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良助

作者: mikoinrp

女子高から共学に変わった都立高校がある。トイレや更衣室など施設面の整備が間に合わないのでいきなり男女同数の生徒という訳にはいかない。そのため男子は女子の半分くらいしかいない高校だった。今その高校で文化祭を迎えようとしている。

1  裕子


 話は約40年前のことである。小山良介という少年が都内の公立高校に通っていた。

 ある日良介は同級生のマサルからセックスの写真を見たことがあるかと聞かれた。セックスというのは女の性器のことなのかそれとも男と女がやっていることなのか分からなかったが、どちらにしても見たことは無いので無いと答えた。するとマサルはブルーフィルムを見たことがあると言う。


 「女とあれをやっているんだぜ」

 「・・・」

 「あそこばっかり大きく写してて気持ち悪いんだ」

 「見たこと無いなあ」

 「写真は見たことあるかよ」

 「写真も無いなあ」

 「今度持ってきて見せてやるよ」

 「うん」


 その翌日マサルが良介を校舎の屋上に連れだして1枚の写真を見せた。それは男と女が結合しているその部分を大写しにしたものであって、多少ぼやけていることもあり良介には何が写っているのか分からなかった。顔も手足も写っていなくてただあの部分だけが大きく写されているからイメージが理解出来無かったのだ。じっと眺めていると次第にぼんやり全体像が見えてくる判じ絵を見るようにじっと見ていたがそれでも何がなんだか分からなかった。マサルは良介が一心に見続けている様子に満足そうであった。


 「これ何だよ」

 「え? 夢中になって見てると思ったら分かんなかったのかよ。だからあの写真だろ」

 「何処が?」

 「何処がってお前分かんないの? ここにチンポが写ってるだろ」

 「あ? これがチンポか。こんなにデカイのか?」

 「そこだけ撮ってるからデカく見えるんだよ」

 「するとこれが女のあれなのか?」

 「そうだよ。お前見たことあるか?」

 「無いなあ。こんな気持ち悪い物だったのか」

 「そうだぜ。お前写真だからまだいいけど映画で見てみな。もっと気持ち悪いぜ。それでも見ちゃうんだけどな」

 「うん、僕も見たい」

 「それは駄目だ。映画は持ち出せない。写真ならまだ他にもあるから今度持ってきてやる」

 「もっと全体が写ってる奴は無いのかな」

 「全体って?」

 「顔と手足が写ってるやつ」

 「何で?」

 「これだと全体がイメージ出来なくてなんか良く分からない」

 「贅沢言うなよ、お前。普通はもっとそこを拡大した奴は無いかって言うんだぜ」

 「それは良く知っている奴が言うんだろう。僕は良く知らないからこんな拡大写真だとイメージが湧かない」

 「あったかな? 顔なんて写ってんのは無かったと思うなあ」

 「顔は無くてもいいからせめて腹とか足とか写ってる奴」

 「それならあるかも知らん。まあ見てくるわ」

 「うん」


 良介は実を言うと女の裸なんて見たことが無い。裸の写真が氾濫している今とは時代が違うのだ。せいぜい際どい水着写真しか見たことが無かった。しかし水着写真だって良介はそれなりに性的興奮を味わっていた。けれどもそこから一挙に結合した男女両性のその部分の拡大写真というのでは飛躍があり過ぎて性的興奮には全然結びつかない。ただ物珍しいに違いない写真を今見ているのだなという興奮はあったが、それは性的興奮とは別のものだった。でもそれだけのことなのでその写真のことはすっかり忘れてしまって翌週の月曜日にマサルが

