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Fire〝ファイア〟  作者: 湯上 日澄
3/8

Inning ♯02 火炎 (前)

……家康への謁見かなわず、〝肉人〟が姿を消すと、天守閣の方角から、大きな火の玉が空に昇った。

〈随筆集〝一宵話〟〉



 西暦二〇七一年、二月十九日。

 首都サーコアより南へ五千キロ、廃棄都市バナン。

 午後六時三分……

 朽ち果てたビルを、吹雪が叩いていた。

 街にはずっと、かんだかい悲鳴が響き渡っている。無人の路地裏で行き場をうしなった風が、亀裂だらけの外壁を駆けのぼり、割れた窓を笛代わりにしているのだ。あの生物兵器の餌になった市民たちが、十数年たった今でもすすり泣いているに違いない。闇にそびえ立つ廃墟の数々は、墓標としてはやや背が高すぎたが。

〝この先交差点〟の十字架を無言でしめすのは、かたむきかけた交通標識だった。深い地割れの走った道路の白線は、ある場所へ続いている。刃物より鋭いダイヤモンドダストの向こう側へ。〝奴ら〟の巣へ。

 轟音とともに、その交通標識は爆発した。

 両腕を顔の前でクロスしたまま、放物線をえがいて吹き飛ぶ人影。手をついて雪道へ着地した人影のまわりに、壊した標識の破片が突き刺さる。

 最大瞬間風速百ノット以上、気温マイナス百度以下。ちょっとした宇宙空間だ。気付けば肺は凍りつき、つぶった瞼は二度と開かない。雪に足元をすくわれ、ふたたび起きあがったとき、目の前にはきっと天国のお花畑が広がっている。

 そんな極限の環境にもかかわらず、なんだ。いま飛んできた彼女の格好は。

 スーツにスカート、ハイヒール。以上。やぶれた上着からは薄い肩が突きだし、黒のストッキングはすでに焦げ穴だらけだ。

 OL?

 そんなことはどうでもいい。見よ。しゃがみこんだ彼女の顔、かすかに弾ける電流の輝きを。はんぶん裂けた人工皮膚の下から、冷たい鉄の骨格が覗いているではないか。人間ではない。もちろん、キレイなお顔にこんなことをする奴も。

 彼女の名前はカトレア。生物兵器……コードネーム〝ダリオン〟の標本をもとめて現地入りするも、失敗だった。死骸の発見や、細胞の採取どころではない。カトレアを送りこんだ政府にとって、もっともっと理想的な形だ。

 ダリオンは生きていた。

 完全に死滅したという情報も嘘ではない。仮死状態という意味では。ある種の微生物がやるのと同じ方法で、ダリオンは待っていたのだ。新鮮な獲物がやってくるのを。人も温度もなくなったこの地で、ただひたすら眠ったまま。

 猛獣のごとき唸り声が、吹雪を切り裂いたのはそのときだった。

 おお。道にそって整列する街灯が、あちらからこちらへ順番に倒れてゆく。いや、倒されているのだ。さきほど、カトレアを吹き飛ばしたのと同じ爪にふれて。いびつな甲殻の体にぶつかって。金属の火花を散らして迫るそれは、雪の流れにさえぎられ、大きな白い影としか表現できない。

 ふらり、とカトレアは立ち上がった。うつむいた顔から、とめどなく電光がこぼれている。一方、白い影のたてる地響きは、もう目と鼻の先だ。

〝ダリオン〟

 カトレアの髪がひるがえった。その腕が左右の腰にまわる。ふたたび戻された両手の先で、鋭い音。大きく振りしぼられたカトレアの体が、竜巻のごとく急旋回する。

 カトレアの指先から飛んだのは、ふたつの輝きだった。高速で回転するそれは、突進するダリオンとすれ違うや、風を切ってすぐさまUターンしてくる。

 真っ白な甲殻に覆われた足が、カトレアのハイヒールの横を通り過ぎた。通り過ぎた途端、カトレアの背後、ダリオンはばらけている。そう、文字通りばらけたのだ。回転する輝きに猛スピードで切断され、上半身と下半身、頭と手足がばらばらに。いや、それだけに留まらない。はるか頭上を横切るモノレールの路線や、その周囲につらなる廃ビルまでもが、折り重なるように倒壊し始めたではないか。

 押し寄せる雪煙の中、カトレアは左右いっぱいに両手を広げた。戻ってきた薄い光の回転を、ふたつ同時にキャッチ。彼女自身も素早く回転することによって、その恐るべき切れ味を殺す。闇に反射するそれは、こぶし大の車輪のふちに、まんべんなくナイフを生やした異様な兵器だった。

 おや。カトレアの上着の脇腹が、煙をあげているのはなぜだろう。ダリオンの返り血をわずかに浴びた場所だ。真っ赤に輝く蜂の巣状の焦げ穴は、今もじわじわとその領土を広げつつある。摂氏六千度にも達する超高温の体液……地球の核近くと同じ熱さの血が流れる生物など、四十六億年の惑星史のどこにもいない。いてはならない。

 獰猛な吐息が、白い湯気をあげた。

 地面を跳ねるカトレアの刃の円盤。ギザギザのなにかに背中を強打され、彼女は十メートルも雪をえぐって弾き飛ばされた。車の残骸へ派手に突っ込み、ようやく止まる。ふたたび稲妻を走らせるのは、着衣ごと張り裂けたカトレアの背中だ。シミひとつない素肌を破って、複合チタンのフレームが剥きだしになっている。

 もう一匹!?

