冷気と恐怖と口付けと涙と
シンとして、何の音もしなかった。
私は闇魔法で目眩ましをすることも。
風魔法で飛んで逃げることもせず。
目をきつく瞑って、立ち尽くしていた。
天才とされるお方が、格下の私なんかから婚約解消を願い出られ、あまつさえ飛んで逃げられるなんてことが起きたら……それこそ天才の名折れだと思ったのだ。
この一件は、彼の経歴に傷を付けることになるだろう。もしかすると、そもそも私との婚約自体が傷のようなものかもしれないけど。
婚約解消するなら、とことんやってやりたかった。
言い逃げするんだと……今朝までは、頑なに決めていた。
けど……私の体は、動かなかった。
俯いたら、美しい深緑のドレスが目に飛び込んできた。
ずっと憧れていた家紋の花が、ドレスに金色の刺繍となって咲き誇っていた。
必死に名を呼ばれ、最後の言葉なんて……まるで、すがられているのだと錯覚しそうになった。
今日は朝から、幸せすぎたのだ。
馬車で隣に並び、肩を貸してもらったこと。エスコートされ、可愛いと言ってもらったこと。
私にだけ贈られた花も言葉も、全部が輝きすぎていた。
それにこれまでだって……
学園に入る前は、私のどんな質問にも真摯に答えてくれた。私の願いであった、手を抜かない、をちゃんと守ってくれた。
学園でもそうだ。恋人は作らず、私が危ない目にあったり熱を出したら心配してくれた。
秀才と呼ばれるまで、育て上げてくれた。
最後は一番に、頭を撫でてもらえた。
婚約者らしいことはなかったけど……それでも、大事にはされていた。
……謝ろう。
謝って、許してもらえるものではないと思うけれど。私の言葉は撤回して、正式に、テルネッド様から婚約解消を告げてもらおう。
そして許されるなら……彼の役に立てるような人間になろう。今度こそ、ちゃんと。
先生と生徒ではなくなったから、師匠と弟子かな……そんな師弟関係を、ちゃんと築き上げよう。
エデルガー先生と呼ぶ毎日に、ちゃんと馴染むんだ。
決意を固め、一度だけ深く息を吐きだして……きっとこれまで見たこともないほど、冷徹な眼差しを向けられているだろうと想像しながら目を開けた瞬間。
「え?」
先程まで正面にいたはずのエデルガー先生がどこにもいなかった。
「えっと……?」
先生はいないし、周囲の生徒達はやけに私から距離を取っている。これは危険人物だと思われているのだろうなとは思ったのだけど、こちらを見る周囲の目と微妙に目線が合わなくて。
そして私は、目の前……先生がいたはずの場所に、明らかに今までなかったものが出来ていることに気付く。
「……あれ?」
そこにはなぜか、それなりの大きさの穴があいていた。
いや、穴というよりは……何かにえぐられたような地面になっている。それに何だか床一面が薄っすらと冷気をまとっているような……?
この穴は一体? そしてこの冷気はどこから──
と、私がそこそこ冷静になって、現状把握をしていた最中。
「ソラニア」
背後で聞こえたのは、冷酷な声だった。
ぞくりとした感覚が背筋を張って一瞬にして体に力が入る。
だめ! 振り向いてはだめ!
本能が危険を告げる。警告音が頭の中に響くかのようだった。昔、私が誘拐されかけた時、野盗の一団に対して母が怒れるまま拳を振るっていた姿を見た時に感じたものより、ずっとずっと恐ろしい感覚だった。
この声の主、は……間違いなく……エデルガー先生だ。
でも彼のこんな声、私は一度だって聞いたことがない。
怒っている。
これはもう、激怒と言ってもいいかもしれない。姿を見ていなくてもそれは確実に分かる。
どうしてここまでの怒りを前に、悠長に自身を振り返ったりしていたんだろうと、とてつもない後悔が押し寄せてきた。自分の迂闊さと、置かれている状況を理解しきれていない頭がパンクしそうになりながらも、足元の冷気は上へ上へと伝ってくる。
エデルガー先生は、最低にも恩を仇で返すような発言をした私に怒っているんだ。
こんな私は……先生に、嫌われてしまっただろう。
「……こちらを向いて」
嫌われてもいいとすら、思っていたはずなのに。
初めて自分に向けられたエデルガー先生の怒りの感情に、何をするにも怖気づいてしまった私は、指先一つ動かせなかった。
「ソラニア、もう一度言うよ。こちらを向いて」
無理。無理無理無理無理!