 「ご免な。写真はもう無かった。兄貴が返しちゃったんだ」

 と言ってきた時、なんのことを言ってるのか分からなかった。


 「写真って?」

 「だからあの写真」

 「あの写真? あっ、あの写真か」

 「うん、俺兄貴にもう1回見せてくれって言ったらもう返したって言うんだ」

 「そうかあ。それは残念だな」

 「うん、俺ももう1回見たかったのに」

 「そうだな。でも仕方無いな」

 「ああ。でもお前んち女ばっかりなんだろ?」

 「うん」

 「本物見る機会無いの?」

 「本物って姉さんの?」

 「母さんも妹もいるんだろ?」

 マサルは良介とは反対に母親が無く、兄と2人だけの兄弟なので家には全く女っ気が無いのだ。

 「いるけど本物なんて見たこと無いなあ。あんなの持ってるなんて考えたことも無かった」

 「なんで? お前姉さんにもチンポがあると思ってたの?」

 「まさか。でもチンポが無くて代わりに何があるのかなんて考えたことも無かった」

 「穴があるって知らなかったの?」

 「それは知ってたけどあの写真穴なんて無かったじゃないか」

 「穴があるからチンポが半分隠れてたんだろ」

 「そうか。それじゃ入れる前はポッカリ開いてんのか?」

 「そりゃそうだろ。お前、開いてなきゃ入らないじゃないか」

 「そうだな」

 「今度姉さんの見せて貰ったら?」

 「馬鹿。そんなこと言ったら殴られる」

 「お前の姉さん、そんな乱暴なの?」

 「乱暴だな。オートバイ乗り回してるから」

 「それじゃ妹は?」

 「妹にそんなこと言ったら泣き出すよ」

 「母さんは駄目だよな」

 「駄目だな」

 「そうかあ。大勢女がいても駄目かぁ」

 「駄目だな」

 「俺んちなんか男ばっかだから風呂入った後なんか皆裸でうろうろしてんだ。だからお前んちもそうじゃないかと思ったんだけど」

 「僕んちは男ばっかじゃないよ」

 「だから女ばっかだろ?」

 「そうだな」

 「風呂入った後裸でウロウロしてないの?」

 「無いな」

 「やっぱりお前が男だからかな?」

 「うーん、そうなんだろな」


 良介の家族は母親と姉と妹が1人ずつで父親は妹が生まれて直ぐ死んだから顔も覚えていない。姉の恵子と良介が父親似で整った顔立ちであり、妹の光子が母親似でまあ普通の顔である。しかし姉の恵子は男勝りで可愛くないが妹の光子は何でも良介の言うことを聞いて可愛い。

 マサルの父はまるで宮本武蔵みたいな顔をしている。宮本武蔵には会ったことが無いけれども多分こんな感じの怖い顔だったのだろうと思う。髪がボサボサに乱れていて四角い野性的な顔である。そんな顔なのにマサルの父は生け花の先生である。一葉流という自分で作り出した流派の生け花だが、良介が見るととても生け花には見えない。一度マサルに

 「これって生け花なのかあ? 現代彫刻なんじゃないの?」

 と聞いたことがある。マサルはそんな言葉には慣れていると思うがやはり多少侮辱されたように思うのか、厳しい顔をして

 「植物を材料に使っていれば生け花なんだ」

 と答えた。


 マサルは学校ではラグビー部のホープで、父親と同じように厳つい顔をして体も大きくてガッチリしている。しかし父親同様見かけに反して、高校卒業と同時に生け花に専心し、いずれは父親の跡を継ぐことになっている。マサルの兄は同じように厳つい顔をしているのだが現代舞踊を習っていてそっちの方面に進むらしい。3人しかいないけれども芸術家一家なのである。

 一葉流は良介には理解できない生け花だが結構繁盛していてマサルの家は金持ちである。家は大きな3階建てのビルで、1階が貸しホール、2階が生け花教室、3階が自宅になっている。良介の家からはちょっと遠いので遊びに行くときは自転車で行く。脇の階段を上っていくと直接3階の玄関に行くようになっていて、貸しホールの前に自転車を止めて上がって行こうとしたら3階の玄関が開いてマサルが女の子と出てきた。訪ねてきた女の子が帰る所のようで、マサルは玄関先で女の子を送り出してそのまま又家に入ろうとしたから自転車のベルを鳴らして合図した。マサルが良介に気付いて女の子の後を追うように階段を降りてきた。1階の所でマサルは女の子に追いついて