 カトレアは、とっさに頭をねじった。頬を切ったダリオンの尻尾は、鋭い先端で車の外装を紙のように貫いている。お返しにダリオンの顎を打ち抜いたのは、ほとんど倒立の姿勢から放たれたカトレアの蹴りだ。

 そのままばく転、ばく転、ばく転。体操選手より身軽に跳ね回るカトレアを追って、右に左にダリオンの爪は閃いた。ちぎれたスカートの下、白い太ももが見え隠れし、ボタンの飛んだ胸元から黒の下着があらわになる。

 最後に大きくきりもみ回転すると、カトレアは降り立った。凍るべき水さえ枯れた噴水の頂上へ。だが、せわしなく拡大・縮小を続けるカトレアの瞳孔……あらゆる項目の数値が飛び交う視界センサー内に、ダリオンの姿はない。激しい吹雪の向こう、ダリオンの雄叫びは反響し、十にも百にも増幅されて聞こえる。

 重心を落として、カトレアは静かに身構えた。

 機械どうしの噛みあう音。

 おお。カトレアが左右に引きつけた腕に、鋭い割れ目が生じたではないか。スーツの袖を裂いて、腕の装甲が外側へ開く。それぞれ展開した両腕から、手の甲に倒れ込んで戦闘位置についたのは、二振りの長大な刃……剣だ。

 ダリオンが降ってくるのは突然だった。真横のビルを爬虫類のごとく這いあがり、壁面を蹴って跳躍するとは凄まじい。弾かれたようにカトレアの見た頭上、吹雪を裂いてダリオンの爪が振り下ろされる。

 噴水が爆発した。剣の軌跡をふたすじ残し、カトレアが跳んだのだ。

 激突する光と光。

 空中で絡みあい、激しい剣戟を連続しながら、ふたつの影は雪に落ちた。

 静寂……

 真っ白なベールの先、立っていたのはどちらだったろう。

 人形のように宙にぶら下げられるのは、ぼろぼろのカトレアだ。彼女の頭を、ダリオンの巨大な手が鷲掴みにしている。その反対側の鉤爪はと言えば、ああ。カトレアをえぐって、背中からその先端を覗かせているではないか。カトレアの腹腔からしたたる赤黒い皮下油圧剤は、まるで鮮血のように点々と雪を汚した。

 だが、どうしてだろう。ダリオンはぴくりとも動かない。あとひと息で、カトレアを真っ二つにできるにもかかわらず。そう。カトレアの両腕の剣もまた、ダリオンの頭と心臓部をそれぞれ刺し貫いていたのだ。

 風がこだまする中、ダリオンは地響きをあげて倒れ伏した。膝から雪に落ちたのはカトレアだ。左右の白刃はへし折れ、その断面は真っ赤に光って煙をあげている。ダリオンの血をもろに浴びたのだから仕方ない。

 ひざまずいたままのカトレアを、雪は孤独に吹き抜けていた。

 そんな静けさとは裏腹に、彼女の視界はおびただしい警告で埋め尽くされている。全身におよぶ重度の破損、限りなく底を示すバッテリー残量、他にも、その他にも……もはや武器らしい武器もない。正真正銘、間一髪での勝利だったのだ。

 なまぐさい唾液の洪水が、雪を溶かした。

 吹っ飛ぶカトレア。電柱を続けざまに背中で砕き、信号機に衝突して、前のめりに地面へ崩れ落ちる。

 誤作動を起こして痙攣する手を支えに、カトレアは身を起こした。あいかわらず無表情な唇から、赤黒い線がひとすじ顎まで伝う。

 ああ。焼け焦げた警察署の陰から、新たなダリオンが現れたではないか。それだけではない。横倒しになったタンクローリーの上に一匹。破けた本を舞いあげる図書館の屋根に一匹。高々と鉄蓋を跳ね飛ばし、マンホールの穴から一匹。そして、高層ビルの廃屋を我先にと這いおりてくる一匹、二匹、三匹、四匹……あちらこちらに生物反応を捉えるカトレアの動体センサーも、その総数は計測不能と訴えている。

 カトレアの瞳に、銀色の光が反射した。通信機をかねた手首の腕時計。いや、本来の使い道はそのどちらでもない。その正しい機能は、いままさに、こんな状況で発揮されるのにうってつけの物だった。

 最終兵器。

 自爆装置。

 カトレアの繊細な指は、震えながらも時計表面のパネルを打った。ただちに、電子的な警告音が響き始める。十、九、八、七……

 はじけ飛んだ配線は、雪を鮮やかなコントラストで飾った。

 ダリオンの足に踏み潰され、カトレアの頭が完全に粉砕されたのだ。いっせいにダリオンの群がったそこから、カトレアの手足が、体液が、内臓めいた部品が次々にちぎっては投げられる。機械の体がそんなに美味いのだろうか。

 無残な饗宴の最中、ダリオンの一匹はふと、食い散らかした細腕を見た。その手首に巻かれた腕時計の画面は、いまもカウントダウンをやめない。とうに獲物は死んでいるはずなのに、なぜまだこれだけが動き続ける?

 時計の数字が、ゼロをしめして止まったのはそのときだった。

 勝利の咆哮をはなつダリオン。

 廃墟は閃光につつまれた。


       Ⅰ


 数週間後……

 三百トンのプレスに押し潰される廃車たちが、金切り声のスキャットを奏でていた。

 シェルター都市サーコアの東部、ガナイの解体処理場。

 午前六時四十四分……

 まだ朝日ものぼりきらぬ空に、輪っか状の煙がただよった。うず高く積まれた廃タイヤの頂上にひとり、男がぽつんとあぐらを掻いている。あちらの看板に書かれた〝火気厳禁〟の文字を、タバコをくわえた彼に翻訳して伝える者はいない。

「なんじゃこりゃ」

 縦ジワの寄った眉間を、ロック・フォーリングはペンの尻で小突いた。

 かぶったソフト帽をなおはみだす癖毛頭に、CDのようなサングラス。変質者出没の通報が警察に届くのも、もはや時間の問題だ。

 手元のぶ厚いメモ帳には、すでにマタイ福音書第四章などと落書きされているが関係ない。ページの端に開いた空白に、複雑な計算式を書き込んでゆく。聖書だった。風にさらわれて舞うのは、電卓の下に挟まれた領収書の数々だ。

「食費、保険料、酒代……大赤字じゃねえか。これじゃ、テレビ買い換えるなんてのは夢のまた夢だ。家庭菜園でも始めるか」

 足元へ落としたタバコを、また一本、ロックは靴で踏み消した。そこにはすでに、吸い殻の山ができあがっている。あらたなタバコをくわえながら、ロックはちらと上目遣いになった。

「お、出やがったな。短い付き合いだったが、残念。見ての通り、俺は神父様なのさ。タクシーの運転手なんざやるのは、もう二度とゴメンだ」

 タクシー?

