表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

きまぐれ所長は猫がお好き -ピジョトの種-

作者: 春田 猿

 ある真夏の昼下がりの事だ。

 通っている公立高校も今は天下の夏休み、ジリジリと照りつける日差しの下、あたしはアイスキャンデーにシャクシャクとかじりつきながら路側帯をだらだらと歩いていた。定番のソーダ味から滴り落ちる、うす水色のしずくが黒い地面にポツリ。アスファルトから立ち上がる陽炎を見る限りでは、甘い雫も蟻たちの喉を潤す前に干上がってしまいそうだ―――などとほてった頭でしょうもない事を考えていると、突然、後ろの方からけたたましいクラクション音と共に、絹を裂くような女性の悲鳴が聞こえた。

 「キャアアアアアアーッ!」

 はっとして振り向くと、赤ちゃんの乗ったベビーカーが道路へと放り出され、それに向かって乗用車が突っ込もうとしている―――


 さて、ここで質問です。この危機的状況、あなたなら一体どうする? まさに悲劇が幕開けんとしているその場所は、ここからじゃどんなに急いでも赤ちゃんを助けるのに間に合わない距離だ。警音に気づいて振り返った時点で、走って駆け付けるにはもう遅い。


 ―――あたしならこうする!



     世界ヲ統ベシ万能の理

     我汝ガ法ノ下ニ契約セン

     我ノ魔力ト引キ換エニ

     其ノ力ノ欠片ヲ与エ給エ

     其ノ事実、

     地に舞いし戯れる風よ、

     あの子をその衣で抱き上げて!



 あたしがその語を紡ぐや否や、突如、強風が巻き起こった。そのうねりは意思をもったかの如く、赤ん坊をベビーカーごと抱きかかえるようにして持ち上げる!

 一瞬の後、危険が過ぎ去った頃。

 ふわり、ふわりと赤子を気遣うようにゆっくりとベビーカーが着地する。

「あ、あ、あーちゃんっ!!」

 先程の悲鳴の主であり、この子の母親であろう女性がベビーカーに駆け寄っていく。腰を抜かさないあたりに、母親というものの強さを改めて思い知らされる。

 一方、車の方はというと、急ブレーキの後に、しっかりと惨劇予定地の跡をやや超えてようやく停止した。運転手が慌ただしく車を降りて来たかと思うと、赤ちゃんとその母親の前に立ち、深々と頭を下げた。若い兄ちゃんだが、心なしか鼻の先を赤くして半泣きの状態に見える。

 「よかったああ。無事で。本当によかった………。 どうも、申し訳ございませんでした!」

 「いいえ、私もつい不注意していましたものですから。 ただ、この子が無事だった事、ただそれだけで………」

 二人とも、赤ちゃんが無事で安心したのであろう、よかった、本当によかったと無心で繰り返している。

 あたしは二人と赤ちゃんに近づいていくと、

「良かったですね、何事も無くて。こういう歩道のない道路では、ちゃんと気を付けてなきゃ駄目ですよ?」と声をかけた。

「あなたがうちのあーちゃんを助けてくれたんですね? 何とお礼を言ったらいいのやら…。 ありがとう、本当にありがとう」

 母親の方があたしに泣きながら感謝の意を示した。

「自分にもお礼を言わせて下さい。ありがとうございます。

 ………ところで、お見受けしたところ、あなたは魔法が使えるようですが…。もしや、魔導士さんですか?」

 と問われて、あたしは少しはにかみながら、

「いやあ、あたしは魔導士事務所でバイトしている、ただの魔導士の見習いですよ」

 ―――あたしがあの時赤ちゃんを助けたときに使ったチカラ。それは、魔法という技術だ。これは誰にでも扱える力で、術者の「魔力」と呼ばれる一種の精神力と引き換えに、地球の力を一時的に借り入れる事ができる。先程唱えた呪文は、簡単に言うと地球と術者の魔力と力の交換の契約を表す大切な儀式だ。今、「誰にでも使える力」と言ったのは、あくまでも日常生活に役立つ位の力であり、例えば雨を降らすといったような大きな力の契約を結ぶには、それなりの訓練・学術―――それらは魔法と呼ばれている―――を修める必要がある。

「おお、魔導士の見習いさんでしたか! 道理で、たいしたものだ!」

「いえいえ、そんな。大したことないですよ。あたしなんてまだまだ駆け出しのペーペーです。 …あーちゃん、だっけ。怖くなかった?」

 指を赤ちゃんの前にさしだすと、それを握ってきゃっきゃとわらいだした。どうやら、事のさなかで一番余裕を持っていたのはこの子みたいだ。無邪気なものである。………かわいいなあ、もう!


 魔導士とは、魔法学を修めた者たちが厳しい試験を経て国家によって認定される国家資格の職業で、魔法に関するプロフェッショナルである。日常の些事以外での魔法に関するトラブルはみな魔導士を通じて解決する必要があり、その世間的な地位は………見習いであるあたしにですらあの反応だったさっきの兄ちゃんの言動から、推して測るべし。

「それに、困ってる人を見かけたら助けるのは当然です。あたしは、みんなが幸せに過ごせる世の中を作るような、そんな魔導士を目指しているんです!」

 と、つい調子に乗って偉そうな事を口走ってしまう。だって、魔法で人助けなんてしたの初めてだったし………。

「まあっ、若いのに感心だわ………。あの、是非ともこの子の、いえ、私達の恩人の名前をお聞かせください!」

「そんな、名乗るほどの者でもないですけれども……。でも…、そんなにおっしゃられるのであれば断るのも失礼ですね。

あたしの名前は、大城心です」

「心かあ………いい名前だ」

 いつの間に現れたのか、野次馬…もとい、ギャラリーの方々が声援を投げかけてくれた。

「姉ちゃん、頑張れよ!」

 やがて、拍手と歓声がわき上がる。

「ねえ、ダーリン! お腹の子の名前、『ココロちゃん』にしましょ! きっとステキな子に育つわ!」

「そいつはいいや! ハニー」

「『美少女魔導士見習い、白昼の奇跡! 小さな命を救う!!』かあ…。よし、早速デスクに報告だ!」

「いいぞー、心ちゃん」

あたしは、おっちゃんの腹以上にゆるみきった表情で、

「にゃははははは」

 と頭をかきながら照れ笑いをしていた………。



                    ☆



 ―――はっ!

 あたしは目を覚ました。しまったああああ、さっきまでの、あの、輝かしい美少女魔導士見習の活躍劇は全部夢だったのねえええ!

 ………ガックリ。

目の前に広がるのは見知らぬ天井………、などでは無くよくよく見知った年季の入った机に、そこにそびえる書類の束……もとい山。乱雑に紙を置きっぱなしにした結果、積み重なって積み重なって中央部分がもり上がり、山の様相を呈している。整理整頓の苦手なそこのあなた、心当たりあるでしょ?

