005.アルジャン王子登場
「……なぜ私の名前を知っているのでしょう? どこかでお会いしたことがありましたか?」
今回は、これがアルジャンとの初対面だ。高貴な人の顔と名前を知っていることを、訝しがられている。
ジョゼは慌てて最敬礼を行なう。既に、アルジャンを守るための騎士が近くに立っている。
「あ、サフ、サフィール王子殿下とアルジャン王子殿下は、我が国の至宝でございますから、社交の場では遠目で拝見しておりました」
「なるほど。そういえば、ロベール伯爵家の馬車が停まっておりますね」
「はい。ロベール伯爵家のジョゼフィーヌと申します」
ジョゼフィーヌ、と小さくアルジャンは呟く。懐かしい声だとジョゼは思う。何度も結婚をし、何度も死に別れた人だ。情も湧くものだ。
「どこか懐かしい……初対面だとは思えないくらい、胸にすとんと響いてくるお名前です」
「ありがたく、存じます」
「顔を上げてください、ジョゼフィーヌ嬢」
緊張しながら顔を上げると、目の前にアルジャンの澄んだ絹鼠の瞳がある。思わず、後ずさりをしてしまう。「そんなに怯えなくても」と、アルジャンは苦笑する。
ジョゼが恐れているのは、彼と触れ合うことだ。サフィールと手を重ねたときのように、びりびりとしびれてしまうと、何だか変な気持ちになってしまう。それが、彼との間に起こらないとも限らないのだ。
「おねえさまぁー!」
「ジョゼおねえさまぁぁー!」
遠くで、イザベルとアレクサンドラがジョゼを呼んでいる。どうやら帽子はかなり飛ばされていたようだ。
その帽子は、未だアルジャンの手の中だ。太陽の下でキラキラと銀色の腕輪が輝いている。イザベルがしているものといい、聖母神像が身に着けている腕輪に似たものが、どこかで売られているのかもしれない。
「あの、帽子を拾ってくださって、ありがとうございました。妹たちが待っておりますので、わたくしはこれで……」
「ねぇ、ジョゼフィーヌ」
「は、はい」
思わず、背筋が伸びる。サフィールには感じない、王族としての威圧感。昔から、彼はそういう雰囲気をまとっている。
「あなたからも帽子からも、とてもいい匂いがするのですけれど」
「それは、バタールか焼き菓子の匂いでございます。今朝も作っていたため、その最中に匂いが移ってしまったのでしょう。気分を害されたのなら、申し訳ございません」
「謝る必要はないですよ。とてもいい匂いです。料理長ではなく、あなたがバタールや菓子を作るのですか?」
「は、はい」
絹鼠の目を細め、アルジャンは「それはぜひとも賞味してみたいものですね」と微笑む。ジョゼは困惑する。もちろん、王族に命令されたなら、拒絶などできないものだ。
「ねぇ、ジョゼフィーヌ。僕は甘いものが好きなのです。持ってきてくださいますよね?」
「……身に余る申し出にございます」
「では、五日後の朝、馬車を迎えに行かせますので、必ず来てくださいね」
拒絶などできない、のだ。ジョゼは腹を決める。
「かしこまりました。王子殿下には嫌いなものや食べられないものはございますか? どのような菓子がお好みでしょうか?」
「食べられないものも嫌いなものもないですよ。ジョゼフィーヌが僕のために作ったものを、食べてみたいのです」
途中でアルジャンの人称が「私」から「僕」に変わったのは、気を緩めたからだとジョゼは知っている。サフィールも、公的な場では「私」を使い、私的な場では「俺」と人称を使い分けている。そのようにして、公と私を分けているのが王族や高位貴族だ。
つまり、アルジャンは今、私的な立場で――個人的な興味で菓子を所望しているということだ。そこまで気負わなくてもいいのかもしれない、とジョゼは思う。
「かしこまりました。五日後に、お持ちいたします」
「ええ、楽しみにしています」
そうして、ようやくアルジャンは、ジョゼに帽子を手渡す。しかし、帽子についていた緋色の花飾りは、彼の手のうちにある。
「王子、殿下?」
「これは五日後に返してあげます。必ず、来てくださいね」
「そんな」
「構わないでしょう? あなたの瞳の色と同じ花飾りを見ながら待つことくらい、許してくださらないと」
ジョゼは言葉に詰まり、頷く。そうするしかないと、わかっている。アルジャンは嬉しそうに微笑み、騎士たちとともに去っていく。
アルジャンが立派な馬車に乗り込み、街道を走っていくのを、ジョゼはぼんやりと見送る。
――アル、って、あんなに強引だったかしら?
