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Fire〝ファイア〟  作者: 湯上 日澄
5/8

Inning ♯03 受胎 (前)

……大きな彼らが歩くのは、星から降りるマケ・マケを守るときだけだ。石の像と化して眠りながら、彼らは今も待っている。

〈イースター島の伝説〉



「いろんな職業にカモフラージュした政府の殺し屋が、街角から都市を監視してるって噂は聞いてたわ、ジェイス」

「……副業だ」

 大型輸送ヘリの編隊は、爆音を連れて海上を通過した。

 午後四時三十分……

 ミノエス湾岸の高速道路では、知性あふれるオーケストラが開催されていた。罵声に怒号、猿のようなクラクションの連打。聞くところによれば、トンネルの前方で派手な落下事故があったらしい。

 眼を血走らせた運転手のひとりが、渋滞の車から上半身を噴出させた。載せただけのソフト帽からはみだす、芸術的なまでの癖毛頭。煙草を噛みちぎった歯の間から、低い唸り声を漏らしている。狂犬だ。

「うおら 祈られたい奴から前に出ろ!」

「こら! 落ち着かんか、フォーリング!」

 てんやわんやするこの二名はさしおいて、何台か前の車から、ぴょこっと覗く顔があった。阿鼻叫喚の地獄の中、まだ十代も遠いその少女は、高級な西洋人形か、はたまた舞い降りた天使にも見える。車の扉を両手で叩きながら、叫び返す声も愛くるしい。

「しね!」

「こら、クラスティア。まったく、どこで覚えたんだ、そんな汚い言葉」

「キャハハハハ!」

 都市の大動脈を渋滞させるのは、はるか前方、子供のミニカー遊びより乱雑に停まった軍用ジープの群れだった。

 テロでもあったのだろうか。上空から絶え間なく睨みを利かせる大型ヘリといい、ただの転落事故にしては落ち着きがない。そのうえ、ジープの車体側面にはどれもこれも〝政府〟の鮮やかな刻印が。

 その一角に停まる医務車両もまた、政府のものだった。開いた後部扉を天井代わりにして、即席の応急処置スペースをもうけている。その下のイスに腰掛けたまま、患者に声をかけたのは白衣の医者だ。中性的なソプラノの声。

「お大事に」

 医務車両からは、傷の治療を終えた女が離れるところだった。警察支給のホルスターをシャツに巻く姿は、まだ若い。黄色のタクシーにもたれかかる無表情な男と、何事か会話をかわしている。

 銀盆にピンセットを置くと、医者は語りかけた。

「こちらエージェント・シオン」

 医務車両の周囲には、もう患者の姿はない。独り言? いや違う。医者は、自分の左手首に喋りかけたのだ。正確には、そこに巻かれた銀色の腕時計に。腕時計は、超小型の通信機……とある政府機関の極秘回線を兼ねていた。

「こちらエージェント・シオン。負傷者の応急処置は、ひとまず完了しました」

〈こちらハーディン。ごくろう〉

「すごい渋滞じゃないですか。コーヒーの差し入れはいかがです、局長?」

〈コーヒーより鎮静剤だ、シオン君〉

「くく、強力なやつがありましてね。馬用の」

〈頼む。おっとフォーリング。銃なぞ抜いてなにを……〉

 時計のスピーカーの向こう、やや低いその女性の声は、すこし慌てたようだった。獣じみた唸りと、なにかの揉み合う音を最後に、通信は途絶える。黙祷だ。

「くくく……」

 かすかな笑いに肩を揺らすと、医者……シオンは抗菌マスクを外した。小鳥のさえずるような声にふさわしく、男女の判別が難しい顔立ち。ただ、常に笑っているようなその瞳の奥を見よ。

 おびただしい数値の入り乱れるシオンの視界モニターは、マスクの素材を自動で解析していた。約五マイクロメートルの固着樹脂に、二層構造の抗ウィルス繊維。

 切り裂かれた事故防止壁の向こうに、シオンは白くきらめく海を見た。政府の気象管理部の気分にまかせたホログラムの青空に、人工動力が動かす有料の波風。平和と勘違いしそうだ。引いては寄せる潮騒にあわせ、シオンのモニター端の波形ものんびり上下を繰り返している。

 その波形が跳ねあがるのは、突然だった。

 どこからともなく、かんだかい笑い声が響いたのだ。あるテロリストの、狂ったような笑い声が。

〈死んだ!? ぎゃはははは!〉

 閃光。

 次の瞬間、文字通り道路は折れた。

 渋滞の張本人、鑑識係が海から引き揚げた事故車両の大型ワゴンに続き、次々と爆発したのは高速道路の橋脚だ。轟音、轟音、轟音。一キロに渡って口を開けた亀裂の底へ、机でも傾けるように車たちが滑り落ちてゆく。

「な、なにが起こったんです? それに今の声、コードネーム〝スコーピオン〟の……」

 独りごちたシオン自身も、震動に片膝をついている。

 着信のメロディーは、その手首の腕時計から流れた。ねっとりと回線に乗ったのは、それはハスキーな女の声だ。

〈やれやれ、マスカラ塗り直さなきゃね、こりゃ。怪我はないかい、お人形ちゃん?〉 「いま少し、心がズキっとしたぐらいです。そちらは無事ですか、エージェント・リンフォン?」

 炎と煙の激しさにも拘わらず、シオンは口ひとつかばわない。にこやかだ。一方、通信機の向こう側からは、かすかな水しぶきの音が聞こえる。

〈夏でもないのに、優雅に海水浴さ。包帯野朗なんか放っといて、一緒にどうだい、お姉さんと?〉

「水着を忘れたのは失敗です。次からは、塩害と沈没の対策もしてきましょう」

 渋滞のストレスはどこへやら、人々は車を捨てて逃げまどった。白衣だけを揺らすシオンのかたわらを、汗だくになってすれ違ってゆく。

 一方、シオンの腕時計の向こう、はすっぱな女の声は唐突に低くなった。

〈爆弾しかけてたアーモンドアイの連中は、死ぬまで相手してやった。尻尾巻いた何匹かが、そっち行くよ〉

「なんですって?」

 シオンの眉はひそまった。

 刹那、防護壁を飛び越えて現れたのは銀色の人影だ。

 シオンの視界モニターに追加される索敵マーカーの表示は、七、八、九、十……まだいる。巨大な足に踏み潰された車から、ガラスの破片が散った。

 水銀のごとく凹凸を繰り返すマントに、鋭くとがった超大型機関銃。射撃型死神〝スペルヴィア〟たちだった。

「なるほど。いじめられましたか?」

 ピエロめいた死神の仮面が、銃火を照り返した。

 医者にあるまじき素早さでばく転したシオンを追って、弾丸の雨が道路を削り取る。肉の花火と化して吹き飛んだのは、逃げ足の遅い太った会社員だ。

 アスファルトに亀裂を穿って、シオンは着地した。

 着地した途端、その周囲には続々と死神の影が舞い降りている。ゆらめく白衣のすぐ背後には、ああ。一般車の後ろ半分を無数に浮かべる海が。

 踵の下から海面へ吸い込まれる瓦礫を、シオンは静かに眼で追った。相変わらずの笑顔で、両腕を広げる。無抵抗の証だ。

「話し合いません?」

 死神の銃が跳ねあがると同時に、倒れる白衣の裾が見えた。道路の外側へ。

 波音は穏やかだった。

「………」

 銃口を真上へ掲げると、死神の一体は崖へ近寄った。シオンの身投げした場所へ。強い潮風が歌う海面を、泣き笑いの仮面が見下ろす。


「変形」


 シオンの声とともに、かんだかい飛翔音が空へ駆け昇った。

「!?」

 のけぞった死神たちの銃口は、でたらめなファンファーレを演奏した。はるか大空、ふたつの翼から雲の糸をひく影を歓迎するように。

 鳥か? 人間か? いや、あれは……戦闘機だ!

 シオンの落ちていった場所から、入れ替わりに、奇妙な戦闘機が現れたのだ。

 その優美な流線型の機首は、滑り落ちるように回転した。死神どもの銃撃の嵐を、かわす、かわす、かわす。まさに紙一重。人間の搭乗を考えず、極限まで小型化された機体ならではの曲芸飛行だ。

 衝撃波とともに、戦闘機は道路の真下を通過した。死神たちを打つ波しぶき。

 死神たちは、右から左へ方向転換した。銀色のマントの下から、一斉に担ぎあげられた物体がある。多連装ミサイル砲の輝き。大人の三、四人なら楽にもぐり込める巨大さだ。

 一方、戦闘機はつぶやいた。そう、独り言を発したのだ。シオンの声で。

「おや、ロックオン警告ですか。それも、こんなに沢山……いい音色だ」

 猛烈な発射煙が、道路を覆い隠した。

 天地逆に青空へ流れた戦闘機を、数えきれぬ死神のミサイルが追う。鮮やかな蝶に挑む少女の指のように。複雑な弾道を描いて絡まりあったそれは、次の瞬間、きりもみ回転する戦闘機を赤外線の牙に捉えた。

「ごきげんよう、お嬢さん方」

 キザっぽく告げた戦闘機の尾翼から、流星のような輝きが拡散した。

 同時に、爆発、爆発、爆発。広範囲へ美しい面を形成したマグネシウム、テフロンの添加金属粉の燃焼につられて、ミサイルの群れは見当違いの方角へそれてゆく。まさか、赤外線妨害装置!?

「!」

 声こそなかったが、死神たちは確かに驚愕した。

 爆発の業火を突き破って現れた戦闘機から、花が咲くように光の筋が広がったのだ。超小型ミサイル二百発。戦闘機がお返しに放ったミサイルの群れは、またたく間に死神の集団に肉薄するや、おお。発射した戦闘機本人と別れて、そのまま亜音速で死神たちの頭上を通過してゆく……火器管制系統の故障か?

