どうかお幸せに、婚約者様
卒業式も閉会し、卒業生は各々のタイミングで退場することになった。卒業生同士で話をしたり、在校生と話をしたり、先生方にお礼をして回ったり……
私は一人席に座り、ぼんやりと会場を見回していた。
友人との挨拶も終わり、先生方には後日正式に挨拶に行くから今日は控えるということは伝えてある。在校生にはあまり親しくしていた後輩はいなかったのだが、学術大会の受賞者ということで何人かからは握手を求められて戸惑いながらも嬉しく思い、それに応えた。
皆への挨拶が落ち着いて、一息ついた。
さて……そろそろ、かな。
私は静かに立ち上がり、お目当ての方がいる場所へと一歩を踏み出す。
自分の足が自分のものではないように重い。こんなに進まない一歩は初めてだ。どんな時でも私を前に進めてくれた足も、今日は行きたくないみたいだ。
目的地は決まっている。そこには女生徒の多くが集まっていたから、すぐに見つけられた。
彼は皆から握手やハグを求められ、ハグは出来ないと断りながら一人一人と握手をしていた。頭を撫でるのは……今日は駄目なようだ。
あの手のひらに頭を撫でられたら、どんなことでも出来るようになるんだと思えたんだったな、なんて思い出した。
女生徒達に指導者として、卒業生として優しい眼差しで見つめる彼の隣には、銀色に身を包んだ美しき女神。
それぞれが生徒の対応をしながらも、時折、耳元に口を寄せて話をする。頷き合って、また生徒に向き合う。話をせずとも、目だけを合わせて頷く時すらある。
彼の銀髪とドレスの銀色が、まるで二人が一対の存在であるかのように思わせた。
……長かった。
長い長い……けれど思い返せばあっという間の十年間だった。
いつかあの場所に立ちたかった。隣に立って、笑い合って、励まし合って支え合って。
友人でも弟子でもなく、恋人として伴侶として、あの方の隣に立てる日を幼い頃からずっとずっと夢見てきた。
子供扱いされていても、皆と同じ扱いだったとしても諦められなかった。諦めたくなかった。
私が諦めてしまったら、絶対に叶うことはなくなると分かっていたから。足掻き続けて、ここまできた。
けれどもう……それも終わることになってしまう。いや、私が終わらせる道を選んだのだ。
取れなかった金賞のせいじゃない。金賞を取っていたとしても、きっとこの結末は変えられなかった。最初から私には届かない領域のことだったのだ。
最後に良い思い出が出来た。こんなにも素敵なドレスを贈られ、素敵なエスコートをされるなんて、初めてだったから。
入場する間際、耳元でソラニアが一番可愛いよ、なんて言われ、見上げればとろけるような笑顔を向けてくれた。鏡で確認せずとも自分の顔が真っ赤だったと分かる。そんな幸せ者の顔で入場出来たのだ。
一生忘れないし、あの一言は一生誰にも教えない。私だけの思い出にすると決めた。
大きく深呼吸して、集団へと近付けば……私に気付いたエデルガー先生が女生徒達の輪から抜けて出てこられた。女生徒達は解散を命じられたのか、その場に残る者、去っていく者、まちまちだった。
けれどその場から動かず、じっと私を見つめてくる人がいた。
フルール様だ。
……ごめんなさい。フルール様。
最後に、私の十年間の思いを込めたささやかなる……
いいえ、盛大なる悪事を働いてやろうと思います。
「ソラニア! ごめん、迎えに行けなくて」
「いえ、こちらこそお話の途中で抜けさせて申し訳ございません」
「いいんだ。早く君のところに行きたかったから」
来てくれてありがとう、と言いながらさらりと撫でられた頭に、胸がいっぱいになる。周りからは小さくどよめきが起こった。
「たくさん泣いていたね」
頭を撫でていた手が下がり、私の目尻を撫でる。その指先はほんのりと温かい。きっと魔法で少し指先の温度を上げているのだろう。さらっとやってのけるけど、これも立派な上級魔法だ。本当に……すごすぎて、憧れがやまない。
幸せだ。間違いなく、幸せだった。
