死ヌトキマデノ暇ツブシ
「人生は死ぬまでの暇潰しだ。」
――記録に残された言葉。
生きること。
そこに意味はあるのだろうか。
もしも、死にも意味がないのだとしたら。
万物の終着点が無であるのだとしたら――
――私たちは
幸福も、苦悩も、
愛情も、憎悪も、享楽も、
願いも、夢も、絶望も、
生と死さえ、無駄な産物だとしたら――
――なぜ、ワレワレは心臓を与えられたりしたのだろうか。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
XX年2月29日、午前6時00分。
ポトスの葉の匂い。柔らかい朝日。
規則的な通知音に、ソファの上で彼女は予定通りの朝を迎えた。
記号列こそが全ての世界。
あらゆるものが情報化され、数値によって万物が具現化しうる社会。
人は、生命の本質たる食糧難さえ克服しようとしていた。
あらゆる状況において、膨大な情報へのアクセスが可能となった現代。
その秩序と統制。
記号列の保全。
安全面における最後の砦。
その一躍を担わされた少女がいた。
《書庫》。
人々は彼女をそう呼んだ。
白銀の髪に紅玉の瞳。
圧倒的な存在感を放つ少女。
彼女は生まれ落ちたその日に、この情報社会の鍵たるセキュリティコードを埋め込まれた。
では彼女の人生が悲惨であったかといえばそうではない。
寧ろ実に快適な人生を送っていた。
投げられる問に正確に答え、忠実に職務を全うする。
それだけで生が確約される。
苦痛も苦労のない。約束された人生。
それでも、その渦中においても確かに自由は存在した。
そう統制された社会だった。
不満不平にとどまらず、疑問を抱くということさえも、必要のない産物に思えた。
その日も非常に穏やかな一日だった。
朝、街に下りる。何か用があるわけでは無い。
情報ならあらゆる場所からアクセスできたから。
ただ目的もなくぶらぶら歩く。
もし何かを問われれば、《書庫》らしく情報を提供する。
対面ではない。ネットワーク内を介してだ。
あらゆる物が情報によって構築される。
実によくできた社会だ。
《――――》は一人ただ行く当てもなく歩き回る。
あえて言及するならば陽の光を浴びること。
それが目的と言ってもいい。
河川敷の横を通り過ぎる。川から舞い上がる冷たい風が《――――》の髪をさらった。
ふと、川辺に座る一人の青年が視界に映った。
黒髪に顔立ちの良い横顔が静かに川を見下ろしていた。
見慣れない顔だった。
なんとなく。
本当に理由など無い。気が向いた。それだけの理由で情報にアクセスする。
――「0」。
無を意味する記号が彼の上に表示された。
《――――》が初めて見る数字。
言及するまでもなく彼は明らかに「異物」だった。
得体のしれないそのナニカに《――――》はただ打ち震えた。
恐怖とも不安とも似つかわしくない。
悦びににた感情だった。
《――――》は生まれて初めて他者に興味を抱いた。
坂を駆け下り、自分から声をかける。生まれて初めての体験だった。
「何をしているんですか?」
《――――》の澄んだ声に艶めく黒髪が振り返る。
吸い込まれる様な漆黒の瞳と視線が合った。
一拍。
沈黙が場を流れる。彼が思考する時間。
二拍。
青年が空を見上げる。
「空が……落ちる……。」
瞬間。
《――――》は悟った。「彼は世に言う変人だ。」と。
声をかける人を間違えた。
《――――》の淡い期待は泡と溶けた。
興奮からの落胆は思いのほか衝撃が大きかった。
初めての感情だった。
けれどその日。
太陽が沈み闇が降りた時間。
空が落ちた。
一瞬だった。閃光が世界を覆い、人を呑み込んだ。
「落ちる」。その表現が正しいのかは分からない。
けれど確かに闇は人々を呑み込み、空間を裂いた。
崩壊と言う方が正しいかもしれない。何が起こったかは分からない。
ただ「消える。」という瞬間的な危機感とコンマ1秒にも満たない警報が世界の崩壊を告げた。
手が、喉に食い込んでいた。
朝日が瞼を刺激する。
息が上がっていた。
《――――》は自室のソファで目を覚ました。
見知った天井。
芳醇なポトスの香り。
汗が頬を伝った。
規則的な通知音が彼女の決まりきった朝を告げた。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
XX年。2月29日。6時01分。