 瞬間、道路を襲った炎の驟雨は、怒れる天使が振るう断罪の剣を思わせた。数百発の榴弾に分裂したミサイルが、死神たちの体に容赦なく降り注いだのだ。対地制圧ミサイル。

 とどめを刺された形で、道路は海の大渦に傾き始めた。頭部や手足を欠き、火だるまと化した巨大な死神たちのシルエットは、吹き荒れる濃い煙の先、力なく地面に溶解してゆく。

 静寂……

 ひときわ推進の光を加速させた戦闘機の輝きは、しだいに点となり、太陽に消えた。同じ場所から、一回転しつつ降りてきたのは白衣のはためきだ。

 着地したシオンの足元は、轟音とともにひしゃげた。高速道路の電波塔だ。透き通った前髪を、地上百メートルの風が静かに揺らす。

 それも束の間、煙を切り裂いて、シオンの眼前には黒焦げの死神が跳躍していた。まだ生き残りが!? 死神の手には、レーザーで形成された鎌が最大出力の光を放っている。

 シオンの立つ電波塔は、勢いよく破裂した。シオンが足場を蹴って跳んだのだ。襲いかかる死神めがけて。死神は下から、シオンは上から。

 弦月を描いて、シオンの唇は笑った。

「くくく……お大事に」

 激突したふたつの中央で、閃光が広がった。


       Ⅰ


「前にも説明しましたね。この惑星の管理人は、我々人類で七番め」

 国立大学の講堂、真っ暗な壇上で女は語り始めた。

 そこだけ眩しい大型スクリーンが、頭でっかちの恐竜から、筋骨隆々の原始人の画に切り替わる。黒革のツナギを着せて、ハーレーに乗る姿がよく似合う髭面だ。

「これはクロマニヨン人。私たち共通の祖先です。ただ、ほんの三万年前まで、人類の種類はひとつだけではなかった。そのもう一種類がこちら、ネアンデルタール人。いわゆる旧人類と呼ばれています」

 白衣の女……臨時講師のモニカ・スチュワートは、手元のポインターで浅黒い原始人の顔をしめした。

 こっちの彼は強面だが、平日はきちんとネクタイをしめて出社し、家庭では優しい恋人に戻るタイプに違いない。好みだ。酒も煙草もボーリングも禁止しないから、あたしもこんな男前の彼氏が欲しい。

「寒さの厳しい地域を生活圏にするのとは反対に、旧人類の気性はとても穏やかだったと言われています。喜怒哀楽に富んだ現代人とは、遺伝子工学の観点からもほとんど結びつきがありません。ただ、徐々にすすむ雪どけにともない、最終的に生き残ったのはなぜか我々の祖先。一説によれば、旧人類が絶滅した原因は、隕石の衝突でも、火山の爆発でもないそうです」

 モニカが投影機の焦点を調節すると、一転、スクリーンは戦いの舞台と化した。

 必死に逃げ惑うのは、現代からすれば遥かに大柄な原始人だ。手にした棍棒らしき物体からは、文明のかけらも感じられない。かたや、彼らを襲うやや小さい人影は、鋭く研ぎ澄まされた石器や、高度な槍で武装している。敵意剥き出しなこちらの方にこそ、街角で職務質問される連中に通ずる雰囲気があった。

「生態系ピラミッドの頂点に立つため、それまでの支配者に対し、新しい種族が必ず起こす行動とはなんでしょう。答えはこの絵の通り。まず、環境への順応。これは社会においても肝心なことです。次に……はい、そこ」

 唐突にモニカに指名された女子大生が、顔をあげるまでにはかなり時間がかかった。宝くじにでも当たったような眼の瞠りぶりだ。「あたし?」と自分を指差す生徒に対し、モニカは眼鏡を持ち上げて再び質問した。

「地球を支配するには?」

「あの、えーと」

 救いを求める眼差しで、女生徒は周囲の闇を見回した。

 広い円形講堂の人気なさ、孤独さ。がら空きの映画館であれば、まだポップコーンとコーラの持ち込みも許してくれる。

 フットボール部らしい肩の張ったボーイフレンドは、彼女の首筋からまだ顔をはなさない。汗臭い笑い混じりに、女生徒の耳元へなにか囁く。

 うんうんと頷いたあと、女生徒はためらいがちに答えた。

「せ……選挙に当選する、ですか?」

「現代風に例えてみせるなんて、さすが。放課後のデザートバイキングで、きっちり脳に糖分を蓄えてるだけの事はあるわ」

「うッ。あたしのひそかな楽しみを、なんで知って……」

「先生も行きつけだからよ。二丁目の〝福山楼〟。サービスいいわね、あそこ。でも、ご覧。先生は太らない。なんでかって? 頭を使うから。どう、こんど一緒に?」

 悪意たっぷりのモニカの笑顔に対し、女生徒は赤面を教科書で隠すばかりだった。その様子をジト目で眺めるボーイフレンド。ダイエットするって言うあの宣言はなんだったんだ?

「そう、答えは〝食うか食われるか〟。生存競争に勝ち残るため必要なのは、ひとつ、捕って食べる生態系の確保。夢の一人暮らしを始めるにあたって、皆さんもまず、近所に品揃え豊富なスーパーを探したはずです。それから、徹底的な天敵の根絶やし。これらは人や獣を問わず、およそすべての生命にあてはまる行動原理、いわば本能です……あら?」

 ふいに光の弱まったスクリーンを、モニカはうんざりと横目にした。どこの教室だ。べらぼうに電力を使って、レールガンの実験でもしているのだろうか。

 床のコンセントにしゃがんだモニカの耳に、いやらしい口笛が聞こえた。しまった、今日はスカートだ。ごく少数とはいえ、皆勤賞の常連がいるのは彼女自身驚きだが、なにを見にきているかと聞けば、もちろん、この悩ましい脚線を見にきていると答える。

 鮮明に戻ったスクリーンを背後に、モニカは素早く立ち上がった。すまし顔で咳払いする。これ以上は有料だ。

「旧人類と新人類の歴史が交差した瞬間、そこには種族どうしの衝突が巻き起こったと言われています。悲劇の結果、争いを嫌う前者は一方的に滅ぼされ、我々、血気盛んな後者は新たな文明の担い手となった。旧人類たちには、さぞかし理不尽だったでしょうね。ただ慎ましく暮らしていただけなのに、なぜ生命の樹の席を譲らねばならないのか。彼らに対して、我々は侵略者そのものでした……さて」

 マイク片手に、モニカは教壇の画面にタッチペンを走らせた。書き込んだ文字が、そのままスクリーンに反映される。

〝地球の歴史上、絶滅した生物の数は五百億種を超える〟

「惑星の歩んだ四十六億年を、我々の二十四時間に置き換えてみましょう。人類が繁栄した期間など、まだほんの数十秒にも届きません。そこでです。五十年前の戦争を始め、もし、都市の外の氷河期を春風ていどにしか感じず、現在の支配者を、食物連鎖における格好の獲物とみなす天敵が現れたとすれば?」

 節目がちのモニカの瞳に、束の間、うつろな光が駆け抜けた。

 暗闇の向こう、粘ついた唾液とともに開く真っ赤な花びら。足をばたつかせながら、素早く天井の亀裂へ引きずり込まれる人々。長い絶叫。熟れた果実を握り潰すような音を残して、すぐ静かになる。

 一言一句かみしめるように、モニカは告げた。

「狩人は、悲鳴であなたの場所を知る……平和主義の人類など、またたく間に絶滅してしまうかもしれません」

 電灯の明かりが、講堂を満たした。授業中の挙手がさっぱりな生徒に限って、固まった筋を伸ばすのだけは一丁前だ。

「本日の講義〝タイトル防衛〟はここまで。次回は〝未来喰い〟。レポートの提出は忘れずに」

 教科書の束を小脇に、モニカは階段を昇り始めた。終礼のベルに背を押され、横を追い抜いてゆく生徒たちを見送る。ため息混じりに。

 白昼堂々、愛用のバイクが強盗にあってから、どうも憂鬱だ。盗難保険から新車は手に入れたものの、すぐ横の車線で振られる工事の誘導灯や、集団登校の小学生が右手を掲げるたび、身がすくんでしまう。ラリアット恐怖症……こんなトラウマは聞いたこともない。

「ダリオン」

 背後からのその囁きに、モニカは石化したかのごとく硬直した。鋭く細まった瞳は、親の仇でもいるように前方の扉を睨んでいる。

 続けて、男の声は嘲笑った。

「先生、か。色物のポルノにしちゃ上々だ、スチュワート博士」

「同感ね。少なくとも、あんたのカモフラージュより狂い方はマシかしら、神父様……ロック・フォーリング?」

「心外だな。俺自身、教会勤めと〝ファイア〟のエージェント、どっちが本業か決めかねてるってのに」

 つぶやきとともに、長椅子の陰から、ひょろ長い足が跳ねあがった。二本。降ろす反動を使って、寝転んでいた上半身が背もたれの向こうに現れる。

「好きだぜ、ああいう授業は。息でもするみたいにバッドエンドをまき散らす性分は、相変わらず」

「安いものじゃない? ただ座って聞いてるだけで、卒業単位と世界の真実が手に入るんだもの」

「どおりで眠たくなるわけだ」

 漆黒のソフト帽を正すのは、闇を塗り込めたようなスーツの男だった。

 神父?

 これはひどい。廃れた畑のようにちらつく不精髭に手入れの形跡はなく、隈の濃い半眼は明らかに二日酔いによるものだ。聖書片手に、こんなゴロツキが玄関の呼び鈴を鳴らした日には、扉越しに散弾銃の手入れを急がねばなるまい。

 ロック・フォーリング……政府の特殊情報捜査執行局〝ファイア〟の暗殺者だ。校内への彼の侵入を許したばかりか、教室で堂々と居眠りまでさせてしまったことを、いまさら大学の警備体制に突きつけても始まらない。それを防ぐには、若干の核兵器と無糖のコーヒーがいる。

 ロックは告げた。

「今日は、あれだ。あんたを迎えにきた」

「唐突だこと。カボチャの馬車は駐車場?」

 モニカの返答に、にい、とロックの唇はつりあがった。とらえた獲物の命乞いを聞くライオンは、きっとこんな笑顔をするに違いない。

「黙って来るか、酷い目に遭ってから来るか、どっちがいい?」

「寝てもいいわよ、一晩だけなら」

 うさん臭いロックのサングラスに反射するモニカは、まだ背を向けたままだった。

「条件はひとつ。金輪際、あたしの行動圏百キロ以内には踏み込まないで」

「シャワーはお先に、って言いたいとこだが、残念。今度ばかしは、ちと時間がねえ……バナンの廃墟、って言や話は早いかい?」

「……!」

 廃墟?