大好きで、憧れて、尊敬して。
間違いなく、これからもそれは変わらない。変えられない。
だからこそ私は、あなたに認められたくて必死だった。それはきっと、叶ったと思う。
「ソラニア? どうかしたかい? 少し熱かった?」
名前を呼ばれても反応しない私を、心配そうにエデルガー先生が覗き込んでくる。しかし晴れ渡る青空のような瞳に映る自分をまともに見れそうになくて目を逸らした。
好き。今でも。好きで好きで。ずっと追いかけてきた。
でもそれは、私だけが抱いている感情で。彼から向けられるのは、恋とか愛とかでは、なかったと思う。
……何となく、今日だけは、少しだけ夢心地にもなれたけれど。それもきっと、今日だけ。今日が終わればまた、その他大勢と同じになる。
もう、大勢の中の一人には、なりたくない。
だからもう、終わらせるんだ。
私から、終わりを告げるんだ。
「……エデルガー先生」
「うん?」
「五年間……いえ、十年間、熱心にご指導いただき、ありがとうございました。エデルガー先生のおかげで、私は学術大会でも受賞出来ましたし、この学園でも先生として働けるようになったくらい、力をつけることが出来ました」
「私のおかげなんかではないよ。どんな課題でも諦めずに挑み続けたソラニア自身の力だ」
「……私の疑問も、いつも解決するまで付き合ってくださり、優しく温かく見守ってくださったこと、本当に感謝しています。長い間、ありがとうございました」
今出来る、最高のカーテシーを。優雅に見えずとも、どこか不格好でも。誠意を見せたい。
だってこれからかける魔法は、とんでもなく不義を働くものだから。
「……ソラニア、顔を上げて。感謝の気持ちは嬉しいけど……長い間って何の──」
肩に触れられる直前。
私は俯いたまま一歩後ろに下がる。
「……ソラニア?」
「私にはお触れにならない方がいいです。勘違い、されてはいけませんから」
「勘違い? それは何のことだい?」
もう数歩後ろに下がって、しっかりと距離を取った。
「十年もの長い間、私のような子供の相手をしてくださったこと、心から感謝申し上げます」
「子供? ちょっと待って。何を……」
「ずっと、憧れておりました。少しでも近付きたくて……あなたの隣に立ちたくて、ここまでやってきました」
私は秀才だから。
天才の隣には、立てないのならば。
「……テルネッド様」
ぐっと顔を上げると、そこには困惑した表情のテルネッド様。私の大好きな、婚約者。
「好きでした。ずっと、大好きでした」
テルネッド様は驚いたような、しかしどこか苦しげな表情になった。
余計なことを言ってしまったのかもしれない。けれど、言わずにはいられなかった。
本当は、あなたにもそう思って欲しかった。
あなたは私に魔法の全てを教えてくれた人。心から尊敬する人。あなた以上の人なんて、きっとこれから先も現れない。
好きだと言いながら、距離を取る私の真意を探るようなテルネッド様に、言葉を紡いでいく。
「この十年間、テルネッド様の婚約者でいられたこと。手を抜かないで、恋人を作らないで、という約束をずっと守っていただけたこと」
一度だって、テルネッド様はその約束を破ることはなかった。それが彼の婚約者への真摯な向き合い方なのだと気付くのには時間がかかったけど。気付いてからは、すごく嬉しかった。
「本当に、幸せでした。こんな私と婚約を続けてくださって、ありがとうございました」
天才であるあなたを。
誰しもから愛されるあなたを……
私から、解放します。
けれど……ただでは、解放しない。
これは、私の十年間をかけた、一世一代の悪事となる。
秀才になった私による、過去の私を労うための、悪足掻きだ。
「どうか、お幸せに」
涙は流れない。ただ、微笑みを浮かべるだけ。
テルネッド様の眉間に一瞬で皺が寄った。けれど彼が言葉を発するより早く、私は自身の右手を彼に向かって突き出し、力強く魔法を唱えた。
「『創生魔法!』」
ザンッ! ザンッ! ザンッ! シュルルルルル!
