ヤサシサノツヨサ
今日で終わりにしよう。
宮守優、十三歳、身長百六十センチ、体重五十キロ、中学生二年、趣味トレーディングカードと読書、好きなもの(こと)多機能な文具、嫌いなもの(こと)イジメ、暴力、お金の要求、写真と動画撮影、真智田と左々岡と歩園の三人。
もっと大嫌いな奴——自分。
将来の夢——、
もう無い。
このファミリーレストランの第二駐車場は道路を挟んだ向かい側のガード下にあって、平日に混む事が無いので人はほとんど来ない。一本しかない街灯では薄暗くて、今のように夜七時を過ぎていれば尚更で、三人にイジメられるようになってからは度々ここで暴力行為を受けていた。
入学してすぐにイジメの標的にされて、原因なんて見当もつかなかった。
いま、僕は殴られ、蹴られながら現実逃避するようにそんな事を考えている。
もう限界だった。
「いい加減、理解しろよな! 宮守ぃ」
語尾を上げながら真智田がわき腹を蹴り上げてきた。
そのあたりから、僕はもう真智田たちが何を言っていたか覚えていない。聞き取れていなかった。
お金さえ持って来れば済むとか、殴り疲れるとか、砂埃を払うように背中を叩いて佐々岡がおちゃらけて言って、歩園がただただニヤニヤとこちらを見ていたような……。
きっといつもと変わらぬ光景だったんだと思う。
しばらくしてグッタリと地面に横たわる僕に、「じゃあ、明日の昼休みに体育館裏でな」「必ず来いよ」と肩で息をしながら真智田と佐々岡が念を押してから背中を向けると「ゆっきー。六千円だからね、六千円。最低でも五千円。それじゃあね」と確認するように歩園が耳元でささやき、ニ人を追って駐車場を出ていった。
僕はふらつきながら立ち上がり、国道側とは逆の、住宅地側の出入り口へ歩き出した。
目的は駐車場を出てすぐ目の前の八階建てのマンションだ。
ニャ……。
……ん?
ニャ……ニャ……。
駐車場から出る手前で足を止めた。これは……猫?
左隅の暗い金網の方から、かすれた弱々しい声が聞こえる。苦しんでいる? そう思うと自然とそちらに向かっていた。
やっぱり、猫が二匹いる。
二匹は子猫のようで、暗くてよく分からないけれど、たぶん白いやつと真っ黒なやつだ。けど、苦しんでいたのはどちらでもなかった。
切なく、ニャ……ニャ……と途切れ途切れに鳴いていたのは、僕に気づいて飛ぶように逃げた子猫たちの陰から現れた、瀕死の老猫だった。
きっと母猫だろう。今にも死にそうだ。見てすぐに分かった。
灰色っぽい体毛は汚れて、乾燥してか毛並みはバサバサ、全身は小刻みに震え、ダラっと横になっている。
まるで自分を見ているようだった。
「寒いのか? お前も、もう死ぬんだな」
僕は制服の上着を脱いで老猫に優しく掛けた。
「気にしなくて良いからな。もう僕には制服は必要ないから」
その間も老猫は誰かを呼ぶように鳴いている。
ニャ……ニャ……ニャ……。
老猫の顔を優しく撫でて目的のマンションに向かった。
見上げると、星はほとんど見えなかった。
「今日で終わりにしよう」
僕は思わず声に出していた。
このマンションには下見で何度も足を運んでいた。
オートロック等のセキュリティも無く、普通にエレベーターで八階まで行ける。さすがに屋上までは行けないけれど、外階段の八階と七階の中間の踊り場から楽に飛び降りることができる。
そう、飛び降りることができるんだ。
そう思いながらも、僕はエレベーターを使わずに階段をゆっくりと上った。
わざと時間をかけているみたい。きっと死にたくなんかないんだろうな、誰かの助けを待っているんじゃないのかな、なんて、自分で自分につっこみながら。
でも——そんなものはない。
僕は目的の踊り場の腰壁に手をついたところで気が付いた。そういえば遺書を書いていない。こういう時は、いじめた奴らの名前を遺すもんだった。