 激しい頭痛を、モニカは眉間をしかめるだけで耐えた。

 金属のひしゃげる音。純白に光沢する甲殻の腕が、爪が、彼女のうずくまる狭いエレベーターをこじ開けようとしている。地獄と悪夢を、おびただしい血でカクテルした記憶の扉を。

「ニュースで見たろ? 実はあの大穴、国家クラスの内緒話だが……局長の人形癖、エージェント・カトレアが自爆しちまってよ。いったい何と遊んでたんだろな、あいつ」

 拳を結んだ手を、ロックはぱっと開いてみせた。一方、動揺を抑えたつもりでも、モニカの笑みは明らかに引きつっている。

「また? 爆発の件はニュースで見たわ。親切心から一応聞くけど、廃墟に行ったテレビ局の連中、都市へ素通しになんてしてないでしょうね?」

 ロックを通り越して、モニカの視線は何もない天井を眺めていた。

 いや、いる。天井へ四つん這いのまま張りつく影は、巨大な蛾とも、無数の爬虫類とも思えた。

 ガラスとガラスをこすり合わせるような奇声。視覚らしき器官は認められないが、間違いない。こっちを見ている。

 頭を軽く振って、モニカはその幻覚を消した。

「まあ、〝花〟がまだ枯れずに咲いてるなんて、非科学的もいいとこだけど」

「いくら間抜けな政府の検査たって、素通しはねえよ。だってまだ、ひとりも生きて戻ってないんだぜ、テレビ局の奴ら」

 こともなげなロックの報告は、モニカを唖然とさせるに十分だった。

 肩を並べて外を歩く生徒たちの談笑は、人気に少ない講堂によく響く。キャンバスライフは限りなく平和だった。こみあげる嘔吐感をなんとか堪らえ、ふたたび問うたのはモニカだ。

「救難信号は?」

「半月あたり前から鳴りっぱなしさ」

「まさか、それだけ?」

「それだけだ。なんべん廃墟に呼びかけたって、はは。インタビューどころか、くしゃみひとつ人の音沙汰はねえ」

 涼しい顔で、ロックはお手上げした。

 開けっ放しの入り口、吹き荒れた木枯らしが、モニカの手から書類をさらう。数枚、いや、すべて。脱力とともに放棄された千枚の用紙が、白衣の周囲でぶつかり合っては竜巻を描く。立ち尽くしたまま、モニカは声を震わせた。

「笑ってられるのも、今のうちよ」

「知ってる。だから、あんたも笑え」

「あの時のあたしなら、ナイフで口を裂いてでも従ったでしょうね。〝ダリオン〟に関する研究はまとめて焼き払って、おまけに」

 長イスに足を組んだまま、ロックはしみじみ胸の十字架をいじった。

「仕事も、知り合いも、帰る故郷すらも捨ててきた……悪くないじゃねえか。過去の味なんて、ただ苦いだけさ」

「おかげで今は、抗精神剤を三食デザートにする毎日。さて、こんな抜け殻が次に差しだすものは?」

「ここだよ、ここ」

 とんとん、とロックは自分のこめかみを指差した。サングラスに閉ざされた瞳は、もてあそぶ玩具でも見つけたように笑っている。

「いまさら悲劇のヒロイン気取りかい? 全部あんたの蒔いた種だ。種。そっから育つ花のヤバさは?」

「惑星まるごと生け贄よ」

「じゃ、花がダリオンに化けて、増え始めるまでの時間は?」

「ここよ、ここ」

 と自分のこめかみを指で叩くのは、今度はモニカの番だった。

「時計を見てる暇があったら、さっさと自分の頭を撃ち抜くべきだわ。あたしならそうする。寄生されてようと、いまいと」

「やっぱ産みの親の意見はためになる。さ、そろそろ行こうぜ、博士」

「あいにく、しがない臨時講師の仕事が気に入っててね。二度と現れないで」

「弱ったな」

 引き抜いた煙草を、ロックは気だるげにくわえた。一本、二本、おお、五本。唇に横並びしたその先端を、ゆらゆらとライターの火であぶる。病気だ。

「いけないぜ、生徒たちを悲しませちゃ」

「どういう意味かしら」

「いやさ、考えてもみな。ある朝会うと、化学の記号どころか、自分たちの顔ひとつ思い出せなくなっちまってるんだ。綺麗で評判の、あのスチュワート先生が」

 途端に、モニカの拳はひるがえった。

 火災報知器に激突した手の下から、割れたガラスの破片がこぼれる。警備員と消防士が何人、犠牲になろうと関係ない。神が描き続けた生命の絵に、進化のパズルに、遊び半分で泥を塗るあの実験に戻るぐらいなら。あの地獄の苦痛で名高い、記憶消去の手術台に磔になるぐらいなら……

 講堂は静かだった。警報のけの字もない。傷ついたモニカの拳からしたたる血の珠だけが、床に小さなリズムを刻んでいる。

「手は大事にするこった」

 つぶやいて、ロックは指を鳴らした。

 同時に、天井の電灯が順番に爆発し始めたではないか。端から端へ、ほうき星をひいて乱れ飛ぶ火花。

「〝花〟の世話ができなきゃ、あんたにゃモルモットほどの価値もねえ」

 ゆったり背もたれに置かれた腕から、ロックの足元へかけて、かすかな稲妻が駆け抜けた。千メガジュールを超える指向性の電磁波をもってすれば、報知器の配線をショートさせるなど造作もない。

 裂けた拳をうつろげに見つめながら、モニカはささやいた。

「都市ひとつ分の断末魔を聞いても、まだわからないみたいね。あの生物の危険さ、利口さが」

「供養のしすぎは喉に悪い。教会の冷蔵庫は、いつもビールでいっぱいさ」

 なぜだろう。

 いまごろ、教室という教室は大停電に見舞われているに違いない。派手な騒ぎが起こって当然のはずだが……この静けさはなんだ。あれほど賑やかだった外の声が、指揮棒を降ろしたかのごとく途絶えている。つまり、彼女ひとりを頷かせるため、すでに校内の人間は全員……

 逃げきれない。

 床に落ちる血の早さは、にわかに増した。激痛にもかかわらず、モニカの拳は震えるほど握りしめられている。

「ノコギリみたいな尻尾で串刺しにされながら、決まって、襲われた生物には少し息が残ってる。ひと思いに死なせてなんかくれやしない。考えたことある? ダリオンが本能的に、あえて急所を外す理由を」

「まだまだ現役だな、天才スチュワート博士は。喋ってるだけで反吐が出そうになる」

 鈍い音がした。

 白衣に散る赤い斑点。

 ロックが手首を掴まなければ、報知器を殴り続けるモニカの拳は、いよいよ収拾のつかない事になっていたに違いない。冷静に男の手を振りほどき、床にへたりこんだ細身の背中が、地を這うような声を漏らす。泣いているのか、あるいは笑っているのか。

「殺されるわよ、一人残らず」

 窓からの陽射しが形作る埃の柱のもと、モニカは震える手で顔を覆った。知的ぶった眼鏡に残された指の跡は、当然赤い。

 ともすれば美しい演出だが、狂っている。狂っているからこそ、神父は胸元で十字を切った。

「免罪符のバーゲンセールだぜ、博士。懺悔の続きは、ヘリの中で」

 大型輸送機の巻き起こす風に、枯葉が舞っていた。


       Ⅱ


 小さな店に、ささやかな嬌声が流れていた。

 バー〝トムキャット〟

 その狭苦しさが、こ洒落たジャズの音色と、淡い照明を逃がさない。カウンターの向こうで舞うのは、報告書の束ではなく、ベルモットの揺れる銀色のシェイカーだ。

 けたたましい音を残して、酒の瓶が割れた。甘い煙草の紫煙だけが漂う静寂の中、席を蹴ったのはそばかす面の若者だ。

「足元見てんじゃねえぞ、ねえちゃん!」

「放して!」

 若者に掴まれた腕を振りほどこうと、夜の窓に浮かぶシルエットは必死にもがいた。その女がまとう中華風ドレスの胸元は、理不尽なまでに豊満な自己主張をやめない。

 思わず乱暴に引き寄せたくなる薄い肩、ただ歩くだけでアスファルトも熱を甦らせるほどの太股の白さ。遠巻きにテーブルを囲む客の何人かは、間違いなく財布の中身に今生の相談をもちかけた。それから、家族を路頭に迷わせるかどうか天秤にかけ、ため息混じりに悩む。悩み抜く。

 若者が振りあげた拳を一目して、女は不敵に笑った。

「あら、殴る? 殴っちゃう? ま、頬っぺた張るほどの札束なんて、見たことも持ったこともないでしょうけどね」

「~~~ッ!」

 くすくすと笑いを噛み殺す野次馬たちの反応に、騒ぎの発端……テリーのそばかす面は見る間に紅潮した。

 一方、対面の席で酔いつぶれるテリーの相棒からは、援護のひとつもない。ニット帽の彼、マックスはなにやら小皿の干しイチジクと会話している。うつろな眼差しだ。〝タクシー〟? 〝千六百フール〟?

