早足に電源を入れた。徐々に高まる回転音。次の機材に移りかけたモニカの手は、ふと止まった。
「何これ?」
こんこん、とその表面を小突いたモニカの拳を、鋼鉄特有の冷気が這った。
意味不明な注意書きで埋め尽くされたシェルター……ちょうど人ひとりが収まる寸法だが、覗き窓ひとつない。
しいて言うなら棺桶。機械の棺桶だ。モニカ自身、いくらそこに片足を踏み入れているとは言え、こんなもの注文した覚えはない。
空気の圧搾する響きとともに、実験室の扉が開いたのはそのときだった。
「!」
ハンマーで床を叩くような足音。強張ったモニカの視界の端、馬鹿でかい特注のブーツは記憶に新しい。天井に届くか否かという大柄な影が、入口前の闇にたたずんでいる。ドルフだ。医務室で寝込んでいると聞いたが?
モニカは安堵の溜息をついた。
「もう、脅かさないでよ。とつぜん現れるのがヒーローだと思って?」
ほれた。一歩踏み出したドルフに、続けるモニカ。
「説明はあとよ。病み上がりのとこ早速だけど、あたしの作業が終わるまで、入口を見張っ……」
ねばついた唾液の滝が、床に降りそそいだ。
見よ。無表情に後退したモニカを追って、暗闇から完全に抜け出したドルフを。なぜ血まみれなのだろう。筋繊維と血管を垂らす巨体を裂いて、なぜ白い甲殻が覗いているのだろう。
「寄生された……!?」
無数のビーカーを弾き落として、モニカは机に跳んでいた。襲いかかった勢いそのままに、外れたダリオンの爪は背後の機材を貫く。例の棺桶だ。
衝撃にあえぐモニカの瞳に、細長い影が閃いた。くぐもった悲鳴。鋭い尻尾に首を巻かれ、モニカは一気に宙へひきずり上げられた。
「………」
ドルフの顔は、無言でモニカの鼻先に迫った。眼球のない顔が。必死にそむけたモニカの頬を、生ぬるい鼻息が打つ。
次に、ドルフの口が開いた。いや、開くというレベルではない。顎の関節を外し、顔の肉を裂き、頭蓋骨を突き破って現れたのは、血まみれの白い頭部だ。尖った先端が、涎をひいて続々と花開く。
静かに波打つ巨大な花弁。焦点の定まらぬモニカの瞳から、涙がひとすじ流れた。
「!?」
ダリオンの咆哮とともに、モニカの体は投げだされていた。床を跳ね、激しく咳き込む。
なにが起こった?
視覚なき視覚で、ダリオンは向こうを見ている。正確には、謎の棺桶に埋もれた自分の腕を。力任せに身じろぎするも、爪はいっこうに抜ける気配もない。なにかに引っかかったか?
小鳥のさえずるような声が響いた。
くくく、と。
「いい夢見てたんですがね」
鋼鉄製の装甲をひん曲げて、ダリオンの爪は抜けた。おお。小刻みに震えるその太い手首を、なにかが掴んでいる。
人の手だ。
粘液を散らして、ダリオンはもう片方の腕を突きおろした。なんと、瞬間的に受け止められる。今度は、内側から棺桶をぶち破った謎の手に。
声は不思議がったようだった。
「変ですね。搭乗前の検査では、なにひとつ不審な点はなかった。ねえ、ドルフさん?」
物凄い握力が、ダリオンの両手を襲った。まるで圧搾機。同時に、一閃した何者かの蹴りが、棺桶の蓋ごとその巨体を吹き飛ばす。
爆発する壁を背後に、モニカは見た。白い冷気の底から伸びた何者かの片足を。棺桶の縁をつかむ繊細な指を。
極彩色の配線を全身にまとわりつかせ、闇に身を起こす若者を。
「やれやれ、とんだ眠り姫です。残業開けに叩き起こされるとは……モニカさん、熱の具合は?」
「ご、ごまかさないで。あんた一体……危ない!」
跳躍したダリオンの爪に対し、シオンは軽く片腕をかざしただけだった。
鋼と鋼がぶつかる音に、激しい火花。蜘蛛の巣状に陥没したシオンの足元が、衝撃の凄まじさを物語っている。間髪容れず、その横っ面へ飛んだのはダリオンの硬い尻尾だ。直撃に大きく仰け反ったものの、シオンは倒れない。シオンの足の裏から床に打ち込まれた固定用スパイクの性能を、モニカやダリオンも知っていたかどうか。
そして、倒れる? 人体の常識からすれば、シオンのこの姿勢、まず背骨がおかしな事になる角度だ。平然ともとの位置に戻ったシオンの顔は、笑っていた。
「訴えないでくださいね」
テーブルを二つ三つへし折り、ダリオンは床を転がった。とんでもない飛距離。煙をあげる握り拳を引き戻すや、シオンの両手は胸の前で交叉している。
なんだこれは。細かな駆動音とともに、シオンの腕の甲がそれぞれ外側へ裂けたではないか。一瞬開放したその内部から、左右の拳に倒れて戦闘位置についたのは、二挺の凶悪な輝きだ。ガトリングガンの輝き。まっすぐ正面に両腕を伸ばすや、シオンは思いきり足を踏ん張った。
「!」
ダリオンの悲鳴は、轟音に呑まれた。
撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。シオンの両手、高速で回転するガトリングガンの炎。これはたまらない。扉ごと廊下に転がり出したダリオンの尻尾を追って、壁が、機材が、右から左へ蜂の巣と化す。
「ターゲット、ロスト……お大事に」
