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031.足止め

 別荘がいくつかあるとは言っても、買い物や狩りをするために動きやすい場所に小さな別邸を置いてあるというだけのものだ。今回、三人姉妹だけで泊まっていたのは、街に近く買い物に出かけやすいという場所にある別荘だ。使用人たちは別荘の後始末をしたあとで本邸に戻ることになっていた。

 だから、立派な馬車が庭に入ってきたことに使用人たちは驚いて、仕事の手を止めて外にまで出てくることになった。その中から、ジョゼが下りてきたことにももちろん驚く。


「お嬢様、これは……?」

「サフィール王子殿下の馬車が泥濘にはまって立ち往生していらしたので、急遽こちらで汚れを落としていただくことになりました。皆、お疲れのところ申し訳ないのだけれど、もう少し働いてもらえないかしら」

「王子殿下……!?」


 王家の紋章の入った馬車を見て、使用人たちの背筋が伸びる。疲れていても、相手は王族。失礼があっては大変だと緊張が走る。


「うん、世話になる。だが、極めて私的な寄り道だと思って、気負わずに仕事をしてもらえるとありがたい。もちろん、お礼は弾む予定だよ」


 王子からのお礼、と聞いただけでやる気になる使用人たちではない。だが、彼らにも矜持があるため仕事に手を抜くことはないだろう。

 ジョゼは馬車と馬を洗うための水場を教える。そのあとサフィールを浴室へと案内しようとするが、「汚れたついでだから」とサフィールは馬車に水をかけ始める。どうやら、浴室の準備がすむまで、泥落としを手伝うようだ。「泥だらけのまま室内を歩かれては……」と怯えていたメイドたちはホッとしたものだ。

 食材もまだ残っているため、一泊しても晩と朝の食事は大丈夫そうだ。必要があれば買い足すように、とジョゼは自分の手持ちのお金を料理長に手渡しておく。妹たちほど散財しなかったため、まだ幾らかは残っていたのだ。


 泥がついているのはワンピースだけだったので、ジョゼは手早く着替える。そうして、厨房へ行き、菓子作りを始める。そのため、サフィールが浴室から出てきたあと、すぐに杏入りの焼き菓子を出すことができた。


「ジョゼフィーヌ嬢が焼いたのか?」

「ええ。お口に合うとよいのですが」


 サフィールは目を輝かせながら焼き菓子を頬張る。「美味い!」と言いながら一つ二つと手を伸ばす少年を見て、ジョゼの胸が暖かくなる。


「どこか懐かしい味だな」

「さようでございますか」

「また作ってくれるか?」

「もちろん」

「毎日でも食べたい味だな」


 記憶がなくても杏好きは健在らしい。サフィールの無邪気な笑顔に、ジョゼも笑みを浮かべる。

 馬車の泥も落ちた。騎士や使用人たちの着替えもすみ、サフィールの腹ごしらえが終わればいつでも出立できる状況となっている。だが、サフィールは焼き菓子を食べ、香茶を飲み、のんびりくつろいでいる。

「王子殿下……あまり長居なさるものではありませんよ」と苦言を呈したスチュアートを見上げ、サフィールはきょとんとしている。


「どうして? せっかくお前たちにも休憩を取らせてやろうと思ったのに。ずっと座りっぱなしで尻が痛いと嘆いていただろう。もう大丈夫なのか?」

「王子殿下。予定していた訪問ではないため、この邸には主がいないのですよ。ご令嬢だけで我々をもてなすには、大変な労力が必要となります。その重責をジョゼフィーヌ嬢にのみ求めるのは、我々の筋違いでございましょう」

「……なるほど。では、今度はきちんとロベール伯爵を通して訪問することにしよう」


 ジョゼたち子どもの相手は慣れていても、王族への接し方には不安がある使用人たちは、サフィールの言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろす。前もって訪問がわかっていれば、それなりに準備もできるというものだ。