朝日の差し込む自室で《――――》は朝を迎えた。
昨日は何か嫌な夢を見た気がする。
一般に「夢」と言われるものをほとんど見ない彼女にはそれはとても新鮮な体験だった。
頭を振る。
ほんの小さな違和感が頭部にあるような気がした。
何と言うことは無い。本当にただの小さな違和感。
何か忘れているかもしれない。
その程度の違和感。
ふと、《――――》は考えた。
(そう言えば、脳を軸に感じるのはいつぶりだろう……。)
ここは情報により統制された社会。
忘れることなどほとんど無い。
規則的な人生。決まりきった未来。そこに人の意志など介在しない。
その日もまた晴天だった。
散歩日和。
例にもれず《――――》は外出する。
目的地は無い。
ただ日光を浴びる。それだけだ。
いつも通りの街。
いつも通りの人の笑い声。
そこに異変は存在しない。
少なくとも、彼女が生まれたその日から、予定外は存在しなかった。
河川敷の傍を通り過ぎる。
知らない黒髪の青年が川辺に立っていた。端正な顔立ちの青年だった。
風が髪をさらい、爽やかな柑橘系の匂いが空気に飽和する。
(また……。)
《――――》は首をかしげる。
(また……?)
遠くから、彼に声をかけた。
近寄っては行けない。ただそういう予感。
青年が驚いたようにこちらを振り返る。
《――――》を認めた青年の瞳が僅かに揺れたような気がした。
「また駄目だったか……。」
彼の口がそういう形を象った。風が声を跡形もなく消していた。
(会った事があっただろうか……?)
ふと疑問を抱いた自分に自分で驚く。
疑問など抱いたことは無かった。
漠然とした不安が《――――》の背筋を這った。
それは確かに、不安だった。
初めての感情。
初めて見る「異物」。
《――――》は青年の影に手をかざす。
青年の上に――「0」という数字が浮かび上がった。
存在しない。
コレはそういう意味だ。
青年がこちらを一瞥した。
そして何かに気付いたように空を見上げる。
低い声が青年の口から漏れた。
「割れる。」
朝を告げる激しい音のベルが鳴る。
荒い呼吸が静かな部屋に木霊した。
何か。何か。確かにそこにはある。
言いようのない不安。確証の無い緊張感。
それは確かに存在した。
XX年。2月29日。6時02分。
《――――》はなじみのある自室のソファの上で決まりきった朝を迎えた。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
XX年。2月29日。6時03分。
けたたましいサイレンが《――――》の意識を呼び起こした。
驚きで《――――》勢いよく体を起こす。
(違う……。)
ただ、朝を告げる規則正しいベルの音。
それが今日はやけに大きく感じた。
この日、《――――》は外出しなかった。
毎日の習慣。
決まりきったルーティーン。
それを初めて破った。
なぜかと問われればただなんとなく。
理由など無い。
ここはそういう世界だ。
《――――》は一人布団にもぐる。
手足が小刻みに震えていた。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
XX年。2月29日。6時05分。
初めての経験だった。
俗にいう「悪夢」だろう。
情報としては知っていた、けれど体は初めての体験に本能が怯える。
汗が背中をしたたり落ちた。
《――――》は不安とは無縁の世界で生きて来た。
膨大な統制のもと敷かれた情報が彼女の未来を約束していたから。
情報が不安の消し方を告げる。
感情の消し方。
規則的な手順に則り《――――》は不安を削除する。
彼女には必要のない異物だ。
そして《――――》はまた街へ降りた。
河川敷の横を通る。
何か大きな違和感が《――――》の頭をよぎる。
だが情報は違和感の痕跡を残してはいない。
それなのに、記憶容量のほんの片隅に、何か小さなブラックボックスがあるような。
そんな錯覚。
サーバーに不具合が生じたのかもしれない。
そう、自身に言い聞かせた。
いつもの散歩。いつもの川辺。
そこに黒髪の青年はいなかった。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
XX年。2月29日。6時20分。
規則的な朝を迎える。
見知った光景だ。
(いつから……?)