シオンのつぶやきとともに、真っ赤に灼熱しながら機関銃の回転は静まった。
いんいんとこだまする銃声の余韻。頭をかばったまま、テーブルの陰から顔を覗かせるのは誰だ。まだ目尻を痙攣させている。
「ええっとね、その、あれよ、男女君。すこしお話できないかし……」
轟音に、モニカは再びひっくり返ることになった。
盛大に噴射したスプリンクラーの雨が、強燃性の血液を、燃え広がりつつあった炎をゆっくりと鎮めてゆく。美しい硝煙の軌跡を残して、天井を狙うシオンの腕は降ろされた。
「人間そっくりでしょう?」
素早く機関銃を引っ込めた手を、シオンは感触を試すように開閉した。無造作に引き抜かれた全身の配線が、しのつく雨の溜まりに触れて火花を放つ。
「でも、皆さんを動かす〝痛み〟と、私の原動力は少し違います。私に大切なのは、ひとつの命令と、百の歯車、そして千の敵」
シオンの瞳の奥の奥……高解像の視界モニターには、今も情報の嵐が吹き荒れていた。
おぼろげな熱と振動だけが形作る人型の表示。向こうで立ち上がりかけるその女性、心音の波形がやや激しい。
シオンはにこりと笑った。
「私は、特殊情報捜査執行局〝ファイア〟マタドールシステム試作二号機……エージェント・シオン」
「マタドール、システム……!?」
モニカの顔から血の気がひいた。
どこかで聞き覚えのある型番だ。そう、マッドサイエンティストでならした遠いあの時代に。
安いSF映画でしかお目にかかれぬ気密服を装備して、黙々とフラスコを振る研究員たちを、いつもどこかから見つめる者の存在は知っていた。天井の四隅で回転する監視カメラの瞳。
なぜ今まで気付かなかったのだろう。ごく少数の役職者のみを受け入れる認証機が、扉を開閉するたびに発するあの声。人間工学に基づいて、最大限、耳に心地よく調律されたその中性的な音声を。シオンの声を。
言うことを聞かない〝花〟めがけて、超高温の熱線をぶっぱなす部屋のことは、忘れようにも忘れられない。モニカの記憶の中、燃える血を浴びた強化ガラスに、一瞬、楽しげな笑顔が反射した気がした。目の前のシオンの形をして。
ダリオン研究を多角的に補佐するそのAIの名前も、マタドールシステム。
落胆したように、モニカは目を伏せた。
「アンドロイドだったの、男女君……あたしは、ダリオンの監視システム、いえ、あの研究所自身と話してたわけね。まさか、そっちから復縁話を迫ってくるなんて」
「くくく、ご安心を。モニカさんへ酷いことをするようには入力されてません。そう、泣くほど苛められない限りは」
シオンの答えに、モニカの目つきは悪くなった。食いしばった歯の軋りを隠してか、背を向ける。
「マタドールシステム……人類の天敵がダリオンだとすれば、ダリオンの天敵はまさしくあんた。なら、奴らを野放しにした責任は〝ファイア〟にあるわ」
「ですからこうして、私も研究所のAIという内務から、この機体に魂を移して外回りに異動、花摘みに力を注いでいる次第です。それに、責任どころか、ダリオンは政府そのものが……おっと、口が滑るところでした。くくく」
「………」
雨粒の伝うモニカの眼鏡は、少しだけシオンを見て戻った。濡れた前髪をかきあげながら、疲れたように提案する。
「とりあえず、なにか着たら?」
床ぎりぎりまで身を伏せながら、シオンは操縦室に飛び込んだ。
左右、上下、そして正面。ろくにそちらを見もせず、シオンの両腕の機関銃が順番に二方向を照準する。
なにもいない。腕の中に機関銃をしまいながら、白衣の医者は静かに立ち上がった。
「見ちゃ駄目です、モニカさん」
「もう、おしまいよ」
ひと声放って卒倒しかけたモニカを、シオンの腕は優しく抱きとめた。モニカの手で揺れるのは、鮮やかな色の液体をたたえる注射器だ。
ダリオンへの特効薬……〝青虫〟はこの通り、一応の完成を見た。もちろん人間向きではない。ただ、投与による副作用うんぬんを操縦士たちに語るには、少し時間が足りなかったようだ。
操縦室は地獄だった。
脱ぎ捨てられた下着のごとく操縦桿にかかるのは、悪臭をはなつ胃腸の破片だ。内部から破裂した操縦士たちの腹腔は、白い肋骨を鋭利な牙のように天井へさらしている。救いを、あるいは安らかな死を求めて、窓に張りついた赤い手形の数。五人分だったか、六人分だったか。
発芽のあとだった。
がん、と側壁を殴ったのはモニカだ。
「また増えた……いまで一体、何匹?」
天地が裏返ったのはそのときだった。
甲高いエンジン音とともに、輸送機の機首がまたたく間に下を向く。壁にぶつかったモニカの手から、虚空に滑る注射器。回転するそれを、正確に掴み止めたのはシオンだ。
「……妙な揺れでしたね」
「ちょっとこれ、高度が落ちてない?」
「気圧も異常です。ほら、耳の奥がキンキンしません?」
「………」
それぞれ意味の違う警告音は、しだいに合唱と化してゆく。
注射器をモニカに返すと、シオンの指はかたわらの制御盤を流れた。その速さ、その精密さ、まるでピアノ奏者だ。糸をひく血糊を別にすれば。
