Inning ♯01 墜落 (前)
……色の白い太陽の息子たちが、両手の先から火を吹きながら空をやってきた。
〈インカ文明の伝承〉
〈原因不明の失踪を遂げたのは、ヒノラ在住の四人家族。これにより、森林公園付近で起こった失踪事件は九件目となりました。家族が行方不明になったと思われる時間帯、シェルター上空に奇妙な光を目撃したとの森林警備員の証言もあり……〉
ハンドルを離れた運転手の片手は、カーオーディオへと伸びた。手首に巻かれた腕時計の輝きは銀色。タクシーの中に流れるニュース速報を、ポップ・ミュージックへ切り変える。聞こえ始めたのは、弾けるような色気を、大人の切なさでオブラートした歌声……いま流行りのサラ・サーレンスだ。
西暦二〇七一年、三月七日。
シェルター都市サーコア内部、最終防壁より十キロ付近の森林公園。
午後九時三分……
霧の濃い晩だった。
大きな針葉樹の林が、壁のごとく道路を囲んでいる。予算対策のために舗装を繰り返しても、しょせん田舎道は田舎道だ。ヘッドライトの尾をひいて走るのも、この黄色いタクシー一台くらいのもの。等間隔に生える常夜灯をときおり乱すノイズは、光に吸い寄せられた羽虫の群れだった。
「なんて言ってましたっけ、天気〝予定〟?」
つぶやきながら、タクシーの運転手は目を細めた。
サーコア第一交通8290番、ロック・フォーリング。
料金メーター近くの登録証におさまった彼本人の顔写真は、一言でいうなら二日酔いの朝だ。不精ヒゲ、やぶ睨みの視線ときて、ひどい寝ぐせ頭。ただなぜか、終始ぼんやりしたその表情も、いまばかりは明るい。そう。こんなふうに、後部座席に突っ伏した女を盗み見るため、コンマ単位でバックミラーを微調整しているときだけは。
「昔はよく、リクエストしたものだわ」
女の返答は、あえぎ声にしか聞こえなかった。
それもそのはず、深くもたれた彼女の背中は、すでに座席からずり落ちかけている。喉が潰れて、おかしな声が出るのもしかたない。水商売の絡みだろうが、めいっぱい飲んできたのだろう。朱色にほてった頬は、ややきつめの化粧と柔らかいワルツを奏で、胸の谷間の異様な白さとくれば、身にまとう真紅の中華風ドレスをみずから否定しているかのようだ。ロックに異論はなかった。
「リクエストってあれかい、お客さん。政府の気象管理部に電話して、シェルターの天井に映ってる空をコロコロ変えてもらうやつ?」
「そ。運転手さんもあるでしょ。いとしいヒトに、ロマンティックな景色をプレゼントしたこと」
「所詮、ニセモノの空です」
「あら、以外と捨てたもんじゃないわよ。大昔、シェルターがなかったころの空は、無料な代わりに、なんのワガママも聞いてくれなかった。それが今じゃどう? 夕焼け、三日月、流れ星……電話一本で、政府が綺麗なお空のデリバリー」
長いまつ毛の視線で、女はずっと窓の外を眺めていた。暗い暗い夜の森の流れ。少しやつれた女の横顔へ、皮肉げに鼻を鳴らしたのはロックだ。
「お嬢ちゃんが乗ってるらしいな、うしろの席に。オトナになりゃ誰だって、クソみたいな政府となんか、たとえ電話でだってお話したかなくなるもんだが。綺麗なお空? 背中丸めて俯いて、地面の小銭ひろうのが精一杯だ」
「ひどい。この空も、運転手さんの愛したヒトのリクエストかもしれないわよ。そう、たとえば、いつかどこかで、あたしの見たがってた夢」
「お客さんの?」
ゆるくハンドルを回しつつ、ロックは上目遣いになった。
どす黒い空の間には、ぼんやり雷光が明滅している。古来より農作物のピンチに捧げられる雨乞いの儀式は、いまや政府がボタンひとつ押すだけで完了だ。もちろん、ゴロゴロ鳴るのは市民へカサの用意をうながすサインだし、雨そのものも、防護シェルターの上部に据えつけられたスプリンクラーの散水でしかない。
ひと降りきそうだ。
「お客さんが、畑をやってるってことはよくわかった。最近、日照り続きだったしな……」
「日照り……ええそうよ。あたしみたいな畑は万年、男日照り。なんか文句ある? 店に来る男どもときたら、どいつもこいつも衣装のシッポとツメめあて」
「ミミは?」
「別料金よ。ほら、運転手さんもそう。変身する前のあたしの顔になんて、半分も興味がないんだわ。そうでしょ。そうなんでしょ。あたしだって、いつもはちゃんとした人間なのに。あんな安定剤なんか、ほんとは打ちたくないのに」
膝の間に顔をうずめると、女は小さく嗚咽をもらした。本人は疲れているらしいが、これも喘ぎ声にしか聞こえない。女の頭上、客席と運転席をへだてる強盗対策の仕切りが不意に動く。薄い布切れをひらひらさせながら、ロックはささやいた。
「ハンカチは、防弾ガラスの隙間からしか渡せないぜ」
「ありがと。グッときたわ、今。いつもの血も涙もないドライバーとは大違い。たまに口を開いたかと思えば、あいつが喋るのはそこまでの運賃だけ。さっさと消えてくタクシーのテールランプを見送るたび、あたし思うの。男の半分がロマンでできてるってのは、やっぱりただの都市伝説なんだな、って」
「おいおい、一緒にしないでくださいよ。俺だって昔は信じてました。空のずっと高いとこにゃカミサマがいなすって、ふわふわ浮かぶ天使たち」
「この防弾ガラス、だんだん懺悔室の戸に見えてきたわ。じゃあ教えて、神父様。女の半分は何でできてるの?」
頭をかいて考えながら、ロックはタバコをくわえた。
くたびれてシワのいったタバコ。火が見当たらない。ズボンとシャツのポケットをまさぐり、ハンドル片手にダッシュボードを開ければ、ふいに助手席へ落ちた物体がある。とぼけた目玉の描かれたアイマスクだ。しばらく目と目を合わせたそれを、嫌そうに横へ捨て、ロックは答えた。
「さみしさ、とかかい?」
「ますます好きよ、運転手さん。でも残念、さみしさの比率はたった一割。女はそんなに弱くない。あとの四割はやさしさ。大きな大きな残りの五割は……」
ロックの耳を、しめった風がなでた。薄くアルコールにひたした花の香り。ふたりの密着を紙一重で邪魔する防犯ガラスを、女の赤い唇が曇らせている。ロックの頭の後ろ、狭い戸口のすぐそこで女は笑った。
「半分は……モンスターなの」
つやのある太ももを、女はゆっくりと組み変えてみせた。バックミラーによく映るように。車内の雰囲気まで酔っ払っているようだ。火のついていないタバコをぼんやりくわえるロックを、鏡ごしに、細くほころんだ女の瞳が見返した。
「さいきん渇いてない? 運転手さん」
気付けば、タクシーの行く手をはばむ霧は、いっそう濃さを増していた。
なんだろう。ときおりヘッドライトが照らしだす木立ちの奥から、視線のようなものを感じてならない。茂みから茂みへ素早く飛び移る影、それでいて、決して逃がさぬようにこちらを観察する瞳……あっちにも、ほら、あっちにも。野犬かなにかだろうか。
ネクタイをゆるめながら、ロックは聞いた。
「YES、って答えたら、ステキな入り口へ一歩前進?」
「扉の先には……天国よ」
車内の音楽が、耳障りな雑音に変わるのは突然だった。
トンネルでもあるまいし、電波が悪いのだろうか。いや、それだけではない。放送局をいじるロックの手をあざわらうように、コンソールのデジタル時計まででたらめな文字を吐きだしている。
「聞いたことあります? お客さん」
くつろいでいた女は、ロックの声に顔色を失った。ミラーに反射するロックの唇が、一瞬、つりあがったように思えたのは気のせいか。暗い微笑みの形に。
「なによいきなり。低い声だしちゃって」
「はは、いや、ね。シェルターの天井が、天気予定とズレてる日……そ、こんな雲だらけの夜にゃ、〝出る〟らしいっすよ」
言っているうちに、タクシーはゆるやかに停まってしまった。
ヘッドライトの光がぷっつり途絶える。おまけに、ただでさえまばらな道路ぞいのネオンが、いっせいに消えたではないか。あとに残されたのは、海底のように深い静寂と暗闇だけだ。ロックがキーを回しつづける音もむなしい。
不安げに、女はあたりを見回した。
「ちょっと、どういうこと?」
「こっちが聞きてえ。料金のメーターがパアだ。ポンコツ回しやがって、ったく」
ふたりの吐息だけが、しばらく闇にこだました。先に沈黙に耐えかねたのは女だ。
「運転手さん、質問してもいい?」
「ああ。エンストの原因と、解決のしかた以外なら」
「さっき、なんで慌てて音楽にチャンネルかえたの? あのニュースになった途端」
光ひとつない中でも、ロックの表情の変化ははっきりわかった。
「どのニュースだ?」
「とぼけないで。ちかごろ話題の失踪事件のことよ。何日か前ので、とうとう九件目だそうじゃない。それからここ、ニュースでいってた現場の近くよね」
ハンドルに突っ伏したまま、ロックはじっと前方の闇を見つめていた。その手首で、真っ赤な電子文字をきざむ腕時計。なぜこれだけが無事なのだろう。女自身、充電したての携帯電話が、死んだように動かないのはさきほど確認済みだ。
「現場には、家族の車だけが残されてた」
ロックは静かに切りだした。
「ああ、なんだ。じつは俺も、例の誘拐事件には興味があってよ……さっきとおった分かれ道を左にそれて、一キロも走りゃ着く。神隠しにあったのは、仲のいいウィリアムス一家。アレックス、ジェフ、ヘレン、ケイトの四人家族さ。血のあとがあったでも、なにか盗まれたでもねえ。とにかく、家族の姿だけがさっぱり消えちまってるんだ。車のラジオはつけっぱなし、ほうられた携帯ゲーム機の中のヒーローは、いいとこで立ち止まって電池切れを待ってる。おまけに、シートに落ちてた棒つきキャンディーとくれば、包みを破いてからまだ半分もなめちゃいない。ピクニックにしちゃ、えらく息せき切ったご出発だろ」
「普通の子供なら、どっちも、そんな中途半端で捨ててくマネはしないわね」
「第一、家族がキャンプ場を出たのは、ちょうど今ぐらいの時間だっていう管理人の証言もある。夜のど田舎に飛びだして、それきり帰ってこない円満家族……この狭いシェルターだ。政府や警察の連中がちょいと動きゃ、なにかしら手がかりを掴んでもよさそうなもんさ。たとえ誘拐犯が、死体をぶつ切りにしようと、硫酸につけようと。ところがどうだい。短い時間で九組二十五人も蒸発してるってのに、ガイ者のケツの毛いっぽん落ちてねえ。まともな目撃談ひとつなし。これをやった犯人がいるとすれば、その手際はもう、芸術を通り越して魔法の域だろ」