 女の挑発に対し、テリーが慌てて捻り出した答えはこれだった。

「な、舐めんなよ。マフィアの後ろ盾がついてんだぜ、俺たちの背中にゃ」

「ならあたしのケツ持ってるのは、ブチ切れたライバック千人ってとこかしら。いい、坊や? 百年早いって言ってるの」

 テリーの手を振り払った反動で、女は後ろの壁にぶつかった。

 大胆に露出した背中から、うなじにかけての柔らかいライン。レンガ造りの硬い柱とのギャップに、そこかしこを吹き抜ける溜息も喘ぎに近い。こんな芸術品に、夜いがいの運動神経を求めるのは酷だ。ばちがあたる。 

「ヘイ、バーテン!」 

 乱れた前髪を色っぽく掻きあげながら、女はヒステリー気味に吠えた。

「あたしの奢りよ! こちらの紳士に、驚くほど甘ったるいカルアミルクを! あと、おむつの代えも!」

 どっと周囲が沸いた。バネ仕掛けのように飛び跳ねる客、客、客。拍手したり、口笛を吹く者さえいる。テリーも怒りに身を震わせるしかない。

「こんの腐れアマ……」

 グラスを叩き置く音が、バーを震わせたのはそのときだった。

 銃声を聞いた子鹿の素早さで、音の源に振り向いたのはテリーと女だけではない。ざわめきどころか、音楽すらも遠のいた世界の中、客たちの視線が一点に集まっている。すなわち、カウンター席をきっかり三人ぶん陣取る丸坊主の背中……とがった岩山のごとき大男へ。

「………」

 中年の店主が強面をあげるのは、すこし経ってからのことだった。客の愚痴ともめ事の数だけ皺の刻まれた眼が、正面、ただひとり大男の表情を映している。

「見ろ。まるで葬式だぞ、ドルフ」

「死人の方が、まだ静かに飲ませてくれる」

 ドルフと呼ばれた大男の声は、意外に穏やかだった。ただし、似たものを一つ挙げるとすれば、雪崩の前の地鳴り。くわえた市販の煙草が、爪楊枝にしか見えない。

 マッチ箱からドルフの煙草へ、蛍のような火種が弧を描いた。クロスガードの姿勢で首をすくめる女と、その胸倉を掴んで拳を振りあげるテリー。仲良く凍ったまま、ドルフの一挙手一投足を見守っている。そちらに顎をしゃくって、陰々と問うたのは店主だ。

「青いケツとデカいケツ、どっちを外のサバンナへ蹴り出す?」

「できれば、この小屋のニワトリ全員。ピット・ファイト好きなマスターも含めて」

 文字通り火山のごとく、ドルフは紫煙を噴きあげた。止まらない。一秒足らずで、煙草を根元まで灰と化すその肺活量。ほとんど濃霧だ。ヘビー・チェーンが当たり前の客たちが、そこかしこで咳をする気配さえある。気のない顔で、店主はドルフに懇願した。

「頼むから、店を真っぷたつに折らんでくれよ。前みたいに」

「今度の奴は、舗装車に乗ってない」

「イカれてるな、完璧に」

 皿を拭く店主の手は、何事もなかったかのごとく再び動き始めた。強烈なのが波打つLサイズのグラスを、人さし指と親指でつまむようにして、ドルフも喉を上下させている。

「無視はねえだろ、でくの坊」

 あるいは、店内のすべてが、テリーのその一言を待っていたのかもしれない。

 ドルフの肩を小突いた手を、テリーはそのまま懐に差し込んでいる。破れる音が聞こえるほどドレスを引っ張られ、キーキー声で歌うのは例のヒス女だ。懐の凶器を強く握り締めながら、テリーは声を低くした。

「続きを聞かせろよ。ヒグマと女房を十年も勘違いしてた話? それとも、キリンになって、高い木の枝をしゃぶる話? なんか文句あんだろ。おもてに出……」

 二メートルの巨体に、二百キロを軽く超える体重。おまけに、手足の筋肉が冷蔵庫より太いときた。

 そんなドルフが、凄まじい勢いで席を立ったのだ。まるで垂直ミサイル。

 テリーは静かに尻餅をついた。小刻みに震えるその指先から、飛び出しナイフの輝きがこぼれる。罪人には、悔い改める時間が与えられねばならない。平等に。

「は、はあああは」

 そう恐怖を訴えるテリーを、鉄槌のごとく天井から襲うドルフの眼光。その重さ。奥に地獄が宿っている。それしか映っていない。いまごろ、へし折るべきテリーの背骨の貧弱さをも透視しているはずだ。テリーは無表情につぶやいた。

「もうしません」

 まだ「新車……」とうなされる相棒のマックスに、テリーは突進に近い動きで肩を貸した。友情の美しきかな。あとに残されたのは、入口の鈴が激しく踊る音だけだ。

 店を失せたテリーたちから一転、客たちは弾かれたようにカウンターに振り返った。次は!? 何が起こるッ!?

 ドルフはうめいた。

「まずい酒だ」

「氷の追加は?」

「早くよこせ、トム」

 いつの間にか、いつも通り、ドルフはグラスに酒瓶を傾けていた。ただ、巨大な背中を丸めるようにして。

 バーに喧騒が戻るのは、倒れたイスが起こされるより早い。床にへたり込んだまま、ぼんやり呟いたのは誰だったろう?

「あ~、抱かれてえ」

 女が埃をはたく衣擦れに遅れて、ぎし、とカウンターはきしんだ。

 ドルフの首より細い女の背中が、すぐ隣の席に仰け反るようにもたれたのだ。あるかなきかの肩紐を正す女の指先の危うさに、店主のトムさえも胸ポケットの老眼鏡を探す手を止められない。そんなことは知ってか知らずか、女は甘く溜息をついた。

「ふう、マスター。マティーニひとつ。シェイクでお願い」

「シェイク? 英国のスパイ気取りなら、咥え込むサイレンサーはいくらでもあるぜ」

「ついでに、お砂糖をひと振り」

「〝七年目の浮気〟か。モンローとボンドのハイブリッドとは恐れ入った。夜道は気ぃつけてな、お嬢さん」

 そう切り捨てたきり、腕組みして動かない店主の瞳を、女はじっと覗いた。頬杖ついたまま、楽しげに。

「……ちょっと待ってな」

 口をへの字に結んで、トムは注文に取りかかった。朝起きたとき、大事な腕が三本も噛み切られてるなんてのは御免だ。怖かった。

「助かったわ」

 女の礼にも、ドルフは無言だった。

 睫毛の長い女の瞳は、節目がちに道路の闇を見つめている。飢えた狼のごとく左右に行き交うカーライト。淡い紅が走る唇の濡れ具合は、飲みすぎの影響だけではあるまい。女は構わず続けた。

「すごい体してるのね」

「……三度の飯より腕立てが好きならば、誰でもこうなる。ただし、腹と顎の下には対人地雷をしいて」

 永久凍土を荒削ったようなドルフの顔は、ちらと下を見た。

 太い二の腕を発進し、脇腹を経由した女の指は、銀色の腕時計から月明かりを滴らせつつ、いましもドルフの太股に辿り着こうとしている。太極拳のごとく緩慢に組みかえられる脚のつや。ハイヒールの爪先の赤さ。顔色ひとつ変えず、ドルフは告げた。

「小遣いの額に関しては、俺もさっきのガキどもと変わらんぞ」

「いいんだよ、十人分楽しませてくれれば……元海軍特殊部隊、ドルフ・ロドリゲス少佐」

「!?」

 ドルフの眼は光を放った。

 女が豹変したのだ。声ばかりか、表情まで変えて。シェイカーで無限大を描くトムの動きも、思わずやんでいる。カウンターに目を落としたまま、ドルフはうなった。

「俺の経歴はすべて抹消されたと聞いてたが……どこかの新米が、履歴書をシュレッダーし忘れたらしいな。何者だ、お前」

「ハンって呼んで。あたしに水仕事を割り当てた〝ファイア〟って慈善団体の間じゃ、エージェント・リンフォンで通ってる」

 ドルフの腕にからみついたまま、女……ハン・リンフォンは、耳まで裂けんばかりに笑った。

 空気中の分子ひとつひとつが、香水の薫りに犯されそうだ。もっともそこには、鋭い棘が含まれている。ピンク色の猛毒をたっぷり吸った棘が。ドルフは眉間にしわを寄せた。

「聞いたことがあるぞ、その腐臭のするコードネーム……特殊情報捜査執行局か。政府の犬が、今さら俺になんの用だ。落ちぶれた逃亡兵に」

「逃亡? 謙遜しなさんなって。バナンの廃墟から、〝花〟と戦って逃げおおせたのはあんただけだ」

 ドルフの耳に手をあてて、ハンは楽しげに囁いた。

 ぴし、と悲鳴をあげたのは、ドルフの握るグラスだ。

 仲間が鉄扉を叩いている。かつて、ともに祖国の手の甲に口付けし合った戦友が。思いきりゆがんだ形相で。

〝開けろ卑怯者! 開け、ひィッ!?〟

 ドルフにとって、扉の鍵を閉めるのは意外に楽だった。特殊装備の兵士……ドルフが駆け出した背後、轟いたのは獣のごとき絶叫だ。ガラス窓にしぶく大量の血、内臓らしき黄色い破片、そして巨大な花弁。

 必死の手は、いまも扉を叩き続けている。

 まっすぐ睨み据えた棚の酒瓶に、そんな過去を幻視するドルフを横目にして、ハンの笑みはますます強まった。

「おや、震えてるね。そんな子鹿ちゃんに朗報だ。ここんとこ〝ファイア〟は、腕のたつ傭兵を集めるのに手一杯なんだが」

「噂は本当だったのか。廃棄都市バナンへ調査隊を派遣するため、各界のプロが手当たり次第に集められているという話……白羽の矢はありがたいが、俺は役に立てない」

「どうやら、その役立たずどもを顎でこき使うのが、政府の決めたあんたの役目みたいだよ、大将。つまり、現場の指揮官だ。〝やつら〟の宿主にされかけた経験者なんざ、喉から手が出るほどさ」

 ドルフの指の震えはやんだ。天井のファンだけが、重い風鳴りを刻んでいる。

「……案外、すがすがしいものだな。死に場所を見つけるというのは」

「そうこなくっちゃ」

 乾杯、とハンがカクテルグラスを持ち上げたときだった。

「んだらッ!」

 蹴破られたドアが、床を跳ねた。

 続いて踏み込んできたのは、数十人の若者だ。手に手に、ひん曲がった鉄パイプや鎖を握っている。何事かと客たちが色めき立つ先、静かに仲間の背後へ隠れたのはあのテリーに違いない。