 「それじゃ気を付けて帰れよ」

 と言った。良介に紹介しようとはせず、女の子も良介に向かってかすかに頭を下げるような動きをしただけでそのまま行ってしまった。


 「友達?」

 「うん、いや。生け花の弟子なんだけどいずれあいつと結婚するかも知れない」

 「え? 結婚?」

 「いや、先の話だよ」

 「先の話って僕なんか女の友達もいないっていうのに」

 「お前結構女に人気あるのに自分で相手にしてないんじゃないか」

 「そんなこと無い」

 「だって、この間だって田宮が『西高の文化祭に一緒に行かない?』って言ったときお前なんて言ってた?」

 「ああ、断った」

 「お前、田宮に誘われて断る男なんていると思う?」

 「どうして?」

 「どうしてってお前、田宮のこと嫌いなの?」

 「別に嫌いじゃない」

 「だったらあんな可愛い子の誘いをなんでフルんだよ」

 「田宮って可愛いか?」

 「お前誰が好きなの?」

 「うーん、特にいないけど大和田かな」

 「大和田ぁ? あれの何処が可愛いの?」

 「え? 可愛いんじゃなくて誰が好きなのって聞いただろ」

 「それじゃお前可愛いくないけど好きなの?」

 「うーん、好きっていう程でも無いけど気になるんだ」

 「大和田の何処が?」

 「何処って言われても全体としてだから」

 「女に囲まれて育つと女の見方が歪んじゃうのかな」

 「どうして? 粕谷だって生け花教室で女に囲まれてんだろ」

 「それは仕事だから全然違うの」

 「ふん。でも大和田ってそんなに酷いかな?」

 「別に酷くはないけど田宮と比較になんないぜ」

 「田宮ってちょっときつく無い?」

 「可愛い子なんてみんなきついんだぜ」

 「そうかな」

 「そうだよ。お前の姉さん見ろよ、きついなんてもんじゃ無いだろ」

 「僕の姉さん?」

 「そうだよ」

 「あれは酷い。粕谷は僕の姉さん可愛いと思うの?」

 「可愛いなんてもんじゃないだろ。あんな美人滅多にいないぜ。お前の姉さんだなんて信じらんないよ」

 「そうかあ? ああいうの美人って言うのかな?」

 「だからお前の美意識は歪んでるって言うの」

 「今の子ちょっと可愛いかったじゃないか」

 「どれ?」

 「どれじゃない、さっき帰ってった子だよ」

 「ああ、あれか。お前って寝ぼけた顔が好きなの? そう言えばちょっと大和田も寝ぼけてるな」

 「粕谷だって好きだから結婚すんだろ」

 「お前みたいな自由人はいいな。暢気なこと言ってられて」

 「何? 好きじゃ無いの?」

 「あいつはな、親父が選んだんだ。弟子の中で1番才能があんだって」

 「生け花の?」

 「ああ」

 「ああいうのにも才能ってあんのかあ?」

 「お前みたいな凡人には分からないの」

 

 マサルの家に行ったって唯2人で喋るだけで特にこれといったことをする訳では無い。夕飯の時間に合わせて帰ってくると恵子がオートバイを分解して掃除していた。恵子はアルバイトでモデルをやっている程の美人だが、オートバイが大好きである。自分でチェーンを取り替えたり、ちょっとした修理なら何でも自分で部品を買ってきてやってしまう。手を真っ黒に汚してガソリンでチェーンを洗っていた。マサルが美人だと言っていたのを思い出して横からじっと顔を見たが、どう見ても良介には見慣れた顔というだけで特別美人には思えない。しかしガソリンで真っ黒に汚れた指は確かに長くて綺麗な形をしていると思った。


 「何見てるの?」

 「顔を見てる」

 「なんで?」

 「どんな顔かと思って」

 「どんな顔? 良介熱があんの? こっち来てみな、おでこ触ってやるから」

 「厭だよ。真っ黒じゃないか」

 「あ、そうか。で、どんな顔だった?」

 「いつもと変わんない」

 「当たり前だよ。一体どうしたの?」

 「マサルが姉さんのこと美人だって言ってたから」

 「そんなことか。良介は姉さんが美人だって知らなかったの?」

 「誰か他にもそう言った人いる?」

 「美人だって?」

 「うん」

 「みんな言うよ」

 「そうかあ」

 「良介はそう思わないの?」

 「大和田の方が美人に見える」

 「大和田って?」

 「クラスの女の子」

 「可愛い子なんだ」

 「マサルは寝ぼけた顔だって言ってた」

 「寝ぼけた顔?」

 「うん」

 「良介はマザコンなんだよ」

 「どうして?」

 「母さんが寝ぼけた顔だもの」

 「そうかな」


 その時窓から母が顔を出して

 「2人とも手を洗って食事しなさい」

 と言った。


 「ね?」

 「何が?」

 「あの顔」

 「あの顔って?」

 「寝ぼけた顔でしょ?」

 「えーっ? そうかなあ」


 学校では文化祭が近づいていて今週から保護者の承諾書を提出した生徒は7時まで残って文化祭の準備をすることが出来るようになった。マサルと良介のクラスは殆ど全員が承諾書を提出したので放課後の教室は賑やかである。この学校はちょっと変わっていて女子の生徒が男子生徒の2倍以上いる。もともと女子校だったのが近年になって男子生徒を受け入れるようになったからで、女子にとっては学区内で1番難しい1流高だが、男子にとっては志望者が定員に満たない3流高である。

 クラスで服装文化史というテーマを選び、文化祭にはそれぞれの時代の服装を着てクラスの全員が練り歩くことになった。女が多いからどうしても女好みのテーマになってしまうのだ。マサルは毛皮みたいな腰布を付けて原始時代に扮することになっている。目立ちたがり屋の木原涼子が全身タイツの上にマサルとお揃いのビキニみたいな服を着て一緒に歩くことになっていて、涼子と親友の室野芳恵が2人で生地専門店に買いに行っている。良介は武士の服装でお姫様役の大和田裕子と組んで歩く。裕子がお姫様になるというので良介は自分から武士役を志願したのである。マサルが可愛いと言う田宮順子は鹿鳴館スタイルで登場する大勢の中に入っていた。女子生徒が多いから鹿鳴館スタイルの男役の半数以上は女子生徒が扮することになっている。