お手上げして笑うロックだが、女の声は硬いままだった。
「詳しいのね、運転手さん。相当調べたんじゃない? というより、まるでその時間、その場所に居合わせた本人みたいな口ぶり。そっか。ラジオのニュースなんか、聞くまでもないってことか。じゃ、もうひとつ質問」
「なんでも答えるぜ。スリーサイズでも、なんでも」
「このタクシーの運転手はどこ?」
困ったように、ロックは頬をかいた。
「ほかに運転手がいりゃ、俺もそっちの席でのんびりできるんだがな。よかったら、目的地まで運転してくれてもいいんだぜ、お客さん」
「殺したのね、ほんとの運転手は」
「無茶言うなって」
「だってそうじゃない。忘れもしないわ、サーコア第一交通8290番……ニコラス・ジェイスの登録番号よ、それ。店からタクシー呼んだら、毎回決まって、専属の秘書みたいに回されてくる無愛想な運転手。最後にあいつのタクシーに乗ったのは、そう、半月前ぐらいかしら。そんな短い間に、同じタクシー会社が、すでに登録されてる番号を、赤の他人に使い回すなんておかしな話よね」
突然の災難に見えるこの停電が、もし、すべて人為的に作られたものだとしたら? そして、こんな凝った演出をする人間の目当てはひとつしかない。餓えた獣が身をひそめるのは、深い暗闇と相場が決まっている。
呑気なあくびは、ロックのものだった。
「じゃあなんだ。誘拐事件の犯人ってのは、俺かい?」
「ほら、また言った。あたしも新聞やニュースぐらい見るのよ。政府や警察からする今度の事件の扱いは、あくまで〝行方不明〟。どのメディアをほじくり返したって〝誘拐〟なんて文字はない。運転手さんの言うとおり、消えた人間の被害状況どころか、きちっとした誘拐犯がいるのかさえはっきりしてないからね。なのに、まだどこも発表してない家族ひとりひとりの名前と、起こったばかりの事件の内容をここまで詳しく……真実の曲をこんなにうまく歌えるのは、政府のエージェントか、快楽めあての猟奇殺人鬼だけだわ。そう、運転手さんみたいな」
ふと、女の眉がひそまった。妙な声が聞こえる。見よ。運転席のロックが、くつくつ笑っているではないか。顔を伏せたまま、ロックはつぶやいた。
「ただの薬中女とばかり思ってたが……中身は学者かよ、お客さん。ここだけの話だけどさ、じつは、登録証どころか、車ごとニコラス・ジェイスのなんだな、これが」
「……!」
「さっき聞いたっけ、ほんとの運転手はどこかって。おっしゃるとおり、出張中さ、地獄へ。せいせいしたろ?」
闇の中、女は手さぐりでドアのレバーに触れた。レバーは動くが、肝心のドアは開かない。閉じ込められたわけだ。全体重をかけてドアを押したあと、女は困った笑みを浮かべた。
「被害者、あたしで十件目?」
「ご名答」
ロックのうなずきに、硬い音が重なった。
ああ。その手が見せつけるように掲げたのは、四十五口径の拳銃だ。護身用の安物ではない。弾倉を抜いて残弾を確かめるや、いきおいよく遊底を引き、くるくる回転させた拳銃を、ベルトと腰の隙間にねじこむ。かわいた唇にタバコを張りつけたまま、ロックは低い声でささやいた。
「お客さんはこれから、問題の誘拐犯に襲われる。わかっちゃいるだろうが、大声だしたって誰もこない。おとなしくしてるのが大正解だ」
「……あたしなんかには、おあつらえ向きの棺桶ね、この狭苦しいタクシーは」
うなだれて脱力すると、女は溜息をついた。鉄砲を持った大の男相手に、いまさら何ができるとも思わない。それでも、本能的な恐怖には逆らえず、固く握られた女のこぶしは小刻みに震えている。
「人生の終わりってことだし、最後にお願いしてもいいかしら?」
「命乞いなら必要ないぜ」
「そう、残念。でもまあ、この期におよんでジタバタ抵抗するつもりもないわ。そのかわり、そのかわりよ。顔だけは傷つけないでくれない? あたしの顔。ばらばらに切り刻まれるより、化粧を落とされるほうが嫌なの。ご心配なく。商売がら、見ず知らずの人間に食べられるのは慣れてるから」
「脱ぐんじゃねえぞ。カゼひく」
そっけないロックの一喝に、下着のストラップをずらす女の手は止まった。瞳の端に涙をため、女は絶望的な顔でしゃくりあげている。
「やっぱり、そういうプレイがお好みなのね。ビリビリに破り捨てて、むちゃくちゃに乱暴するプレイが……」
空が白く染まったのは、次の瞬間だった。
なんだこれは? 顔の前に両手をかざして、女はまぶしさに耐えた。正面からのこの光は、対向車のヘッドライト? 違う。では、シェルター天井のサーチライト? それならどれほどよかったことか。不可思議な光は、そんなものより万倍も強烈だ。まるで夜と昼が逆転したかのような明るさ……なにが起こったのだろう。
「!?」
女の悲鳴は、声にならなかった。見てしまったのだ。タクシーのとまる道路の先に。
それはいた。輝きの中に。
子供? いいや。
見まちがえるのも無理はない。その〝生物〟はやけに小さかった。一般成人の胸元までもない痩せた体、しかし、いびつで大きすぎるその頭部。哺乳類でなければ、爬虫類でもない、この世の生き物とも思えない……ただ、確かにそれは〝生物〟だった。
こいつら、どこかで見たことがある。そうだ。 失われた記憶を取り戻すべく、医療的な退行催眠にかかった人間が、ときおり、ペンを震わせて描くあの顔。超常的な〝誘拐〟にあったと疑う二億人の男女の証言には、つねにこの灰色の影があった。
宇宙人。アーモンドアイ。
一匹ではない。少なくとも三つの影が、タクシーを取り囲んでいる。
「………」
客席の窓に顔を押しつけるのは、一匹のアーモンドアイだった。反対側のドアまで飛び退いた女を、無言で見つめている。ラグビー球みたいに大きく真っ黒なその瞳は、まばたきというものを一切しない。
タクシーのドアが、触れもしないのに開いた。あれほど固く閉ざされていたアーモンドアイの側のドアが。
その間、残り二匹のアーモンドアイに両脇を掴まれたまま、光の向こうへ引きずられてゆくのはロックだ。なにをされたのか、体がだらんと弛緩しきっている。
ただ目を剥いて、女は硬直するしかなかった。前のシートを越え、アーモンドアイの枯れ枝のような指が、こちらへ伸びてきたのだ。
……連れていかれる。
「!?」
アーモンドアイの悲鳴は、ひどい金切り声だった。
彼らなりの痛みの表現らしい。それより、おお。見れば、気絶したロックが、一匹のアーモンドアイの足を踏みつけているではないか。思いきりだ。
しぶい声がつぶやいた。火のついていないタバコを、口の端にくわえたまま。
「火ぃ貸してくんねえか?」
足を踏みにじられながら、アーモンドアイの手が輝いた。空気のこげる香り。四本しかないその指先から、粒子の爆発とともに生じたのは細長い光線だ。レーザーメスの数千倍の熱量をほこる刃で、突き飛ばしたロックを襲う……
銃声とともに、アーモンドアイの頭は破裂した。
まっすぐ伸ばされたロックの右手、拳銃が硝煙をあげている。
「ありがとよ」
ささやいたロックの手は、崩れ落ちるアーモンドアイの腕をつかんだ。なんと、消えゆくその指先の光線で、タバコに火をつける。
「いや~、釣れた釣れた。おとり捜査って知ってるか?」
煙を吹いて喋りながら、ロックは残る二匹に目をやった。
「お前らが俺に食いつくまで、オンボロタクシーで、この片田舎をなんべん行き来したことか。客のねえちゃんにさんざ変態あつかいされて、ようやくわかったよ。こんな範囲の広い職場は、俺の性分じゃねえ」
頭を失って黒い汁をたらす死骸を、ロックはぼろくずのように投げ捨てた。足元まで転がってきた同胞のなれの果てを前に、二匹のアーモンドアイも思わず後じさっている。タクシーの前にゆっくり回りこみながら、ロックは続けた。
「ここ一ヶ月のうちに、このへんであった九件の失踪。お前らのしわざだってことは調べがついてる。さらった二十五人は元気か? いや、な。どんな形でもいいんだ。血ぃ抜き取ってようが、臓器だけの姿だろうが」
アーモンドアイたちの変化は突然だった。
どこから湧いてでたのだろう。細い手足を、大きな頭を包みこんだのは、タールのごとき漆黒の液体だ。それ自体が増殖能力を持つかのように、液体は次から次へと溢れる。地上三メートルに届くまで膨れあがった液体は、やがて、巨大な手を形作り、長い足を生やした。小人が、巨人になったわけだ。
それは、アーモンドアイたちが用いる一種のパワードスーツだった。液体とも固体ともつかぬ未知のうねりを見せる装甲は、どこか、風になびくボロボロのマントを思わせる。
黒い巨人の腕が、背中へ回った。ふたたび戻された手には、奇妙な金属の棒が握られている。
その鉄棒が、鋭い音を残して左右へ伸びた。たっぷり街灯ほどの長さになった鉄棒の先端、粒子の放散とともに光がほとばしる。さきほどアーモンドアイの手から生じたものと同じだ。いや、あんなものと一緒にしてはならない。鉄棒を一回転させるや、巨人が腰だめに構えたそれは、長い柄の先に、急なカーブを描くレーザーの刃をそなえた武器……大鎌だった。
真っ黒な体の中、巨人の顔だけはやけに白い。それもそのはず、巨人の頭部にあたる場所には、仮面状の装甲がはまっている。ほとんど線と線だけでできているが、仮面にはしっかり表情もあった。泣いているようにも、笑っているようにも見える。
ピエロの顔? 黒いマント? 大鎌? これでは、これではまるで……
死神。
タバコをはじいて灰を落としながら、ロックはつぶやいた。
「自己紹介がまだだったな。俺は、政府の特殊情報捜査執行局〝Feature Intelligenc Research Enforcement〟……ファイア〝Fire〟のエージェント。お前ら専門の殺し屋だ」
はりつめた空気の中、前進してくる死神は二体。親指で背後のタクシーを示すと、ロックはたずねた。
「お客さん、どちらまで?」
闇の森を、爆発の光が照らした。
跳躍とともに大鎌を回転させた死神が、レーザーの刃で、タクシーの胴体を叩き斬ったのだ。まるで野菜。ただ、ガソリンの炎を反射する破片の中に、ロックの姿はない。
どこへ?
