「お前は一生、代筆でいい」五年前に戻った私は、自分の名前で小説を売ります ~天才先生の隣に、私のサイン待ちができました~
「お前は一生、代筆でいい。俺の名前だから売れるんだから」
開場前の机で、受賞式の控室の声を思い出す。謝辞を渡し、次の原稿には自分の名を入れたいと頼むと、滝本先生はああ言ったのだ。五年間、原稿も受賞の言葉も先生のために書いた。報酬は「指導してやる」の一言。
文学少女のなれの果て――――三十八歳の私は、先生の受賞式を手伝った夜、泥酔し、記憶が途切れる。そして――――目が覚めると、なんと初めて代筆を頼まれた朝へ戻っていた。スマホの日付も、机上の初依頼の台本も、三十三歳の朝を指している。五日後には、二人で参加した物語フェスが始まるはずだ。
あの朝のことだ。滝本先生は、本を出せば重版の帯が付く有名作家で、私は催事の台本や短い物語を書いて暮らす書き手だった。先生の書斎で差し出されたのは、先生の次の朗読会で読む台本。先生の名で出すものを私が書く。それが代筆で、前の人生では、この台本が五年間の始まりになった。差し出された台本を、今度は押し返す。
「指導してやる。それが報酬だ。とてもいい話だと思うんだが?」
「いえ、結構です。自分の名前で小説を売ります」
前の人生では、先生の机の下で原稿を直し続けた。彼の名でヒットした物語の結末も、私の書いたものだ。
物語フェスは、市民文化会館のホールで五日間開かれる催しだ。ホールの半分に出展者の机が並んで自作の本を売り、残りの半分が朗読ステージになる。先生は招待作家として毎年机を持ち、前の人生の私はその机の脇で、助手として五日間を見ていた。
だが、今度は違う――――私は書斎を出て、主催へ電話する。
「出展の補充枠、今朝一区画空いたはずです。まだ間に合いますか?」
「よくご存じで。受付順です。場所は……滝本先生のお隣になりますが」
「構いません。空いた机に、市原真琴で出展します」
入金を済ませ、朗読・即興・朗読劇にも申し込んである。徹夜で自作を直し、本を三十冊と見本一冊、中綴じにしたのが昨夜だ。
自分の名義で机を借り、小冊子を刷って綴じた。今、物語フェス初日の机に、自分の名前で売る本が並んでいる。
夏休みの五日間、客席から見て左が先生、右が私。私の小冊子の著者名を見て、先生が言う。
「俺が育てたんだから、お前の話は俺の実績だろ?」
「ご恩は感じていますが、私が書いた作品は私のもの。私もいい作品書けるようになりましたので」
言い切った声が、まだ人のいないホールの高い天井へ抜けていく。前の人生では、一度も言えなかった言葉だ。響きが消えるまで、息を吐けない。指先だけが冷たく、押さえた表紙の角が硬い。先生は鼻で笑う。
「弟子の本を隣に並べてやるんだ。ありがたく思え」
「弟子ではありません。隣の出展者です。受付順で、そう決まりました」
先生は答えず、自分の机の重版帯を整え直す。帯に刷られた大きな文字が、こちらを向く。
開場すると、先生の重版帯の本が売れていく。サインを待つ列が伸び、客の靴先は私の机の前を次々に通り過ぎる。紙とインクの匂い。冷房の風が、小冊子の表紙をかすかに浮かせる。三十冊は、一冊も減らない。白い紙の断面ばかりが、やけに明るい。先生が壇上で朗読を始める。
「隣の机は、俺の講座で育てた弟子でしてね」
先生は初日の朗読企画の壇に立ち、客席へ私を紹介する。会館の講座で一度講評を受けただけの私を、先生は弟子と呼ぶ。客席に礼儀正しい笑いが広がる。私は、もう揃っている本の角を揃え直す。売れないのは、名前が無いからだろうか。それとも、私の話は。考えかけた時、客席の子が私の机を指し、母の袖を引くのが見える。
「朔太郎、五百円まで。十歳のお小遣いは、これで全部よ」
母から離れた朔太郎くんが、硬貨をぎゅっと握って来る。跳ねた前髪の下に、こちらを見定める目。私の机の前でぴたりと足を止め、壇上を振り返ってから、遠慮のない声を上げる。
「大人の話、つまんない!」
「じゃあ、笑わせたら私の勝ちかな?」
「先生のお弟子さんなんでしょ? だったら、先生の方が面白いんでしょ?」
「そこ、訂正します。私の作品の方が面白いと思ってくれる人もきっといるんです」
