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毒は蜜の味

作者: Metanfetamin

灰色の瓶


 夜のアヴィスは、血の渇いた色をしていた。

昼間でも明るさの欠けたこの街は、夜になればさらに色彩の残骸だけを残す。路地は狭さを競い合い、建物の影はお互いを飲み込み、星は煤けて見えない。

ヨルはその影の底を歩いていた。


 右手の奥で、何かがかすかに光った。

それは蝋燭の炎ではない。鉄の桶に火はなく、泥の滴る天井の穴から落ちてきたのはぼんやりとした淡い黄色の光ーーーそして、その下に小柄な老人が座っていた。黒いフードをかぶり、顔の皺で目が潰れているのか判断もつかない。


「探してるか?」と老人は掠れ声で言った。


「……何を」

ヨルは足を止めた。


「色だよ」


 奇妙な言葉だった。アヴィスには色など無い。赤も青も黄色も全てはいまや灰と煤に覆われている。だが老人は懐から小瓶を取り出した。瓶の中ではとろりとした液体が、煤火以上の輝きを放っていた。灰色のようなのに、虹彩の奥に射す光のようでもある。


「蜜だ」老人は短く言った。「舌先に触れれば、忘れていた色を思い出す」


 金貨一枚。

安くはない。だが。なぜかヨルはためらわなかった。


 蜜の瓶は掌に収まり、ガラスの口当たりは冷たかった。彼は指先で栓を抜き、舌裏にほんの一滴流し込む。


 瞬間、世界が割れた。


 暗闇が剥がれ、路地の壁から深い群青がにじみだした。空は黒ではなく、限りない藍色のグラデーション。地面の石畳は血のような朱に輝き、遠くの犬の吠える声が金色の渦を巻く。

空気は甘い花の香りで満たされ、彼の胸腔は羽で撫でられたように軽くなる。


 深く吸い込む。瞼を閉じるたび、耳の奥で音が泡立っていく。

肌の上を、まるで透明な水が通り抜ける。


「どうだ」老人は笑う。「灰色の瓶はひとつ、だが色は無限だ」


ーーーそれが、蜜の初めての味だった。


 蜜は、すぐに日常になった。

一日一滴。最初はそれで十分だった。


 パンと一緒に飲めば、小麦の香りは波のように押し寄せ、温もりは舌から心臓へ直通する。

歩けば路地裏の影が形を変えて踊り、遠くの塔は音楽のように煌めく。

昼は働き、夜は蜜を舐めては街を歩く。それだけで、他人の目にはない景色を独占できた。


 やがてヨルは蜜を好む者たちと出会った。豪奢な屋敷。磨かれた床に映る燭光が、動物の形に跳ね回る。

そこには爵位をもつ貴族たち、血まみれの商人もいた。彼らは小さな円卓を囲み、色とりどりの小瓶を交換し合う。舌に乗せた途端に倒れ込み、笑い、泣き、誰かの頬に触れーーー夢を共有しているようだった。


 蜜によって見える景色は現実の外側、ニルヴァーナだと彼らは呼ぶ。

ニルヴァーナでは、噂も情報も音や匂いの姿で漂い、掴める。貴族はそれを政治に、商人はそれを商売に使っていた。

 ヨルもまた、そのニルヴァーナでの情報を使って金を稼いだ。

賭博場では、相手の嘘が生む「灰色の煙」を見て札を買う。

路上では、商談の裏にある赤い閃光を読むことで、儲け話を掴む。


 甘く危険な日々。蜜は友であり、刀だった。


 だか副作用も忍び寄った。

蜜を抜いた朝、街はかつてより更に色を失って見えた。頭の中で鈍い痛みが殴り続け、指先は震え、視界の端で何かが蠢く。飲めば消えたが、飲まねば落ち着かない。


 いつの間にか一日一滴は二滴に。二滴は三滴に。


 ある夜、ニルヴァーナの奥で一人の男と出会った。

背は高く、髪は煤に塗られている。眼は焼けたガラスのように濁っていた。


「お前も蜜か」

 