死神の仮面に、こつんと銃口が触れた。
「!?」
死神が上を向いたときにはもう遅い。空中で逆立ちしたロックの拳銃は、続けざまに火を吹いていた。撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。硝煙のすじを残しつつ、縦に横にきりもみ回転するや、ロックは片膝をついて死神のうしろに降り立った。
道ぞいの芝生をバウンドしたのは、気絶した女の体だ。爆発するタクシーから、あの一瞬でロックが助けだしたというのか。
一方、ロックと背中合わせになった死神は動かない。集中砲火を浴びた顔から、静かに煙を漂わせている。空の薬莢がアスファルトに跳ね返る音を聞きながら、ロックは独りごちた。
「死んだよな?」
驚きだった。撃たれたはずの死神の仮面には、傷一つついていない。そればかりか、水面に石を落としたような波紋が、黒マントの表面に広がるや、かすかに透ける体内を泳いだ銃弾が、すずしい音をたてて、道路に吐きだされたではないか。
その死神の鎌が、振り向きざまにロックの首をはねた。
風に散る数本の毛髪。地面すれすれまで身を伏せ、ロックは刃をかわしている。その眼前、大鎌を振りかぶったのはもう一体の死神だ。横薙ぎの一閃を、思いきり仰けぞって回避したロックだが、今度はその顔を、唐竹割りに落とされた二筋めの鎌が襲う。
よけきれない。
ロックはその場で回転した。同時に発砲、発砲、発砲、発砲。絶妙な時間差をおいて迫る二本の鎌を、まとめて弾き返す。
衝撃にたじろいだ死神のわきを、ロックは素早くすり抜けた。踊るようにターンを切って、死神たちの背後に立ち止まったとき、ロックの靴は摩擦で煙をあげている。
「帰りてえ」
ぼそりと嘆いたロックの唇、鎌に斬られたタバコは地面に落ちた。根元だけ残して。
何事もなかったかのように、死神たちはロックへ振り向いた。仮面の眉間に焦げ跡をつけ、もう一体の死神の胸部をも捉えた弾丸は、やはりそれぞれ、むなしく地面を跳ねている。どう考えても、人類ごときに勝ち目はない。フィルターだけのタバコを、ロックは横に吐き捨てた。
「あんまりやりたくなかったんだけどな、こいつは。寿命が縮まる」
拳銃をぶらさげる右手を、ロックはゆっくり握って開いた。微妙な感触を確かめるようにそうしながら、続ける。
「俺の体は、充電式の乾電池とよく似ててよ。ま、充電器なんざどこにもねえが」
なんのまじないだろう。迫る死神に対して体を横に向け、しっかり地面を踏みしめたはいいが、ロックよ。そのまま目までつむってしまうとは何事だ。持ち上げた拳銃を静かに額にあてるさまは、これから祈りを捧げる僧にも似ている。
ロックの腕に、一瞬、電流らしきものが光ったように見えた。
「右の頬をぶたれれば、って知ってるか?」
ささやいたロックの足もとが、暗くかげった。
死神が目と鼻の先に現れても、ロックは同じ姿勢のまま動かない。灼けた音をたてる大鎌が、その頭上で振りあげられる。
銃声。
「!?」
巨大なマントを形成していた液体は、どす黒く道路を汚した。吹き飛んだ死神は、右半身のほぼすべてを失っている。戦車砲の直撃にも耐える流体装甲が、いともたやすく破壊されたのだ。たった一発の銃弾によって。どういう原理だろうか。ロックの右手をスタートし、弾丸が高速で通り過ぎた軌跡は、夜目にも白く輝いて見える。
その白い弾道も、徐々にほどけつつあった。ほどける? そう、まるで、ひもの繊維がほぐれて広がるように。すっかり直線の形をなくし、闇に溶け込むその光は、刹那、あるものに見えた。
抜け落ちた白い羽根。
地面を転がってくる死神を、残る一体は跳躍ひとつで飛び越えた。レーザーの出力を最大にして、五倍まで拡大した超高熱の鎌で、ロックを叩き潰す。
クレーター状に爆発する道路……だが、そこにロックはいない。いや、いた。死神の真横に。そちらを見もせず、ロックの拳銃だけが仮面のこめかみに触れる。
銃口にほとばしったのは、激しい稲妻だった。
これは……電磁加速砲!?
「お客さん、どちらまで?」
つぶやきとともに、ロックは引き金をひいた。
照準の十キロ先、無数の羽根を舞いあげて爆発したのはシェルターの壁だ。胸から上をまるまる消失した死神は、かすかに身を震わせたかと思いきや、いきおいよく足元に溶け崩れた。真っ黒なタールの海に、倒れて痙攣するアーモンドアイの白さはよく映える。
まばゆい光に、ロックの目は細まった。
それはもう〝空飛ぶ円盤〟としか言いようがない。差し渡し十メートルはある。わずかなエンジン音もなく森の上に浮かぶそれを、旧世紀の人々は〝神〟や〝天使〟と呼んだに違いない。赤や青の照明がまたたくUFOの下部には、重力の法則をあざわらうように乗員が吸い込まれてゆくところだ。体の右半分を消し飛ばされたあの死神が。
「十二時の鐘にゃ、まだ早すぎるぜ……シンデレラ」
みるみる夜空を遠ざかるUFOめがけて、ロックは拳銃を跳ねあげた。
ただのクレー射撃とはわけが違う。瞬間的にかき消えた地球外の乗り物は、いきなり照準の外に現れたかと思えば、またもとの空へ。しかも、早い。早すぎる。こちらの狙いが読まれているのか。めまぐるしく上下左右するロックの銃口に合わせ、たくみに航路をずらして逃げるその機動性には、最新鋭の追尾ミサイルも追いつけそうにない。
一秒が過ぎ、二秒が過ぎた。
「無理」
ため息をつくと、ロックは夜空に背を向けた。
いや、待て。おろしたばかりの拳銃に、鋭く駆けめぐった電流はなんだ。
異常な光景だった。
かすかな明滅とともに甦った数百の電灯が、今度は、道路にそって右から左へ破裂し始めたではないか。それだけではない。真っ二つになって炎上するタクシーとくれば、たしかに一瞬、盛大に音と光を放って沈黙した。芝生で眠る女のバッグが焦げ臭い煙をあげるのは、中の携帯電話がショートしたためだ。
ありとあらゆる電源が、限界を超えてエネルギーをしぼりだされていた。あげくの果てに、はるか遠くにきらめく市街地のネオンまでもが、一区画ずつ闇に呑まれてゆく。こんなとてつもない量の電力が、いったいどこへ?
ロックだ。道路のど真ん中に立つこの男だ。地下の送電線を伝って、割れた電灯から吐きだされる稲妻のすじは、あきらかにロックへ集まりつつあった。ほかの明かりが消えるにつれ、右手の銃をはじめとする電光も、加速度的にその輝きを増している。
食っているのか……電力を。
「知ってるかい? こんな雲だらけの晩にゃ〝出る〟んだぜ……|俺が」
逃がさない。あいつらだけは、絶対に。
振り向きざまに、ロックは引き金をひいた。
轟音……銃弾を運んだ光のらせん模様から、ひらりと舞ったものがある。まるで、美しい翼が、たったいま置き忘れていったかのような羽根。天使の羽根。
銃口の硝煙を吹き消すと、ロックは身をひるがえした。鮮やかに回転させた拳銃を、ベルトの腰に納めて告げる。
「グッドラック」
空のかなたで、UFOは爆発した。
〝彼ら〟は、ずっとここにいた。
とても長い時間、この惑星に。
およそ四十億年前、海がまだ、おそろしくまずいコーヒーのような姿だったころ。大気に雨、光、そして混沌たる数の有機酸。生命誕生までのパズルはあるていど組みあがっていたが、しかしなにかが欠けている。そんな、いまいち吹っ切れない原始の地球に、最後のピースをもって訪れたのが彼らだった。やめておけと忠告するものは、恐竜が走り始めたときにもまだいない。
ちょっと経って、紀元前二六〇〇年あたり。クレイジーな駄々をこねたのは、とある砂漠を治める人類の王だ。墓だかなんだか知らないが、とにかく石を高く積めという。高くだ。発注をもらった砂漠の民は、あるだけの知恵をふりしぼった。この数百万トン近い石材を、いかにしてピラミッド状に組みあげるか?