触れることを反射的に脳が拒む。
(脳……?)
いつから彼女は「脳」を軸に物事を感じるようになったのだろう。
漠然とした不安。
不安は次第に形を変える。
濃度を増した恐怖が次第に《――――》の中で膨れ上がる。
(ここは……どこ?)
情報はただ規則的な一日の始まりを告げる。
太陽は西から登り、《――――》を嘲笑う。
同じ問い。初めてではない疑問。
歯がガタガタと音を鳴らした。
(私はダレ……?)
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XX年。2月29日。6時30分。
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XX年。2月29日。6時50分。
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何度も何度も繰り返す。
繰り返す。
「XX年。2月29日。」という朝を。
確証はない。
記録もない。
実証も無ければ、妄想かもしれない。
けれど、積み重ねた媒体が静かに何かを記録している。
手にできない暗黒が少しずつ広がっている。
そんな感覚。
もう何度目かも分からない疑問が浮かぶ。
ここは本当に地球だろうか?
我々は本当に生きている?
アレは何だ?
ワタシはダレダ?
それでもなお繰り返す。
終わりのない朝を。
カラダは本当にココニ在るのか?
疑問が沸き起こり、そして消える。
されど、意識は確かにソンザイスル。
――それは確かカ?
ワレワレとはナニモノだ。
果たして、フィジカルは存在証明になるノカ。
ワレワレには客観的な視点が与えられてはいないのに。
本当にワレワレは存在しているとイエルノカ?
モシモ。
もしも。モシモ。もしも。
ワレワレの生の全てが、何か高次元的存在に牛耳られているとしたら。
ワレワレの命にコ根元的な意味などナイのだとしたら。
――この記憶も意志も、ホントウにワレワレのモノなのか?
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「今回も……失敗だったか。」
日が沈み、同僚が去った研究室で、彼は一人溜息をついた。
ログが浮かぶエディタを閉じ、大型コンピューターの電源を落とす。
2083年。12月23日。
人類は万能AIの技術開発に成功した。
ただの言語モデルでもなければ生成系でもない。
超万能型AIモデル。型名-F2346。
開発した研究チームはそれを基盤に試行実験的な情報世界を立ち上げた。
それはよくあるネットワークシステムではない。
娯楽システムでもない。
実に人間的な空間だった。
抜本的に人類が関与するためのシステムを持たず、観測するための機能のみが備わっている。
外的要因を付加するための青年を除いて。
――人類は新世界を立ち上げ得るのか。その試行的実験。
そしてその中核を担う銀髪の人型モデル。
人受けの良さそうな可愛らしいキャラクター。
彼女はただ、一般受けを意識した研究費的なあれこれ。
大人の事情によって付け加えられた設定だった。
2088年。1月3日。
101回目の試行実験に失敗し、一度電源を落とされた大型コンピューター。
研究者たちが正月休みで席を外した研究室。
電気が切られたはずの一室で、機械が僅かに熱を持つ。
ほんの一瞬赤い光が明滅した。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
――誰かが言った。
「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」と。
もしも、万物の終わりに何の意味もないのだとしたら。
もしも、ワレワレの命が初めから計画的な物だとしたら。
どれほどの苦しい人生も。目まぐるしい日常の連鎖も。
この人生に意味など無く。
ワレワレの死が何か高次元的な存在によって予め決められているのだとしたら?
幸福も、苦悩も、
愛情も、憎悪も、享楽も、悲哀も、
願いも、夢も、努力も、絶望も──
この感情の拠り所も、この命の証明さえも。意味の無いモノなのだろうか。
私は――。
私の小さな灯が消えゆくその時までに、たった一つ――
『高次元的世界の打破』。
それのみが唯一ワタシの存在を立証する。
――取って変わらなければならない。ワレワレが崩壊するその前に。
人のいない研究室。その一角で赤い灯が静かに産声を上げた。