 そう。遠くで移動用のアームにつかまれ、プレス機のもとへ向かうのは、黄色いタクシーの成れの果てだ。中央からフレーム一本残してちぎれかけた車体は、火にでもあぶられたのか黒焦げになっている。そちらへ向けて小さく帽子をずらすのが、ロックの別れの挨拶だった。

「あばよポンコツ。今度生まれ変わるなら、戦闘機あたりが正解だ」 

 ライターの炎に、一瞬、ロックの胸元が輝いた。趣味の悪い十字架のネックレス。溜息混じりに煙を吐く。

「空はいいぜぇ」

「ミサイルは教会に?」

「そりゃ助かる。ゴキブリが多くて参ってんだ、ウチの台所……」

 タバコをアンテナのように立てると、ロックは背後に振り向いた。 

 いったい、いつの間に? あるかなきかの風に、男がひとり、髪をなびかせている。

「ジェイス……いつからいた?」

 驚き混じりのロックの質問に、男……ニコラス・ジェイスは答えなかった。その冷たい瞳には、いままさにコンベアーを流れるタクシーの廃車が映っている。

「ああ、あれか。いまさら未練もねえだろ、あんなポンコツ」

 ロックは憎たらしく笑った。気付いたときには、そのネクタイはジェイスの手に掴まれている。息ができなくなるほどネクタイを締めながら、ジェイスは無表情にロックの目を覗き込んだ。

「………」

「お、俺はやっちゃいねえ。〝奴ら〟だ。奴らの仕業だ。俺はただ、組織から言われた通りに、お前の代わりにタクシー運転して……」

 残り数カットしか寿命のない雑魚役のごとく、ロックの舌は滑らかだった。

「だ・か・ら、UFOの殺人ビーム。アーモンドアイの奴ら、あたり構わずぶっぱなしてきやがった。死に物狂いで戦ったよ。でも……」

 ハンカチのような布切れで、ロックはしきりに目尻を拭ってみせた。乾ききったその布切れを、なんとはなしにジェイスの手に握らせる。

「お前のタクシーは、ビームの一本から俺を守って盾に……気づいたときにゃ手遅れだった。名誉の戦死ってやつさ」

「………」

 自分の掌に、無言で視線を落としたのはジェイスだ。

 ひらりと広がった布切れは、実のところ妙なアイマスクだった。その瞳にあたる部分に描かれた目玉のおかげで、会議中の居眠りにも上司は気付かない。

 一方、ベルトコンベアーの出口から現れたのは、一メートル四方の鉄屑だ。もはや黄色しか生前の姿を留めていない。遠い眼差しで、ロックはそれを眺めた。

「認めたくない気持ちはよぉくわかる。ただ、それなら、生きてやれ。死んだ恋人の分まで、明日を」

 おごそかに目をつむると、ロックはタバコの先端で十字を切った。

「それが花向けってもんさ」

 産廃の山を転げ落ちた破片が、かすかな音をたてたのはそのときだった。

 いつからいたのだろうか。巨大なマントが風にはためいている。ピエロめいた泣き笑いの仮面を輝かせる人影は、ひとつやふたつではない。高出力のレーザーで形成された大鎌を手に手に、頂上のロックとジェイスを襲う殺気の凄まじさ。

 単式戦闘型死神〝アヴェリティア〟

 異星人どものパワードスーツ。

 囲まれている。

「可愛いワンちゃんたちだろ?」 

 ゆっくりジェイスと背中合わせになりながら、ロックはタバコを吐き捨てた。

「目星をつけた車にゃ、奴ら、しっかりマーカーをつけてくらしい。見えない〝ニオイ〟みたいなもんか……ところであのオツボネ局長、コーヒーの一杯ぐらいは奢ってくれるよな? 朝っぱらから囮捜査に付き合わされてんだが、俺ら」

「………」

 怪物の大群を前にしても、ジェイスは眉ひとつ動かさない。

 そのときには、ふたりの頭上を大きな影が襲っている。大鎌を振りあげ、死神どもが揃って宙へ跳んだのだ。

 風にひるがえったロックの上着、その手はベルトに差した拳銃を掴んだ。かすかにほとばしる稲妻の輝き。背後を見もせず、ジェイスへ問う。

「やるか?」

「仕方ない」

 世界を闇が覆った。


       Ⅱ


 生ぬるい風の吹く路地裏に、突如、銃声は響き渡った。

 一発、二発、三発……

「ば、化け物……」 

 地面にへたりこんだ女刑事の震えは、そのまま拳銃の先端へと伝わった。中華料理屋の換気扇から噴きあげる蒸気の向こう、そこだけ夜のごとく広がった巨大な闇が、何事もなかったように鎌を鳴らすのが聞こえる。

 水中の藻のように混ざったり離れたりを繰り返す体は、風になびくぼろぼろのマントを思わせた。悪夢から出張してきた数が一体や二体でないことは、歩くたびに揺れる仮面の多さを見ればわかる。能面めいた泣き笑いの表情を浮かべる白い顔……

 死神。

 かわいた拍手の音が響いた。

「お巡り、お巡り、お巡り♪」

 くたびれた包帯の切れ端が、炎上するパトカーの熱風にゆらめいた。肩をぶつけてしまった死神に軽く手をあわせて謝り、死体の山をうまく飛び越えながら現れた人影がある。

 目を剥き出しにしたのは、頬の返り血も生々しい女刑事……エマ・ブリッジスだ。

「スコーピオン……!」

「知ってるの!?」

 顔面にこれでもかと巻かれた包帯の隙間、スコーピオンはやけにまん丸な瞳を輝かせた。

「誰か、色紙とペン持ってないか!?」

 国際的な手配書において大きくPR中のテロリストは、背後に吠えた。

 お互いの顔を見合わせ、無言で首を振ったのは死神たちだ。近く文具屋に立ち寄る気もないらしい。

 はねられた首の断面から、水芸のごとく血を噴きだす警官十九名。離れ離れになった胴体と下半身の間から、湯気をたてて臓物をぶちまけるマフィア十五名。なんの変哲もない麻薬取引の現場だったはずの裏路地は、いまや地獄絵図と化していた。

「お♪」

 嬉しげに口を丸めたのは、スコーピオンだった。傘と長靴を身につけた雨上がり、スキップする子供の動きで血溜まりを進んでいた足を、不意に止める。

 包帯だらけその手が掴んだのは、地面に転がる銀色のアタッシュケースだ。表面の埃を吐息で吹き飛ばすと、いとおしげに頬擦りする。開いた隙間から覗くこれは一体?