すこし悩んで、辞表を書きはじめた人々の前に、ふたたび〝彼ら〟は現れた。ピラミッド内の壁画にもあるとおり、太陽がもうひとつ生まれたような光に乗って。その超常的な重力技術からする余裕もあるが、やはり彼らはパズルが好きらしい。
歴史が進化の曲がり角に差しかかるたび、彼らは星の影から顔を出した。もちろん与えるのは軽いヒントだけで、あとは問題を解く人類を静かに見守る。火の起こし方から、核兵器の原理、宇宙開発のいろはまで。これほど有意義な生徒と教師、親と子の関係もあるまい。
実験? 観察? ゲーム? 野暮は言いっこなしだ。
西暦二〇二二年、十二月二十六日。午後三時十四分……〝奴ら〟が人類への攻撃に打って出るのは突然だった。大気圏を挟んで向かいの席に座る恋人に、どちらかがグラスの水をぶっかけたらしい。
世界のあらゆる国家において毎秒、数万人単位で起こる予測不能の誘拐。防衛に乗り出した軍隊を一方的に殺戮するのは、奴らご自慢の強力なパワードスーツだ。およそすべての近代兵器を受け付けぬそれは、大鎌を手にマントを揺らめかせるその姿は、だれがどう見ても〝死神〟だった。
皮肉な話だ。繰り広げられる地獄絵図に対し、歴史上はじめて、本当の意味で人類が掌を重ねた先には、核の引き金があったのだから。直径十キロ以上の隕石をも自在に操る〝奴ら〟の超科学と、原子の炎の乱打戦……成層圏まで舞いあがった放射性物質まみれの土砂は、またたく間に太陽をさえぎり、かじられたチーズのごとく欠けた地表も、気付けば九割方が雪と氷に覆われていた。地球史上、五回めの氷河期が訪れたのだ。
やがて、白い惑星に草木いっぽん生えなくなったころ、奴らは愛想をつかして、宇宙のどこかへ去ったというのが、約五十年たった現在の定説になっている。
安心するのはまだ早い。
奴らはいる。あるいは戻ってきた。すぐ近くまで。
一時は絶滅したかと思われた人類が、また性懲りもなく身を寄せあう全天候都市型シェルター。氷の河を逃れた最後の楽園。害虫どもは、あまつさえ復興への希望を見いだしかけている。そんなものを、奴らが黙って見逃すはずはない。四十億年も我慢し続けた忍耐にふさわしく、奴らは執念深いのだ。
創造主、断罪の天使、侵略者、地球外知的生命体、宇宙人……
これは、そんな奴らと戦う四人の話。
雪に残った最後の火の粉たちの物語。
Fire〝ファイア〟
Ⅰ
雨あがりの朝だった。
シェルター天井に映しだされる雲ゆきは、まだあまりパッとしない。市民のストレスを抑制するためには、いちおう日光も必要だ。四百平方キロにも渡る人工の空は、一週間前から予定されていた降水を終え、徐々に太陽を復旧させつつあった。いきなり明るくすると、目をくらませた運転手が事故を起こす。
階段をのぼる足音に気付いて、ハトの群れは飛び立った。
消えてゆく羽ばたきの音。水たまりに波紋を広げたのは、抜け落ちた羽根の一枚だ。先端から水を吸い、くすみひとつないその純白も、すぐに街の裏路地と同じ色に汚れてしまう。
スモッグにけむるミノエス市を遠く眺めながら、長い石造りの階段をのぼりきった高台に、その教会はあった。静かな場所だ。すこし寂れてはいるものの、逆にそれが妙な神聖さを醸しだしてもいる。
教会の扉は、すこし開いていた。中に人の姿はない。当然だ。教会の長イスに寝そべるばかりか、酒臭いイビキまで放つはげおやじを、世間は人としてカウントしない。教会名物、呑んだくれのウォルターだ。あまりにタチが悪いので、警察が動いたことさえある。
そんな神性のダメ人間はほうっておいて、祭壇の片すみ、薄暗い懺悔室。
「仲間はすべて敵になるでしょう。それでも、私は戦わなければならない。守らねばならない」
懺悔室のイスに腰かけた男……エドガー・サイラスの表情は暗かった。正面で耳をかたむける神父の顔は、細かい格子の戸にさえぎられてよく見えない。七色のステンドグラスを背景に、エドガーは沈んだ声で続けた。
「本当に、私は臆病者です。正義の騎士を気取りたいにもかかわらず、心の奥底ではすがるべきものを探してばかりだ。おのれの弱さを悟ってから、ようやく私は知りました。神という不思議な存在を。信仰のすばらしさを。神は、いまさら手遅れだとおっしゃられてますか? 神父様」
戸に映る神父のシルエットは、ただひたすら静かだった。怒りも、憐れみの情さえもない。エドガーが苦悩げに頭をかかえて、一分がすぎ、二分がすぎた。ん?
「神父様?」
ふと、エドガーの顔があがった。なにかおかしい。
「あの、神父様。神父様」
どれだけ呼びかけても、反応はなかった。信心に目覚めかけた者からすれば、この無視はけっこうつらい。
「神父様……失礼」
ひとこと断ってから、エドガーは懺悔室の戸をノックした。ていねいに、しかしやや強めに。
戸の向こう側、なにかの倒れる音が響くのはすぐだった。つづいて漏れたのは、かすかな呻き声と悪態だ。まるで、イスから転げ落ちて強打したどこかを、さすって痛がっているようにも聞こえる。床を走った衝撃の大きさに、思わず固まっていたエドガーだが、気を取りなおして尋ねた。
「あの、神父様。お体の具合でも? ひょっとして今、眠って……」
「うるせえ。そうだ、弱ってんだよ、二日酔いで。察しろ」
沈黙が流れた。ぽかんとした顔のまま、エドガーは声もない。しばらくして、小さく舌打ちしたのは神父だ。
「わぁったよ。聞きゃいいんだろ、聞きゃ。で、なにやらかした。盗み? 殺し?」
「言い訳はしません。さきほど申しあげましたよね?」
神父のイスが、ぎしぎし鳴っている。貧乏ゆすりの音だった。
「とっとと済まそうぜ、迷える子羊。誰だって、寝起きはとても機嫌が悪いはずだ。それともあれか。あんたの罪とやらは、たった一度の告白なんかで許されちゃうのかい? そんな軽いもんなのかい? なら、俺の仕事もここまでだな」
「お、お待ちください」
席を立ってどこかへ行きかけた神父を、エドガーは必死に止めた。
「わかりました。もういちど最初から話します。話しますから……」
「言葉はよく選びな。ったく」
ため息をついて、神父は座りなおした。
その手元、ぺら、と本のページがめくられる音。神父が、ようやく聖書を開いてくれたらしい。あやうく忘れるところだった苦悩の顔が、エドガーの顔によみがえった。
「……まえまえから私は、仲間たちのやり方に疑問を感じていました。吐き気さえ覚えていた。組織は、くる日もくる日も人道に反した実験ばかりを繰り返す。かく言う私も、傍観を決めこむことしか知りません。おこなわれているのが、どれほど残酷なことかわかっていながら」
「ちょっと待った」
「はい」
「とりあえず、あんたが勘違いしてることはわかった。ふたつ」
「おお。ぜひお聞かせ願います」
格子戸に食いついたエドガーは、ありがたい導きをすでに確信した表情だ。仕切り越しに、影絵と化した指を折りながら、神父はつぶやいた。
「ひとつ。あんたの安い月給を、会社が見直す確立はゼロだ。たとえ、特大の十字架のかわりに〝待遇改善〟の横断幕かかげた我らが神が、必死こいてパレードひっぱったとこでよ。これは、あんたがダメだから、ってことだけでもねえ。労働組合ってのがただのハリボテにすぎないのは、俺もよく知ってる。時勢が悪いね、時勢が。ここは賢く、生まれ変わった次の人生に期待だ」
「は、はあ。月給? では、間違いのふたつめは?」
「ふたつめに、そんな鉄道員じみた世迷いごとは、いきつけのバーでたれるこった。少なくとも、神父様ならそうしてるね」
格子戸の隙間から、神父はエドガーへなにかを投げよこした。カウンターの上をひらりと舞って落ちたのは、くしゃくしゃのチラシだ。しるされた〝職業安定所〟の連絡先を見つめながら、エドガーはうなった。
「転職か……考えたこともありませんでした。いただいておきます」
「石みたいにガマンして、アリみたいに働いたって結局、増えるのは女房のグチと抜け毛だけだぜ。さ、納得したなら、そろそろ帰れ。免罪符な、これ」
エドガーめがけて、ふたたびカウンターをすべる物体があった。なんだろう。毒々しいピンク色のマッチ箱だ。表面に描かれたモデル体型の美女は、あやしい流し目で右記の料金表をしめしている。夜の店にまちがいない。
「札つきのワルにも、悪徳知事にも、そいつがいわゆる、神が与えたもうた平等ってやつさ。スッキリしなきゃ。天国で待ってな。神父様も、あとで追いつく」
神父もこう勧めるが、当のエドガーの顔はいっこうに晴れない。無感動な視線は、手もとのマッチ箱に落ちたままだ。いったんは静まった神父の貧乏ゆすりも、いつの間にか再開してしまっている。イライライライラ。
「言ったはずだぜ。〝失せろ〟って」
「最後に、最後にもうひとつ、私を罰してください。罰とは、これから私が犯そうとしている罪に対してです」
「盗みか? 殺しか? どっちにしたって、小物臭さはプンプンしてるが」
「なんとでもおっしゃってください……これ以上、組織の悪事を黙って見過ごすのはゴメンだ。ひとつ、奴らには思い知らせてやるつもりです。この身を呈してでも」
仕切りを挟んではいても、神父が身を乗りだす気配ははっきり伝わった。エドガーの声にふくまれる真剣さ、危険さを嗅ぎとったらしい。野次馬根性に血走る神父の瞳が、エドガーをなめまわしている。
「へへ、心配すんな。この取り調べは、ポリ公どもの垢だらけの耳になんざ届いちゃいねえ。さあ吐け。吐いて楽になっちまえ。裁判ざた? 密告? うひひ。あんたにできるって言や、そこらが関の山かな?」
「仲間と殺しあって、実験内容を盗もうかと」
「ま、そんなとこだろな」