でも、今更もういいかと開き直り腰壁の上に立った。少しふらつくけど、平均台の上よりは幅がある。あるけれど——怖い。
あまりの恐怖に足の力が抜けそうになった時、後ろから女の子がささやくような声が聞こえて僕は硬直した。
「いい? 驚いて、落ちたりしにゃいでね。いますぐそこから降りてくれるかにゃ?」
え? なに? バランスを崩さないように、慎重に、ゆっくりと振り返ると八階の廊下から、同じ歳くらいの女子がこちらを見下ろしていた。
頭上の共用廊下の昼白色の蛍光灯が、さらにその女子を際立たせていた。
本当に白かった—— 。
しかも、白いワンピースを着ているせいか全身が輝いているようにも見え、それとは対照的な真っ黒なベリーショートの髪の毛が際立っている。つりあがった大きな黒目が凛々しくて——もしかしたら天使なんじゃないかと目を疑ったけれど、そうじゃないことはすぐに分かった。
「いや、分かってにゃいみたいだから教えてやるけど、そんにゃところから落ちたら怪我じゃ済まにゃいぞ。ほら、危にゃいから早く降りて」
それは分かってる。そのためにここに来たのだから。
それよりも、にゃ? 『にゃ』って言ってる? ふざけてるのかとも思ったけれど、その表情は真剣で、そんな風には見えなかった。どこかの方言なんだろうか? 漫画や小説なら猫娘だ。見た目とのギャップが激しい。とにかく天使ではなさそうだ。
「これ、君のだよね」
階段を下りながらそう言って差し出したのは、僕がさっき瀕死の老猫に掛けたはずの制服だった。
とにかく、とりあえず、僕は腰壁から下りて上着を受け取った。
「よーし、よーし降りたにゃ。まったく、命を粗末にすんにゃよ。余計、寿命が縮まるっつーの」
……よく分からないけれど、関係ないでしょう、そう思ったけれど、言い出せずに僕はうつむいた。彼女の顔をまともに見れなかった。
「駐車場を通りかかった時に、ちょうどにゃにかに掛けるようにして、その服を置いた君を見かけてね。何をしてるのかにゃ、と確かめたら、その下から出て来たのがうちの子だったもんだから慌てて追いかけて来たわけ。関係にゃいことはにゃい」
うちの子? あの老猫の飼い主?
「そうそう、もう老衰でね。二日前に突然いにゃくにゃっちゃって毎日探していたのよ。だからありがとう。おかげで見つけられたわ」
彼女は一呼吸おいて、「わたしは松乃葉雪見。君と同じ神奈田中の三年生。つーわけで、明日の昼休みに私のクラスに来てくれるかにゃ」
彼女が絶えず話しかけてくるものだから、返事をする間もない。
「昼休みに入ったらすぐね! お礼をしたいから必ず! にゃ」
僕は考える暇もなくうなづいていた。
一通り話し終えた彼女は満足げに「もう戻らにゃきゃ」と言って僕の横をすり抜けて階段を下りて行った。
……いったい、なんだったんだろう。
「あー三年二組ね。三年二組! 約束だからね」
と階下から声が聞こえて思わずドキッとしたけれど、なんだか笑いが込み上げてきた。
もう死ぬ気なんてなくなっていたから。
単純な自分に呆れて。
松乃葉さん、一コ先輩か。
あれ? そういえば、結局、僕は彼女と一言も言葉を交わしていなかった。
昼のチャイムが鳴るとすぐに教室を出た。もともと弁当は持ってきていなかった。昨日の松乃葉先輩との約束を守るためだ。真智田たちに捕まる前にいかないと、あいつらの言っていたお金も持ってきていないから。
教室を出る僕をあの三人が目で追っていた。
あとのことを考えると気が滅入るけれど、殴られようが何をされようが最終的には『終わりにすればいい』ことだし、実際マンションの腰壁に立った時の恐怖と、吸い込まれるようなあの感覚を思い出すと、なぜだかもう、どうでもいい気持ちになる。それならばそういう気持ちであいつらにぶつかればいいと思うかもしれないけれど、それは出来ない。
そんな勇気は僕にはない。
教室に松乃葉先輩はいなかった。三年二組で合ってたよな?