 ぞわ、とハンの髪は波打った。

 そんなことは露知らず、殺気を声にしたのは若者たちのリーダーだ。

「ようようよう。今夜の宿探してるとこ申し訳ないが、お二人さん。内んチームのテリーとマックスがお世話に……」

「馬鹿がッ!!!」

 ハンの一喝とともに、空気は爆発した。

 ふたりを囲んだ五人が、頬、腹、そして胸を陥没させて崩れ落ちる。急所クリーンヒット五連発。左右の拳を引き戻すや、ハンは歯を軋らせた。

「あたしは、こいつと、話してんだッ!」

 ハンの雄叫びは、切れ味鋭い突風と化し、客は揃って席ごと倒れた。

 事実、客たちの衣服の繊維は弾け飛び、窓ガラスに亀裂が走ったではないか。半径五百メートルの民家にぽつぽつ灯りがともると、嵐のごとく泣き出したのは眠ったばかりの赤ん坊だ。街路樹の鳥が落ちれば、野良猫は餌のネズミを追い越して逃げた。地震を感知して緊急停止したエレベーターに、無表情なタクシー運転手が不運にも監禁され、数分前に天に召されたばかりの八十九歳老人の心電図は、ふたたび生命の山を描き始める。女は怖い。

「中国武術……聞きしに勝る強さだ。やめておけ、トム」

 つぶやいたドルフの腕は、散弾銃に弾をこめるトムの手を止めていた。小刻みにわななくトムの頬。すこし漏らしたことを、カウンターが隠してくれるのは幸いだ。ドルフは静かに諭した。

「わかるな? そんな豆鉄砲で話ができるのは、せいぜい虎が限度だ」

「と、虎? そりゃなんの冗談だ、ドルフ。あの娼婦がかむってた猫のことか?」

 ひきつった笑みを浮かべて、トムはハンの足元を指差した。

 大の字に倒れて痙攣するのは、残りのごろつきたちだ。裏返った白目、とめどなく口から溢れる泡。ハンの気合に耐えきれなかったらしい。仁王立ちのままそれを睥睨するハンの背中へ、ドルフはうなった。

「保育器の赤ん坊にさえ、世界の拷問法を説明するその真摯さ。さすが政府だ」

「ただのクラシックだよ。腹にいる時分から聞かせてやると、賢い子に育つ」

「そっちが出ていかんなら、俺が出ていくぞ」

「どうしたんだい、その腕」

「!」

 袖のまくれた片腕を、ドルフは反射的に隠した。いつの間に。口元に指をあてて、ハンはくすくす笑った。

「おやまあ。風にスカート吹かれたって、あたしもそんなに素早くない」

 傷……と言うよりは、穴だった。

 穴、穴、醜い穴。ドルフの発達した手首から肘にかけてを、豆粒ほどの穴ぼこがびっしり埋め尽くしている。機械にでも巻き込まれたのだろうか。だとすれば、その内部には眼もくらむ量の針が生えていたに違いない。とらえた獲物の肉に、骨に、魂に食い込む悪魔の牙が。ハンは追い討ちをかけた。

「図体ばかり平気で自慢してるとこを見りゃ、間に合ったみたいだね。種が芽ぇ出す前に」

 種?

 こぼれんばかりに剥かれたドルフの眼の上を、一転、脂汗の滝が駆け降りた。机にめりこむその五指のひきつり、早鐘のごとく胸を叩く鼓動。強張ったドルフの顔に、勢いよく血管の筋が広がってゆく。

「やめろ……や、やめやめ♯※¥」

「噛まれた場所、なんですぐ切り落とさなかったの?」

 カウンターの半分がえぐれ、続いて天井の電灯は砕け散った。

 ドルフが立ちあがったのだ。狂気の相とはまさにこのこと。怒りに我を忘れている。電球の破片に傷ついた坊主頭から、湯気をあげて血の線が流れるのも知らない。腰に手をあてたまま、ハンは首の骨を鳴らした。

「そうこなくっちゃ」

 おお、飴細工のごとく殺気に歪み始める空間。骨の圧縮する音は、はたしてどちらの拳から響いていたろう。

 四つん這いで一ミリずつ即席のリングを遠ざかるのが、今のトムの全力だった。ぎっくり腰をいわせてしまっては、いにしえの名手〝トムキャット〟も形なしだ。

 あくまでドルフに背を向けたまま、ハンは囁いた。

「ダリオン」

 ドルフが床を蹴るのと、ハンの姿が床に沈むのはほぼ同時だった。

 水面を撫でるように超低空を旋回したハンの足が、さきほどテリーの落としたナイフを宙に蹴りあげる。勢いを殺さずさらに一回転。舞いおりるナイフの柄を直撃したのは、鞭のごとく上段蹴りに転じたハイヒールの爪先だ。

 飛来したナイフの輝きを眼前すれすれで払うや、ドルフの腕はかき消えた。石の床をバターさながらに削り取ったアッパーが、下方からテーブルを貫通。着地したハンの顔をもろに叩き、勢いあまって三日月状に天井を切り裂く。

 照明に舞う数本の髪。ダンプカーすら横転させる拳だ。やわな女の顔など、背骨ごと引っこ抜けて不思議はない……

 ぽん、と何かの当たる感触があった。

 我に返って見下ろした先、ドルフの腹部に拳が触れている。形のよい女の拳。

「待……」

「刺ッ」

 鋭いハンの呼気とともに、その足下の床が二ヶ所、すり鉢状に爆発した。

 見よ。ドルフの体が、この巨体が、たっぷり店の端まで吹き飛んだではないか。とんでもない速度。激突に巻き込まれた棚の酒瓶たちが、派手な音をたてて飛散する。

 寸勁……ほぼ密着した状態から放たれる截拳道の基本のきだ。標的と拳の距離、わずか三センチ。無駄なく弛緩した全身を、鋭い踏み込みと同時に、瞬間的に収斂させる一連の動作が、理想の突きを生むとされる。ただ、ハンの一撃は、どう考えてもその十倍以上の威力を叩きだした。

 深く腰を落とした姿勢のまま、ハンの拳は煙をあげていた。ぶち破られたカウンターの下、巨木のごときドルフの脚は二本とも動かない。

「さあ坊や、力を抜いて」

 つぶやくハンの髪をなびかせたのは、開けっぱなしの入口から流れた風だ。政府の大型ヘリが放つ強烈な光を背景に、ハンは笑った。

「ゆっくり腰を動かすんだ」


  Ⅲ


 割れたショーウィンドウに、白い粒がとめどなく吹き込んでいた。

 そこかしこに雪を積もらせたマネキンの服装は、ブティック一押しの春物だ。ただ、木製の繊細な指が示す先には、どす黒い空しかない。

 シェルター都市サーコアから、南へ五千キロ。

 廃棄地区バナン。

 金融街だの、戦後復興の象徴だのと人々がにぎわったのはいつの頃だったろう。

 無人の高層ビルの下、怪物の舌のごとく折れ曲がるのは新型モノレールの線路だ。ひび割れた道路に動くものといえば、吹雪に流されたリゾート地開発のポスターぐらいしかない。

 働くのをやめて久しい時計塔の針を、まれに軋ませるのは雪の重みだった。まるで、なにかを懐かしむかのような音色だ。スクランブル交差点を、戦争のごとく往来するビジネスマンたちの足音。いまは枯渇しきった運河の土手を、夕暮れ時に決まって、愛犬とともに駆ける少女の影。

 静かだった。

「……うるさい」

 ところ変わってここは、政府が送り込んだ調査隊の司令本部。奇跡的に全壊をまぬがれた市役所を、むりやり改装した臨時施設だ。部屋どころか、雰囲気まで薄暗い。広いオフィスの棚という棚で、分析機材の数々が星空のごとく明滅している。

「うるさい、うるさい」

 ぶつぶつ毒づくモニカ・スチュワートの机の周囲を、政府隊員たちの喋り声と足音が飛び交っていた。遠慮のかけらもない。マウスをカチカチさせるモニカの手が、少々ご機嫌ななめなのも頷ける。

 正気を疑わんばかりに充血したその瞳と、ひどい隈。仕事中毒の教科書だ。包帯を巻いた指が、寒さにうずいて仕方ない。痛み止めの飲みすぎで、もはや何針縫ったかも忘れた。

 知的ぶったモニカの眼鏡には、パソコンの吐き出す情報が嵐のように踊っていた。

 モニカの白い吐息。砂嵐とともに、モニターの映像がせわしなく巻き戻される。

〈こちらバナンの現場、ハートリーです。オルドハウスさん、スタジオからはご覧いただけますか?〉

 モニカの見つめる映像の中、壮絶な爆発跡を背景に、必死にマイクを握るのは防寒装備のリポーターだ。

〈あ、危ない! いまだ不規則に噴きあがる高熱の蒸気に、スタッフもなかなか爆心地に近寄れないのが現状です〉

 ものものしいゴーグルの視界は、リポーターの呼吸の水滴に曇っている。たえまなくカメラを叩く白い斑模様はもとより、電波の乱れがひどい。

〈政府の見解によれば、長期間にわたって放置された燃料施設内部の腐食が、直接の原因とのこと。しかし、徐々に究明される真相とは裏腹に、各機関からは、安全対策の怠りを指摘する声が高まってもいます〉

 激しい吹雪に、リポーターは息を荒げた。

〈バナンにおける今回の大爆発を、政府は偶発的な事故と位置付けています。ただ、現場の疑問符といたしましては、比較的新しいと思われる薬莢や血痕など、戦闘が行われたとしか考えられない複数の痕跡が残されており……〉

 闇のどこからか、甲高い遠吠えが聞こえたのはそのときだった。

 絞め殺される豚そっくりの鳴き声。この世のものとは思えない。マイクに雑音がまぎれ込んだか。いや、現に、リポーターからぶれたカメラは、横倒しになった建物の闇を、かすかに揺れる廃車のドアを、一足飛びに捉えている。

〈なんでしょうか、今の音は? とにかく我々は、このまま各ビルの内部まで潜入したいと……〉

 泥溜まりへ、なにかを突っ込んだような音がした。ぐしゃ、と。

〈え?〉

 カメラの画面は、激しく揺れた。

 マイク片手に尻餅をついたリポーター、黒い空、雪の線、血、血、弾け飛ぶ肉片。獲物の体を食いちぎるサメの視界は、きっとこんな感じに違いない。

 揺れはおさまった。今度は、カメラがゆっくり持ちあがってゆく。

 ひび割れた画面は、頬を歪めて後退するリポーターと、機材を捨てて逃げる人々の影を見下ろしていた。こんな高さから撮影するには、脚立に乗るか、そう、信じがたい大男にでも肩車されない限り無理だ。あるいは、引きずり上げられているのか。なにかの牙に。