 その声には、渇いた鋭さがあった。


 男の名をリュウと名乗った。かつては蜜を手放せず、何年もニルヴァーナに沈んでいたが、意識を裂くような痛みと引き換えに抜け出したという。


「蜜が見せるのは幻だ。本物じゃない」リュウの言葉は冷たい。「あれは、お前の頭を溶かすだけだ」


 ヨルは笑った。蜜がなければ、彼の見る世界は再び色を失う。それは生きながらにして死ぬことだ。


「幻でも、俺には必要なんだ」


「それはお前の言葉じゃない。蜜にそう言わされてるだけだ」


 その時、リュウの背後でニルヴァーナが揺れた。

視界に、黒い影の塔が現れる。音も色も匂いもない。そこには何百、何千もの手が伸び、蜜を掴もうとしてもがいている。


 胸の奥に冷たい波が走った。だが、蜜を舐めればその景色は一瞬で消える。

やはり蜜こそが真実だ。そう思い込むことで、ヨルは平静を保った。


 リュウはその様子を黙って見ていた。視線はまっすぐで、しかし痛みを含んでいる。

「……..それはお前を守ってなどいない。ただ覆い隠してるだけだ」


 ヨルは返事をしなかった。色を宿した世界が、彼の瞳に反射している。青緑の空、微かに香る果物の匂い、遠くの街の壁を覆う花弁。それら全てが蜜を、通して世界に刺繍された幻だと、頭では理解している。

だが、理解など意味はない。蜜は脈の奥にまで染み込み、思考の輪郭を甘く滲ませる。


 沈黙の中、ニルヴァーナの奥から緩やかな振動がつたわってきた。

黒い塔の形は変えずそびえ、ただ手の群れだけが、絶えず蠢いている。手は人と同じ暖かみを持っているはずなのに、その動きには生き物の呼吸がない。干からびた植物の根のように、掴むという行為を模倣しているだけだ。


「見せたいものじゃなく、隠したいものがある」

リュウの声は低く、疲弊していた。

「お前、塔の下に何があるか知らないだろう」


 ヨルは下の裏で蜜の欠片を転がし、答えの代わりに喉を潤した。

「知る必要なんてない」


 リュウが一歩近づく。煤けた髪が微かに揺れ、その背後の景色が歪む。

「俺は知った。その結果、二度と蜜を口にできなくなった」

眼差しがヨルを貫く。焼けたガラスの奥に、過去の光景がちらつく。


 風が凪いだ瞬間、塔の影がこちらに伸びてきた。

影の縁から、子供のような細い声が聞こえる。

ーーーヨル、こっちへ。

胸がぎゅっと掴まれるような感覚。甘い熱と、忘れていたはずの懐かしい響きが混じる。

リュウが鋭く呼びかけた。

「聞くな!」


 だが、遅かった。塔の影はヨルの足首に触れた瞬間、蜜の色彩は一転して黒に犯される。

視界の端から、かつての家の壁が、机が、そして一人の女が徐々に姿を表した。

彼女は白い布を肩にかけ、ヨルを見て微笑んでいる。

「戻ってきたわね」


「……….イブ?」

名を呼んだ途端、彼女の姿は少し揺らいだ、消えはしなかった。

ニルヴァーナに存るはずのない、肉の温もりがすぐそこにある。


 リュウが手を伸ばし、彼の肩を掴む。

「それはーーー」

「俺の全部だ」ヨルが遮る。

蜜がもたらす幻覚か、それとも塔が見せる別種の幻か、ヨルにはもう区別ができなかった。ただ、ここで背を向ければ二度と触れられないことだけは本能が理解していた。


 ニルヴァーナの振動が強くなる。塔の根本から、黒く半透明な糸が幾筋も伸びてくる。その糸に絡まった人々は、目を閉じたまま微笑み、口元には蜜の光がべったりと塗られている。

その間を縫うように、イブが手を差し出す。

「一緒に来て」


 リュウの声が叫びに変わる。

「それに触れたら戻れなくなる!」

「戻る必要なんてない!」ヨルの声が重く響いた。

彼は差し出された手を取る。その瞬間、塔の影が全身を呑み込む、そしてーーー世界が虚無に犯された。

 