また一枚、神父はカウンターにチラシを置いた。今度は控えめな動きで。手元まで流れてきたチラシを目に、首をかしげたのはエドガーだ。
「花屋?」
「花束がいるだろ。マシンガンを隠す真っ赤なバラが。俺があんたなら、ついでに自分の墓にそなえる用のも買っとくがね」
「なるほど、いただいておきます。しかし……」
しりすぼみに、エドガーの声はとだえた。
教会の入口に、人影を認めたためだ。三人。うち二人が、制服の警官というのはさらに間が悪い。ただ、彼らの目的はあくまで、あそこの長イスに転がる呑んだくれのウォルターだった。待ちくたびれた女房あたりが、業を煮やして通報したのだろうか。
安らかなウォルターの寝顔に、警官たちも腰に手をあてて呆れている。それも、残りの人影、刑事らしき私服の女が指示を飛ばすまでだ。筋骨隆々の男たちに両脇を掴まれ、なかば引きずられる形で、酔っ払いは教会の外へ連れていかれてしまった。野生動物そっくりのうめき声だけが尾を引き、やがてそれも消える。いつものことだ。
教会に、静けさが戻った。一部始終を横目で見守っていたエドガーは、ひとつふたつ左右を確認したあと、カウンターに置いた拳を固く握った。震えるほど。
「しかし、組織の実験は、政府……いや、世界そのものが覆るにふさわしい内容のものです。暴露したあかつきには、人々の混乱は避けられないでしょう。そんな罪深いおこないを、はたして神は、私や、仲間の命だけでお許しになられるのでしょうか?」
「許した。神父様が許した。気が済むまで暴れてこい」
「あの」
「男になってこい、って言ってんだよ。ようはあれだ。あんた、自分の会社が気にいらねえんだろ。ぶっ潰したいぐらい。その気持ち、よぉくわかる。だからこそあんたは、前もって神の家に申請にきた。ドンパチの事前申請にな。そういうクソ真面目なとこが、会社の犬なんざになりさがってる原因さ。違うかい?」
「おっしゃるとおりです」
「シケたツラしなさんなって。ほんと言うと、俺はあんたのことが嫌いじゃねえ。教会が会社だとすりゃ、社長はそこの十字架のヒトだ。今の世間は、どう考えたって社長不在だが。監督不行き届きもいいとこさ。じゃ、その社長の代行はだれがやる? 俺だよ。神父様だよ。その神がかった俺様が、GOサイン出してんだぜ。あんたにゃもう、神のご加護満タンじゃねえか」
神父はエドガーへ、一枚の名刺を差しだした。
どう言うつながりか、YNKテレビの局員のものだ。記者会見でも開けと? ぐっと立てられた神父の親指も、その成功を祈っている。たしかに、革新的なニュースにとぼしい世の中だ。報道関係は、涎をたらして事件に食いつくに違いない。にしてもこの神父、どこまで至れり尽くせりなのだろう。
「突撃の段取りが決まったら、俺にも連絡ちょうだいよ。祭りの当日ばかりは、教会のシャッターおろさなきゃ。ほら、聖書のマニュアルにもあるだろ。男を殺せ、女を殺せ、乳飲子を殺せ、牛も羊もラクダもロバも、殺せ、殺せ、ぶっ殺せ、ってな」
エドガーは、いきおいよく立ちあがった。とうとう神父に物申す気になったか。そのとおりだ。懺悔室の戸を見る表情は、さきほどまでの陰気臭さがウソのように澄み渡っている。なんと。
「あ、ありがとうございます。なんだか、本当に心が軽くなったようです。決心が固まったというか、その」
「生きてたらまた、気軽に懺悔しにこいや。もし生きてなかったら、そこの祭壇の下で会おう。あ、そうそう。そこの献金箱、飾りじゃないからよろしく」
けっこうな額の札束を献金箱に入れて、神父をうひょおと驚かせたあと、もういちど礼を言い、エドガーは懺悔室をあとにした。
中央の通路を出口へ向かっているとき、ふいに気づく。あらたな参拝者の姿に。
スーツの女だった。長イスに腰かけ、スカートの膝にのせた薄型軽量のノートパソコンで、なにやら事務にいそしんでいる。神と仕事を同時信仰だ。その落ち着きはらった雰囲気は、多くの経験とすこしの疲れをふくみ、かと思えば、いかにも切れ者風の美貌は、信じられないほど彼女を若く見せてもいた。つまり、何歳かよくわからない。
半眼気味の女の視線が、ちらと上がった。エドガーを見つめる表情には、なぜか同情の色がある。
一方、陽の光に消えたエドガーへ、おざなりに十字を切ったのは神父だ。
「さっきの話……なんかの冗談、だよな。だな。そうに決まってる。くそ、サイコヤローが。ゲームと現実の区別もついてねえ。ヤバいったらありゃしない」
グッドラック、とささやいて、神父はなにかの缶を開けた。
同時に、懺悔室の戸も、何者かの手によって開け放たれている。
「!?」
見よ。カウンターの向こう、剥きだされた神父の瞳を。缶ビールを口にあてかけた姿のまま、時間の止まった男……ロック・フォーリングを。
机に乗っけられたロックの足には、聖書が置かれている。聖書だ。裸の美女ばかりが寝そべるカラー版のそれは、不信心な者にはただのグラビア雑誌にしか見えない。飲みちらかされたビール缶の上、つもったタバコの吸殻はいまにも崩れかけ。おまけに、その耳にかかったばかデカいヘッドホンは、いまだ大音量の聖歌をたれ流している。音のリズムはどう考えてもR&Bだが、気合が入ることに違いはない。
「エージェント・フォーリング……」
ひきつった顔でうなったのは、さきほどのスーツの女だった。聖域の戸をちょっと開けてみれば、この無法地帯だ。たたんで持たれたノートパソコンは、怒りのあまり小刻みに震え、いつ角のとがった凶器に変じてもおかしくない。こめかみに走った青筋を、深呼吸ひとつで落ちつけるも、女はやはり質問せずにいられなかった。
「ここはガソリンスタンドかね?」
血の気の失せた表情で、ロックは答えた。
「か、神のご加護満タンっスよ、局長」
教会の鐘は、清らかに鳴っていた。
Ⅱ
殺人、誘拐、詐欺、窃盗、麻薬。
シェルター都市サーコア……一億人ぽっちの市民自身が〝鳥かご〟と揶揄する狭い居住スペースの中でさえ、日夜犯罪は繰り返されている。戦争に負けて疲弊しきっているはずの人類だが、悪事だけは、食後のデザートといっしょで別腹らしい。
いうまでもなく、事件の九十九パーセントは人間の手によるものだ。おや、一パーセント足りない。答えは簡単。それは、人間のしわざではなかった。
森林公園付近で確認された集団失踪事件にはじまり、超常的な事件の背後に〝奴ら〟……アーモンドアイの存在が絡んでいた例は、枚挙にいとまがない。都市の防護シェルターに穿たれた穴が見つかるのは、いつもアーモンドアイが侵入を終えたあとだ。
事の重大さなどつゆしらず、人々は毎日を送っている。当然だ。遠い昔から、ある政府の秘密機関が、アーモンドアイの監視、追跡、すべての痕跡の抹消と、文字どおり事件についてまわる特殊な情報の漏れを防いでいるのだから。
〝Feature Intelligenc Research Enforcement 特殊情報捜査執行局〟……単語それぞれの頭文字をとって〝Fire ファイア〟。この機関は、謎と闇に包まれているどころか、存在そのものが幽霊に等しい。規模不明、所在不明、構成人員数不明。同じ政府内でさえ、はっきりしていることは一つだけだ。すなわち、その殺人的なまでの強引さ。人類の平和と機密保持のためならば、病院の爆破も辞さないという。
そして、目には目を。一般社会に忍び込んだアーモンドアイに肉薄するためには、こちらもそれなりのカモフラージュをせねばなるまい。
派遣されるエージェントたちは、そう。神父のロック・フォーリングを例に、医者、教師、コック、あげく街角の花屋などに変装して、都市のあらゆる場所から外敵の動向を探っていた。
ロック自身、緊急でタクシー運転手に〝転職〟していたところだ。本来のタクシー運転手が出張したとたん、その管轄でアーモンドアイの出没が激増したのはなぜだろう。なぜと言えば、誠心誠意代役を務めた自分のもとへ、局長が怒鳴り込んでくるのにも納得がいかない。
「なるほど、局長じきじきの懺悔か。ぜんぶ聞けるほど深くはないぜ。献金箱も、俺のふところも」
「悔い改めるのは君のほうだ。エージェント・フォーリング」
こう切り返したスーツの女は、ジェリー・ハーディン。えらくご立腹だ。
〝ファイア〟局長……政府きっての闇の機関をとりしきる彼女の肩書きは、さすがダテではない。懺悔室のそこら中に散乱するゴミ、食べ残して痛んだピザと、缶ビン類を可燃不燃のゴミ袋へ分ける手際は、洗練された紳士、いや淑女のそれだ。窓辺に頬杖をつき、年頃の少女のように青空をながめるロックへ、ハーディンは冷たい眼差しを投げかけた。
「森林公園での捜査、ごくろうだった。そこを中心とした区画が三月七日の夜、大停電に襲われた件は聞いているな? ある神父が、一帯の電源をことごとく食い尽くしたせいだ」
「おそらきれい」
「だれの指示でUFOを撃ち落とした? 口をすっぱくして言っているはずだがね。〝能力〟の使用前には申請をだせと。立派な命令違反だ。始末書の提出期限も、とっくに過ぎている」
「あ、ハトだ」
「完全にマヒしたんだぞ!? 外壁の防御機能が!」
それまで丁寧に周囲をふいていた布巾を、ハーディンは怒号とともに投げつけた。首をかしげたロックの頭をかすめ、台所へ吸いこまれる布巾。洗っていない食器の山がいっせいに崩れる音に、ハーディンも思わず飛びあがっている。大あくびを放ったあと、目じりに浮いた涙をこすりながら、ちらかすなよ、とロックはつぶやいた。
「申請? 手紙でも書けってのかい? UFOが殺人ビーム撃ちまくってるときに? はは、そりゃ名案だ。ポストに入れたラブレターが局長に届くまで、アーモンドアイにはコーヒーでも飲んで待っててもらうか」