私は大人げないと思いながらも、にっこりと伝えた。
「ふぅん、僕はどっちかな?」
「きっと私です。笑うところまで、聞いてください!」
「笑えなかったら、買わないよ?」
「どうぞ。でも、笑ったら、ちゃんと買ってください!」
小冊子『宿題の監督さん』を開く。十六ページの手作りの本だ。硬貨を握った手が、まだ机の前にある。私はその子へ向けて読み始める。宿題を監督する父が、テレビへよそ見する。子供は消しゴムを置き、父の顔を覗き込む。
『お父さん、見本の『集中』がまだです!』
「キャハハハ……あ、いまの、ずるい……! 笑っちゃった!」
「やった! そこ、私も書きながら笑っちゃったんですよ!」
口を押さえたまま、朔太郎くんが硬貨を置く。小さな金属音が、机を伝わってくる。受け取ると、握っていたせいで温かい。さっきまで冷たかった私の指に、その温度が残る。母も客席から来る。
「買う本、決まったの?」
「これ! ぼくのお金で買う!」
「あら。さっきまで、あんなにつまらなそうな顔をしていたのに!」
「これは違うの! お父さんのほうが叱られるんだよ!」
一冊二百円。三百円を返す。机に残る分が、私の書いた話の値段になる。
「ありがとうございます。お釣りも、どうぞ」
「もう一冊、友達に」
追加の本を渡すと、その子は残った百円より本を高く掲げる。薄い表紙が照明を受け、ぱっと明るい。壇上の先生が、隣から届く笑い声へ顔を向ける。朗読の声が、半拍だけ途切れる。
「お友達にも、笑ったところを教えてあげてくださいね」
「言わない! 読ませる!」
「明日は朗読もします。友達にも、来てほしいです!」
「じゃあ、一緒に来る!」
売上は二冊、四百円。本を立て、表紙を通路へ向ける。四百円が机の上で光っている。その向こうを通る客の顔が、さっきよりよく見える。
「新刊でーす! 作者は、ここにいまーす!」
◇
二日目の十一時。ホールを流れる冷房の風に、弾む子供たちの声が混じる。先生の朗読が終わると、朔太郎くんと友達が客席から大きく手を振る。母は後ろの席で会釈をくれる。約束どおり来てくれた顔を見つけると、原稿を持つ手の力が少し抜ける。
「友達、連れてきたよ!」
「今日は別の話で、また笑わせます!」
「ほんとに笑えるの? 朔太郎が言ってただけでしょ?」
「本人に聞いてください。昨日、口を押さえて笑った人です!」
「二日目の企画、子供向け朗読の時間です。出展者が持ち込んだお話を、野々村志津さんが客席の皆さんへ読みます。その前に、作者との読み合わせを公開で」
読み手は看板朗読家の野々村志津さん、七十歳。先生の本も長年舞台で読んできた人で、気に入らない箇所は作者の目の前で言う。
深い青の上着の袖口を折り、私の『負けた日の作戦会議』を手元へ下げる。紙を押さえる爪が、結末の行を指す。負けた子が悔しさを隠し、勝者を祝う場面だ。
「ここ、きれいに逃げたわね」
「傷つけたくなかったんです!」
「だからって、悔しい子の言葉まで丸くしちゃうの?」
「あの子には、笑って帰ってほしくて……!」
声の終わりが裏返る。客席で、朔太郎くんが椅子の上に体を起こすのが見える。志津さんは原稿を書き換えない。指された行には、私の字がそのまま並んでいる。私は紙を引き寄せる。志津さんがペンを返す。
「悔しいまま笑ってもいいのよ。あなたなら?」
「言わせます。負けたぶんまで、ちゃんと!」
客席から、待ちきれない声が飛ぶ。作中の負けた子を案じるような声だ。
「ねえ、負けた子はいつ怒るの?」
「今から怒ります!」
ペン先が紙を引っかく。負けた子に飲み込ませていた一言を、今度は口から出してやる。きれいな返事を消した場所に、短い言葉が収まる。書き直した結末を、志津さんが指先を突き出して読む。
「おめでとう! 悔しいので、拍手は指だけです!」
「それ、指でやって! ぼくたちもやる!」
「ふふっ。負けた顔まで上手ね!」
友達が指を打ち合わせる。朔太郎くんも真似をして、口をへの字に曲げてから吹き出す。小さな指の拍手に、大人の手の音が重なる。先生の朗読なら収まっていた頃になっても、拍手が止まない。先生が原稿を抱え、壇の袖へ来る。自分の朗読の続きを、志津さんに読ませたいのだ。