「ジョゼフィーヌ嬢、大変世話になった。この恩は決して忘れない」

「ありがたき幸せでございます」


 ロベール伯爵が聞いたら感動して涙を流しそうな言葉だ。根っからの仕事人間ゆえに、王族からの労いの言葉を聞くだけで大喜びするだろう。

 だが、ジョゼは父親ではない。感動もしなければ喜ぶこともない。


 ――この時間はもう終わりなのね。


 表面では取り繕いながらも、サフィールが行ってしまうことを、ただ寂しいと感じている。


 ――いっそ、今「恩人と結婚してくれませんか」とわたくしから求婚できたならいいのに……まぁ、そのような勇気はないけれど。


 今のサフィールにそのようなことを言っても戸惑うだけだろう。王妃の座を狙う、したたかな娘だと思われるだけだ。それはジョゼの望むところではない。

 邸主代理として、ジョゼはサフィールを見送るために、馬車へと向かう。その行程すら、寂しく感じてしまう。


「ジョゼフィーヌ嬢は、いくつになった?」

「十四になります」

「社交界デビューまであと二年あるな」

「はい。楽しみでございます」


 とは言ってみたものの、またレナルドにエスコートされることになるのだろうと思うと、気持ちは沈む。もっと薄化粧にしろ派手な顔は慎めとグチグチと言われるに違いないのだ。


「王子殿下は来年でございますね」

「ああ。今から気が滅入るよ。どこかのご令嬢と代わる代わるダンスを踊り続けなければならないんだ。せめて焼き菓子を食べる時間くらいはほしいものだね」

「ふふ。けれど、わたくしはご令嬢たちのお気持ちがよくわかります。憧れの王子様とダンスを踊ることが、どれだけ幸せな時間であることか」

「へえ。ジョゼフィーヌ嬢は俺に憧れているの?」


 不意に見せる悪戯っ子のような彼の表情に、ジョゼはぐっと胸を掴まれるような気さえする。溢れそうになる涙をこらえ、ジョゼは笑顔を浮かべる。


「憧れ、どころか……」


 ――わたくしは、あなたの幸せを心から望んでいる、たった一人の女なのかもしれないわね。


 自らの幸福よりも、彼の幸福のほうが大切かもしれない、とジョゼは思う。そういう縁なのだ。


「この国の娘たちは、皆、王子殿下に夢中でございますよ」

「きみも?」

「さあ、それはどうでしょう」


 顔を見合わせて、笑う。この時間が何よりも愛しいものだと、ジョゼは知っている。

 玄関の扉を開けると、先ほどまで晴れていた空がどんよりと曇っている。どうやらまた雨が来そうだ。


「ロベール伯爵領の天気は、確かに変わりやすいな」

「……土砂崩れや崖崩れがないとよいのですが」


 ポツポツと降り出した空を、二人は心配そうに見上げる。土砂や崖が崩れたことによってサフィールが死んだことはないはずだが、ジョゼは一抹の不安を抱く。

 今回はアレクサンドラの幸福――家族の幸福を第一に考えてきたものの、サフィールと出会ったことでどんなふうに結末が変わるのかはわからない。二人が不幸な死を迎えるかどうかすら、まだわかっていない。


「王子殿下、スチュアート様、大変です」


 どうやら先に早馬で進路を確認させていたらしい。スチュアートが騎士からの報告を受けて、血相を変える。


「王子殿下、我々が向かう先で大規模な土砂崩れがあったようです」

「何? 巻き込まれた者は?」

「幸いいないようですが、今すぐに出立するのは難しい状況でございます」


 土砂崩れがあったとなると、父伯爵もそこに向かうだろう。王家からの伝言を受け取り、慌ててこちらに向かっている最中だったかもしれない。

 王族に挨拶をするより、領主として陣頭指揮を執ることを優先させる父親だと、ジョゼは知っている。邸主代理は、続行だ。


「申し訳ございませんが、伯爵は領主としてそちらに向かうでしょう。邸主不在のままで不安があろうかと拝察いたしますが、お急ぎでないのなら、こちらで一晩休まれてはいかがでしょう?」


 サフィールは一瞬嬉しそうな表情を浮かべたが、すぐにスチュアートと相談し始める。ロベール伯爵家の使用人たちをチラと見ると、皆、覚悟を決めたような表情で準備を始めるところだ。


「ジョゼフィーヌ嬢、そのありがたい申し出に甘えることとしよう」

「かしこまりました。行き届かないところもあろうかと思いますが、誠心誠意、尽力いたします」


 こればかりは仕方がないことだ。雨の中、第一王子一行を送り出すわけにはいかない。不備があろうと、もてなすべきである。


「客室が足りなければ、この街の宿に世話になろうと思う。誰か、スチュアートと部屋割を考えてくれないか」


 そうして、急遽、サフィールがロベール伯爵領に留まることになったのであった。




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