「いい加減にしたまえ。そういうときのために、その時計の通信機能があるのだろう」
「ああ、〝これ〟ね。つい着けてるの忘れちまってさ。使い心地がよすぎて」
左手に巻かれた腕時計の銀光が、ロックの瞳に反射した。時計と手首の隙間を、どこからともなく現れた綿棒で無造作に磨く。ホウキとチリトリを手に身をかがめたまま、顔をしかめたのはハーディンだ。
「嫌味のつもりかね」
「かぶれて仕方ないんだよ。安あがりなメッキ使っちゃって」
ただのデジタル時計に見えるこれは、じつに多くの機能を誇っている。
あらゆる極地を想定した耐久性はもちろんのこと、高速で更新されるGPSに、小姑のように細かい体調表示。惑星全域に渡る標準時や、超長距離通信機などなど。その他すべての機能を使いこなすには、専門の教育係を何人か用意せねばならない。まあ、それらはあくまでただのオプションであって、大事なのはあとの二つの機能だ。
ひとつ。はずれない。むりやり分解したり、手首ごと切り落とすのは自由だが、その瞬間、政府の本部には特Aクラスの警報……〝裏切り者発生〟の曲が流れる。
ふたつめはあれだ。
自爆装置。
「たまには本部へ顔を出すがいい。左手が膿んで腐り落ちる前に。何度も言っているだろう。科研の洗浄室に限っては、時計の取り外しは許可されている。申請は一ヶ月前の午後五時までだ」
「申請、申請、また申請。たかが手ぇ洗うだけでこれだ。なんというかこう、もうちょっと下っ端の自由意志ってやつを尊重できないもんかね。犬の首輪じゃあるまいし」
鼻であざ笑うのが、ハーディンの答えだった。
「猟犬でなければ、なんだというのかね?」
むっと目つきを悪くしたロックの前に、ハーディンが投げよこしたものがある。テーブルに広がったのは、何枚かの写真だ。一カ所にまとめた古新聞古雑誌を、力をこめてポリひもで縛りながら、ハーディンは告げた。
「本題だ」
写真には、おかしなものが写っていた。
真っ黒な物体……炭になるまで火であぶられた木材にも見える。もっとも太い部分を中心に、その先端は四方へ枝分かれし、ある一点だけはなぜか磨いたようにまん丸だ。見やすい角度を探して写真をかたむけながら、ロックは呆れた顔をした。
「人だろ」
「人の焼死体とわかっていながら、十字のひとつも切らん神父がいる……民間のカメラマンだ。奥歯の治療痕から判明した被害者の名は、フランク・ソロムコ。八日の早朝、ジョギング中の農場経営者によって発見された」
「健康中毒の早起きヤローに、朝っぱらからバーベキューはキツいな。それにこりゃ、焼き加減が普通じゃない。ガソリンの風呂に浸かってたって、ここまでこんがり黒焦げにゃならねえ。場所は?」
「軍の施設周辺。エワイオ空軍基地だ」
「このバーベキュー、さてはミリタリー好きかなんかか。尾翼とかキャタピラがついただけの鉄の棺桶に、どうしてそう夢をいだくかね。で、バーベキューは、カメラ片手にジェットエンジンにでも潜り込んだのかい?」
「通常の数億倍の放射性物質を生みだす兵器が、こんな片田舎の基地にあるとでも? バーベ……おっと失敬、ソロムコの遺体から検出された残留濃度でさえそれだ。実際に彼を焼いた〝なにか〟なにかの出力は、さらにそれを上回るに違いない」
「あ、そう」
バーベキューの写真を、ロックは興味なげに横へポイした。それから、手もとで重ねあわせた写真の束を、繰っては捨て、繰っては捨て。目立ったヒステリーも起こさず、すこし背伸びしたハーディンは、本棚の上に静かにホコリ取りを這わせている。ある写真を境に、ロックの手が止まるのを知っていたからだ。
はたして結果は、ハーディンの予想どおり。あいかわらず眠たげではあったが、ロックはたしかに、その写真だけを見ていた。見るというより、その視線の鋭さ、射抜くと表現するのが正しい。
「ヘリ……じゃねえな」
写真は、真昼の太陽を写したものだった。
いや、違う。その強烈な光の周囲、エワイオ空軍基地の景色はあきらかに夜だ。ロックが足元にばら撒いた写真を過去にたどれば、ひとつ前に撮影したそれには、まだ待機中の軍用ジープと暗闇しか写っていない。
光は突然、撮影者の頭上に現れたのだ。
滑走路の誘導灯? サーチライトの写り込み? よく観察すれば、大きな光は、球体にも、三角形にも、あるいは円盤状にも見える。
「ファーストクラスの被曝に見舞われたカメラマンだが、さすがと言うべきか。死後硬直した指は、本部の解剖台に載せられたときでさえカメラを手放さなかった。黒焦げのデータフィルムから検出されたのが、その写真だ。計算上、ソロムコが撮影した最後の一枚と見て間違いない」
「ジュージュー焼け死にながら撮ったにしちゃ、うん。写真にいまいち、奇跡ってもんが足りねえな。奇跡の一枚ってやつが。こんなただの風景写真は、いまどきのオカルト雑誌だって買わないぜ。もっとこう、ブっ飛んだやつはねえのか、ほかに」
「残念ながら、フィルムは壊れて歯抜けだらけだ。復旧にはまだ時間がかかる。原子炉の池に落としたも同然のカメラから、この短期間で、ここまで鮮明なノンフィクションの画像をよみがえらせたんだぞ。家にも帰らず必死に取り組んだ研究班を、すこしは労わってやってはどうかね?」
「近寄りたかねえよ。そんな、ろくにシャワーも浴びてない連中にゃ」
「さて、ひとつ話をしてやろう。その、いまいましい口も黙る面白い話を」
憮然とつぶやきながら、ハーディンはなにやら靴を脱ぎはじめた。両足とも。とがったヒールのかかとは、できの悪い部下を説得するのにぴったりだ。手近なイスの上に立ちあがると、天井の電灯に手をのばす。はずした電球は、使い古されて真っ黒だった。代わりに、ハーディンが差しこむ新品の電球だが、その出どころは家主のロックにもわからない。
「七日夜のことだ。政府の防空対策室のレーダーに、都市の内部を高高速で飛行する反応がひっかかった。所属不明・識別不能・無応答の三冠だ。航路の統計から、この未確認機が最初に現れたのは、シェルターの防壁ぎりぎりの地点ということも調べがついている」
「じらすじゃねえか、局長……〝奴らは外から入ってきた〟そうだろ? だが、シェルターご自慢の防御機能とやらはどうした?」
「間の悪いことに、その場所は修理中の都市天井の〝穴〟だ。老朽化が酷く、以前にシールドが崩落を起こしていた。工事の最中は無論、二十四時間態勢で対空兵器と監視員が配備されていたが、不十分だったらしい。〝奴ら〟の侵入したと思われる経路にそって、迎撃網はことごとく破壊され、人員もすべて行方不明。今現在は倍の警戒をしいて、それなりに安全は確保されているが」
ハーディンの溜息は、少し疲れていた。電灯のカサの中、何度かその手が回ると、光は唐突によみがえる。まぶしさに細まったハーディンの瞳は、しかし、白く輝くガラスの球体に、なにか別のものを見ているようだった。
「シェルターへの侵入を許したからには、我々は全身全霊をかけて未確認機の足取りを追った。だが、ある地域に差しかかった途端、未確認機の反応はぷっつり途絶えてしまう」
「はは、情けねえ。きっと、コーヒー買いにドライブスルーにでも寄ったのさ」
「その通りかもしれん」
「えっ」
「エワイオ空軍基地の上空だ。未確認機が消えた場所はそこ。焼死したカメラマンが、最後に〝なにか〟を撮った場所もそこ。困ったことに、それらの起こった時刻は、ほぼ完全に一致している。そして十分後、未確認機は新たに反応を現した。今度は、都市最終防壁から内部へ約十キロの地点。航路はふたたび、シェルターの外へ向かっている」
「人手不足のピザ屋だな、まるで。なにか大事なものを空軍基地に配達して、その帰り道って風にも……ちょっと待てよ。なんでとっとと挙げないんだ、その基地? どう考えたって怪しいだろ。絶対〝裏切り者〟がまぎれこんでる。おまけに、航路の記録と写真があって、死人まで出てるんだぜ」
パン、と鳴った破裂音が、ロックの疑問符をさえぎった。
「証拠不十分だ」
まるめた雑誌を床に振りおろしたまま、ハーディンは答えた。雑誌の下からのぞいた糸のような触覚は、弱々しく左右に揺れたのち、じきに動かなくなる。ロックの同居人であり、長年の愛人だった。
「意図は不明だが、未確認機は、森林公園の上空でいったん停滞した。やがてそれは、突如、おそろしい勢いで防壁の〝穴〟へ向かい始める。まるで何かから……そう、天敵から逃げるように、な。未確認機の反応が今度こそ跡形もなく消え、あたり一帯の区画が大停電に見舞われたのは、きっかりその五秒後のことだ。真相の究明と、未確認機の捕獲という任務をおった政府の追跡機が着くより早く、大事な証拠を撃ち落とした者がいる。おそらくは拳銃一挺で、深い考えもなく」
「………」
「そうだフォーリング。胸に手をあてて、おのれの犯した違反の重大さをよく悔いるがいい。やっと黙ったな、いまいましい口が。おもしろい話だったろう?」
にやりとしたハーディンの鼻先に、洗剤のシャボン玉がただよった。皿と皿のぶつかる音は、荒れ放題の台所からだ。腕まくりしたハーディンの手が、積まれた使用済み食器を次から次へとスポンジで洗いあげてゆく。一方、ひょろ長い足をテーブルの角にのせ、頭のうしろで手を組んだまま、ロックは不満げにそっぽを向いた。
「じゃ、なんだ。俺がタクシーなんざ転がすハメになった二十五人の蒸発は、誘拐とかじゃなかったってことか。人体実験めあての」
「だろうな。被害者たちは、ただどかされただけ。経路の下見にきたアーモンドアイにとって、その存在が、なぜかどうしても邪魔になる理由があった。用意周到なことだ」