 良介は武士やお姫様の服装の絵が載っている本を図書館から借りてきて大和田裕子と2人でどれにするか相談していた。しかし話はもっぱらお姫様の衣装のことばかりだし、良介には分からないから裕子が殆ど1人で決めているようなものだ。そして、お姫様の衣装が決まっていよいよ武士の衣装をどうするかという所に来たら、でしゃばりの芳恵が木原涼子と一緒に生地専門店から帰ってきて、武士とお姫様というのは取り合わせがおかしいと口を挟んできた。


 「どうして?」

 「だってお姫様と一緒に歩くんなら武士じゃなくてお小姓なんじゃないの?」

 「オコショー?」

 「そうよ。ほらこれ」

 と言って小姓姿の絵を指した。頭にみすぼらしいちょんまげが突っ立ち、下はまるでブルマみたいな物を穿いている。

 「これぇー?」

 「そうよ。お姫様と一緒ならこれでなきゃ」

 「こんなの厭だよ」

 「厭だって言ったって仕方無いでしょ」

 「仕方無くても厭だ。室野は関係無いんだから口出しすんな」

 「何で? クラスのテーマだもん。別に2人で決める訳じゃ無いんだよ」

 「でも室野は鹿鳴館時代なんだろ?」

 「そうよ。小山君も鹿鳴館時代についてなんか意見があったらどんどん言って頂戴」

 「意見なんか無いよ」

 「それじゃお小姓に決まりね」

 「ちょっと待ってくれよ。『それじゃ』って一体何処と繋がってんだよ」

 「何処とって?」

 「話し合いが煮詰まって意見が大体一致してきた時に『それじゃ』って言うんだろ。全然話もしないでそれじゃって言うのはおかしいよ」

 「小山君日頃に似合わず冴えたこと言うじゃない」

 「何が日頃に似合わずだ。僕はこんなの厭だよ」

 「何で? 服装なんかどうでも大和田さんと一緒ならそれでいいんでしょ?」

 「え? な、何だよそれは」

 「裕子、あんたからこの子説得してみて」

 「おい室野、何言ってんだよ。横から出てきて変なこと言うな、馬鹿。この子って何だ」


 室野芳恵は良介の言うことなど全く無視して大和田裕子に何やら耳打ちして向こうへ行ってしまった。良介は真っ赤な顔をして呆然と芳恵の後ろ姿を見つめていた。


 「ねえ、小山君とにかく座って」

 「あいつなんだって余計な口出ししてくんだろ。僕のこと『この子』だなんて馬鹿にしやがって。だからあいつは嫌いなんだ」

 「まあいいから、ほらちょっと座ってくれなきゃ話も出来ないじゃないの」

 「うん。言っとくけど僕は大和田さんの言いなりにはなんないぞ」

 「そんなこと分かっているわよ。室野さんからかっただけなのよ」

 「全くあいつ・・・」

 「ねえ小山君どんな武士がいいの?」

 「どんなって・・・、宮本武蔵みたいなの」

 「宮本武蔵がお姫様と歩くの?」

 「ん? おかしいかな?」

 「ちょっとどうかな」

 「それじゃ御子神典膳がいい」

 「ミコガミテンゼン? それ何者?」

 「剣の達人」

 「剣の達人がお姫様と歩くの?」

 「おかしいかな?」

 「お姫様のエスコート役はもっとソフィスティケートされてないとおかしいよ」

 「ソフィスティケートって何?」

 「洗練されてて上品になってるってこと」

 「洗練されてて上品な武士なんているかな?」

 「そうねぇー、困ったなぁ。小山君やっぱりお小姓はどうしても厭?」

 「どうしてもっていう訳じゃ無いけど・・・」

 「そうしたら服装の方はなんとか考えるとして基本的にはお小姓で行ってみたらどうかしら?」

 「大和田さんがそう言うならそれでもいいけど」

 「小山君優しいね」

 「別に優しく無い」

 「室野さんの言うこと気にしたら駄目よ。あの人ああいう人なんだから」

 「ああいう人だから気にするんだろ」

 「ああいう性格なのよ。口が悪いだけで根はいい人なの」

 「根なんか悪くても口のいい方が好きだ」

 「小山君素直だからね」

 「別にそうでも無い」

 「小山君何処かで草鞋探して来て貰える?」

 「お姫様って草鞋履くのか?」

 「ううん、小山君が履くの」

 「あ、そうか。探して見る」

 

