016.再会
舞踏会まで、何事も起こらない。時鐘塔へ行くこともなければ、身に危険が迫ることもない。とても平和な日々が続いている。
三姉妹は仲良くなり、お菓子やパンを作って念願のガーデンパーティをしたのは、ジョゼから妹たちへの配慮だ。もちろん、二人に前回の記憶はない。イザベルもアレクサンドラも大はしゃぎで、「またやりたい」と騒がしかった。だが、その幼さも賑やかさも、また愛しいものだ。
――そういえば、わたくしは誰に刺されたのかしら?
ジョゼが前回の死因を気にし始めたのは、舞踏会が始まる直前だ。王宮へ行くときに聖教会の近くを通るため、時鐘塔が目に入ると、否が応でも刺されたことを思い出してしまうのだ。
「時鐘塔がどうかしたのか?」
「いえ……今夜は舞踏会ですから、夜中にも鐘が鳴るのですよね?」
「ああ。いつもは鳴らない、深夜の五つ時が鳴るのさ」
燕尾服を着たレナルドは「常識だろう」とでも言いたそうな顔をしている。五日前までは田舎の男爵家の娘だったのだ。同じ伯爵位の子どもだと言っても、軽んじられてしまうのだろう。
一度結婚したことのある青年だが、不思議と全く情は湧いてこない。愛人を作って自分を蔑ろにする男なのだ。情など湧くはずもない。
「しかし、お前、割と容姿は整っているんだな」
「もっと垢抜けていない娘だと想像していらっしゃったのでしょう?」
「まあ、そうだな」
レナルドは清楚な美人が好みだと知っているため、ジョゼは化粧を濃い目にしておいた。彼に惚れられて求婚されては、幸福な結末にはならないのだ。
父伯爵はこのエスコートをただの見合いだと考えている節があるため、内心で謝っておく。ごめんなさい、彼とは結婚したくありません、と。
「もう少し化粧を薄くすればもっと――」
「あら。これくらいで辟易されては困ります。わたくしはもっと派手な化粧のほうが好きなのですけれど」
「……へえ、そう」
これでレナルドは完全にジョゼから興味を失ったらしい。「早く帰りたい」と顔に書いてある。ジョゼは心から、微笑んだ。
王宮の大広間はまるで真昼のように明るく、どこもかしこも美しくきらびやかだ。ざわざわと騒がしい中、楽隊がゆっくりとした音楽を奏でる。大広間の壁際には親族が並び、中央には貴族の令嬢令息たちが列を作る。その先の玉座には、国王と王妃が座っている。
ジョゼの位置から、玉座は見えない。第一王子や第二王子の姿を見ることはできない。
「よそ見をするなよ」
「大変失礼いたしました」
レナルドが少しイライラした口調でジョゼをたしなめる。彼は一曲踊ったらすぐにでも帰ってしまうだろう。それだけ、ジョゼに興味がないらしい。
ジョゼが国王夫妻に挨拶をする順番が近づいてきても、その玉座の近くにサフィールの姿はない。ジョゼはがくりと肩を落とす。
だが、国王夫妻の前ではとびきりの笑顔で、最敬礼をして、自己紹介をする。ロベール伯爵令嬢として、父の駒として、今後も精一杯務めなければならないのだ。
皆の挨拶が終わり、国王からの祝いの言葉がもたらされると、令嬢とエスコート役の令息たちが踊り出す。ゆったりとしたワルツを一曲踊ったあと、令嬢たちは目当ての令息と踊ったり、食事やおしゃべりを楽しんだりする。
ジョゼの予想通り、レナルドはさっさと帰るかと思いきや、楚々とした美女を見つけてダンスに誘っている。ブレない男である。
ジョゼも何人かの令息たちから誘われ、ダンスに応じる。断るとあとが面倒くさいからだ。後日、妙に絡まれたり、夜会への誘いが多くなったりするよりは、今その気持ちに応えておくほうが大切だ。