「いつも俺らがやってることだろ。あいかわらず、安いカーテンと一緒だな、政府の監視ってやつも。窓から猫が入るみたいに楽々、敵が最後の砦に出入りしてやがる」
「空軍長官、参謀長官、エワイオ空軍基地責任者のアンドリュー・マイルズ大佐もふくめて、軍関係者への事情聴取は綿密におこなわれた。もちろん答えは、いたって当たり障りのないものばかり。UFO? 放射能たっぷりの焼死体?」
「うわあ。邪魔しちゃいけないぜ、兵隊さんたちのお仕事」
「そうだろう? いまどきそんな話題を、ろくな証拠もなしに、真顔で振ることになった私の身にもなってみたまえ。半世紀前ならまだしも、案の定あざ笑われて、トイレでひとり泣きたい気分だったよ、まったく。どこかの神父が撃ち落としたUFOは、もう二度と同じ場所には戻らん。ここで警戒を強めないほど、宇宙の常識はイナカではない。空軍基地とアーモンドアイの第三種接近遭遇の現場をおさえることは、もはや不可能だ」
「だから、悪かったって!」
懺悔室に、電子的なメロディーが響いたのはそのときだった。
着信を知らせる銀の腕時計……手首の通信機をしかめっ面で持ちあげたロックだが、違う。鳴っているのは、泡だらけのハーディンの手だ。そこにもまた、ロックのものと同じ腕時計が巻かれている。死ぬまで外れぬ猟犬の首輪が。
点滅する時計の表面を、ハーディンはひとつふたつ触った。止まる着信音。唇まで寄せた通信機に、押し殺した声で答える。
「……ハーディンだ」
時計内蔵の超小型スピーカーから流れた声は、刃物のように冷たい。
〈エージェント・ジェイス。対象を確保〉
「ごくろう。十分で合流する」
通信のとぎれた時計をおろすと、ハーディンは最後の食器を水切り棚に置いた。濡れた手を丁寧にタオルで拭きながら、ロックに告げる。
「君の撃墜したUFO……その墜落現場から、警察がなにかを運び出したそうだ。非常に興味深いなにかを、な」
「やっべ。警察のお膝元だったっけ、あの辺。でもよ、あの高度で、あの爆発だぜ。手応え手からすると、UFOの芯はぶち抜いた。現場の残骸も、連中のフシアナの目にゃ、どうせバラバラの鉄クズにしか見えねえって」
「鉄クズ。そう、鉄で焼いてこそのバーベキューだ。残骸の下から見つかった異星人の死体も、さぞや、いい具合に焼きあがっているに違いない」
「し、死体ィ? ジェイスが動いてるってことは……横取りしたんだな、それ?」
「心外な言い方をする。譲りあいの精神に、警察がこころよく応じてくれただけだ。世界の矛盾は、我々政府の闇が覆い隠さねばならん。命拾いしたんじゃないのかね、フォーリング?」
「ほんとだよ。これ以上、給料が減ることはなさそうだ」
かるく十字を切って、ロックは安堵のため息を漏らした。それとなく伸ばした手の先から、缶ビールが消える。さっき開けてから、まだ一口もつけてないのに……もたれかかった流し台に缶の中身を捨てながら、ささやいたのはハーディンだ。
「そのまま祈りを続けたまえ、エージェント・フォーリング。ただちにエワイオ空軍基地へ向かうんだ」
「乗らねえな。あいにく、午前中と日曜は仕事しない主義でね。こんだけ真っ黒な基地なんだ、いちゃもんつけて、さっさとガサ入れでもなんでもしちゃえよ。政府の闇ってやつの専売特許だろ?」
「よくわかってるじゃないか。基地があやしい動きをみせたら、すぐに一報を入れてほしい。私の判断によっては、さっさと突入してもらうことになるかもしれん。君の専売特許ではないかね?」
ハーディンの薄ら笑いには、うむを言わせぬ威圧感があった。威圧というよりは、むしろ威嚇。これで決まった。たたんだコートを手に、懺悔室の扉へ向かう細い背中を、ロックもうらめしげに見送るしかない。給料の上げ下げから暗殺者の派遣まで、およそすべての実権を、こんな年増女が握っているとはどういうことだ?
「空軍、空軍ね……航空ショーに神父たぁ、また縁起のいいことで」
タバコの箱で、ロックは机をトントンした。とびだしたタバコの一本を、口の端にくわえる。ライターの火花が散る音に、ハーディンは足を止めた。
「そこに貼られている〝屋内禁煙〟の札の文字……母国語ではないのか?」
「隠してくれるさ、政府の闇が」
吹きだされた紫煙に、祭壇の十字架がかすんだ。
Ⅲ
数分前の話……
震える手は、クスリのフタをあける動きも病的だった。
車の窓に流れる森林公園のながめは穏やかで、空もよく晴れ渡っている。だが、落ちくぼんで隈のういた彼の瞳は、なにも見ていない。死んだ魚そのものだ。
覚悟を決めたように、彼はクスリのビンくわえた。ひといきに口にふくまれ、ぼりぼりと噛み砕かれる白い錠剤。ビンの注意書きに記された適量を、はるかに超えている。まともではない。
みにくく顔をゆがめたまま、彼はもぎとるように缶コーヒーをつかんだ。無糖のコーヒーといっしょに、口の中のクスリを胃の奥へ流し込む。中身をすべて嚥下したあと、彼は息も絶え絶えに、空き缶を車のドリンクホルダーに叩き置いた。
一部始終を見届け、ぽかんと口を開けるのは、となりの席でハンドルをにぎるエマ・ブリッジスだ。彼女はまだ、三ヶ月前に殺人課へ配属されたばかりの新米だった。
「おいしそうに飲みますね、ウォルター警部」
「ガキのころ、マーブルチョコをこんな風に食わなかったか? ガキはしまいにゃオヤジになり、マーブルチョコは、この酔い止めのクスリになったってわけだ」
パトカーの助手席、ウォルター・ウィルソン警部は暗澹たる声で語った。ひどい二日酔いなのは明らかだ。ときおり漏れるしゃっくりから何から、とにかく酒臭い。
雨あがりの水滴に輝く針葉樹林を横目に、曲がりくねった道路を走るのは数台の警察車両だ。白と紺に塗り分けられた伝統的な車体に、大きく描かれた鷲の刻印。鷲の頭上を飾るS・K・P・D〝SaKoa Police Department〟 サーコア市警察の文字は、たとえ犯罪者が百歳の老人であっても見やすい。
パトカーたちは、都市中部の科学捜査研究所へ向かっている。エマとウォルターの乗る車を最後尾において、周囲にはさらにパトカーが三台。それなりに厳重だ。このような警戒体制をしいて護送されるのは、殺害予告を送りつけられた政治家か、麻薬組織の幹部あたりと相場が決まっている。では、今回は?
パトカーに挟まれて走るのは、暗色の巨大な科学防護車だった。ウォルターも現場はだいぶ長いが、殺人課の管轄で、こんな仰々しい代物と仕事するのは初めてかもしれない。
釣鐘のように頭痛の反響する頭をおさえながら、ウォルターはうめいた。
「ところでよ、エマ」
「どうしました、警部?」
「なにしてたんだっけ、俺?」
「別れた奥さんのことも、そんな風にまいにち忘れてたんですね……殺人ですよ、殺人事件。都市の最終防壁と森林公園の境目あたりで、ひどい変死体がみつかった。遺体を運ぶのに、あたしたち殺人課が駆り出されるのも納得です。このあたりでは最近、例の失踪も多発してますし」
「たしかに、娘の親権争いのとき、弁護士に俺のあることないこと吹き込んでたのは、見も知らん冷たい女だった」
「三月七日未明、このへんで大きな停電があったでしょ? 原因は不明のようですが。ちょうどその時間帯、最終防壁の付近から警察に通報がありました。あわせて五件。要約すると〝空から爆発音が聞こえた〟〝森の奥が真昼みたいに明るい〟〝鎌を持った大男がうろついてる〟。あとは似たり寄ったりです」
「鎌ぁ? いまどきいるかよ、そんな変態野郎。おおかた、酔っ払ったイナカもんが、テニスラケットかなにかを見間違えたんじゃねえのか? ラケット持ってたのは、ただのテニス好きなマッチョマン。森が光ってたってのも、あれだ。テニスコートの夜間照明。停電してたって、自家発電機さえありゃ勝負はできる。事件解決だな」
「遺体の右腕がもげてたのは、サーブ合戦のしすぎですか……通報を聞いて警察が駆けつけたときには、現場はいちめん、焼け野原になってたと言います。そのくせ、周囲の木に火が燃え移った形跡はこれっぽっちもない。かわりに、そこから十歩しか離れない草むらで、一名ぶんの遺体が見つかった。遺体は、マキの燃えがらと見間違えるほど黒コゲの状態。おまけにその右肩は、きれいに失われてたそうです。鋭利な刃物、それこそレーザーかなにかで切り取ったように」
「たいしたもんだ。〝死体は十歩も離れた場所から見つかった〟ガソリンぶっかけられ、火ぃつけられる。おっと、片腕を引きちぎられるのが先か。そんな生き地獄を味わいながらも、被害者はとにかく這いずった。十歩ぶんも。助けを求めて。なあ。科学防護車の保管庫じゃそろそろ、死体袋の中身が手足をばたつかせてんだろ?」
「や、やめてください。その、あたし、ダメなんですよ。幽霊とか、ゾンビとか、ホラー全般。知ってるでしょ?」
「心配すんな。殺人課の管轄は人間だけだ。殺した人間と、殺された人間。はらわたをごっそり抜かれた死体とか、抜いたそれを朝昼晩にわけて食うバカとか……おっ」
腕組みしたまま、ウォルターはエマのほうへ傾いた。その頬は小刻みにひきつり、土気色の顔にはいやな脂汗が。森林公園のカーブはきつい。ちいさく悲鳴をあげたエマは、F1レーサーの動きで窓側に重心を移動させている。
「吐いたら祟りますよ、もう。空でも見ててください」
助手席の窓をすこし開けて、ウォルターは深呼吸した。窓の隙間から流れる風が、後退のすすんだ中年刑事の頭髪をもてあそぶ。シェルター天井に映しだされた太陽光に、まぶしげに細めた目を、ウォルターはもっと上に向けた。
「〝穴〟だ」
「ちょうど事件現場の真上ですよね、あれ。鑑識によれば、遺体のまわりに散乱してたおかしな金属片も、はがれ落ちた天井の一部だとかなんとか。でもそれで何となく、とつぜん空で鳴った爆発音の説明はつきます」