〈~~~ッ!〉

 リポーターの絶叫とともに、モニカの眼前、映像は砂嵐と化した。

 ぬくもりを食らう吹雪ばかりが、餌を求めてさまようここ、バナンの廃墟を、原因不明の大爆発が襲ってから数ヶ月がたつ。半径にして約十キロという地盤の陥没は、自然のしわざにしては遠慮がない。

 原因不明? それはあくまで、政府を除いた一般の認識だ。なにせあの爆発は、とある政府のエージェントそのものが〝自爆〟した結果なのだから。

 当然、闇の政府の手先たるエージェントは、そうホイホイ自爆したりしない。そう。よほど絶望的で解決不可能な〝なにか〟に出会ったときでもない限りは。

 政府さえもがその〝なにか〟を掴みかねていたとき、バナンの廃墟へ殺到する集団があった。スクープに飢えたYNKテレビの報道陣だ。普段であれば、事実はいつもどおり政府が隠蔽し、終息に向かうはずだった。廃墟の管理元であるサーコア政府が爆発の責任を求められ、求められた政府は素直に〝不備による事故〟と認めて謝罪会見で頭を下げる。

 そうはならなかった。

 報道陣が失踪したのだ。突如として、ひとり残らず。

 テレビ局のスタッフ一同はなおのこと、軍の案内係、大型航空機の乗員など、軽く見積もっても千名はくだらない。驚くべきことに、おびただしい衣服・胃腸の切れ端を残しながら、まとまった死体がひとつたりとも発見されぬではないか。

 気づく者はいた。ただ、皆が皆、あえてそれを口にしないのは、低温の恐怖が背筋をなでるためか。あの時と同じだ、と。十数年前、バナンの都市を襲った地獄と。

「……まだ足りないわね、映像の修復は」

 目頭をもんで唸ると、モニカは山積みの書類をかき分けた。

 無造作に丸められた紙くずの底には、色とりどりのサプリの錠剤と、栄養ドリンクの瓶多数が散らばっている。薬の助けがいるのは確かだが、これではない。もっと強いのはどこだ。

 こんこん、と音がした。仕切り用の簡易な壁を、誰かがノックしたのだ。

「手の具合はいかがです、モニカさ……」

 中性的な声は、尻すぼみに途絶えた。

 白衣の若者……シオンの笑顔を、モニカが拳銃で狙っているではないか。掌サイズの護身用リボルバーだ。そちらを見もせず、音をたてて撃鉄が落ちる。

「自分の手術ぐらい、自分でできる」

 切り裂くようなモニカの呻きに、シオンは寂しく笑った。くくく、と。救急箱ごとホールドアップしている。

「ひとつ、語ってさしあげましょう。踏まれても踏まれても起きあがる健気な雑草……モニカさんだけの船医が、ここへ着くまで辿った険しい道のりを。死の顎を開く極寒のクレバスの恐ろしさを」

「そっちの棚だったかしら、銃の弾」

 国家有数の報道社を襲った神隠し……スクープとりがスクープと化す事態を重く見た政府が、突貫で組織したのがこの救助隊だった。もちろん〝救助〟というのは世間に対するただのポーズだが。

 モニカを筆頭に、動物、地質、物理などあらゆる分野にわたる専門家。頭を使う仕事いがいも考慮してか、岩盤掘削、爆破解体それぞれのプロ、そして、テロリスト予備軍の傭兵etc……細かくたどれば、どれも政府の下請け、出資先に行き着く。

〈~~~ッ!〉

 ふたたびモニカの部屋に響いたのは、失踪したリポーターの悲鳴だった。腰に手をあてたまま、舐めるようにモニターを眺めるのはシオンだ。

「ほう、なんの教養番組かと思えば。回収したカメラの記録じゃありませんか」

 廃墟入りから、はや今日で二週間が経つ。

 この通り、調査は日ごとに進展を見せていた。断続的に降りかかる猛吹雪と眠気いがいには、障害らしい障害もない。風邪としもやけの看病、それにモニカのコーヒー汲みは専属医のシオンの担当だ。

 それでも、ごく一部の〝帰還者〟たちは武器の手入れに余念がなかった。いざ口にくわえた銃口が、動作不良など起こしては笑うしかないからだ。

 帰還者……バナンの都市を最初に崩壊させたあの災厄から、幸運にも逃げ帰った数少ない生き残りを、政府はそうリストアップしている。科学者のモニカ自身も、その帰還者のひとりに他ならない。

 何度も巻き戻しされる画像を、シオンはえらそうに評した。

「この雪に耐えたとは素晴らしい。しかしまあ、どうにかなりません? この画質の悪さ」

「よく喋る口ねえ」

 つぶやいたモニカの手元で、なにか硬い物の割れる音がした。

 シオンが振り向いた先、おお。モニカの人さし指が、キーボードにめりこんでいる。荒縄を巻いた木の板と日々削りあうことによって、空手家の拳は完成されていくのだ。常に笑っているような顔を、シオンは蒼白にした。

「む、むごい。シフトキーが死んでます」

「問題ないわ。左にも残ってる。人間で言うところの、肝臓ね」

 モニカの腕は振られた。ちぎり取られた利き手側のキーが、山盛りのゴミ箱にあたって床を跳ねる。子犬のように後じさったシオンの背中が、壁にぶつかった。モニカの周囲には、すでに不可視の壁にも似た空気が生じている。

「映像の復元までにかかった時間と苦労を知れば、男女君。あんたも進んで、この天才の靴を舐めたくなるはずよ」

「そうします」

「実際、データは水分と……血でずたずただった。近寄らないで」

 日課の診療が始まった。

 シオンに包帯を解かれ、どこか機械のような丁寧さで消毒されるモニカの手。救急箱の痛み止めを勝手に懐に入れながら、ふと、静止状態のモニターへ顎をしゃくったのはモニカだ。

「なんだと思う?」

 例の失踪カメラマンが捉えた一瞬……崩れたビルの窓から顔を覗かせるこれは?

 ピントがずれているせいか、ただの吹雪の渦にも見える。少し眼を凝らせば、巨大な人影と言えないこともない。大きく開いたワニの顎を、何十枚も重ね合わせたような怪しい形。モニターを横目にしながら、シオンは難しい顔をした。

「さて。人……なわけはありませんね」

「紙に点を書くとしましょう。大人に見せれば、そのまま点と答える。子供は、それを顔と答える。どちらも、頭では本当の答えがわかっているにもかかわらず」

「くくく、興味深い。心理テストの結果は?」

「〝黒〟ね、あんたは」

 ラベルの端に〝精神~〟と見えるビンの中身を、モニカは一息に嚥下した。あっけにとられるシオンを尻目に、ばりばり噛み砕く。ラムネ菓子に違いない。そうであってくれ。

「もう一度聞くけど、男女君は招待された側? それとも、した側? このサーカス団に紛れ込んでるエージェントの数は?」

 空気の漏れる鋭い音に、モニカは顔をあげた。

 血の色をした花が、天井の闇で静かに開閉を繰り返している。凍った鉄骨にぶらさがったまま、こっちを見るのはなぜだ。

 遠くぼやけて、シオンの慌てる声が聞こえた。

「これはいけない。指が震えてます」

 閃光のような頭痛に、モニカはきつく眼をつむった。ふたたび瞼を開けたときには、悪夢の姿は影も形もない。前には、シオンの心配げな顔があるだけだ。

「顔色がすぐれません。息も荒い。ベッドへご案内しましょう」

「年下か……」

「はい?」

「なんでもない。さすがに調子が狂うわ。半月起きっぱなしというのも」

 頭を振り振り、モニカは横を見た。顔を戻して一瞬考え、またそちらに振り向く。剥きだしのモニカの瞳。

 壁かと思いきや、違った。驚きを通り越して意味不明なほどの巨体が、呆けた表情で天井を眺めているではないか。ついさっき、モニカが何かを見た場所を。

 天井と大男を交互に見ながら、首をかしげたのはシオンだった。

「脇腹は痛みますか、ドルフさん?」

 常夏の島からワープしてきたのか、汗だくの巨体から漂う湯気は白い。ほどなく、ドルフは視線だけをモニカに落とした。

「なに見てる?」

「こっちのセリフよ、原始人。建築の基準からして、あんたがそこに建ってるのはおかしい」

「ドルフさん、穏便に。彼女、本当の性格は素晴らしいんです。くくく、頭と体だけじゃなく」

 精一杯背伸びしたシオンは、何事かドルフに耳打ちしている。そのアキレス腱を、モニカのローキックが直撃した。

「男女君。イスの用意よ。ひとつ、いえ五つ」

「痛たた……私の席を譲りましょう。さ、モニカさんも早く立って」

 ぶちぶち、と配線の引っこ抜ける音に、ふたりは硬直した。

 いっせいに床へ雪崩落ち、火花をあげる分析機材の数々。道路の標識より広いドルフの掌が、二メートルの棚をやさしく寝かせたのだ。空気を潰してそこへ腰掛けたドルフの下で、鋼鉄製のそれが嫌な悲鳴をあげる。

「おかまいなく」

 書類や工機を抱えたまま、政府隊員たちも、遠くドルフのその答えを聞いた。今にもはちきれかねぬ迷彩服のドルフの腕が、ひょいと上がるのを見た途端、夢から覚めたように右往左往を再開する。たいした統率力だ。

 よみがえった喧騒を背景に、ドルフはモニカを見た。シオンはと言えば、痛む足をさすりながら、砕けた画面その他をホウキで掃き始めている。

「モニカ・スチュワート博士。あんたが責任者と聞いた。こっちの」

 赤ん坊の胴体ほどもある人さし指で、ドルフは自分の頭を示した。気のせいか、似たようなやりとりを大学の講堂でした覚えがある。モニカは皮肉っぽく答えた。

「不本意だけど、そうなるかしら、ドルフ・ロドリゲス隊長。水先案内人が元海兵さんだなんて、うってつけな人員配置じゃない?」

 これ見よがしに作った力こぶ……と言うより筋肉の活火山を、ドルフは軽く叩いた。キャッチャーミットへ、ボールが突き刺さるような響き。

「そう、こっちの責任者は俺だ」

「………」

 なんとはなしに用意したコーヒー豆の瓶の中身が、カップに黒い山を作るのに、当のモニカも気づかない。ほれた。威嚇に成功したと勘違いし、ことさら声を低めたのはドルフだ。