僕はもう一度教室プレートを確かめた。
見ればすぐにわかると思ったんだけれど。
困っている僕に女生徒が一人近づいてきた。「その校章の色、二年くんだね。さっきからウロウロしてるけど、何か用? 誰か探してる?」
「あ、あの、松乃葉先輩いるでしょうか」
僕は緊張しつつ、どうにか声をしぼりだした。
「どうしたーまどかー?」
女生徒がさらに増えた。
「あー、この二年くんが、ゆーみんに用事があるみたい」
「そうなの? 残念。ゆーみん、今日休みだわ」
「いやいや、来る来る。遅刻して来るみたいよ。昨日も遅くまであの子を探してたみたいでさ」
「え? まだ見つかってなかったの? 何日目だっけ? もうヤバくない?」
「んー二日? 三日目か? どっちだっけ?」
「それにしても可愛かったよね。確か十年以上飼ってたんじゃなかったかな」
「長っっ猫って何年生きるの?」
「えー何年? 十何年かな……あ! 二年君、ゆーみん来るってさ、まだ来てないけど、どうしようか?」
「あ、ありがとうございます。また、来ます」
僕は頭を下げて、小走りで逃げるようにその場を離れた。
あれがマシンガントークってやつだろうか? あの二人、途中から僕のことを完全に忘れてたよな……松乃葉先輩も、自分から言っておいて遅刻してるし……もしかしたらあの後、一晩中泣いていたんだろうか? そんなことを考えながら教室まで戻ってくると、バッタリと真智田たちと出くわしてしまった。
「ぐうぅっ」
腹を蹴り上げられて、僕はそのまま体育館裏の壁にぶつかって倒れた。うめき声をあげることしか出来なかった。
「昨日あれだけやられても、理解しないのな、お前」
真智田が胸ぐらを掴んで僕の顔を引き上げると、頬を軽く叩きながら言った。
他の二人は呆れ顔で笑っている。
(ああ、早く終わらないかな。もうどうでも良いからさ)僕はそんなことを考えて無抵抗にしていた。
でも、突然後ろから声が飛び込んできた。
「良いわけねーだろう!」
びくっと反応して、真智田たちが揃って声のする方を見た。
見ると、そこにいたのは、発せられた言葉とはおよそ似つかわしくない、色白で華奢な少女——、
松乃葉先輩だった——。
首もとに赤いリボンを付けた長袖のワイシャツにスカート。普通の制服姿の松乃葉先輩に昨夜のような神秘さは感じられなかった。
「何ですか? 突然。僕ら遊んでるだけですけど」すぐに佐々岡が間に入ってごまかした。その態度から、校章の色で、相手が上級生だと気づいたみたいだ。
体育館裏は林に囲まれていて狭い。
松乃葉先輩の方からでは、正面に佐々岡と歩園が立っているため、そのすぐ後ろでかがんでいる僕と真智田はほぼ見えなかったはず。
ごまかし切れると思ったのだろう、両手を開いて松乃葉先輩の正面に立っている佐々岡の背中は自信ありげだった。
バチンッッ!