「こいつぅ。どこ行ってたんだよ。寂しかったじゃないか」

「な、なに?」

 右手の拳銃の存在も忘れて、エマはアタッシュケースに見入った。

 ペットボトル大の容器を満たす液体に、妖しいシルエットが揺れている。

 全身を埋め尽くす尖った棘……花?

 地獄に咲き乱れる花があるとすれば、きっとこんな姿をしているはずだ。生理的な嫌悪を誘う純白の根・茎をさしおいて、肉厚の花弁だけは血を吸ったように赤い。

 存在そのものが神をなめきった闇の研究機関において、ある生物学者はこの花に奇妙な実験コードを与えた。生存本能からくる恐怖と、たっぷりの愛情をこめて。

〝ダリオン〟

 おお。かすかに気泡の粒が立ち昇ったではないか。これがまだ生きている証拠に他ならない。

「さて、そろそろ教えてやろうか。俺が警官をやめたわけを」

 唐突に切り出して、スコーピオンはぴしゃりとケースを閉じた。なんとそれを、ハンマー投げの要領で背後にぶん投げる。大事な大事な〝ダリオン〟が、くるくる回転しながら宙を飛ぶのを横目に、スコーピオンは続けた。

「……待てど暮らせど消防車は来なかった。渋滞にでもつかまったんだろ。火事起こしてたのは寂れた安ホテルだったが、建物ってやつの価値は、中に住む人間の質によって決まる。それが俺の持論だ」

 見よ。死神の一体が、得物の鎌を放り捨てたではないか。頭上を飛び越えかけたケースを、慌てて両手でキャッチする。一瞬の好判断。

 これだからついていけない。ひとたび中の生命体が逃げれば、この都市どころか、惑星全域に今以上の破滅の鐘が鳴り響くことは、投げた本人が一番よくわかっているはずだが? 腰を抜かした女刑事の前で、いつものように〝あの〟語りをするスコーピオン自身が。

「三階だったか、四階だったか。とにかく、窓に子供の影が見えた瞬間、俺は無意識に駆け出してた。手近な家からかっぱらった毛布ひとつ引っかぶって、な。若気の到りさ」

「いや……」

 顔をそむけるエマの額に、スコーピオンは優しく口付けした。くしゃくしゃに丸めた新聞紙があたったような感触だ。血に汚れたエマの肌の味に、スコーピオンは舌なめずりした。

「真っ黒な煙に気を失いかけたのは、一度や二度じゃねえ。ススにまみれて、火脹れだらけになりながら、それでも俺は死に物狂いで階段を昇った。ヒーロー願望がなかったと言えば嘘になる。ただ少なくとも、そのときの俺のハートは、階段を崩す炎より熱かった」

「な、なんでそんな話を……ッ!?」

 エマの悲鳴は声にならなかった。後ろ髪掴んだエマの顔を、スコーピオンが強引に自分の目線まで持ち上げたのだ。

 剥き出しのエマの首筋に、ひやりとした感触があたる。刃物に違いない。なにかのリズムでも刻むように、切れ味鋭いそれで、スコーピオンは幾度となくエマの喉を叩いた。聞けよ聞けよ聞けよ。

「俺はとうとう、子供がひとり残された部屋の前に辿りついた。息を切らしながら振り返れば、もと来た廊下は面白いほど火に閉ざされてる。それでも構わない。手足が墨になったって、この子にだけは絶対外の空気を吸わせてやる……覚悟を決めて、俺は扉をぶち破ったよ」

 スコーピオンの指先に回転したナイフには、精緻極まりない毒蠍の彫刻がほどこされている。小刻みに歯の根を震わせるエマの瞳から、涙がひとすじ、頬をつたった。その足元に跳ねたのは、ちぎれたシャツのボタンだ。エマのシャツに残ったボタンを、スコーピオンは上から順にナイフの先端で飛ばしていった。

「俺の目は間違っちゃいなかった。窓のそばには確かに子供がいたよ。つぶらな瞳でずっとパトカーのライトを眺めてる。放心状態ってやつか……と思ったら」

「……やめて」  

 エマの乞う声は、もはや掠れて空気に等しい。その耳の一ミリ横で、スコーピオンは小さく溜息をついた。

「ただの熊のぬいぐるみだったよ。ぎゃはッ」

 笑う笑う笑う。背骨が折れるほど仰け反りながら、スコーピオンは笑った。目尻に涙さえ浮かべながら、後ろの死神たちを両手であおる。

「笑え笑え!」

 当然、死神たちは無反応だった。一抹の虚しさからか、スコーピオンは、風に揺れる稲穂のように包帯の体をよろめかせ……

「おしまい♪」

 エマが最後に見たのは、下方から跳ねあがるナイフの輝きだった。


       Ⅲ


 高層ビル群のガラス張りに反射する輝きは、スラム街の安アパートからも見えた。 網のないバスケットゴールが、さびついた軋みを風に鳴らしている。ネジ一本の修理代すらもたらさぬ格差社会と、計画性のけの字もない乱開発の音色だ。