次々と画面の切り替わった計器に、見慣れた線の集合体が現れた。輸送機〝オリヴィア〟そのものの状態が、ひと目でわかる三次元画像だ。モニカの表情は険しさを増した。
「……エンジンが止まってるわ。一基」
「偶然にしてはタチが悪いですね。まあ、あと三基も残ってれば運航に差し支えは」
ふたたび、巨人の歩いたような横揺れが襲った。
「大変」
モニカは目を剥いた。オリヴィアの現状を示す画像の中、一瞬にして、二基めのエンジンが真っ赤に染まったではないか。これも完全な停止を訴えている。せわしなく制御盤を叩きながら、補足したのはシオンだ。
「それだけじゃありません。機体後部、貨物室のハッチが開きっぱなしです」
「まさか。外は肺も凍る気温よ。望んで飛び出す馬鹿がどこに……」
「いるんですよ、これが」
シオンは天井を見あげた。モニカも同じ方向に続いている。答えは簡単だ。上、さらにその上、輸送機の頂上を走り回る白い寄生生物の群れ。モニカは声を震わせた。
「外側から機体を攻めるなんて……ここを高度何メートルだと思ってるの!?」
「だからこそダリオンは、この輸送機を墜落させ、下界に降り立とうとしている……途中下車の旅とは、素敵なことです。さて」
腕組みして少し考えたあと、シオンは踵を返した。頭を抱えるモニカを尻目に、操縦室の外へ。
「ちょっと行ってきます」
「待ちなさい」
小刻みに震える操縦室の中、モニカはシオンを制止した。警告音がうるさい。
「あれを見た? 男女君」
「卵管、ですか」
「そう。あいつは資格を持ってる。王、もしくは女王に進化する資格を」
肩から外したケースを、モニカはそっと差し出した。〝青虫〟の満載された箱だ。
「名刺代わりよ。めいっぱい苦しませて始末して。死んだ大男の分まで。あたしはなんとか機体を安定させてみる」
「お願いします」
ケースを受け取るかと思いきや、その腕を越えたシオンの手は、静かにモニカの額へあてられていた。冷たいが、心地よい感触。
「熱がありますね。続きは医務室で」
にこりと微笑んで、シオンは身をひるがえした。ケース片手に遠ざかるその白衣は、今度こそ振り返らない。
風の音に混じって、かすかな雄叫びが聞こえた。吐き気をもよおす花の歌。天井を睨みつけたまま、嬉しげに、楽しげに唇を曲げたのはモニカだ。狂っている。
「笑ってられるのも、今のうちよ」
Ⅶ
シェルター都市サーコアの〝壁際〟
ヒノラ国際空港。
午前三時十五分……
夜も夜中だというのに、道路には大規模な交通規制がしかれていた。闇をさまよう赤と青の灯光。広いロビーにひしめく車両は、ゆうに百台を超える。
消防車に救急車、おまけにあちらの装甲車とくれば、最新鋭の地対空ミサイルまで積んでいるではないか。大きく扉に躍る刻印……どれもこれも政府のものだ。
とうに発着を見合わせた旅券片手に、好き放題わめく客、客、客。それを丁重に堰きとめる政府隊員たちも、いよいよ肩のライフルと内緒話を始めている。ただごとではない。
「キャハハ! みてみてエドガー! ツバメの雛が鳴いてるよ! 欲しい欲しいミミズが欲しい、って!」
「じっとしなさい、クラスティア。ツバメは巣がいいんだ、巣が。今度、中華料理の店に連れていってあげよう」
「キャハハハハ! へどがでる!」
今夜加わる死者の帳簿でも盗み見たか、道路にはカラスの影が尽きなかった。混じりっけなしのホログラムでできた夜空へ、せわしなくクチバシを上下させている。
緊急車両の列に横付けされたのは、場違いな黄色の車だった。サーコア第一交通8290番。なんの変哲もないタクシーだ。
「!」
半秒で門前払いかと思いきや、見よ、屈強な隊員たちの目付きを。なぜ、タクシーの運転手の横顔を覗いただけで凍ったのか。なぜ、立ち入り禁止のロープをどかす手が震えているのか。
ロビー横の停車場に悠々タクシーを止めると、運転手は助手席の客へ告げた。
「降りろ」
「護送車じゃねえんだから。頭のいいお前なら、このままUターンして繁華街に繰り出すはずだぜ、ジェイス」
客からの誘いに、運転手……ニコラス・ジェイスは平板な声で答えた。ひとこと、ここまでの運賃を。
「千六百フール」
「やっぱそうきたか。じゃ、ちと狭いが、今から懺悔室な、ここ。料金は一律、ぼったくりのタクシーと同じだ」
「出ていけ」
タクシーのドアは開いた。落とした煙草を踏み消しつつ、黒い革靴がアスファルトに立つ。
カラスの群れは飛び去った。なにを察知したのか、いっせいに。
出た。ロック・フォーリングだ。寝入りばなに叩き起こされたらしく、機嫌の方はだいぶ悪い。ソフト帽を外して頭をかきながら、空港ロビーにできた黒山の人だかりを眺める。
「暴動か。いいねえ。ちょっくら、電器屋の扉ぶち破るの手伝うか」
ひそひそ話す声に気づき、ふとロックは振り返った。