大きな乾いた音が響くと同時に、佐々岡はぶっ飛んだ。体育館の壁までぶっ飛んで転げ、事態が飲み込めず、呆然と右頬を押さえている。
松乃葉先輩の左手が佐々岡を張り飛ばしたのを見ていた歩園は微動だにしない。きっと、驚いて目を丸くしているのかもしれない。僕自身がそうであるように。
「間に合って良かったよ。わたしも、その遊びにまぜて欲しかったんだよにゃあ」
言って、歩園に迫る松乃葉先輩の顔が一瞬見えた。その妖しい笑顔に、僕は息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと待って、待ってくださっぐぶうっっ」
歩園がうめき声を発して体をくの字に曲げ、膝をついた。それを見下ろす松乃葉先輩の表情は背筋が凍るほど怖かった。
もしかして蹴った? ここからでは歩園の表情は見えないけれど、きっと苦しさに歪んでいるに違いなかった。
躊躇なく、一度引いた右足を蹴り上げる。パンッ! と、勢いでスカートが跳ね上がった。
顎を蹴り上げられた歩園は後ろに飛び、僕と真智田の間を割り入るようにして倒れ込んできた。
真智田はこの事態を理解できていないようだったけど、あっという間に二人が松乃葉先輩にのされたのは理解できているようで、
「あ、あんた、何だよ? 何なんだよ? こんな事して、ただじゃ済まないぞ」
立ち上がり、後ずさりしながら言っている。
松乃葉先輩が凄む。あの天使かと思った容姿と、同様に可愛らしい声からは想像できないほどに。
「わかってるじゃねーかお前! わたしの大事な友達の宮守を傷つけて、ただで済むわけにゃいよにゃあ」
「友達? あんたが、こいつの?」
「わたしだけじゃねーよ。今後、宮守に何かあったら、わたしの友達もおめーらをボロクズのように引っかきまくるからにゃあ!」
……言葉通りただでは済まなかった。
ボコボコにされた三人は謝罪し、あまりの恐怖で泣きながら逃げていった。
そんな三人の後ろ姿から視線を僕に移して、松乃葉先輩は笑った。
朗らかに、可愛らしい二本の八重歯をのぞかせて言う。
「こんなもんで良いかにゃ」
昼休みで、何人かの生徒がグランドで遊んでいる声が聞こえる。この体育館裏は静かなものだった。
僕たちは壁に寄りかかり、並んで座っている。
沈黙を破るように、松乃葉先輩がいきなり僕の頬の傷を触った。
「痛っ、痛いです、ちょっと、え? うわあっ」
顔が近い、近すぎる! 松乃葉先輩が、今にも僕の頬の傷を舐める勢いで顔を寄せた。口を半開きに、舌を出している。
「わー、待って、松乃葉先輩? 待ってください! なんでなんでなんで?」
どうにか松乃葉先輩の両肩を押さえて、止めることができた僕は、すっかり肩で息をしていた……。あーびっくりした。
「むー、にゃんで止めるんだ? そんな傷、にゃめとけばにゃおるんだけどにゃ」
「分かりました、分かりました。何を言ってるのかさっぱりですけれど分かりましたからちょっと離れてください、松乃葉先輩……」
はあ、はあ、はあ……。
再び体育館裏は静寂を取り戻した。
しばらくして、不満そうな顔をしていた松乃葉先輩の表情が和らぐと、口を開いた。
「さっきの、『松乃葉』ってのやめて『雪見』って呼んでくれにゃいかにゃ。わたしは『雪見』にゃんだからさ」
え? 僕は女子の名前を下の名前で読んだことなんて一度もないんですけど……。ドギマギしながらも、僕はうなずいて、「わ、分かりました、ゆきみ先輩」
「『先輩』もいらねーにゃ」
「ゆきみさんで、いいんでしょうか」
「にゃ、は、は、は、は、よし!」そう言って、ゆきみさんは満足そうにして話を続けた。
「どうだろう? これで、あの三人は懲りたかにゃ? もう一発やらにゃいと駄目かにゃ?」
「……どうでしょう? 分からないですけど、ゆきみさんはもう関わらない方がいいです。こんなことに巻き込んでしまってすいません」
「んー? それは違うから気にすんにゃ。わたしがこんなことに巻き込まれに来たんだから。君を傷つけるものから守る為に」
「え?」
「うちの子に優しくしてくれたお礼にゃ。たぶん、これからは君に何かあれば、わたしの友達が守ってくれると思うんだ」
? 友達? 守ってくれる? 言っている意味がよくわからなかった。
あの老猫に制服を掛けたのも、偶然見つけた薄汚れた瀕死の猫が、情けなく命を捨てようとする自分と重なったからだ。ただそれだけのことだ。
「それでも、あの子はとても優しい気持ちになったんだよ。苦しくて、寂しくて、そんな心が安らいだ」
あれ? まただ、僕は考えを口にしていないのに、やっぱり会話が成立している?