エマも上目遣いにした先、空がどこかおかしい。
本物そっくりに横へ流れる綿雲の映像は、空のある一点にさしかかるたび、不自然に途切れてしまう。電子的な砂嵐にのまれて。数種のレアメタルを混ぜ込んだ特殊合金に、ナノマシン・プラズマ粒子もろもろを幾層にも重ねたシェルター都市の天井部……超巨大なスクリーンに等しいそれが、なんらかの動作不良を起こした際に見られる現象がこの〝穴〟だった。
ごくまれに頭上に生じる珍しい景色を、サーコアの市民は単純に〝穴〟と呼んだり、ときには〝虫食い〟と皮肉る。皮肉とは、その故障箇所にむらがる黒い点のことだ。おびただしい節足で天井にとりつき、あるいは吸着型のキャタピラで上下逆さまに這う巨大な機械たちは、遠目からは確かに無数の虫にしか見えない。その虫こそが〝穴〟をがんばって修復しているというのに。最大瞬間風速百ノット以上、気温マイナス百度近い氷河期の地獄と、文明社会をへだてる壁はひどく薄いのだ。
科学防護車の尻に視線を戻して、ウォルターはふと笑った。
「科捜研の連中も、シャレたキャンピングカーを持ってる。なに運んでやがるんだ、いったい?」
「警部の記憶が五分もたないということは、よくわかりました。死体ですよ、変死体。なんどでも説明しましょう。さ、耳をかっぽじって。数日前の大停電の夜、都市の最終防壁と森林公園の境界線あたりで……」
「ピヨピヨうるせえぞ、ヒヨッコが。ただの変死体を運ぶのに、あんな値の張る特殊車両が呼ばれると思ってんだな? ん? さっき見ただろ、連中がすっぽり収まってた防護服を。まるで宇宙飛行士か金星人だ。あんな重武装がいるのは、やべえ細菌とか、放射能をまきちらす〝なにか〟を見つけたときぐらいだぜ」
「え? 運んでるのは、焼死体と聞いてますが?」
「これだから、頭のニブい警察の犬は……キャリアって名前の首輪のせいで、右も左も見えてねえ。勘ってやつを養え。必死こいて養え」
「そうカッカせず。また血液検査でひっかかりますよ?」
無言のまま、ウォルターは懐からあるものを引っ張りだした。
ジッパーつきの薄いビニールケースだ。ふつうの証拠品袋とはすこし違う気がする。それより、ケースの中に透けて見える物体はなにか。ネックレス状の鎖にぶらさがった金属片……その表面は、高温にさらされたように焦げて黒ずんでいる。ウォルターが得意げに陽にかざすそれを、エマは目を丸くして注視した。
「この形は……どこかで見たことありますね。もしかして、軍隊の認識票? 誰のです?」
「死体のだよ。おまえの大好きな焼死体の」
ふうんと納得して、エマは運転に戻った。戻ったかと思いきや、すごい勢いでウォルターに振り向く。
「スったんですか」
「そうカッカすんな。老いも若いも、わけへだてなく脳梗塞にかかる時代だ……呼ぶだけ殺人課を呼んどいて、科捜研に手柄をもってかれるのも癪だからよ。連中が機材とかの積み込みを始めたとき、手伝うフリしてこっそり抜いた。墨になったそのドッグタグ、ちょいと薬をつけて磨けばあら不思議。被害者か、もしかしたら犯人の身元に早変わりだ」
「あの、警部。質問。ひとつ質問。細菌とか、放射能の件は?」
気づけばエマは、運転席の端の端まで身を寄せていた。もちろん、せまいパトカーの車内に逃げ場はない。ふむ、とひとり頷いたウォルターは、あろうことか、くだんの証拠品袋をエマのひざもとに放った。
「ちょ、このクソオヤジ!?」
「いい歌声だ。安心しな。このポリ袋も、科捜研ごようたしの特殊なやつだ。へんなものが漏れたりはねえはず。たぶん」
「〝たぶん〟!? 〝たぶん〟じゃねえぞボケナス! まったく! まっっったく安心できません! 心が安らぎません! だいたいその認識票、どう見ても事件の最重要の証拠品じゃないですか。そんなものを、盗む同然に借用したことがバレたら……」
「借用。借用ね。いいこと言った。盗んだときと同じように、どさくさにまぎれて返しときゃいいってことだろ? だな? お礼にピカピカに磨いときゃ、科捜研の連中もきっと満足してくれるよ」
「あと一歩で事故るとこでした……」
前方、パトカーが宙返りしたのはそのときだった。
「え?」
とっさにハンドルを切るエマだが、もう遅い。
なんども回転しながら飛来した最初のパトカーに、中央の科学防護車が巻き込まれ、九十度横にスリップしたその側面へ、つぎの一台が突入する。ものすごい勢いで前のパトカーに乗り上げるや、一瞬だけ片輪走行を披露した四台目は、そのまま横転して裏返しになった。とどろく破砕音、とびちる赤や青のガラス片。はでにガードレールを破り、道ぞいの木に頭からめりこんで止まったのは、ウォルターたちのパトカーだ。
断末魔を思わせるクラクションの音だけが、ひとけのない森林公園に響き続けた。さっきまでの行軍が嘘のように、パトカーたちはただ煙をあげて沈黙している。
……大惨事が起こった道路の真ん中に、そいつはいた。いままさにパトカーが通り過ぎるはずだった場所に片膝をつき、手刀にかまえた右腕を、まっすぐ横へ伸ばした人影。そして、なんだろう。人影の体から立ちのぼる、この奇妙な白煙は。道路に立ちふさがる彼と、先頭のパトカーが交錯した刹那、事故は発生したのだ。
謎の人影の背後に、音をたてて何かが落ちた。おお、パトカーのタイヤではないか。ひとつ、ふたつ、みっつ。中央から真っ二つにされたタイヤは、おかしなことに、その切断面から鮮やかに火を吹いている。
人影の足跡にそって、道路にちろちろ燃えるのは、ふたすじの炎の線だ。ありえないことだが、猛スピードで走るパトカーのタイヤは、この人影の手によって切り裂かれたとしか思えない。
ところかわって、コースアウトしたエマたちのパトカー。クモの巣みたいにひび割れた正面ガラスに、木の葉が舞っている。木との衝突で開いたエアバッグをおしのけ、ふたりそろって星のちらつく頭を振りながら、うめいたのはウォルターだ。
「……酔い止め持ってないか、エマ? モルヒネでも、コカインでもいい」
「しょ、署に問い合わせてみます」
無線機に手をのばしたエマが、パトカーの外に引きずり出されるのは突然だった。
悲鳴はない。なにが起こった? あっけにとられるウォルターの視線の先、きりきり宙を回転するのはパトカーのドアだ。半分に断ち割られた防弾素材の切り口は、やはり真っ赤に燃えている。
「ちくしょうッ!?」
叫ぶが早いか、ウォルターはパトカーを飛び出した。コートをひるがえしつつ、芝生を一回転。エマの消えた運転席めがけて、流れるように拳銃を跳ね上げる。
なにもない。だれもいない。ウォルターに蹴り開けられた車の扉だけが、いやな軋みをあげて前後に揺れている。ときおり緊急の要請をはきだす車載無線だが、ここと無関係なのが悲しい。同時に、頼みの綱ともいえるその無線機に、ウォルターが飛びつくのを待つ者がいる。つまり、罠だ。襲撃者の。
ウォルターはすばやく、銃口ごと横に向いた。かすかに声と物音がしたのだ。が、敵ではない。上下逆さまのパトカーから、ほうほうのていで這いだしたその制服警官は、大の字のまま気を失っている。どの車を見ても、もはや動く者はいない。ウォルターただひとりを除いて。
静寂が流れた。
「エマ……返事しろ」
ささやいたウォルターの耳は、枯れ枝の折れる音を聞いた。すぐうしろだ!
銃声、銃声、銃声。
森から空へ、鳥の群れがいっせいに飛び立った。色とりどりの羽根が、雪のように舞い散る。生存本能がまともであれば、鳥たちはもう二度とこの近辺へは戻るまい。
「………」
がっくり膝をつくと、ウォルターは地面にくずおれた。同時に、見よ。その背後の木が二、三本、まとめて斜めにずれたではないか。木の倒れる地響き。中央から輪切りにされた幹の断面は、これもまた炎に包まれている。
警察採用の拳銃を、ウォルターは気絶してもなお手放さなかった。もっとも、その銃身は銃把だけを残して両断され、まだ赤く灼熱している。パトカーのタイヤや木に起こったのと同じく、超高温のバーナーで焼き切られた状態にそっくりだ。
……倒れたウォルターの頭上に、襲撃者は静かにたたずんでいた。横一閃に振りきった右腕を、ゆっくり下におろす。おろすや否や、ぽろぽろと地面に落ちたこれはなんだ。ウォルターの銃の半分と、溶けてひしゃげた弾丸がひとつ、ふたつ、みっつ。
立て続けに起きた奇怪な切断現象は、やはりこの襲撃者によるものだったのだ。だが一体、どんな方法をもって、どれほどの超スピードで? その秘密はどうやら、襲撃者本人の体から漂うこの煙にあるらしい。煙からはなぜか、荷電粒子式ロケットブースターの推進炎に焼かれた酸素の香りがする。
風にゆれる木々のざわめきを背景に、襲撃者はふと片手をもちあげた。時計をたしかめるサラリーマンの動きそのものだ。襲撃者の切れ長の瞳に反射するのは、銀色の腕時計の輝き……あの秘密機関のトレードマークたる多機能通信機ではないか。特殊情報捜査執行局〝ファイア〟。政府の闇。
時計に語りかける襲撃者の声は、鋼のように冷たかった。
「エージェント・ジェイス。対象を確保」
その間にも、襲撃者……エージェント・ジェイスのまわりには、重武装の政府隊員があめあられと降り立っている。隊員たちの手の中、空から蛇のようにのたくるのは強靭なロープだ。ロープをさらに上へたどれば、森林公園の空には、うなりをあげる大型輸送ヘリの影が。
いっぽう、ジェイスの時計から答えたのは、ジェリー・ハーディン局長の低い声だった。
〈ごくろう。十分で合流する〉
「通信終了」
沈黙する科学防護車へ向けて、ジェイスは歩きはじめた。