007.【サフィール】兄弟の宣戦布告
「アルジャン。お前、ジョゼと会っただろう? 何を考えている?」
サフィールは時鐘塔から帰ったその足で、アルジャンの私室へと向かった。弟の行動の意図を探ろうとしたのだ。
「ジョゼ? もしかして、ジョゼフィーヌ嬢のことですか? へえ。兄さんと彼女は愛称を使うほどの間柄なのですね」
「……む、昔からの知り合いなんだ」
「最近母親が再婚して伯爵令嬢となったようですが、元は地方男爵の娘でしょう。兄さんと彼女にどのような接点があったのかは存じ上げませんが、恋仲ではないのですよね?」
サフィールとジョゼは恋仲ではない。ただの知り合いである。現段階では。
サフィールとテーブルを挟んでソファに座るアルジャンは、兄に香茶を勧めながら微笑む。
「僕はジョゼフィーヌ嬢と結婚したいと思っているのですが、構いませんよね?」
「……んなっ」
「兄さんと彼女はただの知り合いなのでしょう? それとも、何か不都合でも?」
不都合だらけである。恋を自覚したサフィールは、一年かけてジョゼを口説き落とそうとしていたのだから。
「なぜ、彼女なんだ?」
「ロベール伯爵家の娘なら、第二王子との結婚に反対する者はいないでしょう?」
「それなら、ロベール伯爵の実子、アレクサンドラがいるだろう」
「でも、僕が出会ったのはジョゼフィーヌ嬢ですから」
アルジャンの本心が見えず、サフィールは焦る。ただ「結婚に適切な相手だから」という理由でジョゼと結婚しようとするのは不自然な気がするのだ。
「ジョゼのどこを気に入ったんだ? ふ、触れたのか? 手を握ったのか?」
「触れると何か問題でもあるのですか?」
アルジャンの問いに、サフィールは答えられない。触れると恋を自覚する、という不思議な現象の説明もつかず、また、アルジャンが恋に落ちるとも限らない。
「触れてはいませんよ。ただ帽子を手渡しただけです。そのときに、彼女からいい匂いがしたものですから、少し気になったのですよ」
サフィールもそれには納得する。ジョゼからは甘い菓子や焼き立てのパンのいい匂いがする。たまに香水をつけていることもあるが、サフィールはジョゼのその甘い匂いが好きなのだ。
「調べると、男爵の死に不審な点はありませんし、ロベール伯爵夫人とその実子の評判も悪くありません。既に陛下からもお許しを得ております」
国王がアルジャンとジョゼの結婚を許可した――サフィールの顔は蒼白になる。いつもどおりなら、ジョゼとアルジャンの結婚が決まるのは、サフィールとアレクサンドラの結婚のあと、つまり一年以上あとの話だ。
「いつもと、違う」
ジョゼの言葉を、サフィールも身をもって理解する。こんな形でなくともよかったのに、と思わずにはいられない。
「今度、ジョゼフィーヌ嬢を招いて婚約の話をしようと思っています。兄さんとジョゼフィーヌ嬢が恋仲ではないのなら、僕が求婚をしても構わないでしょう?」
「……恋仲だと言ったら、どうするんだ? 諦めるのか?」
「そうですねぇ」
アルジャンは香茶を飲んで少し考える。サフィールにとっては、果てのない拷問のように長い時間だ。
「諦めないでしょうね」
アルジャンの笑みはまるで宣戦だ。兄弟の間で争いを起こしても構わないという意思表示だ。
兄はただ、穏やかで優しい弟にこのような一面があることに驚いている。いつものアルジャンなら、兄のお気に入りを奪おうとは考えないだろう。自分の手中に収めようなどとは考えないはずだ。
「なるほど、これは」
いつもと違う。
サフィールはようやく悟る。今回は、いつもと同じではダメなのだ、と。だからこそ、ジョゼは幸福な結末への希望を見出したのだろう、と。
――ならば、俺もいつもと違う選択をしなければならない、ということか。
「アルジャンの気持ちはわかった」
「ありがとうございます」
「だからこそ、俺もジョゼを諦めるわけにはいかない」
アルジャンの瞳が一瞬大きく見開かれ、すぐに細められる。兄の決意に驚いたものの、応戦する構えの様子だ。
「求婚の邪魔はしない。だが、諦めはしない」
「もし、ジョゼフィーヌ嬢が僕の求婚に応じてくださったら、どうするのですか?」
「そうだな。結婚式まで足掻いてみせるさ」
「もちろん、聖教会の教えに背くことはいたしませんよね?」
聖教会は婚前交渉を禁止しているため、結婚初夜まではどちらも身奇麗でなければならない。サフィールは当然だと言わんばかりの表情で頷く。
「当たり前だ。正々堂々と、アルジャンからジョゼを奪ってみせる」
「そうですか。では、お手並みを拝見いたしましょう」
こうして、兄弟の、一人の令嬢をめぐる争いが始まった。
「それにしても、このクッキーはあまり美味しくないな」
「好いた人の焼き立てのクッキーがここにあると思ったら大間違いですよ」
ただ、基本的には仲のよい兄弟なので、開戦したとは言っても和やかではあった。今のところは。