「君もさ、あんな奴らギッタンギッタンにしちゃえば良いよ! おもいきり噛みついたりしてさ! にゃはは」
「……僕は、ゆきみさんみたいには、強くないから」
「そんなに優しいのに?」
「ええ? そんなの役にたたないですよ。よく言うじゃないですか、優しいだけじゃ何も出来ないって。力がなきゃ」
「わたしは力があって、強い? でも、そのわたしがここにいるのは、君の優しさがあったからだよ」
「……でも、それは偶然——」
僕がすべてを言うよりも早く、
「偶然でも、結果的にそうにゃっただけだとしても、良いんじゃにゃいの。優しさで、人は集まるよ。だから一人でいては駄目。みんにゃにその優しさを与えるんだよ」
ゆきみさんは立つと、正面に位置を変えて膝をついた。そして両手を伸ばして僕の傷だらけの頬を包むように触れた——。
ひんやりとした手の感触がとても心地良い——。
「優しさは、とても強い力ににゃるんだって」
そう言ってゆきみさんは僕のおでこに、自分のおでこを軽く当てた——。
心臓が、脈打つのが早くなる——。
突然、これは何かが違う、と感じた。予感がする。これはきっと、不思議な何かが起きているのかも、と。
目の前のこの人は、本当に存在しているんだろうか? とさえ思った。
でも、そんなことがあるわけない。もちろん、存在している。
「さて、そろそろ限界だ」
ゆきみさんは立ち上がりながら言った。さらに、
「じゃあ、もう戻るけど、もう一度約束。放課後、授業が終わったらすぐにわたしのクラスに来て。必ず! にゃ」
変わらず強引だった。けれど、僕は承知した。
「それじゃあ、優。バイバイ! またにゃ」とゆきみさんは駆け出す。左手を高く挙げて。
体育館裏からゆきみさんの姿が消えてすぐ、昼休みを終える予鈴が鳴った。
ドキドキしたままだ——僕はしばらくのあいだ、ゆきみさんが見えなくなっても、どこを見るでもなくその辺りを見つめていた。ところどころ、言葉が変だったり、おかしな言い回しをしたり、よく分からないことを言ったりするけれど——。
胸はドキドキしたままだった。
最終のチャイムが鳴った。
最後まで、あの三人は目も合わせてこなかった。
僕は帰り支度をして急いで教室を出た。
三年二組の教室の前、やはりゆきみさんは見当たらなかった。
「お、さっきの二年くん。ゆーみんに会った? 来てたでしょ」
昼休みに会った女生徒だ。
「いえ、まだ……」
そう言うと、女生徒は教室を覗き込み「いるじゃん。おーい、ゆーみん。こっちこっち」と言って手招きをした。
「ほら、さっき言った二年くんだよ」
ゆきみさんは居たようだ。気づかなかった。とりあえず胸をなでおろした——でも、
「私に何か用? 君、誰?」
教室から出て来たのは別人だった。
「え? ゆーみんの知り合いじゃないの?」と女生徒は首を傾げた。
「あれ? あ、あの、ゆ、松乃葉先輩を……」
肩にかかるストレートの黒髪をパッと右手ではらい、左手を腰に当て、威圧的な態度で僕の前に立つ。大きな目は優しそうだが、
「このクラスに、他に松乃葉はいないわよ」
と言う。きつめの言葉に気圧されてしまう。友達の女生徒が「あー、探してる子は松乃葉何ちゃん? ゆーみんは、由未奈だよ。クラスが違うんじゃないかな?」とフォローするように言ってくれた。
「でも確かに、三年二組って、ゆきみさんが……いえ、すいません、間違えたかもしれません。ごめんなさい。失礼します」
だめだ、意味がわからない、とにかく逃げよう。
「待って!」