また、何人かの顔見知りの令嬢たちから、母親の再婚祝いの言葉をもらう。そのまま、どこの令嬢が婚約をしたと噂したり、どの令息が好みなのかを話したりして、おしゃべりを楽しむ。会話に入らないことを気取っていると噂され、不利益を被りたくはない。令嬢たちの情報網を侮ってはいけないのだ。
しかし、息苦しくて仕方のないジョゼは、少しずつ大広間から壁際へと寄っていき、少しずつ親族たちの壁を通り抜け、ようやく、テラスへとたどり着く。
「はーあ、疲れたっ!」
途中、夜風の中で飲もうと、杏ソーダのグラスを取っている。伸びをして、首を回し、肩を回して筋肉をほぐしていると、「グラスを持ったまま、器用だな」と懐かしい声が隣から聞こえてきた。
――あぁ。
ジョゼは振り向けない。顔を見るだけで泣いてしまうだろうから、声の主を確認することができない。けれど、やっぱり、ひと目、見ておきたい。
そんな矛盾を抱えたまま、硬直する。
「きみも杏が好きなのか? 杏ソーダ、なかなか美味しいんだ」
「……ええ、好きです」
彼は、自分の死後、どんな人生を送ってきたのだろう。悲しみを誰かに癒やしてもらったのだろうか。それとも、自分を刺殺した犯人を捕まえたのだろうか。
そんな疑念が浮かぶが、今の彼に尋ねても仕方がないことだ。
ジョゼは精一杯の笑顔を浮かべて、隣を見上げる。
「わたくし、毎年杏のシロップ漬けを作って、ケーキやタルト作りを楽しむものですから」
「杏のケーキ? タルト? どれも俺の好物だ」
「ふふ。バターたっぷりの焼き菓子を作るのも得意ですよ」
「う……腹が減ってきた」
月夜の中に浮かび上がる、深い夜の色の髪。月が水面に映って揺れる色の瞳。屈託のない笑顔。少し幼い顔立ちのサフィールが、そこにいる。手を伸ばせば触れられる距離に。
懐かしくて、愛しい気持ちが湧き上がってくる。溢れそうになる涙を、ジョゼは必死で抑える。
「向こうに、たくさん甘いものが置いてありましたよ」
「うん。でも、いいや。我慢する」
きらめく青玉の瞳と視線が合う。目を逸らそうとしたが、ジョゼは失敗した。サフィールから目が離せない。
「きみともっと話したいんだ」
「光栄なことでございます」
「少し不思議なんだけれど、なぜか、きみとは初対面のような気がしなくて」
「人違いですわ。わたくしは田舎者ですから」
「でも、俺の顔を知っているよね? 全然、驚いていないじゃないか」
ジョゼは口をつぐむ。これ以上会話を続けると、どこかでぼろが出てしまいそうだ。
「わたくし、帰らなければなりません」
「五つ時が門限なの? それは困ったな」
言いながら、サフィールはジョゼの前に立ちはだかる。簡単にホールのほうへ帰してはくれないようだ。
「ねぇ、俺のために杏の菓子を作ってきてくれない? きみともっとゆっくり話をしたい」
「畏れ多いことでございます」
「どうして? 得意だと言っていたじゃないか」
テラスの柵がジョゼの背に当たる。サフィールが、徐々にジョゼを追い詰めているのだ。
「それとも、命令をしたほうがいい? そうしたら、きみは絶対に逃れられなくなるけれど」
「い、いけません。それ以上は」
「どうして?」
「そのような戯れは、よくありません」
「よくない、か。俺はきみにとても興味があるのに」
記憶はまだ戻っていないはずだ。だが、ここまでサフィールから興味を持たれるとはジョゼも想像していなかった。前回までの記憶の断片が、そうさせるのかもしれない。
――今、サフに出会うのはいけない気がするわ。どうにかして逃げないと。
ジョゼがこの窮地をどうやって脱しようかと思案したときだ。
「兄さん」
その幼い声に、月の光そのものの色の瞳に、ジョゼはさらに苦境に追い込まれるのであった。