 家に帰って早速母に聞いてみると草鞋なんて無いと言う。お姉ちゃんに相談しなさいと言うだけで力になってくれないので恵子の部屋に行くと恵子は腕立て伏せをしていた。


 「何してるの?」

 「腕立て伏せ」

 「それは分かるけど何で?」

 「オートバイ乗るには筋力が必要なの」

 「へえ。姉さん草鞋持ってる?」

 「ワラジ? ワラジって草鞋?」

 「草鞋って草鞋に決まってるだろ」

 「何すんの?」

 「履くの」

 「何で?」

 「文化祭で使うんだ」

 「ああ、なんかそんなこと言ってたね。大和田って言ったっけ? 結構可愛いじゃない」

 「何で知ってんの?」

 「だってあんたの机の引き出しの写真、その子なんでしょ?」

 「何で僕の机の引き出し開けたんだよ」

 「母さんに頼まれたのよ」

 「開けろって?」

 「うん」

 「何で?」

 「飛び出しナイフ持ってないか調べてくれって」

 「飛び出しナイフ?」

 「そういうので刺したりする事件があったでしょ?」

 「ああ、そんなら聞けばいいのに」

 「持ってたら聞いても持ってるとは言わないでしょ」

 「そうか」

 「それで大和田さんがお姫様になるの?」

 「何で知ってんの?」

 「やっぱりそうか。知らないけど聞いただけだよ」

 「それで草鞋持ってんの?」

 「そんな物持ってる訳無いよ」

 「何処行けば買える?」

 「さあ、此処らじゃ売ってないな」

 「じゃ何処まで行けば売ってる?」

 「山に行けば土産物屋で売ってると思うよ」

 「山って?」

 「山っていうのは、こういう風に地面が高くなってる所」

 「そんなの知ってるよ。何処の山に行けばいいか聞いてるんだ」

 「今度の休みに高尾山にツーリングに行って来るから買ってきてやるよ」

 「有り難う」

 「いくつ?」

 「それは聞かなかった。明日大和田に聞いてみる」

 「ああいう顔は特徴が無いからぼんやりして見えるけど、メークするとびっくりする程美人になるよ」

 「大和田のこと?」

 「うん」

 「へーえ」



 「草鞋っていくつ要る?」

 「1つでいいけどあったら念のため2つ用意して貰おうかな」

 「分かった」

 「あったの?」

 「山に行けば売ってるらしい」

 「山まで行って買ってくるの?」

 「姉さんが山に行くから頼んだ」

 「山に行く? 登山が趣味なの?」

 「違う、ツーリング」

 「ツーリングって何?」

 「オートバイ」

 「ああ。小山君のお姉さんオートバイに乗るの?」

 「うん」

 「凄いわね」

 「男みたいだから」

 「小山の姉さん凄い美人なんだぜ」

 「粕谷君見たことあるの?」

 「あるさ何度も。なあ?」

 「うん。でも別に美人じゃ無い」

 「こいつちょっとおかしいんだ。田宮が美人じゃなくて大和田が美人だって言うんだから」

 「あら、有り難う」

 「姉さんも言ってた」

 「何を?」

 「大和田のこと美人だって」

 「本当かよ?」

 「うん、化粧するとびっくりする程美人になるだろうって」

 「へーえ、この顔がねえ」

 「粕谷君はあっちに行きなさい」

 「へいへい、お邪魔様」

 「美人でオートバイ乗り回してるの?」

 「だから美人じゃない。この間良く見てみた」

 「良く見てみたってお姉さんのこと?」

 「うん」

 「そしたら美人じゃ無かったの?」

 「うん」

 「小山君可愛いね」

 「何で?」

 「何でも」


 その日の放課後は良介と大和田裕子の2人で生地専門店に行き、打ち掛けにする赤い布を探した。


 「小山君どれがいい?」

 「沢山あり過ぎて分からない」

 「打ち掛けだから赤い布がいいと思うんだけど」

 「うん」

 「でも赤だけだと寂しいから何か小花模様みたいな色の散ってるものがいいと思うんだけど」

 「うん」

 「小山君は何色がいいと思う?」

 「だから赤だろ」

 「ううん、赤に何色の模様がいいかしら?」

 「うん」

 「うんって?」

 「うん分からない」

 「困ったわね。そしたら色に拘らなくていいからこれがいいなと思う物選んでみて。私は私で選んでみるから」

 「うん」


 良介は天井近くから沢山垂れている様々な色の布地に圧倒されている。安い裏地用の生地だから模様入りの物は無い。裕子は「無いわねえ」と言いながら何処かに行ってしまい、いつの間にか良介だけが取り残されて相変わらず天井から垂れている沢山の布を見上げていた。流石に見栄え良く展示してあるから値段は安いのにどの生地もとても高そうに見える。赤い布の隣に緑色の布があってそれが目立っていたからそれにしようかと思ったが、裕子が打ち掛けだからやっぱり赤だと言っていたので緑はまずいのだろうと思う。それで赤かそれに近い色を探していたら1番隅に鮮やかなピンク色の布が隠れていた。隠れているのを発見するとなぜだかそれがとても良く見えたりするもので、それがいいと心の中で決め、裕子を探した。裕子は2階に通じている階段を降りてきて自分を探しているらしい良介に気付くと