その場を離れようとした僕は左手を掴まれた。
「君、今ユキミって言った?」
とっさに僕は、ゆきみさんを知っているのか、逆に聞き返した。
言うなり、彼女は顔色を変えた。「ごめん、亜美! 先に帰って。また明日ね」と友達に伝えると、僕の腕を引っ張り歩き出した。
廊下の端まで連れて行かれて、問いただされる。
「『ユキミさん』って何? どうしてユキミを知っているの?」
彼女の表情は真剣だ。
「あの……昨日の夜——」
言えないことは言わなかったが、いじめのこと、老猫、ゆきみさんのことはほぼ正確に話した。昼休みでのことも。
「君さ——」
ふざけているの? とでも言われそうな勢いだったけど、彼女はそれ以上言わなかった。
なぜ詰め寄られているのかも分からないけど、彼女は思案顔だった。しばらくの沈黙のあと彼女は言った「いま、話の中に出てきたその駐車場に連れて行ってくれない?」
僕たちはそのまま老猫を見つけた駐車場に向かった。
途中、何度かゆきみさんのことを聞いたが、彼女が答えることはなかった。
十月、日が落ちるのも早い。
すっかり暗くなったファミリーレストラン第二駐車場に、僕たちは着いた。
駐車場出入り口の左手前、金網の前にそれはあった。
すっかりかたく、冷たくなっている老猫。
昨夜の帰りに確認はしなかったけれど、ゆきみさんが処理をしたと思っていた。
「そうだったね」彼女は消え入りそうな声でそう言って、膝をつき、老猫をすくい上げた。
「すっかり忘れていたよ、この駐車場のこと。やっと見つけた」
僕は確信した。この猫の飼い主は、この人だったんだ、と。でも、だとしたらやっぱり——。
「君の話し、本当だったんだね。この子を見つけた今でも、全部を信じるなんて出来ないけど——君は信じられるのかな?」
「何を、信じるんですか?」
「この子の名前はユキミ。君の話しに出てくるユキミさんがどういう子かは知らないけど、この子が、ユキミよ。私は松乃葉由未奈」
予感はあった。
——僕は松乃葉先輩の自宅の庭で、指定された場所に穴を掘っていた。
ユキミを埋葬するためだ。
先輩の両親は驚いてはいたが、『見つかって良かった』と、安堵していた。
あれから混乱してしまい、考えがまとまらないままだったけれど、とにかく「ユキミを清めて、埋葬したい」と言う松乃葉先輩に、手伝わせてほしい、と着いてきたのだ。
ゆきみさんは実際、あの三人を張り飛ばしているし言葉も交わしている。おかしなところは確かにあったが、夢であるはずはなかった——でも、あのクラスにゆきみさんはいなかった——。
もしかしたらとは思っていたけれど、こんな不思議なことが起きるのだろうか……。
そこに、風呂場でユキミを洗い終えた松乃葉先輩が戻ってきた。
「お待たせ。穴を掘ってくれてありがとう。ごめんね、宮守くん」
と言った松乃葉先輩のパチリとした大きな目は真っ赤だった。洗っているあいだ、泣き続けていたのだろう。
ユキミは、清潔そうなツヤのある、少し茶色がかった絹のタオルに包まれていた。
埋葬直前、最期に包みを広げてユキミを見る——。
白い——とても、白い——。
「真っ白で、すごく綺麗でしょ」
松乃葉先輩は静かに話し始めた。
「あの駐車場、当時はスーパーの駐車場でね、家族で買い物に行って車から降りた時、ニャ……ニャ……って声が聞こえたの。ちょうど、あの金網のところ」
声が震えている。赤くなった目が、さらに潤んでいる。それでも、右手のひらで大きさを表現しながら、