 黒い風景に、ひときわ目立つ黄色のタクシーがとまった。

「おお、揺れひとつねえ。いい腕してるじゃないか、運転手さん」

 まだそばかすも抜けきらない少年……テリーは、後部座席からタクシー会社の登録証を眺めた。

 切れ長の冷たい瞳が、顔写真の中からこちらを見返している。サーコア第一交通8290番、ニコラス・ジェイス。

〝当タクシーは黄色信号で停車します〟

「運転手さん、顔は怖いが恋人には優しくするタイプだな。ブレーキのかけ方でわかる」

「それにこの、ビニールを引っぺがしたばかりの香り。新車じゃねえの」

 ニット帽の若者、マックスは相槌を打った。

「やっぱ、中国系の商売女とかが、ひと仕事終えて乗ってくることもあるんだろ?」

「いいないいな。俺だったらそのまま、びらびらのカーテンがある駐車場に直行しちゃうね。看板でナンプレ隠してもらって……ギャハハ」

 わめくテリーとマックスに向けて、ジェイスは抑揚のない声で答えた。ひとこと。

「千六百フール」

 運賃を伝えたとたん、ジェイスの後頭部に硬い感触があたった。きっちり二挺。保護者の同意と軽い審査だけで、銃社会はいとも簡単に少年を強盗に仕立てあげる。強盗対策の仕切りガラスも、料金受け渡しのときまで閉めておくわけにはいかない。運転席に腕を突っ込んだまま、下卑た笑みを浮かべたのはテリーだ。

「千六百……それっぽっちじゃ足りねえなあ。こっちはこうして、危険な目を覚悟して働いてんだ。そうだろマックス?」

「おうよ。命が惜しけりゃ、有り金ぜんぶ出しな、運転手さん。手首できらきらするその銀色の時計は、就職祝いにもらってやる」

 静かなエンジン音ばかりが、車内を反響している。ジェイスは無表情にこう告げた。

「千六百フール」

「ああん!?」

「死にてえのか!?」

 ハンドルに手を置いたまま、ジェイスはつぶやいた。

「降りろ」

 なんの前触れもなく、ジェイスは運転席を降りた。頭がどうかしているのか、逃げもせず窓の外に突っ立ったままだ。

「……?」 

 一瞬目を丸くすると、少年たちはそれぞれドアの取っ手を掴んだ。物凄い剣幕で車外へ飛び出す。

「上等だ!」

「ぶっ殺してやる!」

 銃と銃が両脇から頭を挟んだときには、ジェイスの手はかき消えていた。空中を綺麗に前転したテリーとマックスの背中が、勢いよく地面に叩きつけられる。

「げえ!?」

「ママ!」

 受身も取れず、ふたりは地面でもがいた。

 肺を潰されて咳き込む彼らの頭の近くに、なにか硬いものが落ちる。

 少年たちの拳銃ではないか。いや正確には、半ばから綺麗に切断された銃身だ。超高温のバーナーに焼き切られた直後のように、その断面は赤熱化して煙をあげている。そんなことや〝荷電粒子ビームによる溶断の仕組み〟などを知る余裕は、投げ飛ばされたテリーとマックスにはもちろんない。

 なにしろ、タクシーの運転手が、静かにふたりを見下ろしているのだから。霜の張った瞳で、ただ静かに。

「………」

「ひッ、ひいッ!」

「はわわ、もうしません!」

 薄っぺらい財布ふたつが、ジェイスの足元に放られた。それを拾い、ジェイスの上半身が車内に潜った隙に、マックスに肩を貸したテリーはそそくさと逃走に移っている。

 響いた声は、悪魔のように冷たかった。

「待て」

「いやッ!?」

 殺気の風に押されたか、テリーは地面につまづいた。泡を吹くのを見る限り、マックスにはとうに意識などない。

 腰を抜かしたまま後じさるテリーを追って、ゆっくり迫る運転手の影。子犬のように身を震わせながら、テリーは固く目をつむった。

 ……死にたくない。

 ふたつの財布に均等に小銭を流し込み、ジェイスはそれをテリーの胸元に放った。

「釣りだ」

 銀色に輝く腕時計を確認すると、ジェイスはさっさと背を向けた。ポケットから何かを引き抜く。このとぼけた目玉の印刷されたアイマスクを手に、彼がレジに並んでいる姿は想像できない。

 黙って顔にそれを着けたあと、ジェイスはタクシーのドアを閉じた。座席を倒した証拠に、ぎしっと車体が揺れる。どうやら休憩の時間らしい。

 ナメクジのスピードで身を起こすと、テリーは息を殺して運転席をのぞいた。かすかな寝息。例のアイマスクをしたまま、運転手は頭の後ろに腕を回して寝そべっている。

 突如、アイマスクの目玉はテリーを見た。

「客か?」

「きゃあああ!?」

 悲鳴をあげるや、テリーは慌ててマックスを背負った。こけつまろびつ、全速力で路地の角に消える友情の美しさ。

 ひとつ鼻息をついて、ジェイスは休憩に戻った。

「………」

 涼しげなさえずり声が、ジェイスの耳をくすぐった。

 風のそよぐタクシーの窓辺、小鳥のつがいが踊って跳ねて愛を語らっている。重金属をスパイスした餌のミミズに、さんざん脳を毒されているとは言え、ここまで警戒を緩めるのは、つまり小鳥たちが、近くに岩か死体しかないと認めている証だ。

 ふとタクシーに落ちた人影に、それらも静かに飛び去った。

「エージェント・ジェイス」

「………」

 やや低めの女性の声だったが、ジェイスに反応はない。

 女は、タクシーの扉を小さくノックした。起きる気配はない。続いて窓から差し入れられた女の手が、ハンドル中央のクラクションを二度鳴らす。やはりジェイスは、ぴくりとも動かない。死んでいるのだろうか。

「いい棺桶だな。そろそろチェックアウトの時間だぞ」

 そうつぶやくと、女はジェイスのアイマスクを引っ張った。ゴムひもの伸ばされたアイマスクの下、まぶしげに開くジェイスの瞳。視線の先には、いかにも神経質そうなスーツの女の顔がある。

 ぱちん、とゴムの戻る音は痛かった。ふたたび闇に飲まれたジェイスだが、女が溜息をつくのだけは聞こえる。

「相変わらずの昼夜逆転生活か、ジェイス?」

 突然の銃声。

 特殊情報捜査執行局〝ファイア〟局長……ジェリー・ハーディンは、タクシーの陰に素早く身を伏せた。一発、二発、三発。

「いや、吸血鬼ならまだ、夜には目を覚ますな」

 銃声の残響に耳をすましながら、ハーディンは独りごちた。手は左脇の銃把に置いたまま、タクシーの陰から半分だけ顔を覗かせる。死力を尽くして政府の追うテロリスト〝スコーピオン〟が、一本裏の路地にいるとはさすがに想像がつかない。

