夜会で羽虫が飛んでいたので、かるく振り払っておきました
「お花畑」のナザレを気に入っていただきありがとうございます。つづきではありませんが、よろしければお読みいただけますとうれしいです。
総合デイリー1位ありがとうございました。
「ユベール様を解放してください!」
夜会の場で麗しいどこかのお嬢様にそう言われ、グーリエはぽかんとするしかなかった。
グーリエ・カマンベル伯爵令嬢は、特筆して容姿がいいわけでも才女というわけでもなかったが、穏やかな性格で人当たりがよく、誰からも好かれる不思議な雰囲気をまとう令嬢だった。彼女のそういうところを好ましく思ったユベール・グリフィス侯爵子息は父が選んだ見合い相手の中からグーリエを選んだ。
グリフィス侯爵家は代々国の宰相を担う名門貴族で、ユベールも家督と宰相を受け継ぐため、幼いころから厳しい教育を受けていた。そんなほっと息つく暇もないユベールにとって、グーリエとの時間は唯一安らげる時だったのである。グーリエとユベールの間に燃えるような恋はなかったが、二人はゆっくりと愛情を育んでいた。
そんな二人の婚約は、周囲からも祝福され、グーリエも次期侯爵夫人として、グリフィス侯爵家に通い、現侯爵夫人より直接の指導を賜っている。厳しくも優しい夫人を、グーリエは本当の母のように慕い、グリフィス侯爵夫人もグーリエのふんわりした空気に徐々に懐柔されていった。ユベールが父とともに当主ならびに宰相補佐として忙しくしている間に、グーリエはしっかりと次期侯爵夫人として順調に地盤を固めていた。
だからこそ、グーリエは目の前のご令嬢の発言がすぐには理解できなかったのである。
「ユベール様がこのままではかわいそうです!」
どうやら、グーリエの聞き間違いというわけでもないらしい。今日は、グリフィス侯爵家とも親交の深いレヴァンテル公爵家の開催する夜会である。グーリエはユベールの婚約者として招待を受けていた。当のユベールはレヴァンテル公爵ほか、多くの貴族に囲まれ仕事の話をしているようで、グーリエは邪魔になってはいけないと壁の花になっていた。
そこに、どこから紛れ込んだのか、やけに足音の大きく鼻息の荒いご令嬢がグーリエに声をかけたのだ。グーリエはそのご令嬢の全身を、失礼にならないよう見つめる。フリルやリボンがたっぷりあしらわれたドレスはかわいらしくはあるけれど、格式の高いレヴァンテル公爵家の夜会にはあまり似つかわしくない。顔はかわいらしいが、大口を開けて声をかけるなど、あまり高位の貴族令嬢は行わない。子爵令嬢か男爵令嬢だろうかとグーリエは頭をめぐらせる。
「わたくしはグーリエ・カマンベルと申します。カマンベル伯爵家の次女でございますわ。大変失礼ですが、あなた様は?」
グーリエはふだん通り、あくまでも穏やかな口調で淑女の礼をとる。その様子に令嬢はたじろぎ、お世辞にも華麗とは言い難い礼を披露した。
「アンリ・ダートンです……」
ダートンと言えば、ダートン男爵で、グリフィス侯爵とは寄親と寄子の関係だ。一度だけ、グーリエもダートン夫妻とあいさつをかわしたことがあったが、男爵家にはひとり息子しかいなかったはずだ。どこからか、娘を養子に迎えたのだろうか。
「まあ、ダートン男爵家の……。申し訳ございません、ダートン男爵家にはご子息しかいないと思っていたもので」
「わ、わたしは、最近娘になったのよ!」
ダートン男爵は、領主としてはそこそこ立派であるものの、好色な面があるとグーリエは侯爵夫人の教育の中で聞いていた。ダートン男爵が妾に生ませた子どもを引き取ったのかもしれない。とはいえ、他家の夜会で根掘り葉掘り聞くものではないとすぐに頭を切り替えたグーリエは、相変わらず笑みを絶やさずに頷く。
「そうでございましたか。ダートン男爵令嬢様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
あいさつは終わったとばかり話を切り上げようとしたが、当初の目的を思い出したらしいアンリが再びグーリエの前にそびえ立つ。
「ちょっと待ってください!まだ話は終わってません!」
「はあ……」
「ユベール様をしばりつけないでくださいっ。ユベール様には、もっとふさわしい方がいるはずです!」
まるでそのふさわしい人間は自分であると言わんばかりに、アンリは胸を張る。グーリエよりはるかに豊かなそれが布越しでも動いたのがわかった。
こんなときでも、グーリエはユベールの浮気は一切疑っていなかった。もし、ユベールがグーリエとの婚約を解消するならば、本人から説明があるはずだし、何よりグーリエと婚約を解消するなら、少なくともグーリエより高位で、政治的メリットのある令嬢を選ぶはずだ。
そもそも、ユベールと年齢が近く、どこの派閥にも属していない令嬢という条件が合致して選ばれたと考えていたグーリエは、目の前のアンリが自分よりも条件のいい令嬢だとは少しも思えなかった。次期グリフィス侯爵家当主で宰相になるような才気煥発なユベールが、多少お胸が大きいだけの、しかも男爵家正妻の娘でもない令嬢を選ぶだろうか?