「心さん、何やら良い夢を見ていたようですね。顔が始終ゆるんでいましたよ。余りにも幸せそうなものでしたから、つい私も幸せ心地となってしまいました」

「ああっ、所長! もしかして………ずっと見てました?」

「はい」

「あたし、何か言ってませんでした?」

「そうですねえ…。確か、『みんなが幸せに過ごせるような、そんな魔導士を目指しているんです!』とかおっしゃられていましたよ」

「ぎゃあああああああああ!」

「いえ、心さん。何も恥じる事はありません。あなたは、立派な志をお持ちです。その心意気や良し、これからも魔導士を目指して頑張ってください!」

「し、所長……………!」

「心さん……………!」

「次からは起してくださいね!」


 ええっと、説明が遅れてごめん! あたし達二人がいるこのボロっちいビルのボロっちい一室、名は「東原魔法事務所」という、魔導士事務所だ。でもって、さっきのおじいちゃんがここの所長・国木田樹一郎魔導士。見ての通り、とてもいい人なのだが………、いかんせんズボラすぎて、ここの経営も右肩下がり。あまりにも暇なものだから、あたしもついつい眠ってしまった。いや、本当にギリギリまで睡魔と格闘していたんだけど………、奴は我々の予想を遥かに超えて手強かった…。あたしに過失うっかりは無い…はずよ。

 さっきの夢、あたしの素晴らしき活躍こそは本当の話じゃないものの、その他はだいたい合ってる。あたしはまだまだ魔導士見習い。だけど、絶対に魔導士になって、みんなの為に活躍するんだ!  ずっと、ちっちゃな頃からの夢だったし………。

「ところで心さん、先週の依頼は何件ほどでしたでしょうか」

「ええと、迷いピクシィの探索に五丁目の秋田さんの家の庭に繁殖した野マンドラゴラの除去作業、すぐそこの工事現場の作業用マッド・ゴーレムの防水処理………以上の三件です」

「そうでしたか…。あ、あと隣の木から落ちてしまったメジロの治療も入れておいてください。回復を早める為に、局部に時間速化の魔法を使いましたので。いつも通り、報告書への記入をお願いします」

「はあ………。はい、わかりました」

 いつもこれである。この魔法というものは、本来、『自然の力』を利用するのに最も適しているとされる。例えば、火をおこすとか、風を使って飛ぶとか、そういう使い方をするものだ。だからこそ、魔法という大変便利な力があっても、人々はたゆまぬ努力を続け発展し、科学技術の開発に力を注いできた。自動車なんかがいい例である。

 これに対して所長の使った時間速化などというようなものは、自然の力に反するものだ。時間、空間、物理法則等これらに関して干渉する事はその自然に反する性質が故に、その代償となるこちらの差し出す魔力は正直気の遠くなる程に馬鹿でかい。それに契約の内容もより複雑なものとなる。そんな事々しい力をメジロの治療に使うなんて、あたしはこれまで聞いたことが無い。いうなれば、コンビニに行くのに自家用ヘリ持ち出す様なものである。

 それに…、一番やっかいなのが報告書の作成だ。すべての魔導士には、二つの義務が課されている。

 一つ目が、魔導士会への入会。これは、もぐりの魔導士の摘発や魔導士事務の改善進歩、魔導士の品位保持―――まあ要するに、国家資格者である魔導士が悪さしないようキッチリと監視しているという事―――の為に、強制参加となっている。もちろん、ここの所長もその会員だ。

 二つ目は、報告書を魔導士会へ提出する事。『IT革命』なんぞとゆうありがたい転機を迎えたあたし達現代人は、その恩恵を生活やビジネスのあらゆる場面で享受している。パソコンなんかがそうだ。今の時代、どこの魔導士事務所でも報告書の作成・提出は一括してパソコンで行っている。

 というのに、うちの所長ときたら………、はあ。未だに手書きで報告書を作成しているのだ。ワープロですらない。明朝体なんて夢のまた夢、全てあたしの手書き文字…いうなれば「ココロ体」だ。一字一字に味わいがある、と言えば聞こえは良いのだが………。

「はあ―――」

 ため息が混じるのも無理はない。更に恐ろしいのは、所長が些細なことに大掛かりな魔法を使うので、報告書が膨大な量となってしまう事だ。複雑な内容の魔法なので資料はかさむし、あたし程度の知識量では理解に多大な労力を要する。机に広がる壮大な書類たちも、みーんなそのせいだ。それが故に出来上がった報告書はちょっとした書籍なんかより断然厚い。時折、あたしは自分を鈍器職人なのではないかと錯覚をおこしてしまう。そろそろ特技に「ブラックスミス」を加えても、文句はいわれないだろう。おそらく。

「所長、うちもそろそろパソコンを導入しましょうよ」

「………」

 ―――へんじはない ただの きこえぬふり のようだ。

「いやあ、最近めっきり耳が遠くなってしまいました。困ったものです。ところで、心さん、なにかおっしゃられていましたか?」

「パソコン…」

「はい?」

「………もういいです」

 まあ、パソコンが無いからこそあたしの活躍の場があるというのも事実ではある。そこは不問と致そう。

 書類にざっと目を通す。ピクシィにマンドラゴラ、うちに来る依頼はしょぼい仕事ばっかり。何か、一つでもいいからデカい事件でも舞い込んでこないものだろうか。『魔法研究所が謎の大爆発、その調査!』とか『違法魔法や幾取引現場への潜入調査!』とか、『イフリータの誤召喚、暴走の鎮圧及び再転送』とかね。『迷いピクシィの探索』みたいなイモ臭い仕事は、もう充分なの! 若いあたしには、もっと刺激が必要なんだわっ!

「どうかしました、心さん」

「いえ、何でもないです」


 ピンポーン


 お。勤続1年目にして未だに耳慣れないインターフォンが鳴った。宅配便だろうか。ここの所長も一応魔導士会所属という事で、たまに魔導士会からの通達事項や試薬品の類が郵送されてきたりする。

「はーい、今行きまーす。ちょっと待っていてくださーい」

「心さん、結構です。わたしが応対しましょう」

 所長が引き出しからハンコを取り出し、玄関口へと向かう。きゅーっ、と変なうめき声をあげる扉を開いた。

「はじめまして。今日は、ちょっとご相談したい事がありましてお訪ねしたのですが、よろしいでしょうか?」

「はいはい、どうも御苦労さまです。ハンコはちゃんとありますよ。送り主は魔導士協会ですかな?」

 ん??

「ちょっとまったあああ―――」

「どうしました、心さん。そんなにはしゃいでしまって。ちょっと待っていてください。今品物をうけとりますから」

「あの……」男が言った。

「所長、違う、郵便のお兄ちゃん違う、お客様です!」

「へ?」

 所長がトビラを振り向くと、中年の男性が苦笑したまま突っ立ていた。


「―――どうぞ」

 久々のお客様を事務所の中に案内し、黒い合皮製のソファへと掛けてもらうと、厚い煎茶を淹れて差し上げた。ぼうぼうと湯気の立った湯呑を二つ、木製のテーブルへ置きならべる。

「あ、どうも。ありがとうございます」

「どういたしまして。そういえば、お名前の方をまだお伺いしていませんでしたね」

「ああ、そうでした。私、浅井といいます。よろしくお願いします」

「あたしは魔導士見習いの大城心といいます。で、こっちが当魔導士事務所所長の国木田魔導士です。こちらこそよろしくお願いします」

「ご紹介にあがりました国木田です。宜しくお願いします」

 こう言って、あたしたちは形式的な挨拶を交わした。

「では、早速ですが本日はどのようなご用件でお越しいただいたのでしょうか?」

「はい。実は、私、小説家なんぞをやっておりまして、普段は書斎に籠りっきりなのですが、つい先日久しぶりに屋敷の方を見回してみると、何やら得体のしれないツタ植物が建物を全て緑で覆い尽くしてしまっている事に気付いたのです」