タクシーを挟んだ反対側、運転席の横にたたずむのはスーツの女だ。仕立てのよいコートに、神経質な性格を表してか、ぴんと尖ったネクタイ。特殊情報捜査執行局〝ファイア〟局長、ジェリー・ハーディンその人に他ならない。運転席で無表情に腕組みしたままのジェイスに、なにやら神妙な面持ちで耳打ちしている。
「ごくろう、エージェント・ジェイス。済まなかったな、夜分遅くに」
「おい、年増」
ひどい隈にやぶ睨みを重ねたロックを、ハーディンは続けて無視した。
「すばらしい仕事だ、ジェイス。この時間にアル中の神父を引きずり出すなど、水陸両用強襲車十台を用意しても難しい」
「………」
黙然と目をつむった状態で、ジェイスは一言も発さなかった。代わりに、身振り手振りで盛大に不満を訴えたのはロックだ。
「そうさ、そうだよ! 御大のおっしゃる通りさ! とりあえず、いま何時か歌ってみようか。ボケかかったてめえらの頭でも、俺が、神父様が二日酔いで弱ってるってのは察してくれるな?」
掌に広げた小銭を数えながら、では、とそのまま去りかけたロックを、料金所のバーみたいに止める手があった。目覚ましのコーヒーを買うほど生易しい男でないことは、このハーディン局長が一番よく知っている。
「祈りの時間だ、エージェント・フォーリング。たかだか百三十フールのビールで、不運の女神に見初められてはたまらん」
「なんでバレてんです。なるほど、あんたが神様であられやしたか」
ハーディンとタクシーを挟む形で、ロックはあきらめたように車体へ背を預けた。ポケットに突っ込んでないほうの手で、大あくびの漏れる口を押さえる。目尻に浮かぶかすかな涙。
「お嬢ちゃん……シオンと連絡がつながったんだって? 年頃だからって、こんな夜更かししちゃって。ひとこと文句言わせろよ」
「今はもう途切れている。通信不可地域に入ったらしい。残念だが、それだけ都市に近づいているということだ」
ハーディンは小さく手招きした。特殊装備に身をかためた隊員が、律動的な動きで荷物を運んでくる。
横長の大きなケースだ。車のドアほどもサイズがある。学芸会用のコントラバスでも納まっているらしい。その表面を、ロックは指で軽く弾いた。
「くれるのかい? 質に入れちゃうよ」
「エージェント・シオン、およびモニカ・スチュワート博士の搭乗した機に、〝ダリオン〟の発生を確認した」
ハーディンの報告は端的だったが、ロックが顔をひきつらせるには十分だった。もとより悪いその不精髭の顔色は、すでに屍に近い。おお、それまで彫像のごとく動かなかったジェイスさえもが、瞳を開くとは何事だ。ふたりを鋭く横目にしながら、ハーディンは続けた。
「その個体数は、いまだ増殖の一途。おまけに機のエンジンは、ぎりぎりの数を残して破壊されている」
「冗談だろ?」
「神の試練と悪魔のいたずらは、君の管轄ではないのかね、フォーリング。機は、都市の外壁北部、すなわちここへ軌道を落としつつある。これ以上損傷が拡大すれば、衝突の危険もじゅうぶん視野に入りえるな」
ハーディンの視線は、例の長大なケースに落ちた。不吉な黒い鳥のはばたきは、ふたたび頭上を旋回し始めている。
「〝ファイア〟特注の長距離狙撃ライフルだ。フォーリング、君の電磁加速能力が最大限生かされる設計になっている。その気になれば、成層圏のターゲットを撃ち抜くことすら可能だろう。もちろん今回の標的は〝オリヴィア〟。撃墜地点は、都市への五キロ手前と記憶しておきたまえ」
「おいおい。そいつは都合がよすぎやしないかい、局長さんよ。〝ダリオン〟ていどの鬼札で、賭ける掌を、お嬢ちゃんから俺にひっくり返すなんて」
「この距離……〝オリヴィア〟の強固な対空防御が仇になった。ミサイル等による攻撃は確実に失敗する。だが、エージェント・フォーリング。君なら、まず仕損じることはなかろう」
あの生命体を乗せたまま、輸送機の着陸を許すわけにはいかない。溜息とともに、ハーディンは手首で輝く銀色の時計を見た。
「私なら、とっくに自爆コードを打ち込んでいるところだがね」
風と沈黙だけが、政府の刺客たちを揺らした。
「恨みを背負うのも俺かい?」
ひとつ舌打ちして、ロックは隊員の掲げるライフルケースをひったくった。重い。重いといえば重いが、なんだ、ロックの眉間に刻まれたこの縦皺の数は。
「何度でも切るさ、十字ぐらいなら」
「しょせん機械だ、化けて出るほどの魂も持ち合わせていまい。頼んだぞ」
「……!」
ロックのくわえた煙草は、根元からちぎれた。残ったフィルターを吐き捨てると、大股にロビーをくぐる。外部防壁の方向へ。
その背中がロビーの闇に消えたのを確認して、ハーディンは、タクシー内のジェイスに低く囁いた。
「エージェント・ジェイス。至急、滑走路の待機位置へ。通常どおり、フォーリングの監視も怠るな」
「……了解」
道路に立ったジェイスの背後で、タクシーのドアは閉まった。
Ⅷ
貨物室の扉が開くや、視界は一瞬にして雪に染まった。
気温マイナス百度以下、毎秒平均七十メートルの風速。酸素のうすさ、気圧の低さともに、人間が耐えられる環境ではない。
「いやはや。これだから外回り業は」