「こーんなに小さかったんだよ。目ヤニと鼻水がひどくてね、買い物もやめて動物病院に直行。それから——」
松乃葉先輩の頬を涙が伝う。
「それから、ずっと一緒。お風呂に入れたら、真っ白でね、丸くて小さくって大福みたいなの。それでね、名前が《《ユキミ》》」
そう言って松乃葉先輩は、ぼろぼろと涙を流しながら、優しく笑った——。
庭に差し込む明かりで、その身体が輝いているようだ。
この美しい白さがゆきみさんとダブる。
とても白い肌——。
力強いあの姿が思い出された。
『そんなに優しいのに?』
あの、可愛らしい声が頭の中で再生される。
頬に触れた、ひんやりとした手——。
『わたしがここにいるのは、君の優しさがあったからだよ』
おでこの‥…当たった感触——。
優しさは、とても強い力になるんだよ。
涙があふれてくる。
「あ、ああ、ゆき、み、さん」
どれも、全部、嘘なんかじゃなかった。
「うぐっ、ふっ、ゆきみ、さん……」
ゆきみさん、ゆきみさん、ゆきみさん。
涙が止まらない——。
おそらく、この先ゆきみさんと会うことは二度とないんだろう。『またね』と言ったゆきみさんの姿が頭から離れない。『またね』ってこういうこと? こんなのないよ。僕はまだ、何も伝えていない。『ありがとう』と、お礼すらも言っていない。
もっと話したかったことがあったはずだ。
他の動物に掘り返されたりしないように、深く掘った穴に、ユキミを埋葬した。
「ユキミのために、泣いてくれてありがとう。宮守くんのおかげで埋葬することも出来たし、きっと、ユキミも喜んでるよ」
でも、僕は首を振った。
「そうだと、良いですけれど、僕は何にもしていないんです。ユキミ……信じられないと思いますけど、ゆきみさんに、ただ、助けてもらっただけなんです。お礼すら言えてません」
「『それで良いんじゃないかにゃ』きっと、ユキミはそう言うと思うよ。あの子は君の優しさに応えただけ。お礼なんて求めていないよ」
「え?」
「それに、宮守くんの言っていたこと、本当だったんだ、て今はもう信じているよ」
「本当ですか? ……どうして?」
「さっき部屋に戻った時、小学生の頃書いてた、ユキミ成長記が机の上に置いてあったの。えんぴつと一緒に。私、ユキミの日記をつけてたこと、すっかり忘れてたよ。どこにあったんだろう? それも覚えてないくらい」
「ゆきみさんが、それを?」
松乃葉先輩は軽くうなずいて、「最後のページに汚い字で、『優しくしてくれてありがとう』って書いてあった」そう小さく言った後に、また話しを続けた。
「ユキミ以外にいないと思うんだよね。ベッドには長袖のワイシャツと、冬服のスカートがたたんであったし。もうすぐ衣替えだから用意はしていたけど、きっとタンスから出したんだろうね。本当、綺麗にたたんであった。……不思議」
松乃葉先輩は少し上を向いて、
「あーー、私も会いたかったな。ユキミに。白いワンピースを着たユキミに。ん? そのワンピースは自前だったのかな?」
真っ赤に腫れた目は、少し寂しげだったけれど、そう言って肩を上下させたあと、僕を見て笑った。
「そうだったんですか」
良かった——。
信じてくれる人がいて——。
ゆきみさんが幻ではなくて——。
ゆきみさんに誓うように、想う——。
これからも僕は生きていく。
ゆきみさんの言っていた、やさしさのつよさが僕の勇気になるはずだ——と。
そして、僕は駐車場で見た、白と黒の二匹の子猫のことを松乃葉先輩に話した。
「もしかしたら、ユキミの子供かな?」
明日二人で見に行くことになった。
おしまい