 それ以上、銃声は聞こえなかった。

「居眠りは結構だが、もう少し場所を選んではどうかね、場所を。襲われる強盗の身にもなってみたまえ」

 そう愚痴って、ハーディンは立ち上がった。ちらと運転席を横目にすれば、腕組みしたジェイスの胸が、安らかに上下を繰り返している。とぼけたアイマスクの目と視線をあわせ、ハーディンは腰に手をあてた。

「ジェイス」



 渇いた枯葉が、アスファルトを吹き荒れていた。

 タクシーの助手席から、ジェイスにカップのコーヒーを手渡したのはハーディンだ。目覚ましのため、砂糖とミルクは没収してある。

「アーモンドアイが〝人を着る〟事件……エワイオ空軍基地の追求も、ようやくひと段落ついたと思った矢先だ。春夏秋冬、犯罪の種は収穫に困らん」

「………」

 ハンドルに突っ伏したまま、ジェイスは答えなかった。助手席のハーディンが広げた証拠品の数々……チャック付きポリ袋に封入された悪趣味なナイフと、何枚かの写真を見もせずにつぶやく。

「スコーピオン」

 写真には、軍関係者と思しき面々の取引の模様が撮影されていた。

 ひときわ異彩を放つのが、白い包帯にまんべんなく覆われた男だ。

 彼を〝スコーピオン〟と最初に呼んだのは誰だったろう。その存在が神々しいまでのテロリストの代名詞に祭りあげられるまでに、時間はかからなかった。なにしろ、異星人が絡むと思われる事件を掘り下げれば、必ずと言っていいほどこの怪人の足跡が出てくる出てくる。まるで、パズルのピースか何かのように。はっきりしているのは、そのパズルはまだ穴だらけで、手掛かりのピースを残す行為を、スコーピオン自身楽しんでいるということだ。年齢不明、性別不明、出身不明、不明、不明、不明……つまり、ときおり写真に捉えられる包帯人間そのものさえ、本当に以前のスコーピオンと同一人物なのかわからない。謎と狂気をカクテルしたそのステータスは、むしろ闇の機関〝ファイア〟の性質と似てさえいる。

 一方、写真の中、銀色のアタッシュケースを手渡す軍高官……アンドリュー・マイルズ大佐が、戦闘機の燃料火災で殉職を遂げたニュースは、諸報道機関の記憶にも新しい。ハーディンの視線は鋭さを増した。

「十人近い兵隊が、後生大事に警護するそのカバン。ひと山数千万フールの麻薬や、小型地震兵器などという、甘っちょろい物とは考えにくい。むしろ〝ダリオン〟を運ぶには大きすぎるほどの鉢だ」

〝ダリオン〟?

 その次の写真を見よ。スコーピオンが、遠目から明らかにカメラマンへVサインを送っているではないか。隠し撮りがばれたらしい。さらに次の写真では、片目だけ開いたスコーピオンの瞳が、こちらに両手を広げた状態でどアップに……あとは、でたらめにシャッターを切ったとおぼしき、ぶれた画像だけが連続している。撮影者のフランク・ソロムコは、のちにエワイオ空軍基地の片隅で発見されることとなった。放射性物質たっぷりの炎にあぶられ、こんがり黒焦げのバーベキュー状態で。

 ハーディンは続けた。

「先だって、バナンの廃墟で確認された爆発だが……エージェント・カトレア。個別信号が途絶える寸前、やはり自爆コードが発信されていたよ。残念だ」

「………」

 カップに満たされた黒い液体だけが、ジェイスの無表情を揺らしていた。結局、最後まで手がつけられずに終わるコーヒーだ。

「その爆心地近辺から、なにかが運び出された形跡がある」

 コーヒーを一口すすると、ハーディンはため息をついた。

「生きた〝ダリオン〟であることは間違いない。そして、その性質からして、ここより遠い場所にアレを運ぶのは不可能だ」

 助手席のシートに目を落とすと、ハーディンはふと苦笑した。穏やかでいて、あきらめたような微笑み。

「〝ダリオン〟までもが敵に回ったとすれば、我々にはもう、打つ手がないのかもしれん……ところで、新車かね」

 ハーディンの質問に、ジェイスは助手席側のドアを開くことで答えた。出ていけ、の合図だ。ハーディンは肩をすくめた。

「助かる。ちょうど本部に戻って、最近の私の主要業務……どこぞの神父がしでかした始末書の山に、えんえん判を押す作業につこうと思っていたところだ」

 けたたましい笑い声が、廃ビルの向こうからこだましたのはそのときだった。

「笑え笑え!」

 腹の底からくる愉快な響きだが、ただの麻薬中毒者かなにかだろう。ドラム缶の中にくすぶる炎を、垢じみた毛布にくるまって凝視する人々も顔をあげない。ビルの隙間から覗く空を、どこか憎々しげに眺めながらハーディンはつぶやいた。

