見てしまった聞いてしまった
あれは、エデルガー先生達の卒業間近のことだ。
一度だけ、エデルガー先生とフルール様のお二人がよく魔法の実験をしているという学園内の庭園の横を通りがかったことがある。
エデルガー先生ではない、別の先生から授業で使った道具の片付けを頼まれ、なかなかの重量だったので、両手で抱えて運んでいた時のことだ。
風魔法で運搬しても良かったのだが……家の手伝いをする際に、魔法石は必ず手で運びなさいという教えが体に染み付いていたので、魔法石のついたその道具も、手で運ばないとと思って魔法に頼らず運んでいた。
遠回りをするには荷物が重く、自身の体力を鑑みて……やむなし、と判断してその道を選んだ。
その庭園の前を通る道は、在学生達の間ではほぼ立ち入り禁止が暗黙の了解とされており、私のように荷物の運搬や急ぎの時以外は通るべからず、という場所だった。
その理由は、天才達の邪魔をするな、とのことだ。
私だって、出来るなら通りたくなかった。塞げるなら、耳を塞いで通りたかった。
けれどそんなことは出来ない。だからその会話が聞こえてきても、気配を消して通り過ぎることしか、出来なかったのだ。
「ねぇ、テルネッド。あなた、どうして婚約者の子と話をしないの?」
「……まだ子供だから……かな」
「子供って……私達が一年生の時にはお付き合いもしていたし、口付けだってしていたわ。子供なんかじゃないわよ」
「口付け……? ああ、あの、手の甲にしたものかい? あれはああした方が他の生徒を諦めさせられると君が言ったからだろう?」
「何よそれ。私が無理矢理させたみたいに。でもその通りだったでしょう? 私はいつもあなたのことを考えていたのに、いきなり婚約者が出来たから別れよう、だなんてひどいものだったわね。それも閣下に言われたことだから絶対だ、とも言っていたかしら」
「父には逆らえないよ。婚約者とは、そういうものなんだろう? 私は魔法の天才でも常識には欠けるから、父の教えには従っておかないと。間違いを犯してしまってはいけないからね」
「魔法の天才で、常識知らずなんて変な話よね。それに女心を分かってなさすぎるわ」
「……それなら尚更、間違えないようにしなければいけないな」
「他の人の前では、あまり自分が常識に欠けている、なんて言わない方が良いわよ。私だからあなたを理解出来るけれど、他の人が聞いたら、天才が何を言ってるの、と不思議がられてしまうわよ」
「そう? それなら気を付けよう」
初めてお会いしてから五年以上。少しでも近付きたくて日々自身を研鑽してきたつもりだ。
それでも私の評価はまだ、子供のままだった。
しかも、彼を理解できるのはフルール様だけ、ということを否定されなかった。
エデルガー先生がフルール様と別れたのは、閣下や従者に言われたから。そして今、恋人を作らないのは、私に言われたから。
そこに先生の意思や気持ちは無いんじゃないかな……私との婚約も……閣下がやめるといえば、さらっとやめてしまえるもの……なのだろうか。
これがフルール様だったら? 元々の婚約者がフルール様だったら、先生は、婚約者でいたいと望むのだろうか。
もう、足元が真っ暗になった気がした。
けれど……気がしただけで、ちゃんと足はあり、地面も見えた。潤むのは目を開けすぎていたせいで目が乾いたのだと思い直し、私は荷物を運ぶために、一歩を踏み出した。
天才の隣に並び立てるのは、天才だけだと言われている気がして。そんなこと分かりきっていたはずなのに。
こんなにもショックを受けるだなんて、自分でも驚きだ。大丈夫。悲しくはない。だって私は天才じゃない。
自分で彼に言ったんだ。認められたいって。
フルール様は、一度恋人関係にまでなったお方で。選ばれた理由は、魔法の才があったからで。私と出会う前から彼に認められたお方なのだ。
そんな方と自分を比べるなんて、おこがましい。
驕るな。少しでも近付けたかもしれないなんて、調子に乗るな。私はただの凡人だ。もっともっと、エデルガー先生に認められる存在になるんだ。