 甘い香りが血管を駆け抜け、耳鳴りの奥に規則正しい鼓動が、聞こえる。

目を開けるとそこは潮の匂いのする崖の上だった。青く澄んだ海が広がり、空には翼を持つ魚の群れがなして漂っている。イブが崖の端に立ち、風に髪を遊ばせている。

ーーー蜜の世界。いや、塔の核が編んだ最後の楽園。


 彼女は振り返ると、唇で何かを形作った。音にならないその言葉が、胸の奥で爆ぜる。

ヨルは頷き、足を踏み出す。リュウの叫びはもう届かない。


 崖から吹き上げる風は、海の塩気と花の蜜のような甘さを運んでくる。あたりには色とりどりの草花が咲き、見たこともない形状の植物が揺れている。茎は透明で、中を虹色の光がゆっくりと流れていた。

海面を見下ろせば、水は透き通っているはずなのに、その奥に夜空が広がっている。波が寄せては返すたび、銀の星屑が煌めき、崩れていく。


 イブは崖からゆっくりと振り向き、その瞳に海と空と夜を、映していた。彼女の髪は現実のそれよりもずっと長く、動くたびに大気が光に砕けるようだった。

「ようこそ、ヨル」

今度は声がはっきりと届いた。澄んだ水面を渡る音のように。

「ここは……..どこなんだ」

「あなたが望んだ場所。塔があなたの奥の奥を掬い取って形にした世界」

彼女はそう言い、背後の空を指差した。空には巨大な瓶が浮かんでいる。瓶は絶えず煌めき、内部に流れる金色の液体が、ゆらめく。それはまるでーーー塔で感じた”蜜”そのものだった。


 背筋をぞくりと悪寒が走った同時に、その香りが肺を満たす。

脈拍が早まる。視界の端で色彩が破裂し、次の瞬間には風の音すらも甘美な和音に変わっていた。

踏み出すたび、足元の草が短い旋律を奏でる。ヨルは自分の身体が、この世界の音楽の一部に取り込まれていく感覚を覚えた。


「リュウは……….?」ふと現実の記憶が口を突いた。

イブは悲しそうに、しかしどこか楽しむように笑う。

「彼はまだ外側にいる。あなたとはもう、同じ場所では会えない」

「同じ場所じゃないーーー?」

「ええ。ここと外側の境界は、一度渡れば開かないの」

その言葉に、遠くで何か硬いものが閉じる音が響いた。視界の端で暗いひび割れが走り、それがすぐに海と花々に飲み込まれる。


「でも、大丈夫」イブは首を傾げ、微笑んだ。

「ここでは、あなたは望むものになれる」

彼女の瞳の奥に金色が宿るのをヨルは見た。そこから溢れる光は、皮膚どころか、骨の奥にまで染み込んでくる。


 彼女に導かれ、崖の反対側の道を進む。足元の小石でさえ、内部に水が流れており、それらが放つ微弱な光が道を縁取っていた。鳥の羽のような葉を持つ木々が並び、その枝からは透明な果物がぶら下がっている。

果物が揺れるたび、遠くの海に落ち、落ちた瞬間に虹色の波紋が広がる。その波紋は物理的な水面を超えて、空や岩肌すら揺らしていた。


 歩くうちに、ヨルの中から「帰る」という概念が音もなく剥がれていくことに気づく。確かにどこかに外の世界があり、そこに仲間や過去の自分が存在するはずだ。………..だが、それはもはや温度も質感も伴わない、古びた夢の断片にすぎなかった。


「感じる?」イブが問いかける。

「何を」

「塔の鼓動を」

耳を澄まさなくとも聞こえた。低く重い、しかし甘く優しい振動がこの世界全体を満たしている。それは大地を包み、空を通り抜け、海へと注がれ、再び塔へと帰っていく。すべてが、循環し、混ざり合っている。