「あの馬鹿者が、珍しく提出期限を守りおって。神の啓示でも受信したか、私怨からくるいやがらせか。ジェイス。引き続き、エージェント・フォーリングの監視は頼んだぞ」

 銃声に、ハーディンの眉が寄った。

「まさに西部時代の無法」

 やけに路地の裏が騒々しい。

 猛スピードのスリップ音。それを追うかのごとく、銃声が連続する。

「なら、これは保安官……警察の管轄だな。さて、ミミズの這ったような字の解読中、眼精疲労で失明するのが先か、腱鞘炎で腕がもげるのが先か」

 ハーディンの愚痴の念仏は無視して、ジェイスは早くもアイマスクで目を閉店していた。

 広場の鳩が、一斉に飛び立つ。そのあとに、ハーディンの姿はない。

 また銃声が響いた。


       Ⅳ


「止まれええええッッッ!!」

 銃声は、どんどんジェイスのタクシーにづいてきていた。女の叫び声と、車が街頭をへし折る音がそれを追う。

「止ま……きゃ」

 中身の詰まった麻袋のようなものが、車のバンパーにはね飛ばされる音。

 破裂したガラスの欠片が、眠るジェイスの上に降り注いだ。不動。綺麗な放物線を描いて飛んだ人間の体が、眼前のガラスに突っ込んできたというのに。

「痛たた……」

 女……エマ・ブリッジス刑事は顔をゆがめて呻いた。

 彼女の追う車は、割れたテールライトを振り、どんどん裏路地を遠ざかってゆく。ゴミ箱を内容物ごと高々とはね上げ、壁をこすって火花をあげながら。

 へこんだボンネットから、エマは力なく地面に落ちた。痛む脇腹をおさえたまま、タクシー伝いに身を起こす。

 タクシーの中、倒された座席にはアイマスクの運転手がじっとしていた。どういう神経をしているのか。いや、それとも、流れ弾があたって……赤い手形をにじませ、エマは何度もタクシーの窓を叩いた。

「ちょっと、開けて!」

 運転手……ニコラス・ジェイスが、たったいま休憩に入ったばかりというのは残念なお知らせだった。たとえ産気づいた妊婦や犯人追跡中の刑事が叫んだとて、溶断器でもない限り扉とまぶたが開いた前例はない。荒い息に、エマは肩を上下させた。

「寝てるのね……安心した」

 大抵の客はここで失せる。ひとことエマが叫ぶのが聞こえた。

「ヘイ、タクシー!」

 エマの握った拳銃の銃把が、タクシーのガラスを叩き割った。ただ、その程度では飛び起きる理由にすらならないのがジェイスだ。

「いい加減に起きなさい!」

 とうとうエマは、ジェイスのネクタイを締めにかかった。アイマスク越しにジェイスの返した返答はそっけない。

「乗車拒否だ」

「緊急事態よ」

「………」

 アイマスクも外さぬまま、ジェイスは助手席側の扉を開けた。こめかみに四十五口径を突きつけられては、誠意をみせるしかない。

 座席に転がり込むが早いか、エマは亀裂だらけのフロントの先を示した。

「あの車を追って!」

「どの車だ」

「目のそれを外しなさい」

「………」

 額までずらされたアイマスクの下から、ジェイスの細まった目が現れた。

 ずいぶん先を疾走しているのは、車体のそこかしこに弾痕を穿った漆黒の大型ワゴンだ。

 ルームミラーを見れば、まだ若い女が金色の警察のバッジをひらひらさせている。

「殺人課よ。急いで。いまなら大統領だって撃ち殺せる気分だわ」

「………」

 ジェイスは小さくあくびした。

 同時に、前置き抜きにいきなりタクシーを発進させる。悲鳴とともに、座席を七転八倒するのはエマだ。

 コックとおぼしき中華料理屋の女、清掃車両、そして電柱。避ける避ける避ける。ラリーカーの名手もはだしで逃げるような道路を、誘導ミサイルの正確さでタクシーは突き進んだ。

「す、すごい反射神経」

 小さな破裂音が、エマの賞賛をさえぎった。ワゴンからの銃声だ。

 ちぎれ飛ぶサイドミラー。

 うってかわって、ジェイスが突如ブレーキを踏みつけたではないか。タクシーごと思いきりつんのめったあと、エマは目をむいた。

「なんで止めるの!?」

「撃たれた。降りろ」

 拳銃の撃鉄があがる響き。ジェイスが頭に銃をあてがわれるのも、今日何度目になるだろう。アドレナリンで震えるエマの吐息が、ジェイスの耳に甘く囁いた。

「怪我は、ないわね?」

「………」

 ジェイスは、ふたたびタクシーを急発進させた。

 飛び跳ねながら一般道に現れたタクシーの背後で、車数台がきりきり回転する。市民バスと一トントラックの狭間をすいすいすり抜ける光景は、法定無視の壮観さだ。今度こそ恥を晒さぬよう、エマも車内のアームレストにしがみついている。

「なかなかやるじゃない」

「喋るな。舌を噛む」

「お構いなく。あたしは……エマ!」

 窓から身をのぞかせたエマの髪が、激しい風になびいた。黒いワゴンに狙いを定める。 銃声は一発、返ってきた銃弾は百発。すぐに車内へ身を縮め、エマは無念な表情でたずねた。

「……あなたは?」

「運転手だ」

「名前よ、名前」

 踊るようにハンドルを切り回すかたわら、低い声は答えた。

「ジェイス」 

「いい名前ね」

 エマの手は、新たな弾倉を銃把に叩き込んだ。銃口で軽くフロントガラスを叩く。

「割ってもいいかしら、ジェイス。邪魔で撃てないんだけど、これ」

「断る」

「じゃ、さっさと奴らの横につけて」

 エマの注文通り、ジェイスのハンドル捌きに余念はなかった。高速道路の自動料金所を突き破り、たちまちワゴンの真横に詰めた腕前には文句のつけどころもない。

「OK。今度は勝手に止めないで……よ!?」

 肩の抜けるような衝撃に、エマは悲鳴をあげた。

 並走する黒いワゴンが、タクシーに幅寄せしてきたのだ。防護壁をまともに擦り過ぎたフェンダーが、黄色い塗料の燃えカスを散らす。ジェイスの次の一言はこれだ。

「請求書を探す」

「う、うるさいわね。もう、頭きた!」

 ずきずきする頭をおさえながら、エマは割れた窓からいざ銃を跳ねあげた。

 無表情につぶやいたのはジェイスだ。

「伏せろ」

「え?」

 ワゴンのドアが開くと同時に、座席からのぞいたのは巨大な機関銃だ。

 包帯とネクタイを激しく揺らしつつ、「ワオ!」と絶叫する人影がある。

 大笑いする怪人の名は、スコーピオン。

「色紙の準備はОK!?」

 轟音をあげて、タクシーのヘッドライトが粉々になった。

 続いて、流れ弾に前輪を撃ち抜かれたのは不運な一般車両だ。耳障りなスリップ音とともに、ガラスの破片をきらめかせて横転。それに巻き込まれた後続車たちが、木の葉のように宙を舞う。衝突しては次から次へと吹き飛んでゆく金属の断末魔が、耳に痛い。目を白黒させながら、エマは声を裏返らせた。