「はあ」

「それは災難ですねえ」

「で、それの除去を行ってもらいたいと思い―――」

 その話を聞き終える前に、あたしの視界は真っ白になっていた。

「たああああああああああ、また雑用かっ! しかも、よりによって、今度はただの雑草除去!!」

「どうどう、落ち着いて下さい、心さん」

 所長になだめられ、正気を取り戻すあたし。あともう一歩でマジに獣型に形態変化してしまうところだったわ………。

「あの…、だ、大丈夫ですか?」

 浅井さんがおそるおそる心配そうに、そしてやや気の毒そうに尋ねる。

「いつもの事でして。発作のようなものですから、お気になさらずに」

「そ、そうなんですか!? あ…、あと言い忘れていましたが、その植物はただのツタ植物なんかではありません。私も自分で何度か除去しようと試みたのですが、その植物、なにやら花の方に誘幻覚作用があるようで、いっこうに作業が進まなかったのです。そこで、あなた方に相談しようという事になったのですが………」

「ははあ。『ピジョトの種』ですな」

 所長がズバリと言い当てた。普段は頼り甲斐の無いじーちゃんだが、こういった場面ではやはりその道のプロだという事を思い知らされる。

「『ピジョトの種』…ですか?」あたしは所長に尋ねた。それは初めて耳にする名前だったからだ。

所長は茶を一口「ずずず…」と啜って、

「はい。浅井さんのおっしゃられた通り、その花弁から発する魔力の作用により、それを目にした生き物に幻覚を起こさせてしまう、といった性質を持ったウコギ科キヅタ属の蔓性常緑木本です。普段は山野に生息していて通りがかった動物なんかを眠らせて、菌類その他分解者を通じて自らの栄養を確保しているのですが………、まあ、たまたま種子が衣服やらに付着して屋敷の方に運ばれたのでしょう。種子を遠くへ飛ばすことから『ピジョトの種』なんて呼ばれているくらいですから。しかし不運ですねえ、本来この植物は根付きにくい事でも有名なのですが」

「はあ…。知らなかったです」思わず感心するあたし。

「あなたは、少し、勉強が足りないようですね」

「スミマセン」

「………で、除去の方はお願いできるのでしょうか?」

 断る理由も無いだろう。あたしはいそいそと虫でも喰っていそうな位古ぼけたダーク・ブラウンの書類棚へと向かい、そのひきだしの一つから契約書面のひな型を取り出す。こちらはあまり活躍の場が無いので建てつけも良好、おかげでサッと書類を引き出す事ができた。

だが、所長は突然こう言い放った。

「申し訳ございません。今回はご遠慮させていただきます」

「「えええっ!?」」

 思わずずっこけそうになるあたし。浅井さんもずっこけるとまではいかないものの、驚きを隠せない様子だった。

「一体どうしてでしょうか? できれば理由をお聞かせください!」

「そ、そーですよ、所長。ワケを聞かせてください。じゃなきゃ納得いきませんっ!」

当然である。ただでさえ苦しい事務所の台所事情、何故に依頼を断る事があろうか、いやない(反語表現:強調の意をあらわす。学校で習ったわよね?)。浅井さんだって同じはずだ。この事務所の様子を見ればここの経営状態がどのようなものであるかは一目瞭然である。

 ―――なのに、なぜ?

「実は―――」

「実は?」

 場の空気が静まりかえる。浅井さんが「ごくり」と唾を飲み下す音のみが、やけに鮮明に聞き取れた。

 そして。

 所長がゆっくりと口を開く。

「猫のノミとりがあるんですよ。いやあ、暇つぶしに近所のノラ猫のノミ取りをやっていたら、これが好評でして。口コミで広がって、遂には隣町のノラ猫まで私を訪ねてくるようになったのですよ。それで忙しくって。むげに断るわけにもいかないじゃないですか。それに、噂を広めた町内の猫のメンツというものもありますし。

 そういうわけで、今回はご縁が無かった、という事で………」

「そ、そんな…」

 と浅井さんは愕然としながら口からそう漏らし、肩をおとした。まるで国の存続に関わる重大任務に失敗した工作員の様に…。

「ち、ちょっと待ってください所長! 冬将軍ですら縮みあがるこの不況の折に、猫のノミ取りとお客様の依頼、どちらを優先すべきかは火を見るよりも明らかじゃないですか?」

「猫のノミ取りです」

「なぜそうなるテルミーワーイ!?」

「………」黙りこむ所長。

 ―――ああ、駄目だっ。こうなった所長は、テコで動かしたって、スレイプニルがその後ろ足で蹴っ飛ばしたって、絶対に主張を変えない。

「あの…すいません、」

 あたしは、ヨルムンガルドを目前にしたモルモットの様なうるうる顔をした浅井さんに、あたし自身にも言い聞かせる気持ちでこう告げた。

「本日はお引き取りください」


 ―――その日の帰り道。空のオブジェがカラスからコウモリに変わった頃、あたしはグチをこぼしながら街灯の照らす薄暗い道を歩いていた。

「ーったく、なにが猫のノミ取りよ! ノミがわいているのは所長の頭の方じゃない!」

 ムシャクシャしたので、その辺にある空き缶を、力任せに蹴り飛ばした。

 ―――カァァァン。

 夜の静けさと相まって、乾いた、気持ちのいい音を響かせながら五〇〇ミリのスポーツドリンク缶は遠くへ遠くへと飛んで行ってしまった。

 「ナイッッッショオオ」

 ひとりで叫んでみる。酔っ払いのおっちゃんか?あたしゃ。

 ―――イテっ!


 あれ?

 今誰かが確かに「イテっ!」って言ったような…。

 きっと気のせい…。いや、落ち着くんだ大城心。確か君の経験では、過去に類似するケースで小学校の頃魔法に失敗して人の家の窓ガラスを割って、トンズラこいて、どつきまわされた事があるはずだ!

 …後でわかった事なのだが、当時クラスで敵対していた男子グループが先生にチクったらしい。もちろん、それを知ったあたしは彼らに三倍返しして差し上げたワケだが………。

 ―――とりあえず、一遍謝っておこう。

 そうと決まれば、善は急げだ。すぐに声のした方へと向かった。

 ちょっと走って、その事故の不幸な被害者に会うや否や、あたしは愛らしい女の子然とした口調で、

「あのう…、すみませんでした! そのアキカンを飛ばしたのはアタシです!」と謝った。

 ふっ、完璧ね。こんなかわいい女の子にしおらしく謝られて、それでも許さない血も涙も無い輩などそうそういないハズ!

「いえいえ、大したことは無いですから。…って、ああ、あなたは先程の…」

 はて? 薄暗い路上で目の前にいる不運な男性を目を凝らしてよく見てみると―――

 ―――昼間事務所に相談に来ていた浅井さんだった。


 絞首台の階段を上る罪人の様な、蒼白な顔をした浅井さんにみかねたあたしは、とりあえず近くの公園の座り心地の決して良いとはいえないベンチに掛けながら、話を聞くことにした。

「いやあ、すみません。こんな夜中に」

「いえいえ、お気になさらずに。一体どうなさったんですか? そんな暗い顔して」

「実は、お昼の相談に関してなんですけど―――」

うっ。やっぱし…。

「私、先程は小説家と言いましたが……。その実、明日食うにも困る売れない小説家でして、他に依頼をお願いできるところが無いんです。ほら、あなたの所は依頼料が安い事で有名でしょう? ですからそこを断られたとなると非常に痛手で…」

 たしかに。うちは、他の魔導士事務所に比べて料金が安い。というか、所長が善意でやってくれる事が割合多いのだ。まあ、といっても病気にかかった時には安くつく医者よりもちょっとばかし高くても信頼のある医者に診てもらおうとするのと同じで、魔法に関するトラブルも人生を左右する重要な事なので大抵の人は名の知れた事務所へ行ってしまい、相変わらずのうちは素寒貧なワケだが。

「かといってアレをそのままにしては私の仕事にも多少なりとも支障をきたすわけでして、一体どうしたものかと…」

 大時化の中でぐわんぐわん揺れるイカダの乗員にも負けないくらいの絶望的な気を発しながら、浅井さんは呟いた。

 うう…。目も当てられん。きっとエスポワール号の敗者たちもこんな感じだったのだろう。

 ああっ、駄目だ!