下唇を噛み締めて私は進んだ。涙なんか、流したくなかった。
この時、私が通り過ぎたことに気付いた先生が、私に声をかけるか逡巡していたなんて、知る由もなかった。
そして迎えたエデルガー先生の卒業式。
卒業式では一般的に、卒業生の婚約者や恋人がエスコートしたりされたりして入場する。いない場合は友人や家族のこともあるが、高位貴族の多いこの学園では少数派である。
だから私も、エデルガー先生にエスコートされる予定だったのだが……卒業式の朝、なんと王妃陛下の急な体調不良によって、先生はその治療にと駆り出されてしまって、エスコートは無しとなった。
そこにはフルール様も呼び出されていて……
卒業式を遅刻する形となった二人は、理由が理由なだけに特別入場となり、エデルガー先生がフルール様をエスコートする形で入場された。
卒業生も在校生も、大きな拍手で二人を迎えた。フルール様は少し照れたように微笑みながら、エデルガー先生の手を取っていた。対する先生も、いつものように柔らかな微笑みでフルール様を見ておられて……
それ以降、私は顔を上げることが出来なかった。
エデルガー先生が壇上で卒業生代表の挨拶を述べていても、私は座った膝の上においた自分の手を見つめることしか出来なかった。折角の挨拶だったのに、半分も聞き取れてはいなかった。
そして式が終わってからも、エデルガー先生はたくさんの人に囲まれ……その隣にはフルール様もいて、まるで二人を祝福する人々を見ているかのようで。
被害妄想……なのだとは分かっていたけれど、私は何も言わずに家に帰ることで自身の心を守った。
卒業おめでとうございます、という言葉は、手紙にしたためて公爵家にお送りした。その夜、先生から来た手紙には、
『ありがとう。今日はソラニアをエスコート出来ると楽しみにしていたのだが……当日にごめんね。また学園で会おう。』
という返事があって、それも机の引き出しにしまった。
卒業式がこんなにも苦い思い出になるなんて思ってもいなかったけれど……彼らは陛下からも必要とされるような天才だから仕方がなかったんだ、と何度も何度も自分を納得させて。どうにか持ち直したのだった。
二年生に上がれば、学園では月に一、二度、エデルガー先生にもフルール様にも会うことになった。彼らは学園の特別講師として、教壇に立つようになったからだ。
特にエデルガー先生には座学だけでなく、魔法演習も本格的に見ていただけるということで、生徒達……特に女生徒の熱量はとんでもないものがあった。
私はといえば、とにかく出される課題に答えるのが精一杯で、少しでも良く見せようなどと色気立つ暇などなかった。なぜなら先生の出す課題が、鬼畜の一言に尽きるものだったからだ。
これを授業時間内に!? なんて考えたことは数えられないぐらい。息をする度に思っていたのではないだろうか。
最初のうちは授業内では課題を達成出来なくて、エデルガー先生からもアドバイスをもらいながら一ヶ月をかけて練習し、次の演習で披露するなんて当たり前だった。
それがやっと授業の間に課題を一つクリア出来るようになったのは、その一年以上後……三年生の半ば頃だったと思う。
そうすると今度は課題が増えたり、難易度が上がったり……
最終学年になった頃には、私の課題はほぼ学術論文に記載されているレベルのものになっていて、それを達成すればクラスメイトから拍手が起きたりもしていた。
エデルガー先生も満足そうに笑ってくれたので、自身の実力がしっかりとついていることが確信出来た。
そうして迎えた、最終学年での最後の演習授業。
エデルガー先生考案の最難関課題を、私はどうにか授業時間内に達成してみせた。クラスメイトからも、さすが! と褒めてもらう中、先生がふいに私の前に立ち、その手を私の頭の上に乗せた。
「まさかここまで出来るとは。さすがだね、ソラニア。私は君が誇らしいよ」
と、学園に入学してから初めて、エデルガー先生に頭を撫でられたのだ。