「なっ……!?」
「テルネッド!?」
「エデルガー先生!」
テルネッド様を中心とした三角形の頂点の位置から、地面を突き破って出現したのは三本の蔓だ。自然界では見ない太さのそれらを瞬時にテルネッド様に巻き付かせ、彼の自由を奪った。二本はそれぞれの足首に、残る一本で腕ごと上半身に。
私のこの行動に最も驚いているのはもちろんテルネッド様。
そして彼を呼ぶフルール様と、残った生徒達。
皆の視線を集める中、ほんの少しだけ、彼を足止め出来ればそれで良かった。
「ソラニア!」
「『闇魔法!』」
「キャアッ!」
私の名を呼ぶテルネッド様を無視して、彼の背後にいるフルール様や生徒達を暗闇で覆い、周囲の視界を遮った。あの暗闇は光魔法で打ち消すことも出来るが、私が持続時間と範囲を最大限に延ばしたものだから、光魔法もその分連発しないと消えないようにしている。
これでテルネッド様に巻き付いた蔓を解くには、彼自身が蔓を燃やすか切るかしかない。自分に向けて炎魔法はかけないだろうから、風魔法を操って切る選択肢を取るはずだ。テルネッド様からすればそんな魔法操作は容易いことだとは思うけれど、根本を切っても体や足に巻き付いた分を切り落とすのは繊細な作業となるため、彼でも少しばかり時間を使うと想定している。
そして周囲はまだ暗闇の中にいて、かつ魔法をかけられたのはテルネッド様だからこそ、無闇矢鱈に手を出してはこないだろう。
これは完全に、テルネッド様を足止めしたいがための策だった。
暗闇の中からざわめきや光魔法を唱える声はするが、まだ消されてはいない。それにテルネッド様も魔法を唱える気配がなく、ひどく狼狽えるような表情で私を見ているだけだ。
それはいくらか……想定外のことだった。
瞬時に魔法を破られた場合も考えていたのに。
だから自然と、私の口からは彼への謝罪の言葉が出てきてしまった。
「……ごめんなさい、テルネッド様」
深く眉間に皺が寄って、テルネッド様が苦しそうな顔をした。そんな彼の表情の意図を、私はちゃんと理解出来ずにいる。
「どうして……謝るんだい?」
あなたを貶めるような愚かな婚約者で、ごめんなさい。
あなたの気持ちを汲み取れない婚約者で、ごめんなさい。
心の中でだけ謝って、口には出さずに私は一つ呼吸をした。
あとすることは、最後の言葉を告げて、闇魔法でテルネッド様にも目眩ましをして、風魔法を操って飛んで逃げるだけだ。
逃げる道もちゃんとシミュレーション済みだ。そのために昨晩、この作戦を考え抜いたんだ。使う魔力量も綿密に計算した。家までの道を全力で飛びきれるだけの魔力を残せるように。
そして家に帰り着いたら、自室にこもって、誰も入れないように魔法石を駆使して施錠魔法を何重にもかけて。
それで、おしまい。
まさに言い逃げ作戦。逃げるが勝ち狙いだ。
あとは……最後の言葉を、口にするだけ。
それで、テルネッド様と私は、おしまい。
私はテルネッドを見ていられなくて俯いた。
その言葉を発しようと口を開くのに、空気を吐き出すだけで声にならない。
早く……早く、しなければ!
ギュッと目を瞑って、拳を握る。音にしたいのに、喉からそれが出てこない。
「……『風魔法』」
テルネッド様が唱えた後にザンッと風の音がして、見ていなくても蔓は切られたのだと分かった。
「ソラニア、こちらを向いて」
優しい優しい、悲しげな、声だった。
近付く足音に、体が竦む。
もう時間がない……
早く! 早く言いなさい、ソラニア!
「お願いだから、私を見て」
テルネッド様が一歩、また一歩と近寄ってくる。
「君と話がしたいんだ。俯かないで、どうか私を──」
「テルネッド様っ!」
テルネッド様の言う事を遮って叫んだ。
こうやって名を呼べるのは……これで最後だ。
心の中で自分を叱咤して。
思い切り息を吸い込んで。
私は再び叫ぶ。
「婚約を……解消してください!」