「あの…浅井さん」

「はい?」

 虚ろな表情で視線をあたしに向ける浅井さん。

「もしよければ、あたしがその『ピジョトの種』を駆除してあげましょうか?」

 浅井さんが目を百円玉拾った小学生の如く輝かせた。

「いや、しかし…。あなたは見習いの身、勝手にこの様な事をしてはいけないのでは?」

 勿論こう来る事は予想していた。しかし、あたしは胸を張りながら、

「なーに! 大丈夫ですよ。あたしがさっき調べた限りじゃ(注意しておくがあたしはただの魔導士見習いでは無い。勉強熱心な魔導士見習いである。そこんとこよろしく)、ある魔法薬を花の部分に撒いてまわるだけで、簡単に除去できるみたいですから。それに、対幻覚性ゴーグルくらいならうちの事務所にもありましたし」

 と、つまり心配はない! という事を浅井さんに主張する。

「そ、そうなんですか。………私も、なりふりかまっていられないというのが現状でして…。本来、こういう形でお願いするのはよくないと思いますし、非常に心苦しいのですが、どうかよろしくお願いします」

「いえいえ。困った人を見捨てるわけにはいかないですから。こちらこそよろしくお願いします」

 ―――かくして。あたしの初の一人での仕事(本当は違法です。真似しないように)は話がまとまったのだった。



☆         ☆



 数日後、あたしは浅井さんの屋敷の住所の書かれた紙を片手に、普段はめったに来ないような隣市の一画を、張りきって買ったつなぎを上だけはだけさせたTシャツ姿でうろついていた。

「えーっと、確かこの辺のはずなんだけれど…」

 辺りの建物と、住所の書かれた紙とを交互に見ながら、特にイラついたりする事も無く目当ての建物を探していく。

 広葉樹の植えられたそこそこ広い道路で、風通しも良く暑い日射しもさけられて、なかなか悪くない道のりではあったが、それでも夏の盛りである事には変わりない。つーっ、と汗が一すじ背中をつたっていく。これはさすがに気持ちの良いものとは言い難い。

 ―――そういえば、『汗』とは本来体が必要としているからこそ流れるものであり、体をより快適にしているはずなのだが、いざ汗をかくとああも不快になるのはどうしてであろう。いくら科学や魔術が発達したとしても、人間とはまだまだわからないものである。

 道のわきでは子供たちが水風船で遊んでいる。ポヨンポヨンと水をいっぱいに蓄えて半透明になった水風船を、子供たちのうち一人が放り投げる。黄色い球体は黒いアスファルトの地面に勢いよく叩きつけられると、ちょいグロなような清々しいような痛快な音をたてて弾けた。

 懐かしいなー。あたしもよくやったっけ。「か●はめ波ァァー!」とか言いながらよく男子どもに泣くまで水を浴びせてやったのも、今となってはいい思い出だ。

「螺●丸ッッ!」

 男の子の一人が叫ぶ。どうやら、今も昔も子供は根っこの部分では変わっちゃいないらしい。

 すると、その叫んだ男の子の手から螺…もとい、水風船がすっぽ抜けた。それは、あたしの方に向かってくる。

 恐らく、簡単な魔法でも仕掛けてあったのだろう、その水風船は目の前で

 バチィィィンン!!

 と弾け飛んだ。

 結果として当然、あたしはひどい水をかぶった訳であり、右手に握っていた紙もぐしゃりとなり、インクはまるでゴムパッキンに生えたカビ菌のように滲んでいた。

 一瞬ばかり、深ぁい海の底から湧き上がるような殺意の波動に目覚めそうになるも、大人という名の重しでそれを抑えつける。

「ちょっと。君たち」

「は?」

「なんだよう」

「この水風船投げたの、君たちだよね?」

「それがどーしたの?」

「いまいそがしいんだからあとにしてほしいよね」

 おおーっと。ここであたしの怒りゲージは大幅にその残りスペックを失ったワケだが、それでも相手は子供だ。落ち着け、心!

「あのね、お姉ちゃんさあ、今その水風船のせいでずぶ濡れになっちゃったんだ」

「だから?」

「やあねえ、ヒスよ、ヒス。ママがこういうひととはかかわっちゃダメっていってた」

「やーい、ヒスおんな、ヒスおんな」

 ぴきっっっ

 あたしの中の何かが決壊した。いくら子供相手でも、これは無い。修羅と化したあたしは、気がつくとガキ共を追っかけまわしていた。

「URYYYYYYY!」

「わーっ、ヒス女がおってくるぞ!」

「にげろ、にげろーっ」

 すると当然、子供たちは蜘蛛の子散らすように逃げていく。

「くぉら待たんかい!」

「みんな、『妖怪屋敷』に撤退だー!」

「了解! 一、二の……散!」

 うおっ!? 何という逃げ足。思わず感心して舌を巻く。しかし、それでもめげずに執念で子供たちを追っていったあたしは、ここらじゃ珍しい大きな屋敷へとたどり着いた。その表札には、「浅井」の字―――

 ―――子供たちが『妖怪屋敷』と呼んでいた、その緑に覆い尽くされた建物こそ、今回の依頼人・浅井さんの屋敷だった。


 結局子供たちを取り逃がしてしまったあたしは、改めてその建物を見上げた。コンクリートで作られたその家は、まるで巨大なゴーレムが座りこんでいるかのようながっしりとした安定感を連想させ、その周りに毒蛇の蠢くように緑なすツタ―――ピジョトの種―――は、従順な木偶の棒をたぶらかす悪魔の如きである。なるほど、これは妖怪が住んでいてもおかしくはない不気味さだ。『妖怪屋敷』と慣れた感じで言っていた位だから、あの子達はここにもよく遊びに来るのだろう。

 ならば、このあいだ所長の言っていた話―――普段は山野に生息して動物なんかを眠らせて、菌類その他分解者を通じて自らの栄養を確保―――とどのつまり他の生物を捕食の対象としているというのが事実なら、一刻も早く何とかしなければならない。


「あの…大城さん」

「ひゃっ!」

 突然うしろから声をかけられ、思わず飛び退くあたし。声の主は、浅井さんだった。

「び、びっくりした…」

「驚かすつもりは無かったんですが…。申し訳ありません」

 相変わらず悲壮感を漂わせながら言う浅井さん。こんな気味の悪い所でそんな調子で声をかけられたら、十人中十人が間違いなくビビるぞ……。

「あ、いえっ。全然平気ですよ。それより浅井さん、どこかいらしてたんですか?」

「いや、大城さんが家を見逃さないようにと、門の前に立っていたのですが…。

 なにやら子供たちを追いかけていた様でして、私に気付かれずにいらっしゃったみたいですね………」

 ガックリする浅井さん。確かに、あの時は興奮していて敷地に入るまで表札以外は目に入っていなかった様な気も………。

「いやあ……、こちらこそすいませんでした」

 そんな感じで、何とか浅井さんの家にたどり着く事のできたあたしは、正義に燃える心をたぎらせながら早速仕事に取り掛かる事にした―――。と言えば格好がつくのだが、実際は初の単独任務(案内人の浅井さんはいるが)に不安と緊張を覚え、屋敷の風体に多少ビビりながら仕事に取り掛かることにした―――。