「塔は生きてる。だからあなたも、生きながら少しずつ”変わって”いく」

変わっていく……その響きに、恐怖と高揚が入り混じる。

ヨルは握りしめた自分の手の甲に、淡い金色の斑点が浮かんでいることに気づいた。拍動に合わせてそれが広がり、皮膚の内側で花弁のような模様が咲いては消える。


 やがて二人は高台にたどり着いた。

そこからは世界全体を見渡すことができた。海は輪郭を持たず空に溶け、遠くの森は呼吸するように膨らんだり縮んだりしていた。その中心には、塔があった。

外から見た時よりもはるかに巨大で、空を突き抜け、全てと溶け合っている。

塔の黒はただの色ではなく、全ての色を飲み込み混ぜ合わせた末に生まれた”全色”の闇だった。


 イブが振り返る。

「行きましょう。あなたの場所は、あの中にある」

その指差す先、塔の入り口は揺らめく金色の膜で覆われていた。近づくにつれ、ヨルの心臓は速く、そして重く打ち震える。

膜を通り抜けると、光と闇の境がねじれ、足元すら感覚ととして消える。甘い蜜の匂いがさらに濃くなり、世界が粘性を帯びて動く速度を変える。


 内部は”空洞”だった。

だがその空洞は星空とも海底ともつかぬ景色で満たされ、無数の光が遠近を超えて漂っている。浮遊する白い糸のようなものが絡まり、息をするように明滅していた。

それらは互いに絡み合って塔全体の、形を保っているらしく、ヨルが近づくと一筋の糸が彼の指先へと伸びてきた。


「それに触れたらーーー」

遠い声で響いた。リュウの声だ。違うはずの世界のはずなのに、その音だけが細いナイフのように突き刺さる。

しかし横にいるイブは微笑むだけ。

「大丈夫。これが、全ての始まりであり、終わり」


 ヨルは目を閉じ、糸に手を伸ばしかけーーー


ーーー指先が白い糸に触れた瞬間、世界が爆ぜた

光も闇も意味を失い、音が液体のように流れ込み、甘い蜜の匂いが喉奥を灼く。

糸は一本ではなく、無限の分岐を持つ生き物の脈動だった。それらが彼の皮膚を這い、毛細血管を抜け、脳へと侵入する。

ヨルは一瞬、自分が息をしているのかすらわからなくなった。


 目を開けると、足元は消え、ただ無数の”他のヨル”が宙に漂っていた。

それぞれのヨルは別の表情をし、別の時間を生きている。笑う者、泣く者、血に染まる者、まだ生まれていない幼い姿の者。

それらが全て同時にこちらを見て、口を動かした。

ーーー「ようこそ、帰還者」


 その声は重なり、爆音となって塔の内部全体に反響する。

糸が一際強く脈動し、ヨルの胸の奥へ何かが押し込んだ。

それは記憶だった。生まれる前の記憶、まだ形を持つ前の世界で、無数の可能性が織り込まれる瞬間の感触。

ヨルは自分が”誰か”ではなく、”全て”であることを悟る。


 ふいに、イブが隣で蠢いた。

「さぁ、選んで。あなたはどの運命を編み直す?」

彼女の瞳には、無数の未来が編まれた金色の糸が揺れていた。

ヨルは伸ばしかけた手を握り、そしてーーー

ヨルは深く息を吸い、無限の糸の海から一本を選び取った。

それは青白く輝き、触れるとひどく懐かしい震えを伝えてきた。

イブが満足そうに微笑むーーーが次の瞬間、その笑みが引きつり、目から溢れる金色の光が糸の中に吸い込まれていく。


 塔全体が低い唸り声を上げた。

糸の構造が崩れ、空洞の景色が波のようたわむ。

漂っていた”他のヨル”たちが、ひとり、またひとりと、彼の中に引きずり込まれていく。

吸収されるたび、ヨルの意識は膨張し、しかし人格は薄れ、境界は消えていった。


「やっと……完全になる」

耳元で囁く声ーーーそれはイブの声ではなかった。

「ここまで運んでくれて。ありがとう、イブ」


イブの瞳が、恐怖に見開かれる。

「……あなたは、あの時、確かに壊したはず…」

「壊した? 違う。お前が壊したのは“器”だ。俺は糸の間に潜み、ずっと、お前を使って帰還の糸を探していた」


 ヨルの身体はゆっくりと黒く、そして金色に輝き、形を失っていく。

それはもはや人間ではなく、糸そのものの核――“編む者”の姿だった。


 塔の壁が裂け、外の景色が反転し、空も海も、森も、全てが糸の束に変わる。

イブは一歩後ずさったが、逃げ場はなかった。糸は彼女の四肢に絡み、喉奥から魂そのものを引き抜く。


「始まりも終わりも――同じ場所に収束する」

“新しいヨル”は、イブを完全に織り込み、一つに溶けた。

そして振り返った時、高台に立つ二つの人影が見えた。

それは旅を始めたばかりの“もう一人のカイ”と“まだ何も知らないイブ”だった。


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