数年越しの彼女との約束
『約束忘れたの?』
突如かかってきた電話に出るやいなや、その問いが飛んできた。約束?と頭に疑問符を浮かべて、僕は記憶を整理する。
電話をかけてきた相手、幼馴染であり、ここ数年会えてない梨歩としたはずであろう約束について思い出すために。
今日彼女から電話が来るほどの約束をしたのだろうか?
いくら考えても、いくら思い出そうとしても、その約束は思い出せない。
そもそも数年会ってない彼女となんの約束をしたのだろうか?
約束をしたのであればかなり昔なのかもしれない。だから思い出せないかもしれない。
今日は何の変哲もない日であることも相まって僕は思い出せない。
今日は僕と彼女の誕生日でも、何かイベントがあった日でもない。ほんの何の変哲もない日のはずだ。
『忘れたのね』
僕が何も答えずにいると、梨歩はとても悲しそうな声でぼそりとつぶやく。彼女のそんな声を初めて聞いた僕は大きく動揺する。
小さな頃から、元気いっぱいで明るく太陽のようだった彼女。
そんな彼女のこんな悲しい声は一度も聞いたことがない。
つい、そんなことない、と言い出そうとしたが、実際覚えてない僕にはそれは言えなかった。言ってはいけない。すぐに約束について彼女が続けて問うてくるはずだ。その場しのぎの嘘は何の役にも立たない。
僕は彼女との約束を必死に思い出そうとする。だが、全く思い出せない。
どうでもいい彼女との日常のこと。
彼女とのことはいくらでも思い出せる。だが、約束についてだけ、その記憶だけ黒塗りされたのか、ぽっかりと記憶に穴が空いたかのようにそれだけ思いだせない。
『無理しなくていいよ、忘れたのは別に責めないから』
彼女は先ほどと全く変わらない悲しそうな声で言った。そして、彼女が続けるであろう言葉を僕は理解する。だから、反射的に言った。
「待って」
無責任に近い言葉を。きっと彼女は僕とこの電話を繋げているだけでも辛いのだろうと感じていたというのに。
彼女は沈黙したままでいた。僕の「待って」という言葉通りに待ってくれているようだ。だからこそ、僕は必死に思い出そうとする。
だが、どうしても思い出せない。
本当になぜか思い出せない。
大事な約束だということはわかるのに。
約束を交わした事実については思い出せたのに。
その内容だけがどうしても思い出せない。
「なんでだよ」
僕はつぶやいてしまう。
悔しかった、悲しかった、辛かった。
大事な約束を思い出せない自分がとても嫌になった。
彼女を悲しませ、辛くさせる自分がとても嫌になった。
負の感情だけが僕の胸を占める。
『無理はしないで、いいの。思い出せないならそれで』
彼女の声が聞こえてくる。
『だって、そのほうが普通だから』
彼女は涙ぐんでいるようであった。嗚咽が混じる声であった。
その瞬間、全てを思い出した。
彼女との約束。
彼女と別れることが決まった。それを伝えた時にした約束を。
「今、会いに行く」
僕はそれを彼女に告げる。その瞬間、彼女から嬉しそうな『待ってる』と言う言葉が聞こえた。
僕は家を飛び出し、彼女との約束の場所まで走る。
彼女が待っているはずの場所。
僕たちにとって大事な場所。
僕がこの街に行くと彼女に伝えた時、彼女に教えた場所。
彼女と一緒に行きたかった場所。
あの時は行けなかった場所。
行っても意味が薄かった場所。
今年になって行く意味が強くなった場所。
彼女と約束した日。そこで会おうと決めた場所。
「ごめん、遅れた」
息を荒げながら、彼女の目の前についた僕はそう言った。
「ううん、いいよ」
僕は「ありがとう」と言うと、一度深呼吸をして彼女と向き合う。
そして、僕は約束した日に決めた言葉を伝える。
「君を絶対に幸せにする、これからずっと、一緒にいてほしい」
告白、プロポーズの言葉。
彼女との約束の場所ですると決めていた告白。
この場所でプロポーズした二人は永遠に幸せになると知った時に決めた言葉。
僕たち二人が結婚できる年齢になったときに、約束をした日にしようと二人で決めたこと。
お互いの気持ちが変わらないことを前提に。覚えていることを前提に。
決めたプロポーズ。
彼女は嬉しそうに僕のプロポーズに答えた。答えてくれた。
僕は彼女を抱き寄せる。彼女に贖罪と感謝を込めて・・・