 とりあえず下調べの為に屋敷に潜入する一行。

 ………ここで日常生活を営んでいる浅井さんに対しては「潜入」とは失礼な物言いと思われるかもしれない。しかし、今回はあえてそう言わせてもらいたい。何故なら―――

 ―――玄関のドアを開けると、そこにはジャングルを彷彿とさせる無数の緑なすツタ、ツタ、ツタ。そう、話に聞いていたよりも事態は進行していて、今ではとても人が住むような場所ではなくなっていたのだ。

 「あの…申し訳ございません。始めは外側だけを覆っていたのですが、遂には中にまで進行し始めていて…。ほんの数日でこんなにひどくなってしまったのです。私もたまらず外にホテルを借り、そこで寝泊まりしていました。あの…何とかなりますでしょうか?」

 弱弱しく事情を説明する浅井さん。どうりで、外であたしを待っていたワケだ。しかし、

「ノープロブレム。あたしに任せてください!」

 先に述べたとおり、あたしはヤル気のある魔導士見習いである。それにこれは初の単独での仕事、『ピジョトの種』に関して念入りな事前調査を済ませてきていたし、こうなっていたであろうという事も予想の範囲内だった。

 所長も言っていたがこの『ピジョトの種』はもともと山野に生息する植物で、暗がりを常の住処としている。言い換えれば、あまり明るい場所は得意でない。正確に言うと、太陽から直接降り注がれる紫外線の下ではその生物は生存する事ができず、一度、何らかの植物の葉を通過し紫外線を大きく吸収された太陽の下でしか生息できないのだ。

 という事は、この屋敷の『ピジョトの種』も一応の太陽光の確保の為に屋敷の周りへとそのツタを張り巡らせ、その後に得意とする暗い屋内で爆発的な成長を遂げたのであろう。それを裏付けるかのように、屋敷街では『ピジョトの種』の花はポツリポツリとしか見受けられなかったが、中に入ると花の数は外のそれの倍近くはある。

「さて…」

 あたしは呟いた。

「この家を燃やします!」

「いええええええええええええええええ!」

 まるで驚愕のお手本のように驚く浅井さん。

「そ、そんな………。いや、それだけはできません!

 この家は…このうちは、資産家であった父から受け継いだ大事な家なんです! 私の唯一の財産なんです!

 そ、それを燃やすなんて………とんでもない!」

「冗談ですよ! ジョーダン」

「………(ジトーっ)」

「す…すみません」さすがに謝るあたし。

 …ちょっとやりすぎちゃったか。ほんの冗談のつもりだったのだが…。

 にしても、父の遺産かあ…。どうりで、「売れていない作家」と言っていた割に、立派な屋敷を構えていた訳だ。

「………とにかく、気を取り直して、今度はちゃんと具体的な話にはいっていきましょう! ねっ?」

「…はい」

「さすがに、家を燃やすなんて事は周りの迷惑を考えても、法律の上でも放火の罪にあたりますので、無理です」

「そうでしょう、そうでしょう」

 落ち着きを取り戻した浅井さんは激しく同意した。あたしだって、家を燃やすなんて本気で計画していた訳ではない。…いや、本当だって。

「そこで、今回はこれを使います」

 あたしは、持っていたポーチからガラス製の茶色い薬品ビンを取り出して見せた。

「これは一体何ですか?」

「魔法薬です」

 前にも言ったが、『ピジョトの種』は花の部分に『ある薬品』をかける事によって比較的簡単に除去する事ができる。このビンに入っている粉末の魔法薬こそ、その『ある薬品』だ。名称は―――非常に学術的な話になりかねないのでここでは割愛するが、ちゃんと事前のリサーチに基づいてチョイスしたので間違いない。

 入手経路はというと…、実はうちの魔導士事務所に保管されていたものをこっそりとくすねてきた。別に大丈夫よね………特に使う予定も無いだろうし、ダンボール箱に寝かせておくよりかはむしろ実践で使ってあげた方が、薬品にとっても本望なはずだ。たぶん。

「で、この薬品を、屋敷中の花という花全てにかけていきます」

「はあ…全てにですか?」

「はい。屋敷の内外含めて全てにです」

「気の遠くなりそうな作業ですね…」

「それくらい、敵は強力だという事です。一緒に頑張りましょう!」

「はい、宜しくお願いします」

 と言うが早いか、あたしは浅井さんに一つゴーグルを手渡した。

「こちらは何でしょうか?」

「これは花の幻覚作用による幻覚を防ぐためのゴーグルです。作業中は、それを着用していてください」

 このゴーグルの提供元も、もちろんうちの魔導士事務所からなのであった。………良い子も悪い子も真似しちゃダメだぞ!

 玄関までなら裸眼でもいいが、これ以上奥に行くとなるとさすがに危ない。あたしと浅井さんはゴーグルを装着した。ただでさえ光量の少ない屋敷内がいっそう暗さをおび見づらくなる。それでも、まあ、作業に支障をきたす程ではない。

除去し漏らしの無いよう、あたし達は手近なところから一つ一つ確実に花を潰していく事にした。まず手始めに、ずうずうしくも入口に咲いていたヤツから処分する。

「この花に、あたしの持ってきた薬をふりかけます。薬品の量は少量で十分です」

「はい」

 といった具合に、作業の過程を説明しながら進めてゆく。

 ぽんっ、と小気味のよい音をたてて、薬品ビンのガラスでできたフタを開けると、何やら不吉な匂いがふわり、と立ち上った。………まあ、このテの薬品類にいい香りを放つものなどは稀である。白い臭気の立ちこめるビンに詰められた、処女の肌のようにきめ細やかな真珠色の粉末を、ワインレッドの毒々しい魔女を連想させるその花にふりかけていく。

 細かい粉子を浴びた花は、まるで木乃伊のような色に変色し、やがて全ての水分を失ったかのように干からびてカサカサとなった。右手を伸ばし、そっとそれを握ると、寂しげな音を立てて粉々になった。

「へえ、存外簡単に片付くものですね」

「ええ、――でも予想以上の効き目ではありますね。やはり環境のせいでしょうか…」

 浅井さんは深緑の妙に生々しい臭気を放つ屋敷を見回し、

「ここまでぐんぐんと成長しておいて、今さら住みづらいも無いでしょう」と困った顔でいった。それに対してあたしは、

「確かに、そりゃあそうですね」

 と思わず苦笑した。


 ―――リビング・ダイニング・キッチン、それにトイレ。通常の家庭のそれの数倍もある部屋の数を、浅井さんに案内されながら回って行き、一つ一つ根気よく花を潰していく。まあ、単純な作業である上に当初の計画通りにスムーズに事が進んだ事もあって、仕事は終盤へとさしかかっていた。

 全てが順調にいっているかのように思われたが、ただ、一つだけ気にかかる事があった。それは、

 ―――何故この屋敷には生物の死骸が一つも無いのかという事だ。所長から聞いた話やあたしの調べたところによると、『ピジョトの種』は、野生では動物を幻覚状態へ陥らせて、それを自らの栄養としているとの事だった。ならば、この屋敷でも必ず一匹は生息していたであろうゴキブリやネズミの死体、若しくは気絶したやつが一つも見つからなかったのは、正直言って変だ。

 いやしかし、今はそんな事を考えても仕方がない。あたしは案内通りに進んでいき、そして、最後の部屋となる浅井さんの書斎を目の前にした。

「以外に簡単に済みましたね」

初仕事の手ごたえの無さに、若干の物足りなさを感じながらも、終わりつつある仕事に安堵を覚える。

「確かに。では、この部屋で最後です―――」

 ギイイイイイイイイ………………

 古びたドアを開けると、その向こうには膨大な量の書物が本棚に並べられていた。

 (もしかして、これ全部読んだのかな………)

 『売れない』という形容詞が附いてくるとはいえ、そこはさすが小説家だ。あたしは感心した。机の上にはきれいにまとめられたさながらビルディングの様な分厚い書類の束が並べられている。

 そうこうしていると、突然、後ろで書斎のドアが、

 ギイイイイイイイ…………………

 と不安な音を奏でながら閉じられた。

 ドアを閉じたのは、浅井さん。

「一体急にどうしたんですか?」

「………」

 彼は応えない。黙りこんでいる。心做しか、ゴーグルの向こうの瞳の色は虚ろを帯びていて………

「浅井さん?」

 どうも様子がおかしい。というのも、この部屋に入ってからだ、何かイヤな予感というか、違和感をおぼえ始めたのは。

《よくここまで来てくれました…》

 ―――!?