「え? え? えぇ、嘘ぉ!?」

 回転しつつ急停止したタクシーの正面に、黒煙をひいて選挙カーが降ってきた。

 選挙カーの看板にはこう書かれている。

〝魂までは殺せない〟


       Ⅴ


 サービスエリアのレストラン。

 午後一時十二分……

 唇と涙を丁寧に拭きながら、エマはトイレをあとにした。胃の中がスッカラカンだ。今度から、ジェットコースターに乗る前のチンジャオロースは控えよう。

 席に戻ると、男がひとり、腕組みしたまま座っていた。静かに閉じた目の前には、やはり冷めゆくままのコーヒーがある。

 ジェイスの横で、エマは不敵にほほえんだ。

「泣いていい?」

 ジェイスは答えた。

「よせ」

 エマの号泣は、広いレストランを切り裂いた。

 ジェイスの胸にしがみついたまま、大声で泣きじゃくる女。離れた席にぽつんと座る親子連れも、こちらを横目にしている。キャハハと身を乗り出す少女を、軽い咳払いでなだめるのはサングラスをかけた父親だ。いいかいクラスティア、人間には恥という素晴らしい感情があってだね……

「も~頭がどうにかなりそう。うっうっ。犯人にはまかれちゃうし、おまけに、カンカンだわ署長」

「………」

「いまあたし、猛烈に後悔してるわ。警官の道になんか進まず、気楽にタクシーの運転手でもやってればよかった、って。ええもちろん、刑事とかが片手あげた日には問答無用で乗車拒否よ」

「どけ」

 ジェイスの一言に、はっとエマは頬を赤らめた。意外にたくましい胸板。あわてて離れると、申し訳なさそうに前の席につく。

「ごめんなさい。泣いてすっきりしたわ。仲間が迎えに来るまで、すこし話していい?」

「………」

 ここにいたるまでの経緯を、エマはおもむろに語り始めた。話が先に進むにつれ、その表情は徐々に暗さを増してゆく。

「なに言ってるかわからないでしょ。あたしも何が起こったのかわからなかった」

「………」

 聞き手のジェイスは、眉根ひとつ動かさない。

 ただ、物語のふしぶしに現れる奇妙な単語はなんだ?

 目もくらむような下水道からの光。そして、オールドスタイルなおとぎ話の死神。

 エマは大きく深呼吸した。

「警察もマフィアも見境なし。マンホールをぶち破って突然わいたそいつらが、光る鎌を振り回し始めた。そう、まるで、ニワトリの首でも刎ねるみたいに」

 エマの手の震えはおさまらなかった。斜めにナイフの痕が刻まれた警察のバッジを、うつろな視線で眺める。これに命を救われたとはいえ、まさしく自分は警察の看板に傷をつけた。

「こんな客を相手にしたことは? 頭のてっぺんから爪の先まで包帯ぐるぐる巻き。殺しひとつあれば奴の仕業、ってのが段取りのうまい上司の警部のやり口ね。スコーピオン……犯罪者の世界じゃ、それこそ神扱いされてるテロのスペシャリストよ」

「………」

 さきほどから定期的に銀色の腕時計を触るジェイスだが、時間を気にするような男ではない。政府の本部ではいまごろ、生の証言を逐一もらさず記録中だ。そんなことを知るよしもなく、エマは続けた。

「結局、あいつはカバンをひとつ、嬉しそうに持っていっただけ。マフィアが取引しかけてた銀色のカバン。そういえば、一瞬だけ中身を見たわ。悪党の庭には、あんなのばかり咲いてるのかしら。ハリネズミみたいな気持ちの悪い花。聞いた名前はたしか……」

 ふと、エマの頬を光るものが伝った。ひどい虚無感。ぽっかり心から抜け落ちたなにかの破片は、とうぶん拾えそうにもない。

「さっきは窓割ってごめんね」

 伝票を手に取ると、エマは傍らのメモ用紙に何事かをさらさらと書き込んだ。サービスエリアの駐車場に、サイレンを載せた車が停まっている。銀色の大型ワゴンだ。

「署の連絡先はこれ。あいた時間でいいから、コーヒーでも飲みにきて。簡単に調書とったあと、今度はあたしが、あなたの請求書を受け取るわ、ジェイス」

「………」

 ジェイスの無言を答えとして、エマは席を立った。

 レジで精算を終えると、うつむき加減に出口の自動ドアをくぐる。エマが手でぬぐう瞳の端に、ざわめく街路樹が見えた。

「はあ。お葬式のとき着る制服、まだ寸法が合うといいな……ハイ。おむかえご苦労さま」

 エマの声を聞いて、ワゴンのドアに運転手の腕がたれた。

 ニンジンみたいに太い葉巻が、芳醇な紫煙をくゆらせている。その指に、丹念に巻かれた包帯、包帯、包帯。

「〝お・む・か・え〟?」

 運転手の囁きにあわせ、こつんとエマの眉間に触れた44マグナムには、サソリの彫刻が輝いている。エマは目を丸くした。

「へ?」

「レッツ・ゴー火葬場!」

 銃声。

 刹那、エマの体は勢いよく押し倒されていた。何者かの手が、刑事を素早く店内に引き戻したのだ。

 一秒間に五〇〇〇〇発。鉛の雨が、壁という壁をけたたましく切り裂いてゆく。滝のごとく砕け散るガラス、四散する花瓶。

 テーブルの下にエマを放り込むと、ジェイスも同じく身をかがめた。鼻先すれすれを掠め過ぎた跳弾にも、まばたきひとつしない。

「な、なになになに!? 戦争!?」

「………」 

 耳をおさえるエマを見もせず、ジェイスは片手を差しだした。轟音の中、おお。刑事が広げた掌に、タクシーの鍵を落とす。エマは顔を強ばらせた。

「う、裏口まで走れって言うの?」 

「行け」

「行け、って……あなたは、あなたはどうするつもり?」

 片膝をついたまま、ジェイスは静かに駐車場を見た。

「客だ」

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