グーリエはますますわけが分からず、あいまいに笑って首を傾げることしかできない。そんな様子のグーリエに、アンリはじれたのかますますきつく詰め寄る。
「ユベール様はお優しいから我慢しているだけで、本当はグーリエ様との婚約は破棄したいとおっしゃっていました!愛のない結婚なんて、ユベール様がかわいそうで……」
わっと顔をおおったアンリの様子を見て、ほかの貴族たちも遠巻きに二人に注目し始めた。何も知らない人が見ると、グーリエがアンリをいじめているようにしか見えない。
「あの……ダートン男爵令嬢様?何か、誤解があるような気がするのですが」
グーリエも困り果て、なんとかアンリをなだめようと声をかける。しかし、アンリは顔をおおったまま、「ユベール様が……」「おかわいそう」をくり返すばかりだ。
こうなってはユベールを呼びに行くしかないだろうか、しかし仕事の邪魔になるようなことはしたくない。いずれ侯爵夫人になるのだから、これくらいはひとりでいなせるくらいにならないといけないのでは――。いろいろな考えが頭をめぐり、グーリエは立ち尽くすしかなかった。
「あれ、どうかしましたか」
そこに現れたのは、グレイ・ライネク伯爵令息である。隣には婚約者のナザレ・リーツェン伯爵令嬢を伴い、仲睦まじそうだ。
「まあ、ライネク伯爵令息様、リーツェン伯爵令嬢様、いらしていたとは存じ上げず、ごあいさつが遅くなり申し訳ございません」
「とんでもないですわ。それに、わたしのことはナザレとお呼びください」
「ありがとうございます、ナザレ様。わたくしのこともグーリエとお呼びください」
「うれしいですわ、グーリエ様」
ナザレ・リーツェンは、リーツェン伯爵家の令嬢で、ユベールとはまた違う才気煥発さを持つ令嬢だと社交界でも有名である。噂によると、ずいぶん奔放にしていたサンドリオン公爵令嬢を矯正したという。グーリエは緊張しながらも、ほほ笑むナザレにほっと胸をなでおろす。リーツェン伯爵領の小麦は品質もよく、他領以外に隣国とも貿易があり、関係の維持は重要だとグリフィス侯爵夫人からもよくよく言い聞かされていたのだ。
「ちょっと、無視しないでください!」
ナザレとグレイにあいさつをするのに必死で、すっかり存在を忘れられていたアンリが間に入る。仮にも寄子であるダートン男爵家の令嬢が無礼をしてはと、グーリエは焦った。
「あら、元気そうでよかったわ」
グーリエが何か言うより先に、ナザレが口を開く。
「泣いているように見えたのだけど、違ったみたいね?」
ナザレに指摘され、アンリがぽかんと口を開ける。隣ではグレイが顔を覆って肩を震わせていた。
「ところで、さきほどグリフィス侯爵子息を解放しろとおっしゃっていたけど」
「そっ、そうです!ユベール様は愛のない結婚を強いられていて……」
ナザレはアンリとグーリエを見比べて、ふっと小さく笑う。
「たしかに、グリフィス侯爵子息様とグーリエ様の結婚は政略的なものですね」
はっきりと言われ、グーリエは自然と体に力が入る。政略結婚であることはわかっていたし、メリットがあったから選ばれたことは理解していたけれど、ほかの人にはっきり言われるとさすがのグーリエも思うところがないわけではない。ナザレの言葉に、アンリも「そうでしょう」と言わんばかりに得意げである。
「でも、グリフィス侯爵子息様は、グーリエ様の優しい雰囲気にいつも癒されているとほうぼうでのろけているって、幼なじみから聞きましたけど?……ねえ、グレイ」
「ぶぶっ……いや、ごめん。そうですね、グリフィス侯爵子息が婚約者様を大事にしていることは有名な話かと思います」
ナザレはグーリエを見て、笑顔で頷く。グーリエの体からゆっくりと強張りがとけていった。
「そ、そんな……」
アンリはナザレとグレイの言葉に驚き、言葉を失う。先ほどまでの自信は、そこにはなかった。
「仮にグーリエ様以外を選ぶとしても、政略的メリットもない、夜会を賑わせる元気だけがとりえの方は選ばないと思うわ」
グーリエはナザレとグレイに「よければ向こうでお話ししましょう」と言われ、移動して親交を温めることにした。アンリはさすがに追ってくる様子はない。
結局さっき起こったことが理解できないグーリエだったが、少なくともナザレはグーリエに対して友好的な態度で心からほっとする。
リーツェン伯爵家のお茶会に来てほしいと誘われたところで、ユベールが戻ってきた。
「すまない、グーリエ」
「おかえりなさいませ、ユベール様」
ユベールはナザレとグレイを見て、驚いたように目を見開いたが、すぐに平静を取り戻しあいさつした。二人も定型的なあいさつを返す。
「グーリエのお相手をしていただき、ありがとうございます」
ユベールがグーリエの腰にそっと手を置いて礼をした。グーリエもそれにならう。
「とんでもないですわ。グーリエ様とはぜひお話ししてみたいと思っていたのでとっても楽しかったです」
「……リーツェン伯爵令嬢様と、とても仲良くなったんだね」
ユベールは意外そうにグーリエを見た。アンリのことを言うべきか悩み、グーリエはあいまいにほほ笑む。
「グリフィス侯爵子息様、あまり長く婚約者様を放置するのはおすすめいたしません」
ナザレの言葉に、ユベールは申し訳なさそうにグーリエを見る。グーリエは慌てて、安心させるようにほほ笑んだ。
「グーリエ様は可憐な方ですもの。すぐに羽虫がわいてきますわ。しかも、放っておくとすぐに大量発生するんですよ」
吹き出すグレイに、そんなグレイを見て顔をしかめるナザレ。わけの分からない顔をするユベールに、困ったようにほほ笑むグーリエ。
こうしてこの夜会以降、婚約者に変な虫が寄りつかないようユベールはグーリエから長く離れることはなくなったが、ユベールが婚約者を溺愛しているらしいという噂がほうぼうで立ちのぼり、グーリエは顔が熱くなる思いをしたのだった。