 どこからともなく声が聞こえる。―――、耳からではなく、直接脳に語りかける声が。イヤな水気を孕んだ、濁悪で紡がれた一本の糸の様な細い女の声が、鼓膜を揺らす空気の振動ではなく、意識に感応する思念として脳に伝わってくる。…この間読んだSF小説に出ていた、あれによく似ている―――確か、精神感応―――。とくると、発信者がいるものなのだが。

 あたしは、一緒にいるはずの唯一の人間に視線を向けた。

 ―――彼は、あたしの渡したゴーグルをはずし、口元をニタッと歪ませた。…白目を剥かせながら。

「ちょっ……、ゴーグルを外すと危険です…」

《もういいのです》

 また聞こえた。というか、感じた。

《元々その男には必要の無かった物なのです》

「何!? 一体あなたは誰なの?」

 見えない声の主に向かって叫ぶ。

《私は、あなたがこの屋敷に入ってからずっと一緒でしたよ》

 ―――これはまずい。そう直感したあたしは、閉じられた扉の前に立つ浅井さんを突き飛ばし、とにかく外へ逃げようとドアノブに手をかけた。次の瞬間、

 ピスッ

 嫌な音に頸部を突かれた。続いて全身に鋭い痛みが走る。振り返ると……緑のツタが…………あた……し…の…く…ビ…ニ…………さ…サッ……………て…………………………………………イ………………………………………………………………………………………………………………………………。



☆       ☆       ☆



《………目を覚ましなさい………》

 視界がぼんやりと開けてきた。不思議と意識ははっきりとしている。

 ………今度は夢じゃなかったようね。

 どこかの一室。屋敷の中かどうかもよくわからない。ツタに全身を絡め取られて身動きの取れないあたしは、まわりを見回す事にした。部屋は一面ツタがはびこり、垂れ下がり、縦横無尽に空間を這っている。なんとか動かせる範囲で首を動かし、横を見てみるとあたしの他にも捕まった人があるようだった。作業服をつけた男性だった。

「あの………」

 あたしは声をかけようとしたが、異変に気付いてしまった。彼の頭には、ケーブルのプラグを差し込んだかのように、無数のツタが刺さっていたのだ。

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああ!」

 あまりのグロテスクな光景に、動かない全身から絞り出すように悲鳴をあげた。いや、悲鳴が自然に発出した。はっきりしてきた視界には、他にも子供たちが数人と白衣を着けた男がひとり、同じようになったのが目に飛び込んできた。

「ひっ、ひいいいいいいっっ」

《おやおや、驚かせてしまいましたね》

「ひうっ」

《いや、でも。元気そうで良かったです》

「ひいっ」

《そんなに怖がらないでください。別にあなたがああなる訳じゃないですから》

「………ひっ」

《ついに若い女性の体を手に入れる事ができました。

 ああ、先程は騙してしまってすみません。

 あの浅井という雄、実は私が操っていたのですよ。だから、もうあのサングラスは必要無かったのです。あの雄の頭には、私の種が寄生しています。あなたがたの―――『ピジョトの種』でしたっけ―――そう呼んでいる種です。という事は、私はその『ピジョトの種』であるわけですが、私はちょっと特別なのです》

「ひう………」

《私はとある施設の試験管から生まれました…。所謂、試験体です。何の目的かは存じませんが、そこでは植物の自我の開発を行っていました、それで私は誕生したのです。意識の芽生えた…ククッ。おっと、失礼しました。普通に私自身が植物として芽生えた時から、私は外の世界に憧れていました。外に出たい、外に出たいとずっと思っていたある日、私はある事に気付いたのです。それは偶然でした。何かの手違いでしょうか、研究室に一匹のハエが侵入してきましてね。それは小さな私の体にひっついてきました。大変汚らしく感じた私は、そのハエを何とかしてあの研究員にひっつけてやりたいと思っていました。すると、突然、私の体から小さな、それは小さなツタが生えてきてそのハエを刺してしまったのです。そして………ああ、あれは本当に奇跡、私は自分の意思でそのハエをあの研究員の禿げた頭にくっつける事ができたのです、私は生物を操る事が出来る自分の能力に気付いてしまいました。それを知った私は、その能力を使って―――ハエの侵入を許す位ですから、彼らの危機管理能力はすこぶる低いものでした―――ついに、狭い研究室から抜け出すことに成功したのです!》

「ひっ………っ」

《それから、私は自分が操っていた男の友人である、この屋敷の主に出会いました。私が操れるものは、温度その他で感知できるものに限らていたので、私は是非ともより自由にいつでも操れる寄生体を求めていました。そこで、ふと人間の脳内に私の種子を埋める事を思いついたのです。屋敷の主の恐怖におののく様子は、それはそれは見ものでした。なにせ、友人が急に血相を変えて自分の脳に何か埋め込もうとしているのですからね。そうして新たな操り人形を得た私は、その後も新たな試みを色々と考えてきました。その過程で、人間の脳を直接養分とすると、その者の知識を得られる事を発見しました。研究員のおかげで、私は私の弱点―――直射日光への耐性の無さ、あとはあのあなたの持ってきていた薬品への不要な化学反応―――それらも克服できました。さっきのあれ、サービスですよ? なかなかの面白い演出でしたでしょう。花の散り方を何パターンも研究したのですから!》

「………」

《しかし、私は研究の過程で一つの壁に当たりました。丁度、生殖についての研究をしていた私は、是非とも胎児に自分の遺伝子を混合して、その成長してゆく様子を観察したいと思っていました。ところが、この研究には重大な欠陥がありました。それは、母胎となる女性―――つまり生殖しうる程に成熟した女がここでは入手できなかったのです。私も研究員の脳から、年頃の女が普通このような薄気味の悪い所へ来る事は無いということを知っていましたし、残念ながら屋敷の主にもつがいとなる存在はありませんでした。一応、ここに遊びに来ていた女児でも試してみたのですが、いかんせん未成熟だったものですから、失敗に終わってしまいました》

 一本の太いつるが一人の女の子をあたしの目の前に吊り下げた。

 ―――ひどい姿だった。

 まだ未成熟な陰部からは血液やら何やらの液体が乾いた後が走り、中をかき回されたかのだろうか、臓器が腹にたまったと思われる、お腹の周りに絶対にあり得ないクビレが形成されていた。その首から上は―――もう見るに堪えられない。

「ひいいいいいいいいいっっっっ」

《そこで、あなたを屋敷に呼び込んだのです。依頼という形で。私の実験の素材となってもらう為に。いやあ、でもあのおじいさんが来なかったのは都合がよかった。絶対に面倒な事になったでしょうしね》

「ひぃっ………」

《さて、おしゃべりはこのくらいにして。まずは胎児の精製から始めますか》

 と告げると、暗い部屋の奥から白目を痛々しく光らせて、裸体の男が引っ張り出された。あたしのシャツに手を伸ばしてくる―――

「キャアアアアーッ! や、やめて…お願い………」

 もう駄目かと思われた、その時。


 ―――ばさっ、ばさっ、ばさっ―――


 一匹の美しい純白の鳩が、どこからともなく舞い込んできた。窓などどこにも無いのにもかかわらず、それはさも当然かのように目の前にその息をのむような姿を現したのだった。

 それから、あたしに巻きついていた緑のツタは、何故か急に力を失ったかのようにあたしを解放した。

《な、何者ですっ!?》

 深緑のムチが鳩に襲いかかる!