「さっき役場の周囲を見回った。運動不足の解消もかねて、そうだな、駆け足で軽く百周ほど」

「バターにしては筋っぽそうだわ」

「俺は真面目に話をしている」

 ドルフが指差した天井を、今度こそ、シオンとモニカは二人揃って見上げた。そのまま指がまっすぐ進めば、上階への覗き穴が開いたに違いない。ドルフは聞いた。

「屋上でこそこそしてる連中、あれは博士の指示だな? 吹雪で顔までは見えなかったが」

「屋上?」

 すっとんきょうな声を出したのはシオンだった。モニカも思わず眼鏡の橋を持ち上げている。

「五十階建ての一番上がよく見えるわね。百ノットのそよ風が吹く場所でバレーボールしてるのは、ОL? サンタ? ああ、もしかして……」

「隠す必要はない。おおかた、室外機の修理にでもやったんじゃないのか?」

「いや、だからね、非科学的にもほどが……」

「寒いのはわからんでもない。だが、それならそれで、施設責任者……俺に作業届の切れ端でも出すのが筋というものだ」

「ああもう、脳までダンベル運動のしすぎ?」

 ドルフの腰の無線機が、急に雑音を噴きあげたのはそのときだった。

〈……り返す! 重傷者発生! 現在地は、本部南西の病院前広場……〉

 途切れ途切れの音声だが、周囲の隊員たちが静まるには十分だった。それきりぷっつり沈黙した声の源を、ドルフは鋭い視線で見据えている。彼からすれば、携帯電話ほどのサイズもない。

 皆が耳を澄ます中、壁の地図を指で叩いたのはシオンだ。

「病院跡。この位置からだと、輸送機……〝オリヴィア〟のほうが近いですね。途中で収容して、機内の医務室へ搬送しましょう」

「決まりだ。腕の見せ所だな、お嬢ちゃん」

「はい? ドルフさん、いま何と……」

 ドルフは無線機に口を寄せた。ひとつ手が滑れば、こんな小物、らくらく飲み込んでしまいかねない。一方、放置された形のシオンは曖昧な表情だ。笑っているのか、困惑しているのか。

「こちらドルフ・ロドリゲス。これより現場へ急行する。怪我人の数と状態を知りたい」

 どれだけ待っても、返事はなかった。


  Ⅳ


 一千万の死人が奏でる口笛。

 この吹雪のことだった。

 雪と闇、白と黒のみに塗り分けられた広場も、以前は子供たちのはしゃぐ声、それに暇な老人たちのチェスの娯楽に憩っていたに違いない。

 広場の中央、十字架でも見たように片膝をつくのはドルフだ。不自然な白い盛り上がりから、静かに雪を払う。

〝西暦二〇六四年、十二月十二日。ここに未来と戦う。バナン総合病院開院記念〟

 大理石の記念碑から眼をそらすと、ドルフは横の廃病院を見上げた。

「おあつらえむきな墓石だな……そっちはどうだ、ホフマン」

 ドルフの無線機の呼び声に応えて、黒い雲にきらめいたのは狙撃銃のスコープだ。ガラスの抜け落ちた窓を、暗い洞のごとくさらす建物の屋上。防寒着の部下も同じく、耳のイヤホンに手をそえている。

〈こちらホフマン、よく見えてるぜ。モヤシみてえな医者のお嬢ちゃん、それに跳ねっ返りの博士。その他兄弟多数〉

「やはり、それだけか?」

〈それだけさ。女のほうは、いっぺん寝たら死ぬまで追っかけてくる性分と見た〉

「〝鷹の眼〟ホフマンの二つ名、伊達じゃないらしい」

 珍しく笑みをこぼすと、ドルフはのっそり立ちあがった。

 天然のプロテクターともいえる肩には、彼の身長すらしのぐ超大型のスマートガンが背負われている。特注製だとすれば、作った職人はなんらかの処罰を受けねばならない。無線越しに、ドルフはふたたびホフマンへ告げた。

「ところで、飲んだその十年物の酒瓶、ちゃんと持って帰ってくることだ。これ以上、破壊する自然環境もあるまい」

〈おお怖え。お互い〝女〟を見抜く眼だけは冴えてるようで。報告は随時入れる〉

 通信を終えると、ドルフは背後を見た。

 暗がりを煌々と切り裂くのは、まばゆい照明の輝きだ。大型雪上車が十台以上。逆光をこちらに向かってくる二十数名のうち、ひとりは大きな鞄を提げている。救命機器一式の詰まった医者の鞄……だが。

 ドルフは広場を指差した。

「さあ。腕によりをかけてくれ、シオン」

「よりもなにも、肝心の具材が……」

 シオンの答えは困惑していた。

 すでに二時間近くが経過しつつある。助けを求めた誰かばかりか、調査隊そのものと会えぬまま。

 痕跡はある。置き去りにされた雪上車のエンジンと、雪に沈んだ排薬莢はどちらもまだ生温かい。

 死体といえる死体が、まだひとつも見つかっていないのは幸いだ。ただし、病院前のいたる所で湯気をあげる血の量は、隊の無事をわかりやすく否定している。それが、ひきずられたように広場を抜けて、建物や道の角に消えているのはなぜか。

「彼らの前に、なにかが現れた……」

 しゃがみこんで眺めたゼリー状の破片の正体を悟り、シオンは顔を青くした。それが臓器の一部かどうかは、医者でなくとも判別はたやすい。隊員の何名かが、たまらず胃を裏返らせるのを横目に続ける。

「そして襲われ、戦った。我々いがいにも、ここに人間が?」

「人間……そう言ったか?」

 鼻で笑ったのはドルフだった。こちらは、地面を交錯する足跡に指をあてている。

 足跡?

 滑り止めの刃の形がくっきり刻まれた無数の靴型は、おそらく消えた政府隊員たちのものだろう。その中に、ときおり混じるこの巨大な穴はなんだ。長い鉤爪が生えているようにも見える奇妙な足跡……誰にともなく、ドルフはつぶやいた。

「寒さに強い食人族や、自分を神の僕と買い被ったテロリストあたりだといいんだが。少なくとも、連れ去られた奴らはすぐ殺してもらえる」

 放置されたマシンガンに指をあて、戻した手袋にドルフの視線が落ちた。皮肉とも、納得ともつかぬ表情だ。

 粘性の液体が、腐った大豆のごとく糸をひいている。油? いや……唾液?

 シオンはたしなめた。

「殺……って。穏やかじゃないですね、ドルフさん」

「そう、非科学的よ」

 古い伝奇の預言者が命じた海より早く、隊員の人だかりが左右に割れた。中央にたたずむモニカの防寒着の裾が、吹雪に激しくはためいている。

「〝花〟が、あらゆる環境に耐えうる強靭さを持つのは認めるわ。ただ、その寿命はせいぜい数週間ていど。ちょうど、敵の国が完全に消滅するだけの期間ね」

 モニカの説明は明瞭だった。シオンはもとより、ドルフまで狐につままれた表情とは珍しい。もっとも、丸坊主の頭には音をたてて青筋が広がっている。

「モニカ・スチュワート。輸送機で見たときからなにか臭うとは思ってたが……どこまで知ってる?」

「保険代わりに、花には残らず時限装置を仕掛けてあるの。時が来れば、あるいは、薬品ひとつで自己崩壊をうながす爆弾が。遺伝子じたいの奥深くに、ね」

「やはりあんたには、留守番を任せておくべきだった。俺は、とんでもないVIPを危険にさらしているらしい」

「いっぺん寝てみる?」

 これ見よがしに、モニカは耳のイヤホンを小突いた。〝鷹の眼〟との会話、すべて筒抜けだったようだ。ほれた。明晰な頭脳にドルフが畏怖したと勘違いし、モニカの顔も自信満々だ。

「あんたも〝帰還者〟でしょ。なら、おかしいと思わない? あたしたちという獲物を前にして、花に、二週間も襲撃をひかえるほどの知性と統率があるかしら?」

「言われてみれば、確かに……くわしい話はあとだ。とりあえず本部に戻るぞ」

 襟元のマイクに報告を入れかけて、ドルフはふと廃病院の屋上を見た。つられてそちらに瞳を転じたモニカの手から、〝精神~〟のビンが滑り落ちる。

 あれはなんだ? 

 亀裂の目立つ建物の外壁を、白い影がするするとよじ登ってゆく。ひどい吹雪で不鮮明だが、一匹、二匹、三匹、四匹……まるでトカゲだ。それも、恐ろしく巨大でいびつな。

 異様な雰囲気を察したか、隊員たちの視線も、ひとり、ふたりと同じ方角に集まりつつあった。血を吐くような声を発したのはドルフだ。

「ホフマン」

 怪物たちの進行方向、ああ。依然、狙撃銃で近辺の警戒を怠らない〝鷹の眼〟は、ドルフの無線にまだ気づいていない。手を伸ばせば届く屋上の縁、怪物が、跳躍寸前の獅子のごとく全身のバネを引き絞ったことをも。

〝ダリオン〟

〈おお悪い。こちらホ……〉

「逃げろオオッッ!!」

 ドルフが絶叫したときには、ホフマンの姿は屋上の向こうに消えている。飛びかかった一匹を皮切りに、残りの怪物も続々と同じ場所へ群がった。回転しながらシオンの足元に突き刺さったのは、血まみれの狙撃銃だ。根元からもげたホフマンの腕は、かすかに痙攣しつつもまだその銃把を放さない。

 静かだった。

 雷鳴を思わせる〝奴ら〟の鼻息。近い。

 よく訓練された動きで、隊員のひとりはマシンガンごと振り向いた。横殴りの吹雪に凝らされるのは、暗視ゴーグルの瞳だ。いやらしい蛇のようにのたうつ尻尾が、雪上車の陰に消える。ドルフは小さくうなずいた。