一年後に出会うはずのアルジャンは、ジョゼに優しく寄り添ってくれる青年だった。一年前はこんな性格だったのだと、ジョゼは初めて知るのだった。
「なにっ!? 銀の王子殿下から王宮へ招待された!? 素晴らしい! 素晴らしいじゃないか、ジョゼフィーヌ!」
「素敵ねぇ、ジョゼフィーヌ。アルジャン王子殿下はどんなドレスがお好みかしら?」
ジョゼの報告を聞き、ロベール伯爵夫妻は大喜びする。一年後、アレクサンドラがサフィールと結婚することが決まるときと同じような反応だ。
ちなみに、イザベルとアレクサンドラは既に寝室で眠っている。外出でかなり疲れたらしい。
「結婚式のときに着たドレスを着ていく予定でおりますが」
「ダメよ、あれは地味すぎるわ。もっと流行の最先端のドレスが必要ではないかしら?」
「あれで構いません。わたくしは気に入っておりますので」
五日でドレスを仕立ててくれる仕立て屋もないだろうとジョゼは判断する。金を準備してまでやることではない。
それよりも、アルジャンに献上する菓子をどうするかのほうが問題だ。家庭的な焼き菓子にするべきか、小麦はどの産地のものを使うべきか、新鮮な玉子は手に入るのか、大変に悩ましい問題だ。
「ジョゼフィーヌ、わかっているとは思うが、アルジャン王子殿下の前では失礼のないように振る舞うのだよ? 王子殿下の命令は何でも受け入れなさい。未来の銀の王子妃、という可能性もあるのだから」
「そうよぉ。特に銀の王子殿下は先日成人なさったばかり。どこの貴族も、二人の王子に娘を嫁がせたくて仕方がないんですもの。競争に打ち勝たなくてはなりません」
「……精進はいたしますが、あまり期待はしないでくださいませ」
何しろ、アルジャンと結婚しても、ジョゼはすぐに死んでしまうのだ。子どもが無事に生まれたのかどうかもわからないまま、不幸な結末を迎えることになってしまう。
――でも、アルとなら子どもはできるのよねぇ。他の夫たちとの間には全然できないのに。
なぜなのかは、ジョゼにもわからない。だからこそ、アルジャンとの結婚は幸せな結末に近いのだろうと考えたこともあった。
「もしかしたら、恋文が届くのではないかしら? 今、恋人同士で暗号文をしたためた恋文を送り合うのが流行っているのですよ。素敵ねぇ」
「殿下から文が届くのなら、期待はできるな。どちらにしろ、我が娘が王子妃へ一歩前進しているということだな!」
「銀色の装飾品をあつらえなくてはなりませんねぇ」
「そのあたりは任せておく。金に糸目はつけるな」
その言葉で、母の瞳がキラリと輝く。貧乏な男爵家では絶対に言うことができなかった言葉だからだ。
「それにしても、王子殿下の心をつかむジョゼフィーヌといい、聖母神様に似ているイザベルといい、素晴らしい娘が二人もできて、私は幸せ者だな!」
「アレクサンドラという可愛い娘が増えて、お金に苦労することもなくて、わたくしも幸せですわ」
嬉しそうにはしゃぐ夫妻に挨拶をして、ジョゼは自室へと戻る。
――それにしても、アルとはなぜ今出会うことになったのかしら? 不思議ねぇ。
今回はいつもと違う――その意味に気づくこともないままに、ジョゼは柔らかな寝台で眠りにつくのだった。
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