「俺の朗読の続きなら、こちらの原稿です」
「それは後で読むわ」
志津さんが原稿から目を上げる。その顔が先生を通り過ぎ、私へまっすぐ向く。
「先生と呼ばれる方を読んだのよ。今日はあなたが先生ね」
予約帳を取り出す手が早い。私は返事を探す。いつも誰かに渡す言葉ばかり書いてきたのに、自分へ来た言葉には、うまく返せない。
「次の作品、予約するわ。あなたの結末を読みたいのよ」
「嬉しいです! 今度は私の結末を、最初から読んでください!」
思ったより大きな声が出て、自分の耳に跳ね返る。志津さんは驚かない。原稿に添えた指も、そのままだ。
「最初からよ。途中で逃げたら、また爪で指すからね」
「逃げません。爪で指されるのは、一度で十分です!」
「一度で済んだ人なんて、まだいないのよ」
「では、私が最初です!」
机で予約を記すと、朔太郎くんが本を開く。その手つきに、昨日の値踏みはもう見えない。
「続きは? 次は勝つところが読みたい!」
「書きます! 悔しかった子の出番、増やしましょう!」
志津さんも小冊子を買い、この日は八冊。本の山が、指の幅ぶん低くなる。減った分だけ、誰かの手の中にある。紙の山の向こうに、続きを待つ顔が浮かぶ。
◇
三日目は即興企画。十三時、自分の執筆席につく。ホールの奥の長机で、隣の席は先生だ。原稿用紙と削った鉛筆の匂いが、冷たい空気の中に近く感じられる。名前を伏せずに座れる席が、今日はここにある。
前の人生では、招待作家にだけ前日に知らされるお題で、先生用の即興原稿を私が先に書いておいた。今日の即興企画には、私が用意してあげた原稿がない。
先生は今年も前日にお題を聞いている。けれど、それを代わりに書く私は、もう先生の机の下にいない。
お題は記憶どおり、雨と約束。会話中心の筋は準備してある。招待作家は開始前に一つだけ追加の条件を出せる。
「即興企画を始めます。お題は『雨と約束』。二十分で短いお話を書いていただき、私が客席へ読み、皆さんの投票で小賞を決めます。招待作家の先生、追加の条件は?」
先生が私の手元を一度見て、司会へ向く。
「台詞なしでも笑わせられるか、見せてもらおう」
「追加条件は全員共通です。では、始めてください」
会話文禁止。台詞を一行も書いてはいけない、という条件だ。三人で四十分の時計が動く。準備した筋は、台詞で笑わせる話だ。頭の中にあった声が、使い道を失う。台詞のメモを丸めると、乾いた紙の音が客席の前列まで届く。
「紙、ぐしゃってした! 大丈夫なの?」
「大丈夫。見せる順を、決め直したんです!」
「先生、意地悪した?」
「条件を出しただけです。負けるのは、私が下手なときだけ!」
大事な物を雨から守る約束の話を、乾いた鞄、ずぶ濡れの子の順に直す。台詞が無いなら、絵で笑わせる。鉛筆が止まらない。芯の擦れる音を追って、次の行へ手が進む。提出して帰席すると、客が昨日買った本の余白を指して差し出してくる。この執筆席では、提出後なら買った本の余白へ短い続きを書く注文も受けられるのだ。
「お父さんが宿題する続きも書いて!」
先生も、まだ提出していない原稿を差し出す。その紙の端が、客の本と私のあいだに入る。前の人生なら、黙って受け取っていた。差し出された紙を見るだけで、肩が先にこわばる。
「お前の腕を見てやる。俺の原稿を先に直せ!」
「困ります。今、私のお客さんが待っています!」
「俺のを先にやれ!」
「先生の原稿は、先生が書くしかありません」
客の本へ手を戻す。心臓が速い。言い返した声が喉に引っかかり、すぐには唾を飲めない。本を支える客の指が、すぐそばに見える。
「ふんっ! せっかく俺が見てやるって言ってんのによぉ!」
「私の本を持って待ってくれている方を大切にします」
余白に、今度は父が自分の宿題を監督される一行を書き添える。書いた先を追っていた客の肩が、ぴくっと跳ねる。吹き出した顔のまま、本を胸に抱えて席へ戻っていく。その腕の中に、今書いたばかりの続きが収まる。
先生の原稿が、宙に残る。先生は顔をしかめ、自分で書き終えて提出する。掲示には作者の名がなく、作品名だけが並ぶ。その前で、司会が『ぬれない約束』を読む。
