彼女らのプロローグ
人通りの多い大通りの中を、一人の男を追って走り抜ける。
春も半ば、少しづつ暖かくなってきてはいるものの、運動するには丁度いい気温だ。
頰に当たる風は、少しばかり心地よい。
まあ、実際に走っているのは私ではなく、私の相棒である、シアンだ。
私はシアンに抱きかかえられた状態で男を追跡している。
私は抱きかかえられて運ばれているだけだが、やはり頰に当たる風は気持ちいいし、運動もいいものだと思う。
運動は好きな部類だし、出来ることなら私も地に足をつけて走りたいものだが。
色々訳あって、こんな状況に在る。
何度も言うが、別に頼んでこうしてもらってる訳じゃない。
男が事務所から逃げたとき、シアンは私を抱きかかえ、事務所を飛び出した。
彼がどうして私を持ってきたのか大体検討はついてるが……靴くらい履きたかったな……
「お嬢様」
不意にシアンが呼びかける。
全力で走っているからか、言葉に少々必死さが伺える。
「ん?」
「ここからでも、奴の強化を解する魔法はとどかないでしょうか? いくら私でも、術式による身体強化を施してる相手だと限界が」
まあ、それもそうか。
強化を解する魔法とは、ディスエンチャント。
相手の術を理解し、その効力を打ち消すことができる術式だ。
昔からパパが私に魔術の勉強をさせてきた賜物とでも言えるのか。
勉強は嫌いだが、パパの思いを無下にするわけにもいかないし、一応真剣に取り組んではいた。
こうして、現在役に立っているのであれば、嫌々だったとはいえ、パパに感謝すべきだろうな。
「まあそうでしょ」
素っ気なく返事する。
まあ、強化されている相手に追いつくなんて到底無理か。
いやむしろ、強化無しで身体強化を施している相手と互角程度なのだ。
こいつの身体能力には毎度毎度驚かされる。
「……怒ってらっしゃいますか?」
「突然こんな物みたいにひょいっと連れてかれていい気になる人なんていないでしょ」
「申し訳ございません」
「まあ……別に……あと、このくらいの距離ならとどかなくもないんだけど……」
「どうかされました?」
シアンは不思議そうにこちらの顔を覗く。
「……酔った」
胃の底から何かが溢れ出る様な感覚。
人並み外れた速度で走っている奴にお姫様抱っこされたらそりゃ酔うって。
「大丈夫……ですか?」
「……気持ち悪いけど……さっさと終わらせたいので、ディスエンチャント、撃つよー」
「ありがとうございます」
シアンは礼を言う。
対象はシアンの努力でそこまで遠くなってはいない。
むしろ奴が直線で逃げている今がチャンス。
意識を集中させ、対象を観察する。
絡まった糸を解く様にするりするりと術を紐解く。
「……解析終わり。即時起動型の簡単な魔術だったわ」
「左様でございますか」
形式めいた受け答えが返ってくる。相当疲れているのだろう。
「それじゃあいくよ」
適当な合図をし、魔術を放つ。
「それっ」
手を前に掲げ、力を放つ。
ディスエンチャントが届いたのか、逃走していた男は勢い良く前のめりに転倒した。
顔面からいったわ……すっげー痛そう。
「ありがとうございます。お嬢様」
「礼はいいからさ、降ろして」
本格的に酔った……いい加減、吐きそう……
ようやく解放される……と思いきや、シアンは一向に降ろしてくれる気配がない。
「ね、ねえ。いい加減降ろしてよ」
「いけません!」
「なんでっ!?」
とりあえず事は解決したのにどうして降ろしてくれないのか。
「なんでって……お嬢様の美しい素足を土や埃で汚すわけにはいきませんから」
シアンはさも当然かのように言った。
「いや、そんなの気にしなくても……」
「私が気にするので!」
「お、おう……」
必死か。
そこまで前のめりに説得されると何も言い返せないなぁ……
まあ、シアンのこの過保護のようなものは今に始まったことでもないし。
「なら……君の胸で吐いてもいい?」
「女性に胸を貸すのは、男冥利に尽きることですが、吐かれるのはどうなんでしょうね」
もし、吐いちゃったらその借りた胸は洗ってから返すよ。
「じゃあ、さっさとあいつ、連れて帰ろ。早く自分の足で立ちたい」
「承知しました」
さっさと片付けてしまおう……と思ったら、男はもうすでに立ち上がっていた。
少々無駄話が過ぎた。
「まだ逃げようなんて気、あるわけじゃないわよね」
男は、立ち上がりはしたものの、逃げる素振りは見せない。
「観念しましたか? 返済できないのであればこちらで返済する手立てを用意します。だから……」
「うるさいっ!」
男がいきなり大声を出す。
「……まだ抵抗する気なの?」
「どうせ返済する手立てって言ったって極悪非道な手段で搾取するんだろう!?」
狂ったような大声だ。
「モノ以下に成り下がるくらいならぁっ!」
もう聞く耳を持たないか。
「うあああああぁぁぁぁぁ!」
男は、私たちに拳を叩き付けようとせんとばかりに拳を構えてこちらに突撃する。
もう、説得なんて無意味。
こういうのは何度か見てきた。
こうなると言葉はもう届かない。
醜悪な獣の様だ。
バカみたい。
「シアン」
「かしこまりました。お嬢様」
名を呼ぶとシアンは形式的な短い返答をした。
「はぁっ!」
シアンは襲いかかってきた男に蹴りを食らわせた。
何の変哲も無い蹴りの様に見えるが、超人的な身体能力を有する彼の本気の蹴り。
無事で済む事はまず無い……かな?
彼の蹴りが男の肉を叩く。
どかっと、鈍く、それでいてそこそこ大きな音が響いた。
未だ抱きかかえられている私にも蹴りによる振動が強く伝わってくる。
男は、ボールのように宙を舞った。
「うぅっ……」
今、呻き声をあげたのは男ではなく、私だ。
男は蹴りをくらってくたばってます。
「マジで吐きそうなんだけど……」
シアンの破壊力抜群の蹴りの振動で更に悪化。
「申し訳ございません」
「まあ、あんたのせいじゃないし。いいんだけどね」
胃の奥から湧き出る吐き気を押さえ込みながら蹴り飛ばされた男の方を見る。
シアンの蹴りは見事男のみぞおちにクリーンヒットしていたよう。気絶していた。
そりゃあ十数メートル吹っ飛ぶ様な蹴りを急所にくらったなら、気絶するに決まっている。
「では、連れて帰りますか」
淡々とした口調で、シアンは男の服を掴み持ち上げる。
「持てるか?」
「大丈夫です。人の二、三人くらいは」
「相変わらずの怪力だね」
そんな会話をしながら、シアンは男と私を持ち、再び事務所へと戻った。