 「小山君、こっちこっち」

 と言った。その声でお客の視線が一斉に良介に集まり、良介は恥ずかしかった。裕子の方を見ないで知らんぷりしながら階段を上がって行くと裕子が途中まで降りて来て

 「何処見ながら歩いているの?」

 と言って良介の腕を取った。

 「ちょっと放せよ」

 「何を?」

 「腕を」

 「ああ、こっちに来て」

 「うん、行くから引っ張るな」

 「どうしたの? 具合でも悪くなったの?」

 「具合って?」

 「体の具合」

 「別に悪く無い」

 「それじゃこっちに来て。私いい物見つけたの」

 「僕も見つけた」

 「小山君が?」

 「うん」

 「それじゃそれを先に見ようか?」

 「いいよ。大和田さんが見つけた物を先に見よう」

 「そう? それじゃこっちなんだけど」

 「2階にもあるのか」

 「あのね、私カーテンの中から探してみたの」

 「カーテン被るの?」

 「カーテンだって被れば打ち掛けに見えるでしょう?」

 「レースの奴?」

 「レースのでもいいけどちょっとこれ見て。ね、素敵でしょう?」

 「うん」

 それは赤い地に緑色の小さいクローバーの模様が点々と散っていた。なるほどこれなら豪華に見えそうである。良介は自分が選んだピンクの生地が急にみすぼらしく下品な物に思えてきた。