右腕の機関銃は降ろさず、シオンは後ろ手に入口の扉を閉じた。相変わらず落ち着いた動きだ。白衣といわず髪といわず吹き乱しながら、機体最後尾、大きく顎を開いた貨物用ハッチへ向かう。
なんだこれは。絨毯のごとく床になめされた物体は。ところどころ凍りかけた人の皮ではないか。そのうえ、特徴のある馬鹿でかい靴が、大量の皮膚と一緒に脱ぎ散らかされている。残ったドルフのすべてを剥いだらしい。
そこにしゃがみ込んだまま、シオンは前方のハッチを見た。風と氷の地獄。
「立派に成長してるみたいですね。さて」
突き入れられた鋭い尻尾は、シオンの体内で交差した。
左右から一本、二本。その寸前、シオンは残像だけ残して天井に跳躍している。獲物を追って、すぐ横の空中に現れたのは二匹の白い影……ダリオンの〝兵士〟だ。速い。吹雪の室内を落下しながら、五月雨のごとく閃く爪、尻尾、爪。シオンの靴裏のスパイクと機関銃の輝きが、上下逆さまにそれを弾く、弾く、弾く。
轟音。
猫のように身を丸めて、ダリオンたちは床に降り立った。凄まじい勢いで眼前をバウンドしたのは、シオンの体だ。鋼鉄製の地面が、いとも簡単にひしゃげる。
うつ伏せに倒れたまま、シオンは動かない。勝ち誇ったように開閉するダリオンの赤い花弁。鷲掴みにしたシオンの首根っこを、凶暴な唸りとともに宙へ引きずり上げる。
ああ。いまやシオンは顔半分の人工皮膚を失い、深い爪痕の残された銀色の骨格は、絶え間なく火花を放っていた。唾液もおさえきれず、ダリオンの鋭い爪が振りかぶられる。
「くくく」
唐突に、皮のちぎれたシオンの顔は笑った。潰れた悲鳴。眼にも留まらぬ素早さで、シオンの手がダリオンの喉笛を掴んだのだ。
耳障りな金属音を残して、シオンの背中はのけぞった。床に飛び散ったのは、赤黒い皮下油圧剤だ。が、見よ。背部装甲を切り裂いたダリオンの尻尾を、今度は、シオンの逆側の手が捕らえてみせたではないか。
シオンの唇は、きゅうっと三日月型に曲がった。
「またのご搭乗、お待ちしております」
なにか訴えるようなダリオンたちの叫びは、一気に前へ流れた。
なんの前触れもなく、シオンが駆け出したのだ。開け放たれたハッチの方向へ。この高度から落ちるとどうなるか、ダリオンの原始的な頭にもさすがに想像がつかない。
両手あわせて三百五十キロ以上を保持したまま、案の定、シオンは白い紗幕の向こうへ身を躍らせた。
落ちる。
強風だけが歌っていた。
「変形」
鋭い飛翔音が、下から上へ突き抜けた。
〝オリヴィア〟最上部。
この高さにもなれば、周囲の環境は危険を通り越して死そのものと化す。音速に近いスピードで、コンクリートの壁を突破し続けると言えば話が早い。
機体のエンジンは計四基。うち二つを除いて、他は猛烈な炎と煙を吐いていた。そんじょそこらの鳥の吸い込みなど、鼻で嘲笑う最新鋭のターボファンを、ここまで徹底的に破壊する手段とは?
答えは機の胴体上部、いまも繰り広げられる不思議な光景にある。
「………」
「~~~!」
どこか切なげな咆哮だった。天高く掲げられ、力なく身をよじるのは、これいかに、ダリオンの〝兵士〟ではないか。その頭を軽々と掴むのは、ただでさえ巨大なこの種を、さらに上回る太さの腕。腕をたどれば、機上にそびえる異形の姿が見て取れる。
そのダリオンは、通常のそれとは一線を画すものだった。
まず、でかい。通常のダリオンより、頭ひとつ、いやふたつ分は。発芽の直後こそ純白だった外骨格も、全体的にずいぶん黒く染まりつつある。
ただ、彼、もしくは彼女を別次元たらしめるのは、そんな物ではない。しなやかさと頑丈さを備えたその腰の付け根、見よ。尻尾の数は一本、二本……ひとつの個体に、なんと三本。
進化論の外側から迷い込んだこの変異種の学名は〝フランベルジュ〟
確実に成長している。
だが、どう説明すればよいものか。仲間が仲間を襲うこの状況。フランベルジュの背後にひかえる三匹目のダリオンは、捕えられた〝兵士〟を助けもしない。さきほどから、順番に同じ洗礼を受ける兄弟たちに漏れず、運命を悟っているのだろう。
大きく振りかぶるや、フランベルジュの腕はかき消えた。
同時に、凄まじい爆発。計算された角度でフランベルジュに投じられた〝兵士〟が、主翼のターボファンに吸い込まれたのだ。強燃性の血液が流れるダリオンの体ほど、効果的な爆発物はない。なるほど。
「!」
もうもうたる黒煙の中、フランベルジュは残るダリオンの首を掴んだ。ひときわ大輪の花弁が、無事なエンジンへ振り向く。最後の一基。
かんだかい風鳴りが、背後を駆け抜けたのはそのときだった。
「お取り込み中、失礼」
高くかざされた〝兵士〟の体を、銃弾の雨が削り取った。衝撃にフランベルジュの手を滑った肉の盾は、たちまち雪雲の彼方へ落ちてゆく。
雄叫びひとつ、フランベルジュは見た。流線型の機首が、火柱を噴いて突進してくるのを。機関銃を乱射しながら、高速できりもみ回転する剣のごとき主翼を。
鳥ではない。人間でもない……戦闘機だ!