入学前までは、先生とのお茶会という名の魔法訓練会で、一つ魔法が使いこなせるようになる度に撫でてもらえていた。
その懐かしさから、彼への好意が湧き出しそうになって……私はそれを自分の中で必死に押し留めた。
やっと……やっと、私は認められた、と思った。
だから自分の卒業式は堂々と胸を張って、エデルガー先生のエスコートを受けたいと、密かに楽しみになったりした。
けれどここで、クラスメイトの一人が、私も頭を撫でられたいです、と先生に申し出た。
「頭を撫でられたい? どうして?」
「ソラニア様ほどではありませんが、私も頑張ってきました。エデルガー先生に褒められたくて、苦手だった雷魔法も使いこなせるようになったんです! 卒業前に一度だけ、思い出としてお褒めいただけませんか?」
生徒として……その願いはごもっともだ。
頑張る、なんてのはそれぞれのものさしではかるもので。私の頑張りも、彼女の頑張りも、同じだけの熱量があると思った。
しかし……どうしても、この手が他の人の頭を撫でることは嫌だった。私だけに許されたものだと、思いたかった。
だけど、ここで嫌だなんてわがままを言っては、先生にもクラスメイトにも嫌われてしまう。何も言えずに黙り込んだ私をおいて、時間は進み……私の頭からその手が離れた。
「確かにそうだね。君も苦手克服をしたし、よく頑張ってくれた」
そう言って、エデルガー先生はそのクラスメイトの頭を撫でた。私の時よりは短い時間だったと思うけど……胸が張り裂けるくらいに痛かった。
それからは先生の元に生徒が押し寄せて……友人達は私に気を遣って行かずにいたけれど、私が、行ってきて、と言ったら先生の元へと向かった。
そりゃあ、誰しもが憧れる天才魔法使いに褒められるのだ。しかも先生は、一人一人の得意不得意をしっかりと把握していて、その人に合わせた褒め言葉で褒めて、頭を撫でて、としていた。
最後のクラスメイトの頭を撫で終わった先生と目が合った。先生は微笑んでくれたけど、私はそれに返せず、目を逸らしてしまった。
先生がひどく驚いた顔をして……一瞬で微笑みを消したことなど、私には分からなかった。先生の演習最後の挨拶だったのに、ありがとうございました、という簡単な言葉だけになった。
この日は家に帰って泣いた。泣いたらスッキリしたし、私だけ特別扱いしないエデルガー先生は、指導者という立場として正しいことをしたのだと、冷静に考えたら納得出来た。
翌日の授業は、何事もなく受けられた。クラスメイトがエデルガー先生の真顔は初めて見たという話をしていて、その表情が見られなかったことは少し残念だったな、と考えてしまうくらいにはちゃんと復活していた。
そうして、五年間、天才であるエデルガー先生に容赦なく……いや、婚約者になった日に約束した通り、手を抜かずに育てていただいたおかげで、卒業後はそのまま学園に残って教師になることが決まった。
ただ平凡な私のままであれば到底なれなかった職だ。
エデルガー先生には感謝してもしきれず、このご恩を返すには……と考えた時に、私と先生の関係を見直そう、と思った。
そうしてこれまでの婚約者としての十年間と、生徒と先生としての五年間とを比較した結果……
先生にとって、私は婚約者ではなく、魔法について高め合えるような存在である方が良いのではないかという考えが浮かんだ。
実力は認められたと思うけれど、いっても秀才止まりだった。しかも私は五年もかかってやっと認められたところを、フルール様は入学後すぐに認められていて、今では共同研究者にまでなっている。
これは……私が身を引くべきなのかもしれないと……そんなことが脳裏を過ぎった。
だから私は、一つ、自分自身に賭けをした。
卒業論文とは別に、自身の力のみで完成させた論文を魔法協会が開催する魔法学術大会に提出し、その結果が最も良い金賞であれば、自信を持ってエデルガー先生の婚約者でいたい、と。
それ以外だったら、婚約を解消して、少しでも先生の役に立てるような人材になろう、と。
そんな賭けを、思い立ったのだ。