 「カーテンとして見るとちょっと幼い感じでどうかなと思うんだけど、打ち掛けなら派手な方がいいと思って。ね、どう思う?」

 「うん」

 「うんって?」

 「うんいい」

 「それじゃ小山君の選んだ物を見てみようか。それからどっちかに決めよう」

 「それでいい」

 「これで?」

 「うん」

 「でも折角選んでくれたんだから見てみようよ」

 「それでいい」

 「小山君の選んだの私にも見せて」

 「そっちの方がいい」

 「これ?」

 「うん」

 「小山君の選んだ物私見てみたい。ね?」

 「うん」

 「じゃ行ってみよう」

 「あんまり良くない」

 「どれ?」

 「うん、さっきはいいと思ったけど今は良くないと思う」

 「どれ?」

 「あの端にある奴」

 「あの黄色の?」

 「その隣」

 「ピンク?」

 「うん。良くないだろ」

 「うーん。凄くいい」

 「凄くいい?」

 「うん」

 「本当か?」

 「うん、どっちにする?」

 「大和田さんの選んだ奴の方がいい」

 「そう? 困ったな」

 「何が?」

 「だってどっちもいいんだもの」

 「どっちでもいいよ」

 「そう? 小山君私の選んだ奴どう思う?」

 「いいと思う」

 「あっちにしても小山君気分を悪くしない?」

 「しない」

 「ごめんね」

 「どうして?」

 「折角選んでくれたのに」

 「いいよ。あっちの方がいいと思うから」

 「本当? 小山君の選んだやつも凄くいいんだけどやっぱり1色だけだと寂しい気がして」

 「うん、そうだな」

 「それじゃ2階のやつにしようか」

 「うん」

 「有り難う。小山君が賛成してくれると私もなんだか自信が出てくるわ」

 「そうか」

 「それじゃもう1度上に行こう」

 「うん」

 2人で学校に戻って買ってきた生地を拡げて見ていると皆が集まってきた。

 「うはー、いいじゃんこれ」

 「そうお?」

 「うん、いいよ。裕子のセンスって独特だもんね」

 「小山君と2人で相談して選んだのよ、ね?」

 「うん」

 「小山君なんて風呂敷とスカーフの区別も付かないよ」

 「駄目よ、室野さん。からかっちゃ」

 「お前はあっちへ行ってろ」

 「あら、小山君お前なんて言っていいの?」

 「お前だけ特別だ」

 「本当にしょうがない子ね」

 「僕はお前の子供じゃないぞ」

 「親の顔が見たいわ」

 「お前よりずっと美人だ」

 「あら自分のお母さんを美人だなんてマザコンね」

 「事実だからしょうがない」

 「粕谷クーン、ちょっと来て」

 「ナニー?」

 「小山君のお母さんって美人?」

 「さあーな、俺は30以上の女は評価の対象にしないんだ。だけどこいつの姉さんは凄い美人だぞ」

 「年上だと美人に見えるのよ」

 「違う。こいつの姉さんはとびきりの美人だ」

 「お母さんに似ているの?」

 「お袋さんの顔は全然違う」

 「それでお袋さんも美人なの?」

 「そうとは言い難い」

 「もう止しなさい、みんな。小山君気にしたら駄目よ」

 「僕は室野が何を言っても気にしない。だってあいつは馬鹿だから」

 「んまあ、人を目の前にしてあいつは無いでしょう」

 「馬鹿はあっち行け」

 「馬鹿馬鹿言わなくても行くわ、馬鹿」

 「お前はそれでも女か。少しは大和田さんを見習え」

 「おっ、出ました。良介君。はい、告白タイムです」

 「粕谷もうるさい。あっちへ行け」

 「みんな、小山君をからかうのはいい加減にしなさい」

 「はいはいお姫様」

 「あいつら腐ってる」

 「相手にしないでいいの」

 「相手になんかするもんか」

 「小山君が素直でいい子だからみんなからかって喜んでいるのよ」

 「大和田さんまで僕のこといい子なんて言うな」

 「あっ、ご免なさい。私長女だから知らない内に癖が出ちゃうのね。ご免ね」

 「うん、まあ大和田さんは悪気が無いから許す」

 「室野さんも悪気は無いのよ、本当は」

 「あいつは悪気の塊だ」

 「小山君が可愛いからからかうのよ」

 「僕は女じゃない」

 「男だって可愛い人と可愛い気の無い人っているものよ」

 「そうか」

 「お腹すいたね」

 「うん」

 「何か食べに行こうか?」

 「うん」

 「あらら、2人で又何処かへ出かけるぞ」

 「仲が御宜しいことで」

 「うん、ちょっと何か食べてくる」

 「あいつらにいちいち言うことは無い」

 「うん、行こう」


 校門を出た所に甘いもの屋があってラーメンや焼きそばもある。何処かへ食べに行こうと言えば此処に決まっている。校門に向かって2人で歩いていると向こうから田宮順子がやってきた。


 「あら、何処へ行くの?」

 「うん、ラーメン食べようと思って」

 「あっ、私も食べたい」

 「じゃ一緒に行こう」

 「うん、いい?」

 「いいよ。ねえ?」


 良介はパッと咲いた大輪の花のようにあでやかな雰囲気の田宮順子が、嫌いというのとは違うがなんとなく苦手である。彼女と一緒にいると周囲の人が皆良介を見るような気がして落ち着かないのだ。しかし大和田裕子と3人なら全然問題無い。2人きりだと何となく気後れして田宮さんと呼ぶのに誰かがまざると気楽になって田宮と呼び捨てにしてしまう。