「わかってる……隊形を崩すんじゃない」

 太い腕でモニカとシオンをかばいつつ、ドルフは一歩ずつ後退した。絶え間なく四方の闇をさまようその眼。極力音を殺して、スマートガンの撃鉄を引く。

 とつぜん地面を跳ねたマシンガンに、シオンの時は止まった。必死に宙を蹴る迷彩服の足が、真横のビルの窓に引き込まれたのが見える。続いて背後、下から上へ引きずり上げられた隊員の悲鳴は小さい。振り向いた信号機の端っこ、揺れるのはベルトのちぎれた暗視ゴーグルだけだ。

 かたかたと音が聞こえた。寒さ以外のなにかに、あのモニカが奥歯を鳴らしている。流れては凍る涙。いままで隣を守っていた若い隊員がいない。代わりに、すぐ足元の雪に生じた大穴から、間欠泉のごとく血が溢れだしているではないか。

 ドルフの頬を、汗がひとすじ伝った。

「退却ァッ!!」

 そこかしこの地面を突き破って、ダリオンは天に吠えた。



 銃声、銃声、銃声。

 とがったドリルの形をしたダリオンの頭は、音をたてて弾けた。眼らしき器官は見当たらない。マシンガンの銃身をゴムのように曲げる甲殻の爪を、尻餅をついたまま眺めていた隊員の身に、飛散した体液の雨がもろに降りそそぐ。

「ひぎッ!?」

 隊員は地面をのたうち回った。

 見よ。隊員の手を、足を、凄まじい炎が這いあがってゆくではないか。ダリオンの体をめぐる強燃性の血液が、肉ばかりか骨まで彼を焼き尽くす。ようやくその動きが静まったあと、雪に残ったのは黒く炭化した骸骨だけだ。

 四つん這いになって雪上車のドアに手をかけた隊員は、背後に妙な音を聞いた。ある意味、人間の背骨に似たギザギザの尻尾。三メートル近い長さを誇るそれに、腹部を貫かれた仲間が囁いたのだ。体ごと宙に持ち上げられたまま「助けて」と。

 返り血で顔を飾った隊員の頭上、雪上車のドアが静かに開いたのはそのときだった。仲間だ!

「………」

 歓喜とともに見上げた隊員の顔を、ぼたぼた叩いた液体はなまぬるい。おびただしい涎の糸に絡まって、ダリオンの頭部、花弁状の真っ赤な口腔が開く。数万本の棘を密集させた大きな顎が。

 長い悲鳴が尾をひいた。

「ぐずぐずするな!」

 怒鳴ったのはドルフだ。火線と怒号が乱れ飛ぶ中、シオンとモニカを強引に雪上車の席に転がす。叩きつけるように閉まるドア。窓から覗いたドルフのスマートガンは、静かに遠方へ狙いを定めた。

 銃声は一発。もがく隊員の胸に、こぶし大の弾痕が穿たれる。その足を掴んでどこかへ運びかけていたダリオンは、こちらを向いて絶叫した。呪っているのだ。獲物の安らかな死を、目的の失敗を。すかさずドルフは、雪上車のハンドルに飛びついた。

「つかまってろ!」

 いつしか銃声は途絶えていた。それは同時に、逃げ遅れた仲間たちが、故郷の歌を、愛しい家族の声を、永遠に聞けなくなったことを意味する。

「わッ」

 キャタピラが急旋回した車内を、シオンは二転三転した。必死にシートにしがみつきながら、炎と煙の向こうを確認して胸を撫でおろす。バックミラーにも、怪物の姿はもう映っていない。エンジンの轟音の中、シオンはおずおずと口を開いた。

「あの」

「なんだ」

「どちらへ?」

「いい質問だ」

 高速で流れる雪景色を横目に、ドルフは砕けるほど歯を噛みしめた。悔しさか、あるいは恐怖か、口の端からは細い血の線が。

「この道順からすれば、輸送機と本部への距離はとんとんだ。まともな頭なら、選ぶのは簡単だな」

「このまま何も起こらなければ。怪物が輸送機を見逃してくれていれば、でしょう」

「お嬢ちゃんにしては勇敢じゃないか。その通りだ。本部の人間を総動員すれば、さっき見た頭数ぐらいは何とかなるかもしれん。あれで全部だったらの話だが」

「本部は武器の山です。ここで可能性を見捨てては、一生後悔することになる」

 もちろん、また逃げて、場末の酒場で悪夢に苛まれるのも一興。小声で窓に呟いたシオンが、三日月形に唇をつりあげるのにドルフも気づかない。

「戻りましょう」

「うまく奴らを一網打尽にできれば、数日後には別の便が迎えに来る。言っておくが、その後悔とやら、後でしても遅いぞ」

「そのときは、泣いて命乞いしましょう」

 かすかだが、初めて笑い合ったふたりの耳に、科学的な念仏が流れた。やけに静かだと思ったら、中央のモニカが顔を押さえてうずくまっている。

「ありえない。考えられない。わからない」

「モニカさん」

「〝花〟に自ら細胞を変異させる機能があるなんて。まさか〝冬眠〟から蘇生するためのこの二週間?」

「おい」

「そうね、それなら辻褄があうじゃない。確かに〝次元の裂け目〟から発見された時点では〝原種〟も仮死状態にあった。計算が甘かったわ。やはり奴らは……」

 モニカは顔をあげた。たれた前髪を縫って輝くのは、限界まで瞠られた血眼だ。狂っている。

 妙な振動が、雪上車を襲った。

 天井に雪でも落ちたか? ドルフとシオンの視線が、それぞれ左右のサイドミラーに吸い込まれる。

 モニカはささやいた。

「奴らは、完全生物」

 雪上車に落ちた怪物は、ゆっくり立ちあがろうとしていた。



 ドルフのスマートガンがひるがえった。

 四足獣のごとく伏せたダリオンの頭上をかすめ、銃弾の雨は吹雪に消える。まるで、すべて見透かされているようだ。銃の狙いばかりか、ドルフの動揺までも。

 スマートガンの照星から、ドルフは静かに視線を外した。

「……運転は頼んだぞ、シオン」

「構いませんが、ドルフさん、どちらへ?」

「愚問だな。古い友人に挨拶せんわけにもいくまい」 

 弾の尽きた銃を放ると、ドルフは運転席の天窓を蹴り開けた。地響きをあげて車上を迫る足音、吹雪に混じる唸り声。うしろのシオンへ、ドルフは広い背中で語った。

「本部は近い。着いたら伝えてくれ。俺をふくめた隊の生きざまを」

「お断りします。どんな重症でも、私がすぐに治してみせましょう」

 不意に天井がかげった。

 とびちる粘液の雨。雄叫びとともに開いたダリオンの花弁に、ドルフの拳がめり込んだのだ。たまらず後退したダリオンを追い、軽業師も真っ青の空転をみせて、ドルフの巨大な靴が雪上車の貨物部に降り立つ。

 大粒の雪は、容赦なくドルフの身を打ち据えた。高層ビルの廃墟が、風を切って次々と後ろに遠ざかってゆく。

「よう」

 短い距離をおいて、ドルフは怪物と向かい合った。ばきばきと拳の骨を鳴らす。常人でいう骨折の音に近い。一方、鞭のごとく足場を打つのは鋭い尻尾だ。怪物と怪物。

「この腕……」

 無造作に脱ぎ捨てられた防寒着の下、湯気をあげるドルフの筋肉が現れた。無数の穴状の傷に覆われた片腕。全身に図太い血管を隆起させながら、静かに肉弾戦の構えをとる。

 ドルフは叫んだ。

「今度こそくれてやろう!」

 揃って咆哮したときには、両者は床を蹴っていた。

 横一閃した爪に顔を殴り飛ばされるや、お返しに、ダリオンの腹腔を襲ったのはドルフの拳だ。しぶいた強燃性の血が、貨物部の角を黒焦げに。そこだけ別の生物のごとく旋回したダリオンの尻尾が、ドルフの腹に突き込まれる。

 肉の裂ける響き。とがった尻尾の切っ先は、ドルフの腹筋を浅く貫くにとどまった。万力を思わせるその両手が、掌を裂きながらも尻尾を掴み止めているではないか。鍛え抜かれたドルフの脚が、胸が、そして腕がぼこりと膨張する。

「嘘でしょ……!?」

 後部の窓に張りつきながら、モニカは眼を剥いた。ドルフに尻尾を掴まれて振り上げられ、ダリオンは顔から足場に激突したところだ。大きく揺れる貨物部で、ダリオンは虫のように四肢をばたつかせている。

「人間が、ダリオンと渡り合うなんて」

 声を震わせたモニカの視界は、急に閉ざされた。

 頬を血に染めたドルフの背中が、運転席の窓に叩きつけられたのだ。見上げた雪の空には、手足を広げて跳躍したダリオンの爪が。

 身を捩じりながら沈んだドルフの体は、刹那、爆発的に逆回転した。全身のバネを総動員して、下から上に床をこする右の拳……出た、ダンプカー倒しの必殺アッパー。飛来した尻尾を弾き飛ばし、そのままダリオンの顎を捉える。

 まばゆい輝きに、世界が染まったのはそのときだった。

「!?」

「モニカさん、伏せて!」

 遅れてやってきた爆風と地鳴りに、雪上車は冗談のように揺れた。砕け散ったガラスの破片が、シオンとモニカに降りそそぐ。

 頭をかばう腕の隙間から、モニカは見てしまった。ドルフとダリオンが、絡み合いながら貨物部の外へ転落するのを。

 一方、道路のすぐ向こう、派手に燃え盛るあれは何だ。よく眼を凝らせば、積み木のごとく崩れる建物の外壁には、数えきれぬ白い影が蠢いている。五百、いや千匹はいるだろうか。モニカは呆然と口を開けた。

「なんてこと……本部が」

「遅かったか……さっきから、いくら呼びかけても応答がないと思ったら」

 シオンの嘆きに反応し、ダリオンの軍隊が一斉にこちらを見た気がした。

 同時に、雪上車の運転席は大きく傾いている。建物を次から次へと飲み込みながら迫るのは、暗い淵を覗かせる亀裂だ。いったい何トンの火薬が誘爆すれば、ここまで大規模な地盤沈下が生じるのだろう。

 全速力で雪を跳ねあげるキャタピラだが、もう遅い。次の瞬間、モニカを襲ったのは内臓の裏返るような浮遊感だ。

 落ちる。

「……変形」

 体を横抱きにされる感覚を最後に、モニカは気を失った。

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