いやだ。こわい。向きたくない。
「ソラニア」
冷気が……ほら、もう物理的にも凍えてる。パキパキと広がる薄氷に、怯える生徒達。私を見る皆の目が……違う、私の背後にいる人を見る皆の目が、もう、恐怖に怯えきっている。
手元にあった花がパキリと割れた。防護魔法がかかっているはずなのに、呆気なく、凍って折れた。
誰かに助けを求めたくて視線だけを彷徨わせると、この状況で唯一、動けそうな人を見つけた。彼女は特別講師らしく、生徒達をその背に庇ってはいるが……青白い顔をしている。
しかし彼女なら……同じ天才の彼女と手を組めば、太刀打ちできるかもしれない。他力本願でいい。この場合、仕方がない。共に立ち向かってもらえれば、少しは勝機を……いや、逃げ道を見いだせるかもしれない。
「……た……たすけ……」
「誰に助けを求めているの?」
「ひいぃ!」
後ろから抱きすくめられて、肩が強張る。私の前に回された腕。もう片方の空いた手で顎を撫でられるが、その指先の温度すら感じられない。
「他の人を見ないでほしいな」
ガタガタと震える体を抱き込まれ、耳元で囁かれたけれど。私は先生の言うことをまともに理解出来ずにいた。
「いくつか質問をさせてね。答えられるものから答えてくれていいから」
もう折れてしまった花は、先生に取られ床に放り投げられた。そして私の空いた手が取られて……
手の甲に、エデルガー先生の唇が、押し当てられた。
「…………え?」
そこでやっと、手の感覚が戻ってくる。
けれどやはり、理解が追いつかなくて……この口付けは、何の意味が…………?
「先程の幸せに、というのはどういう意味かな? それに、好きでした、という言葉も過去のことのように言ったね。それはもう、ソラニアは私のことなど好きではなく……私が誰か他の者と幸せになることを望んだということ?」
「……そ、それは……」
「婚約解消を願って、私の元から離れようと思っているのかい?」
「あ……その…………そう……でした」
嘘をつけない。ついたら一生、話せなくなる。そのぐらい恐怖が拭えない。
「そうでした……か。今はもうその気はない?」
えっと……今聞かれているのは、離れる気があったのかってことで……いや、違うな……過去形で答えたことを聞かれてて……えっと……その気はないってことだから……いや、待って。何を、答えれば……
完全にパニックになった私の思考はまとまらず。何を聞かれて……何を答えればいいのか分からなくなってしまっていた。
「私から離れるなんて……しないよね、ソラニア?」
頭の中だけごちゃごちゃとしている私にも分かるように、ゆっくりと問いかけられた。
その時、私は母の教えを思い出した。
女は愛嬌と度胸と忍耐力だ、と。
今まさに必要なのは、度胸、なのだと思った。
「し……しません」
「ん?」
「しません!」
絞り出した声は、今まで出した声の中で最もか細かったが、はっきりと彼の耳にも届いたと思う。
「したくない、です! 離れたく、ない、です! 本当は……ずっと、婚約者で……いたい、です」
耐えられなかった。恐怖とともに、押し込めていた願望が雪崩込んできたのだ。
このままずっと抱きしめられていたい。
このままずっとずっと、近くにいたい。
涙がぼろぼろと溢れて、ドレスを濡らす。
必死になって声を張って答えた。
「幸せに、なってほしく、ないです! 私が、一緒に……幸せに、なりたい……です!」
「私もソラニアと幸せになりたいと心から願っているんだよ。ほら、こっちを向いて。ちゃんと顔を見せて、抱きしめさせて」
「…………いやです……」
「なぜそんな意地悪なことを言うんだい?」
「…………エデルガー先生、恐い……から……」
そう言い終えたら、ぐるりと体を回されて正面からしっかりと抱きしめられた。
「ごめん。こんなにも恐がらせるとは……ソラニアが私の元から離れて行くようなことを言うし、ソラニアに嫌われたのかと思うと、あんまりにも気が動転して。婚約解消なんて、絶対にしないからね。絶対にしない。だからもう二度とあんなことを言わないで。そこら中を壊してしまうよ」
婚約解消は絶対にしないという言葉に、涙が止まらなくなった。そして恐怖から解放されたからか、私の口からは恨み言が出てきてしまう。
「ごめん、なさい……うぅ……でも……私だって……私だってぇ! た、くさん、我慢! してきて……エデ……ガー……先生が……私のこと、なんて……」
「ソラニアは、我慢していたの?」
「私……わたし、もっと……たくさん、お話し……したかった、のに……」
「そうか。私が間違えてしまっていたんだね。ごめんね、泣かないで」
間違えていた?