そう。戦闘機に変形したシオンだ。
踏ん張られたフランベルジュの足は、火花を散らして後ろへ退がった。戦闘機とすれ違いざま、鉤爪の腕がその機首を掴んだのだ。ハンマー投げの勢いで旋回するや、フランベルジュは、輸送機の尾翼の方へ思いきりシオンをぶん投げた。腕力も他の比ではない。
空中、複雑な金属音が連続した。シオンが変形を解いたのだ。尾翼を踏み台に跳躍、一回転した白衣の姿が、片膝をついて機上に着地する。
のけぞって吼えるフランベルジュを前に、シオンは顔をあげた。弾丸と化して頬を叩く吹雪もなんのその、おお、笑っている。
「珍しい場所で会いますね。切符を拝見!」
シオンは駆け出した。
駆け出すや否や、戦闘機に変形。機体中央までは一瞬だ。ふたたび人型に戻ったときには、真正面からフランベルジュと激突している。
白衣の袖を裂いて現れた機関銃は、突き込まれると同時に光った。咄嗟にフランベルジュに跳ね除けられた右腕の先から、銃弾はあらぬ方角へ。そのままシオンの横面を一撃したのは、体ごと振り抜かれたフランベルジュの尻尾の切っ先だ。激しい砂嵐を最後に、シオンの視界画面の半分が闇に染まる。さらにもう一挺、右腕と交叉して火を吹いた左の機関銃ごと、シオンの手が掴まれたではないか。
金属音を残して、フランベルジュはシオンの脇腹に食らいついた。地面に斑を生む油圧剤。そのまま、シオンの体を機体の端まで押す。輸送機の装甲に刻まれるのは、深い爪痕だ。シオンの固定用スパイクが役に立たない。
輸送機の尾翼に衝突したシオンの背中は、少しずつ仰け反っていった。特殊合金製の脊椎が、耳障りな悲鳴を放つ。視界モニターに乱れ舞う警告、警告、警告。
噛みちぎった大量の配線を牙にたらしたまま、フランベルジュの顔が花開いた。三本もある尻尾の先端が、シオンの眉間、胸部、そして腹腔にそれぞれ狙いを定める。
「機体損傷率九十%……難しそうですね、あなたの生け捕りは」
雁字がらめにされたシオンの機関銃は、ろくな照準もなく発砲した。太股と肩の一部から血をしぶかせ、大きく飛び離れるフランベルジュ。ぬめり光るその足跡を起点に、輸送機が猛烈な火の手をあげる。
「しまった、これでは自滅です。他の兵器を使うにも、角度が足りない」
故障中の片目を瞑ったまま、シオンはフランベルジュを見た。安定器の異常か、足元がふらつくのもやむを得ない。シオンが胸に浴びた返り血は、その下の動力を今も超高熱で蝕んでいる。熱暴走は目の前だ。
強すぎる。
いつしかフランベルジュは、四足獣のごとく身をたわめていた。飛びかかる刹那の獅子そのもの。次の一撃は、確実にシオンを機外へ叩き落とすだろう。
「変形も不可能……ならば!」
シオンの腕がひるがえった。
地面を蹴ったフランベルジュが、ふいに急ブレーキをかけて止まったではないか。二転三転したのも束の間、すぐに飛び起きる。フランベルジュの胸に突き立つのは、鮮やかな液体をたたえる注射器だ。
〝青虫〟
唸りをあげて、フランベルジュはその不快な異物を叩き落とした。
かと思いきや、次の瞬間、今度はその土手っ腹に注射器が生えている。それだけではない。その手に、足に、そして頭に、眼にも留まらぬ速さで飛来する針、針、針、針。
大きく腕を振った姿勢のまま、シオンは動きを止めた。全身いたる場所から、燃料臭い煙が吹き流れている。
「………」
何事もなかったかのように、フランベルジュは一歩前進した。効いていない
粘液の糸をひいて、ぼとり、と地面を跳ねたものがある。フランベルジュの頭部を見れば、花弁がひとつ足りていない。おお、見よ。手といわず足といわず、フランベルジュの浅黒い外骨格が、鹿についばまれる樹皮のごとく剥がれ落ちてゆくではないか。 忘れてはならない。〝青虫〟を作った科学者が、モニカ・スチュワートが天才であることを。
バケツをひっくり返したように唾液を逆流させながら、フランベルジュは跳躍した。背後からの追い風をも味方にして、亀裂の走った鉤爪が、眼下のシオンめがけて振りかぶられる。とんでもない勢い。しかし、角度は十分だ。
シオンは笑った。
「その〝痛み〟、大切です」
鋭い駆動音が響いた。
立ち尽くすシオンの太股が、膝が、膝から下が、両腕の裏側が、左右の肩が、一斉に外へ割れたではないか。全開放されたシオンの装甲の内部に輝くのは、おびただしいミサイルの砲門だ。まるで蜂の巣。
「踊りましょう!」
急旋回したシオンの周囲を、ミサイルの凄まじい発射煙が切り裂いた。
続けざまに大爆発を起こしたのは、空中のフランベルジュの体だ。ミサイルは直撃していた。それでも、シオンは止まらない。複雑なステップを踏みつつ、コマのごとき高速ターンを連続、情熱的にスピンを切り返しながら、発射、発射、発射。
スリップ音を残して、シオンの足は止まった。吹雪の声だけが、静寂に流れる。
「………」
背を向けたままのシオンの鼻先を、白い花弁がかすめた。それも、一枚ではない。何枚も、何百枚も……摂氏千度を超える業火の一点集中に、完全に灰と化したフランベルジュの破片を、風が運んだのだ。
「お大事に」
笑顔のまま、シオンはがくりと両膝をついた。全身に絡みつく電光と煙。はち切れんばかりに視界に重なった損傷報告が、活動の限界と修理の必要を訴えている。
静かだった。
「動体反応あり」
うなだれて眠ったかと思いきや、シオンの顔が跳ね上がるのは突然だった。いそがしく拡大・伸縮を繰り返す高解像度のその瞳孔。ぶ厚い雲の層を見上げる。