「ランドセルは傘をさし、持ち主は傘の外で胸を張っていた」
客席が笑いに揺れる。前列の子が肩を引き、濡れた子の胸の張り方を真似する。それを見た隣の席へも、笑いが広がる。一人一票の集計で、十八票の私に小賞が決まり、司会が作者名を告げる。客が肩を揺らしながら、私の机へ来る。
「投票したよ。あの濡れ方、うちの子そっくりだった!」
「ありがとうございます! こちらの話も、笑うところまでどうぞ!」
「買います! 今度は家で笑いたい!」
「はい! お持ち帰りの笑い、ここにあります!」
客が財布を出しながら、本を胸に当てる。本を手放さずに財布を探す仕草を、つい目で追ってしまう。
「うちの子にも読ませるわ。宿題の前に!」
「監督される前に、ぜひどうぞ!」
この日の小冊子は十二冊。客が本を鞄へ収めるのを見送る。隣の机では、先生が返された原稿を鞄の底へ押し込んでいる。見えなくなるまで押し込む手の動きが、視界の端に残る。
◇
四日目の十五時。前夜、三十冊を増刷し、机にまた紙の厚みが戻る。先生の招待朗読に続き、私の朗読劇の番だ。
志津さんが袖から声を掛ける。
「朗読劇は二人で読む十分の枠よ。相手役は私。あなたの本を、舞台で読ませてもらうわ」
「はい。相手役、お願いします! 泣く役は志津さんです」
小劇場の制作担当、鷺沢さんから名刺を受け取る。短く整えた髪に、ホールの照明が当たっている。
「野々村さんの次の朗読公演の台本を探しています。野々村さんがあなたの名を出したので、聞きに来ました。ただ――」
名刺の肩書を確かめる間もなく、鷺沢さんの目は隣の机へ移る。壇上で先生が私を弟子と呼んだのを、この人も聞いていたのだろう。
「先生のお弟子さんであれば、先生の方が名前が……」
「同じだと思うなら、最後まで聞いてください」
「先生からは、どの程度教わった作品ですか?」
「そこ、訂正させてください」
原稿の作者名を指す。揺れそうな指先を、文字の下へしっかり押しつける。紙の向こうの机の硬さが、指の腹へ返ってくる。
「この作品は、最初から最後まで私が書きました!」
「では、あなたが作者として聞かせてもらいますよ?」
「はい。笑ったところも、ぜひ聞かせてください!」
志津さんと『見送り係の忘れ物』を読む。独立する娘を笑って送るため、泣く練習ばかりする両親の話だ。志津さんが母親の声で鼻をすすると、客席の顔がふっと上がる。私は父親の役で、空のポケットを裏返す。
「涙は各自でお願いします。ハンカチは全部、娘の鞄です」
「ははっ、泣く用意がよすぎる! 娘の返事まで聞きたくなりました!」
「私も、そこを書きたいんです!」
客席の大人たちが口を押さえ、肩を揺らす。こらえきれない息があちこちで漏れ、また笑いを誘う。志津さんが、上演の終わりに作者の名を客席へ告げる。私の名前が、さっき物語のあった場所へ響く。鷺沢さんが身を乗り出し、声を弾ませる。
「ああ、続きが欲しい!」
「ありがとうございます。今すぐ、その続きを書きたくなりました!」
机に戻ると、鷺沢さんの前へ先生が割り込む。話が台本の依頼だと、察したらしい。交わしかけた視線が、先生の体に遮られる。
「弟子の成果は師匠の成果だ。俺の仕事として引き受けよう」
先生が私へ手を伸ばす。原稿を受け取るときの、見慣れた手の形だ。
「ほら、原稿をこっちへ渡せ!」
「先生、この作品の作者は私です。続きのご依頼も、市原真琴が受けます!」
原稿を自分の前へ引き寄せる。紙が机を擦る音のあと、鷺沢さんの目が先生へ向く。
「では、先生が書いたのですか?」
「書けるように育てたのは、俺です!」
「うーん、書いた方へ、続きをお願いしたいんですよね」
先生の手が引っ込む。鷺沢さんは発注書を持ち替え、私の正面へ来る。今度は、その紙も視線も、まっすぐ私に向いている。
「市原さん」
顔を上げる。お弟子さん、ではなかった。短い呼びかけが、耳の奥にいつまでも残る。
「この続きを、あなたに書いてほしい」
「ありがとうございます! 私が、書きます!」
原稿を持つ手が止まる。目の奥が熱く、発注書の文字がにじみそうになる。前の人生で一度も呼ばれなかった呼び方で、仕事が来た。見落としたくないのに、目がうまく文字を追わない。息を整えて、発注書を見る。