スンスンと鼻をすすりながら何のことだろうと考えていたら、涙を吸い取られるように、私の目尻にエデルガー先生の唇があてられた。
「間違わないように気を付けていたのに……本当に、だめだな、私は」
ごめんね、と謝る声も表情も、心から反省をしているものだった。腕の中から見上げたら、先生まで泣きそうになっている。
「話は帰ってゆっくりしよう。言い訳になるけど、聞いてほしいんだ。あと折角の卒業式なのに、悲しい思いをさせてしまって……本当にごめん」
申し訳無さそうに謝られるエデルガー先生は、私の涙を拭い続けてくれている。私はまだ泣いてはいるが、先程よりは話が出来るようになってきて、それとともに自責の念に駆られた。
「……ごめんなさい、エデルガー、先生……怒らせて……怒らせるようなことをして、ごめんなさい」
「ソラニアのせいではないから謝らないで。それにね、ソラニア、もうエデルガーと呼ぶ必要はなくなったよ。また昔のように……いや、さっきまでのように、名前を呼んでくれるかい? あんなに悲しい声で名前を呼ばれたままなのは嫌なんだ」
もう……エデルガーと呼ぶ必要はなくなった?
さっきからずっと、彼の言うことに疑問は残るけれど……不安そうな瞳で私を見つめる彼を安心させることの方が、今は優先させるべきだと私の本能が告げていた。
「テルネッド様!」
私が力強く呼べば、安堵したようにテルネッド様が笑った。
「ああ……! ありがとう、呼んでくれて。ずっとそう呼ばれたかったんだ! とても幸せだよ。今すぐ帰って話をしよう。飛ぶから私に掴まって」
テルネッド様がそう言って、私を更に抱き寄せる。
学園に入る前のお茶会で、疲れ切った私が動けなくなったりすると、テルネッド様は私を抱き上げて風魔法を使って飛んで帰ってくれたりした。その際に空から眺める領地や自然の美しさを見せてもらったし、風魔法をコントロールして上手く飛べるようになる方法も教えてもらった。
今回……私が逃げるために使う予定だった風魔法も、テルネッド様が直々に教えてくれたことだったのだ。
もしも使っていたら、なんて考えられなかった。
使わずにいて、抱きしめられて、私からも強く抱きついて。
それが許されることが幸せで幸せで……
この時の私は、ここがどこかも、何をしていたのかもすっかり頭から抜け去っていた。
とにかく誰よりも近くにいられることが嬉しくて、抱き寄せられるがままに全身でしがみついた。
「それではお騒がせしてすまなかったね。私とソラニアはこれで失礼するよ。その穴と天井は、この後に来る公爵家の者に直させるから」
天井? と思ってちらりと上を見たら、天井には穴が……なんてものじゃなく、建物の屋根自体が無くなっていた。
ソラニア、行くよ、とテルネッド様が告げた直後に、一人の女性が彼を引き止める声がした。