「型式、未確認。構造、未確認。識別不能の飛行物体が、高高速で〝オリヴィア〟に接近中。六、七、八、九……反応多数。どうしましょ」
雪はやんだ。ぴたり、と。
音も、それを運ぶ風すらも消えた。時が止まったように。
次の瞬間、雲を押しのけて現れたのは眩い輝きだ。大きい。輸送機と同じ速度で、しかし吐息ほどの音もなく浮遊する物体。奇妙な光沢を発する外装、噴射口ばかりか羽ひとつ見えぬ形状は、この世界を行くどの乗り物とも違う。渡り鳥の大群さながらに、機を囲む光、光、光よ。
UFOたちは、絶え間なく発光を続けていた。赤、青、黄、美しい七色の点滅。一定でありながら不規則なそのリズムは、まるで互いに言葉を交わしているかのようだ。
連れていこう、連れていこう、と。
〝彼〟だった。
「まったくもう……何もこんな時に」
勢いよくシオンの腕はあがった。撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。
おお。立て続けに、あさっての方角へ逸れる弾丸。代わりに、有機とも無機ともつかぬUFOの表面には、発砲の数だけ、水のような波紋が広がっている。光どうしが織りなす不可視の障壁にはばまれ、銃撃はこれっぽっちも届かない。
雨あられと跳ね飛んだ排薬莢だけが、シオンの足元に鈴のような音を鳴らしていた。
「弾数残り五……さて」
ミサイルは撃ち尽くした。あらゆる容量を機体の安定に割いているためか、輸送機自身の迎撃システムも反応しない。
左の手首に、シオンはそっと掌をそえた。
銀色の輝きを放つ腕時計。表示板近くのコンソールへ、シオンは複雑な暗号を打ち込んだ。それこそが、すべての元凶、バナンの廃墟を襲った大爆発の原因に他ならない。
自爆。
カウントダウンを告げる警告音を耳に、シオンは笑った。ちょっぴり残念そうに。
「すいません、モニカさん」
UFOが爆発したのはそのときだった。
「!?」
それだけではない。断末魔の炎を吐いたかと思えば、頭上、そして左右のUFOが、続けざまに墜落し始めたではないか。はるか彼方から飛来した幾筋もの光の線が、物体たちを正確に貫いたのだ。ただの銃弾が。
シオンは目を見開いた。
「これは……サーコアの方向から!?」
慌てて離脱に移った最後のUFOを撃ち落すと、魔法の狙撃は止まった。
特殊ライフル弾の残した光の螺旋模様は、ゆっくりほどけてゆく。甦った吹雪より白く舞い散ったのは、無数の透明な羽根……いましがた、天使でも通り過ぎたに違いない。これほど強烈な電磁力に加速された弾丸には、アーモンドアイのバリアもお手上げだ。
「くくく」
ひざまずいたままのシオンの体は、なおも漏電をやめない。まだ影も形も見えぬ首都めがけて、シオンは小さく拍手した。
「ハイスコアです、フォーリングさん」
シェルター都市サーコアの、外。
吹雪の流れる防壁の屋上、ロックは狙撃銃のスコープから静かに目を離した。真っ赤に灼けた銃口からは、いまだ牙のごとき硝煙が立ちのぼっている。そして、槍のように長く鋭いその銃身にそって、かすかにほとばしる稲妻。
「五キロ、ジャストだ」
タバコに火をつけると、ロックは身をひるがえした。
Ⅸ
「ええ、ダリオンの排除は完璧です。ですから、そうお怒りにならず」
不気味だった。
顔半分の金属骨格を剥き出しにしたまま、シオンが笑っている。まさしく破顔。何事か女の声で怒鳴り散らすのは、その手首の腕時計もとい通信機だ。耳に指を突っ込んで、シオンは問うた。
「もしかして疑われてます、局長? いえいえ、いますぐ自爆と言われましても。考えてもみてください。我が家の洗濯機に嘘をつく仕様がありますか?」
横揺れは依然ひどいものの、輸送機はゆるやかに着陸に移っていた。
「……俺の眼は間違っていなかった。煙で黒くなった子供の頬を叩くと、苦しげだが確かに咳が返ってくる。思わず溜息をつく俺。この火事から抜け出せたら、気楽なレジ係にでも転職しよう」
囁くようなその朗読をやめると、モニカはぱたんと本のページを閉じた。上司の小言を一式聞き終えた持ち主のシオンに、それを返す。
「政府の人形も辛いわね」
「ええまったく、心が傷つき放題です。ところで」
「顔色が悪い、って? あんたに言われたくないわ。近寄らないで」
「くくく」
「……ふふ」
客室の壁にもたれかかったまま、とうとうモニカもつられ笑いした。笑う笑う。こんな風に笑わなくなって、もう随分長い。目尻から涙がこぼれかけ、さりげなく天井を見る。
「じきに消されるのね、この記憶も」
「それは……」
「いいのよ、隠さなくても。どの道、なにもかも忘れたいことに違いはないわ」
「………」
シオンは口を閉ざした。AIの機能不全だろうか。静止画のように固まったシオンの笑顔が、泣き笑いに似た表情だけが、モニカを見つめている。瞳を隠す前髪の隙間から、モニカはつぶやいた。
「シオン君、ひとつ頼んでいい?」
「〝男女君〟で結構です。いつもみたいに」
「〝臨時講師の変死体見つかる〟って記事、明日の新聞に載せるかどうかは政府に任せるわ。でも仮に、生かしたまま、あたしに偽の記憶を植え付けるなら、まったく違う人生を設定するなら……」
取り出した〝精神~〟のビンに、モニカの視線は落ちた。少しの間掌でもてあそんだあと、驚くなかれ、静かにそれをポケットにしまう。
「取り柄なんかいらない。お金もいらない。だからせめて、科学者だけはやめて」
そう。人並みに結婚して、冷陰極電子源のない家に住んで、子供でも産んで……
「きっと忘れないわ。シオン君のこと。夜寝てるとき、たまに夢に見て、うなされる程度には覚えとく」