 が、鳩はまるで貴公子がダンスのステップを踏むかのように軽やかに飛び立ち、それをかわした。


 ギギギギギギギ……………


 呻き声を立てて何かが動き出す。すると、そこから漏れ出てくるのは―――光!


 ―――外に出られる!

 そう思ったあたしは、何とか体を動かし、思い出したかのように光へと向かった。ここから脱出すべく。

 さっきまで恐怖でまるで凍ったかのように固まっていた体も、いつの間にか動かせるようになっている。

《逃がしはしませんよっ!!》

 蔓が得物に咬みつかんとする蛇の様にあたしに向かってくる。あたしは、とっさに唱えておいた呪文を放った!

「炎よ、そのやらしい蔓をはねのけて頂戴!」

 すると、ツタの先が「ボフッ」とバットで思いっきり布団をたたいた時の様な音を立てて手のひらサイズに爆発し、ツタはひるんでその動きを引っ込めた。

 ……もっと派手な何かを期待していた方。どうか勘弁して欲しい。見習い魔導士の魔法など、「日常生活に役立つ力」にちょっと毛の生えたレベルでしかないのだ。

《くっっ!》

 それでも植物の本能なのか、『ピジョトの種』である彼女には炎というのは多少の脅威らしい。

「ナメないで頂戴! あたしはこれでも魔導士見習いなんだから!」

 危機的な状況の中で、何とかいつものペースを取り戻していく。

 光に飛び込み暗いツタの部屋を脱すると、そこは先程の書斎だった。どうも、あの大きな本棚の後ろにあの部屋への入り口が隠されていたらしい。部屋にある『ピジョトの種』の花を直視しても、何ともない。これも、あの白い鳩のいるおかげなのだろうか………。

 書斎を抜け廊下へ出ると、先程は見逃していたが外へと通ずる窓があった。

 その白い鳩はあたしを誘導するかのようにその窓をまたもや不思議な力で開くと、外へと白羽をはばたかせる。最初あたしと浅井さんは玄関から花の除去作業を順々に進めていったから、最後に訪れた書斎は最上階という事になる。窓の向こうには蒼穹が広がっている。あたしは、迷うことなくまっすぐにそこに飛び込んだ!!

 急がねば―――



     世界ヲ統ベシ万能ノ理

     我汝ガ法ノ下ニ契約セン

     我ノ魔力ト引キ換エニ

     其ノ―――



《させますかっ!》

 突然あの声が聞こえたかと思いきや、屋敷の壁に這っていたツタがあたしを穿たんと鋭く伸びてくるっ!

(やばいっ)

 そう思ったその時、あの白い鳩が盾となり、あたしを庇ったのだった。聞こえたのは、紙を切り裂いたときに聞こえる乾いた音。その純白の体は、光の粒子となり、蒸発するかの様に消えていった。一体、あれは何だったのだろう………

 とにかくっ、



    ―――力ノ欠片ヲ与エ給エ

     其ノ事実、

     地に舞いし空に踊る風よ、

あたしをその衣で抱きかかえて!



 本当にギリの所であたしは飛び降り自殺を免れた。地面へ、ストン―――とでは無く、ドシン! と着地…もとい、落下した。

「痛ててててて………」

 全ての衝撃を受けた臀部をいたわってやる暇も無く、あの声が聞こえる。

《おのれええええ》

 彼女の怒りを体現するかのように、毒蛇の蠢く様相を呈していた屋敷中のツタが、一斉にわななきだした。

 ―――このまま逃げてはダメ。彼女は、絶対に人に危害を及ぼす。ここで何とかしないと―――

 あれこれと頭に考えを巡らせてみるも、いい考えは思いつかない。―――悔しい。悔しいけど、それ程までにあたしは、

―――弱い。

 だけど、何とかしなきゃ。焦りで心臓がはちきれそうになる中そう思っていると、右肩が、「ガクン!」と重くなった。何かが乗っかったみたいだ。その正体は―――

 さっきの白い鳩だ!

「あなた、一体何―――」

「今から奴を片づける」

!?

鳩が…喋った!?

確かに、喋りかけたのはあたしの方なのだが………

驚いているあたしを「チラリ」と一瞥すると、おそらくは語を続けた。

「時間が無い。無駄なやりとりは避けたい」

納得いかないが、とりあえず今はこの状況をどうするか、だ。

「片付けるって……一体どうするの?」

「爆発で破壊する。俺は…詳しくは言えないが、超巨大な魔力を持って今この世に仮の存在を得ている。その魔力を、単純に、暴発させる」

「ちょっと待って、暴発って…。

それじゃあ、周りの家や人達はどうなるの?」

「巻き込まれて死ぬだろうな。仕方のない事だ」

 『死ぬだろう』…『仕方のない』って……一体何を考えているのだ、コイツ。

「待って! ストップ!」

「何だ。爆風はあらかじめ魔法で障壁を作っておけば凌げる」

「そんなんじゃないわ! あんた簡単に人が死ぬなんて言うけどねえ………あたしは絶対にそんな事許さないわよ!」

「生命を軽んじた訳ではない。ただ、『ピジョトの種』があのまま暴走しその生息範囲を拡大した場合と、この一帯の住民を犠牲にした場合とでの損害を衡量するに、前者の方がより重大な損失だと判断したからだ」

「そんなのおかしいわ! 何よ。命は命、それなのに数を比べるってそんな………、他に何か方法があるはずよ!」

「言いたい事はわからんでもないが…。しかし、理解してほしい。俺は他に呪文をプログラムされていないし、お前もその様子では他に取りうる手段が無いのだろう?」

「く…っ」

 確かに、こいつの言う通りだ…。

「呪文再詞開始―――世界ヲ統ベシ万能ノ理我汝ガ法ノ下ニ契リシ約ヲ此ニ取消ス事ヲ望ム其効遡及ニ非ズ然為レバ債ノ不履行ニ当リ我ガ身ヲ以テ其ノ罰ヲ与エラレ受ケン其ノ罪我ノ債タル魔ノ力―――」

 恐らく地上最大の死刑宣告が唱えられる中、あたしにふとある考えが閃いた。

 ―――多分、この方法なら全てが上手くいく!

「ちょっと待ったぁぁ!」

「!?」

 がしっ!

 あたしはその白い鳩をしっかりとその両手に抱き締めながら、呪文を中断させて囁きかける。

「いーい? 実はあたし、時間を押し戻す魔法を知っているの。それを唱える事に成功すれば、全てが元通りになる。呪文を成功させる為に、あなたにも協力してもらうわ!」

 言ってあたしは呪文の詠唱を開始する―――



     公平ナリシ万能ノ理

     相等シキハ魂ト魂

     死ト生トノ間ノ天秤ニテ

     死ト裏切リハ等シキト為ル

     今ヨリ我ト汝ガ間ニ

     新タナル契ヲ約サン

     其ノ事実、

     あたしにこの者の魔力を贈与し給え!



 ぼうっと白い小さな光球があたりに出現し、それがぽつぽつと増え始めたかと思うと、あたしの体がとても柔らかな光に包まれた。両の掌から、今まで想像した事も無いような力が体に流れ込んでくる。

 …や、やばい……! 