「二十分の続編を二週間後までに。納品後一週間以内に振り込みます」
「お受けします。これからは、この名前でお届けします!」
「執筆者の欄は、市原真琴で。間違えませんよ」
「はい。次も、その次も、市原でお願いします!」
発注書の執筆者欄には市原真琴、原稿料の欄には三万円。鷺沢さんと私が署名し、控えをそれぞれ受け取った。
この日は十四冊が売れる。手の中の控えにも、小冊子にも、同じ名前がある。先生は自分の机で、売れ残りの帯を直している。
◇
五日目。ホールに司会の声が響く。
「読者賞の投票は十四時までです。登録カードで、気に入った出展者へ一票を。発表のあと、各机でサイン会を行います」
十四時で投票が締め切られる。出展者名へ一人一票。照合のあいだ、机で残りの本を数える。十冊。指の腹で確かめる束は、もう厚くない。五日間の重さが軽くなるほど、手渡したときの顔が浮かぶ。
「最も多くの票を集めた出展者を発表します。四十二票。掲示の題は『宿題の監督さん』!」
司会の指が、掲示の題から出展者名へ移る。その動きを追っていた私の目が、そこで止まる。
「読者賞は、市原真琴さんです!」
呼ばれて壇へ上がり、礼をする。客席の拍手が、隣の机を通り越して、私へ向いている。五年間、隣で聞いていた音だ。手のひらが打ち合わされるたび、胸の内側まで響く。自分の名を呼ばれたあとに聞くと、こんなにも近い。
「ぼくの一票も入ってる!」
「はい。たしかに、いただきました!」
机へ戻ると、朔太郎くん、友達の順に本を抱えて並ぶ。母が後ろで手を振る。胸に抱えた表紙の上から、並んだ顔がこちらを見上げる。今日の十四冊を足して、五日間で五十冊、一万円。
「市原さん! ぼくの本にも、名前を書いて!」
「嬉しいです! 最初に買ってくれた本、見せてください!」
志津さんの目が、机に置いた次の原稿の束へ吸い寄せられる。『負けた日の作戦会議』の続きだ。
「私が先に読みたい!」
「ぼくも! でも、まずはこの本!」
「初日に先に読んだって、自分で言ってたじゃないの」
「ぼくが最初のお客さんだよ!」
志津さんは列を離れて控室へ行き、依頼メモを持って戻ってくる。袖口を折ったままの上着が、走ったせいで肩からずれている。深い青の布が揺れ、メモの端も小さく跳ねる。
「次は私の朗読会ね。あなたに書いてほしいのよ」
「受け取ります! 先に、この子の本へ名前を書きますね」
「読む順は守るわ。列の順も、ちゃんとね」
「最後尾の方には、一番先に次の原稿をお渡しします!」
志津さんが最後尾へ並び直す。先生はペンを構える。招待作家のサイン枠も、同じ時刻だ。共通通路の列が、先生の机の前で膨らんでいる。客の持つ小冊子の表紙が、人と人の隙間から見える。
「ようやく俺のサイン会か。さあ、ここへ並んでもらおう」
「サインをお待ちの方は、お隣の市原さんの机へどうぞ」
スタッフが客を導く。列は先生の机の前から曲がり、私の机へ続いていく。先生のペンが宙で止まり、その先を本の表紙が通り過ぎる。
「感謝の言葉は?」
「最初に買ってくれた人へ言います」
朔太郎くんへ顔を向ける。先生の声は、背中で受ける。目の前には、最初に私の話で笑ってくれた顔がある。
「最初って、ぼくのこと? 友達の分も、ぼくが選んだよ!」
「覚えています! あなたが笑ったところも、ちゃんと!」
差し出された本を開く。表紙の角が、五日間で丸くなっている。机に揃えていたときは尖っていた角が、指にやわらかい。私の机を離れたあとの時間が、その手触りに残っている。
「俺の名前を、隣で見ていたくせに!」
「ここには私の名前を書きます。読んでくれた人が呼んでくれたので!」
著者名の下に、市原真琴と署名する。ペン先が紙に沈み、かすかに擦れる。その音を、初めて自分の名前で聞く。書き慣れたはずの文字を、急がず最後まで書く。後ろの友達が背伸びをする。
「ぼくのにも! 朔太郎の次でいいから!」
「はい。並んだ順に、全員です!」
「友達にも見せる! 次の話も、ぼくが買いに来る!」
「ありがとう。あなたが笑う続きを、私が書きます!」