「くくく。その恐るべき皮肉の才能と、科学技術の代わりに、家事全般の習得などはいかがです?」
「なんで知ってるの、あたしが料理に掃除ぜんぶ駄目なこと。ま、天才だから大丈夫。あんなものはマニュアルよ、マニュアル」
モニカの背中を、鋭い触手が貫いたのはそのときだった。
よろめいたモニカの内側から、何本も、何本も。
目を剥いたシオンへ、モニカは血の伝う唇で笑った。穏やかに。
「ずっと、そうしてる、つもり?」
銃声。
ひとしきり暴れたダリオンの根は、間もなく、しなだれて動かなくなった。床を跳ねて砕け散るモニカの眼鏡。全身にうがたれたガトリング弾の銃創から硝煙をひいて、モニカは前のめりに倒れた。優しくそれを受け止めたのは、誰の腕だったろう。シオンの笑顔の頬を飾るのは、返り血の薔薇だ。
物言わぬモニカを抱いたまま、シオンは答えた。
「あなたが眠るまで」
Ⅹ
ドーム状のシェルター都市は、吹雪に霞んでいた。
隕石でも落ちたのだろうか。白と黒が地平線を分かつ雪原の一角、あちこちに穿たれるのは大きなクレーターだ。まき散らされた多くの金属片は、言語に窮する色の炎をくすぶらせ、深い落下跡から流れる煙の本数は、およそ十を超える。
〝ファイア〟に撃墜されたUFOのなれの果てだった。
大穴のひとつからは、足跡が続いている。首都サーコアの方角へ、きっかり二人分。本来であれば今頃、あの輸送機〝オリヴィア〟内の資料を一匹残らず回収し、ゆうゆう空の帰路を急いでいるところだが。
誘拐? 人聞きの悪い。
「さささ、さっき空から落ちたときのアレね、あれを無重力ジョータイって言うんでしょ?」
寒さのあまり、人影は呂律が回っていなかった。自分の体を腕で抱いたまま、がたがた震えっぱなしだ。
そう、その腕。いや、手だけに留まらない。足首はもとより、顔面まで。焦げだらけのスーツから覗くその体は、あますことなくぐるぐる巻きだ。
白い包帯で。墜落の火災に見舞われたにしては、すこし用意がよすぎる。
スコーピオン。
「み、みみ見えちゃったんだな。ガーターは誰の趣味? 黒だったね♪」
その真ん丸な瞳に遠慮はない。片目だけ開いた包帯の隙間から、隣を歩くしなやかな人影の下腹部を、舐め回すように見ている。もっとも、スコーピオンの横、彼女は吹雪のあたる太股を庇おうともしなかったが。
「………」
女に表情はなかった。
と言うより、顔自体がない。ピエロのごとく笑い狂う仮面が、そこを完全に覆っているためだ。おまけに、冗談のような猛吹雪にも拘わらず、この服装を見よ。
スーツにスカート、ついでにハイヒール。
OL?
ともすれば自分を置いて行きかねぬ彼女に、スコーピオンは慌てて取り繕った。
「わかった、わかったって。ツンケンしないでよ、愛しのマタドール。ほら、よく言うじゃん? 偶然、事故、怪我の功名、役得」
「………」
きめ細かい彼女の長髪は、強風さえ美しさの糧にした。美しい。たしかに美しいが、その光沢はどこか、配線の奥深く束ねられたナノ繊維を彷彿とさせる。
おお、これはなんだ。彼女の律動的な歩調に合わせて、くびれた腰で揺れる長い物体は。
鉄の、棒? ぱっと見でさえ、所有者たる彼女の身長を越えている。
「いつも悪いね、助けてもらって。ジノーテの廃病院……人間ミサイルとチキンレースした時もだが、毎日でもぶち落とされたいもんだ。君と手をつなげるなら」
スコーピオンのねぎらいにも、女は沈黙を貫いた。無視、一切無視。
仮面の底でまばたきしない彼女の瞳、さらにその奥の奥……視界モニターに映る彼女の世界には、情報の数々が雪崩をうって導きだされている。
アンドロイドだ。
めまぐるしく更新される索敵マーカーの端、音の高低を伝える波形は不意に乱れた。横のスコーピオンが漏らしたくしゃみを、彼女のセンサーが捉えたのだ。ひとつ、ふたつ。
続いて、一匹、二匹。
見よ。雪原に走った亀裂が、猛スピードでスコーピオンたちに突き進んでくるではないか。まるで人食いザメの接近。金切り声をひいて跳躍したのは、ふたつの白い影だ。
〝ダリオン〟
よく眼を凝らせば、どちらのダリオンも腕や尻尾の一部が足りていない。とんでもない高所……飛行中の〝オリヴィア〟から叩き落されたばかりだと言うのに、たいした生命力だ。湯気を噴く棘だらけの花弁が、地上の二人めがけて急降下する。
ハンカチで、思いきり鼻をかむスコーピオン。瞳だけが笑っている。嬉しそうに。
「やっておしまい♪」
その光を見た者はいない。
闇を一閃した銀色の軌跡は、次の瞬間には女の腰に戻っていた。雪を吹き飛ばして、スコーピオンたちの背後に着地するダリオンたち。動かない。
あいかわらず、女は無言のままだった。
「………」
凍えた金属音は、女のつかむ長い鉄棒から響いた。刃が、鞘に納まる音? かと思いきや、おお。ダリオンの首が、胴体が、手足が、積み木のごとく分解したではないか。ぶちまけられた強燃性の血が、雪に落ちて爆発的な火柱をあげる。
瞬殺だった。
「あ、あったか~。ぎゃはッ」
ぷっと吹き出したのはスコーピオンだった。我慢できなくなったらしい。焼け焦げるダリオン二匹の死骸を指差したまま、どんどん笑いを大きくしてゆく。
「ぎゃはははは! 大ヤケドだ!」
「………」
不可思議な鉄棒から手を放すと、女は炎に背を向けた。慌てたスコーピオンが、凍結した雪に足を滑らせるのも気にしない。激しさを増す吹雪に、おぼろげなシルエットと化して歩くふたり。
首都はすぐそこだ。
「ちょ、待っ、ぎゃはははは!」
♯03 Setupper knock out