 思っていた以上だ!

 は、早くしないと手がもげてしまうっ!

 つい鳩から手を離してしまいそうになるが、気力のみでそれを思いとどめた!



     世界ヲ統ベシ万能ノ理

     其ノ理ニ抗ウ事ト知リ

     其ノ罪ノ深キヲ知リ

     其ノ罰ノ苦シキヲ知リ

     其ノ身ニ毒ナルヲ知リ

     敢エテ理ニ反スルヲ欲ス

     禁ヲ破リシハ

     時ノ穢レ

     愚ノ穢レ

     悪ノ穢レ

     考ノ穢レ

     命ノ穢レ

     汝ガ偉大ナル力以チ

     汝ガ法ヲ突キ破カン

     其の事実、

     あの屋敷の時を、押し戻せ!



 問題は、ここからだ。あたしには、いつからあの屋敷に『ピジョトの種』が住みつきだしたのかがわからなかった。だから、確実に魔法を成功させる為、どれ程時を戻すかに関しては何も制限をつけなかった。この一帯を爆破するという、鳩に込められた魔力に全てを賭けたのだ!

 もしかすると。何も事態は進展していないかもしれないし、しすぎているかもしれない。時間を戻す魔法に、どれほどのコストがかかったのかが結果を左右する―――


 空白が全てを包み込んだ



    ☆      ☆      ☆      ☆



 ―――一瞬の後、ふと気がつくと、

 目の前にはあの屋敷がそびえ立っていた。

 そして、

 そこから飛び出すのは男の子の姿。

「うわーん」

 泣きじゃくりながら外へと一心不乱に駆けて行く。それに続いて女の子。

「何よ! 男の子のくせに! リュウジのビビリ虫!」

 二人は元気よく屋敷を出ると何やらわめきながらどこかへ去ってしまった。


「どーやら、成功したようね」

 ねずみ色の古びたコンクリートの屋敷の壁を見上げながら、あたしは腕の中の鳩に向かって言った。

「どうやら、そのようだな」

 相変わらずのぶっきらぼうで言う。喜びの色は微塵も見られない。

 あたしたちはすぐに、『ピジョトの種』を完全に駆除するため再度屋敷の中へと入った。

禿頭の研究員に付着していたそれは、鳩によってついばまれ、ここに、今回の依頼は終了した。―――正直、ちょっとばかり謝礼を期待していたのだが、時が戻って記憶も失われたらしく、浅井さんの「???」といった感じの表情をみて、それは諦めることにした。はぁー、結局本当にただ働きとなってしまった。でも刺激的な体験はできたし、ま、いっか!

 ―――あの時。なぜ見習い魔導士のあたしなんかが時間を操る魔法を使えたのか。その答えは簡単、いっつも所長に難解な報告書をかかされていた結果、いつのまにやら時間を押し戻す魔法の理論を身につけていたからだ。普段の苦行が、たまたま役に立ったのである。

なんやかんやがあって、屋敷を後にするあたし達。

ふと、腕の中の鳩が、

「ココロ」

 とあたしを呼んだ。

「なんでしょーか?」

 と尋ねると、彼は、一言だけ、

「よくやった」

 そう言って、またもや光の粒へと変化した。その消えてゆく様を見ながら、

「今日ばっかりは、所長に、あの憎ったらしい長ったらしい報告書に感謝しないとね」

 とひとりごちて、そういえば事務所から持ち出したゴーグルが一つ足りない事に気付き、内心あせっていた。

「謎の鳩さん、アリガト!」



   ☆     ☆     ☆     ☆     ☆



 後日、あたしは相も変わらず、あのボロっちいビルのボロっちい一室のボロっちい机に向かい、山の書類と奮闘しながら、今日に限ってはいっちょまえに物思いにふけったりしていた。

 ―――結局、この事は所長には秘密にしておく事にした。何言われるかわかんないし。

 それに、

 あたしはこれまで所長と一緒にあちこちへと周り、色んなトラブルを解決してきた。そして、今回の事件を通して、

 ―――やっぱり、あたしは未熟者―――

 そう痛感させられた。もしも所長があの時一緒だったならば、もっと簡単に事件を収束できたかもしれない。それに、あの鳩―――結局正体はわからなかった―――がいなければ、今頃あたしもどうなっていたかはわからないし。

 もちろん、屋敷に捕まっていた人達は、あの時間逆行の魔法が成功したことにより、それぞれの人生を新たに紡ぎ始めたワケではあるが―――研究員は成果の漏えいだのどーのこーので騒ぎ始めるわ、子供たちの親が我が子とのまさかの再開に無き喜びわめくわで、てんやわんやだった。

でも、あの子たちに関して言えば、事件が2週間程前に起こっていたという事で、とりかえしのつかない事態となっていなくて、本当に良かったと思う。一番平然としていたのは浅井さんで、「いやあ、今日はずいぶんとお客様が来るなあ」とか言って、何にも気付かずにお茶の用意なんぞをしていた。…まあ、急にあの事件に巻き込まれていった訳だから、事情を知らなかったとしても仕方が無いとは思うが……。

机の上に積まれた報告書用の書類を目の前にして、人生とは何が吉と転ぶか凶と転ぶか本当にわからないなとつくづく思い知らされた。

「所長、うちもそろそろパソコンいれましょうよ!」

「………はい?」

相変わらずだ。

カタカタ…ではなく、カマキリの様にカリカリと報告書に字を刻みながら、ふと思い出した。時計を見る。午後三時。時計は丁度Lの字をかたちづくる。

「そうだそうだ、今日は来る途中で『ムーンスピッツ』で新作シューを買ってきたんだった」

 と言って、あたしは保冷庫(ココロ専用)からシュークリームの入った箱を取り出した。

 取っ手の部分を押しこみ、両サイドのとめを外し、箱を開く。

「うわー、おいしそう!」

「…………………(じとーっ)」

「ぎょわっ!」

 横を向くと、所長が物欲しげな、雨の日のダンボールの捨て猫みたいなうるうるとした瞳でシュークリームを見つめていた。

「欲しいんですか…?」

「…………………(コクンコクン)」

 大きく頷く。目がギラリと光った! あれは老人の目とちゃう、得物を狙う狩人の目や!

「そういえば…、この間の猫のノミ取りはどうでしたか?」

「へ? …あ、ああ………あれですか。やはり、わたしのノミ取りは最高だということで、余所の猫からも絶賛でしたよ! いやあ、はっはっはっは!」

「へぇー」

 あたしは聞いておいて何だが興味無さげに返事しながら、シュークリームを全部一気に平らげた。

「あっー! 心さん、そのシュークリームっ………!」

「おいしかったぁ! ………で、何でしたっけ?」

「………もういいです…」

 ションボリとしながら、そのご老体は自分の椅子へと戻るのであった。

 ―――これで懲りたか?

 満足したあたしは、保冷庫から、箱をもう一つ取りだした。今度は、所長への差し入れとして買った分の箱を―――


 年がらにもなくクリームを頬につけながら、愛嬌のある笑顔を向ける所長。ちょっと照れたりなんかしてしまったあたしは、顔を下にむけて黙ってしまう。

 ふと、何か落書きのようなものが描かれた三枚の紙きれをみつけた。ぶっさいくな鳩の絵だ。しっかしこの鳩、どっかで見た事があるような………。二匹の鳩のうち、一匹は一枚の紙に、もう一匹は分断されたように丁度真っ二つに切れて二つの紙に描かれている。


 その横の空白には、

『あの娘を勇気づけ、力を貸してやってください』と達筆な字で添えられていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