 「うん。田宮何処行ってたの?」

 「私1度家に戻って又来たの」

 「なんで?」

 「お母さんが風邪ひいてるから戻ったんだけどもう治ったって」

 「そうか、それじゃ一緒に行こう」


 「今室野さんにからかわれて小山君少し興奮しちゃったのよ。聞き流せばいいんだけど」

 「あいつの言葉は聞き捨てならないんだ」

 「室野さんかぁ。私もちょっと彼女苦手だな」

 「そうかな、いいとこもあるんだけどなぁ」

 「裕子は心が広いもの」

 「広過ぎる」

 「でもやんちゃな妹だと思えばいいのよ。うちの妹なんてもっと酷いのよ」

 「あんな妹がいたら追い出してやる」

 「小山君て妹がいたんじゃ無かった?」

 「いるよ」

 「あんな感じ?」

 「全然違う」

 「どんな感じ?」

 「なんでも言うこと聞いて素直で可愛い」

 「小山君に似てるんだ」

 「僕は違う」

 「田宮さん、西高の文化祭に行ったんでしょ? どうだった?」

 「面白かった」

 「行ったのか」

 「小山君に振られたから1人で行ってきたわ」

 「小山君誘ったの? どうして行かなかったの?」

 「都合が悪かった」

 「行きたくないって言ってたじゃない」

 「都合が悪いから行きたくなかった」

 「本当かなあ」

 「本当」

 「私1人で寂しかった」

 「嘘よ。田宮さん西高だって何処だって友達いっぱいいるじゃない」

 「それは唯の友達だもの」

 「男の友達もいっぱいいるじゃないか」

 「だから唯の友達」

 「唯の友達じゃないって婚約者とか、そういうの?」

 「え? そこまで行かなくても其処まで行きそうなのとか」

 「高校生で婚約は早すぎるわよ」

 「でも粕谷はもういるんだ」

 「婚約者が?」

 「うん」

 「本当?」

 「うん、婚約者では無いのかな」

 「まさか婚約者では無いでしょう?」

 「いずれ結婚するかも知れないって言ってた」

 「そんな程度なら私にもいっぱいいるわよ。良介君と私だっていずれ結婚するかも知れないじゃない」

 「なんで?」

 「だって先のことは分からないでしょ」

 「親が勝手に決めちゃうとか?」

 「まさか」

 「小山君の親ってそういうことする人なの?」

 「分からない。聞いたことないから」

 「今度聞いてごらん」

 「うん」

 「お母さん、文化祭見に来るの?」

 「さあ、来ないんじゃないか」

 「誰も来ないの?」

 「分からない」

 「誰か友達呼んでないの?」

 「呼ばなくてもみんな来る」

 「他の学校の友達?」

 「そんなのいない」

 「なんだ。同じ学校の友達なら呼ばなくても来るに決まってるじゃない」

 「でも水泳の対抗試合やるから他の学校の女の子とも知り合いでしょ」

 「水泳やる女に知り合いはいない」

 「あら、この間石神井高校の水泳部が来た時小山君にベタベタしてた女の子がいたじゃない」

 「そんなのいない」

 「水着なのに小山君に抱きついてはしゃいでいたじゃない」

 「そんなのいたかな」

 「いたわよ。厭らしい。水着なんて厚さ1ミリも無いのよ。裸で抱きついてるのと同じだわ」

 「僕が抱きついた?」

 「違う、その女の子が小山君に抱きついたの」

 「覚えて無いなあ」

 「うちの2年生の女の子はどうなの。名前知らないけど平泳ぎの子」

 「山田のこと?」

 「名前知らないけど背の小さい子」

 「じゃ山田だ」

 「あの子いつも小山君にまとわりついてるじゃないの」

 「あいつは子供なんだ」

 「デートしたことあるの?」

 「映画に行こうって言われた」

 「行ったの?」

 「行かない。何の映画って聞いたらディズニーって言うから」

 「あら、ディズニーの映画はいいわよ」

 「あれは子供の見るもんだ」

 「じゃ小山君はどういう映画見るの?」

 「僕は映画は見ない。暗い所にいると眠くなるんだ」

 「どっちが子供なんだか」

 「小山君はいつも水泳の練習で疲れてるから眠くなるんだよね」

 「別に疲れてはいない」

 「折角裕子が助け船出してるのに」

 「何が?」

 「田宮さんは文化祭に誰か呼んでいるの?」

 「私は呼んで無いんだけど、『行ってもいいか?』っていう子が何人かいるの」

 「何で?」

 「何でって?」

 「だって入場券なんか無いんだから来たければ勝手に来ればいいんだろ」

 「田宮さんとデートしたいっていう意味よ」

 「そうか」

 「私小山君とデートしたいな。思い出の文化祭にしたいもの」

 「デートしなくても同じクラスじゃないか」

 「だから2人になりたいの」

 「駄目だ。僕は大和田さんと組むことになってる」

 「それは行列行進の時でしょ。文化祭の後の夜のことよ」

 「夜?」

 「そうよ、みんないろいろ計画してるのよ」

 「何を?」

 「だからそれは人それぞれ」

 「そうか。それは知らなかった」

 「小山君予定無いんなら私と何かしようよ」

 「何を?」

 「それを2人で相談しよう」

 「都合が悪い」

 「また」

 「小山君、田宮さんのこと嫌いなの?」

 「嫌いじゃ無い」

 「それじゃどうして? 田宮さん人気者なのよ」

 「粕谷もそう言ってた」

 「粕谷君に言われなくても分かってるわ」

 「あいつ田宮とデートしたがってた」

 「知ってる。小山君から言われなくても直接粕谷君に言われたわ」

 「何て?」

 「文化祭の時俺とデートしようって」

 「知らなかった」

 「それで田宮さん粕谷君と約束したの?」

 「勿論断ったわ」

 「何で?」

 「都合が悪い」

 「それじゃ何で僕を誘ったんだ」

 「小山君なら都合がいい」

 「田宮さん、粕谷君に都合が悪いって言ったの?」

 「今の聞かなかったことにさせて頂戴って」

 「それって断ったっていうことになるのか?」

 「どうして?」

 「もう1回言って頂戴っていう意味なんじゃ無いの?」

 「もう2度と言わないで頂戴っていう意味よ」

 「田宮の話し方って難しいんだな」

 「小山君と話す時は分かりやすく話して上げるよ」

 「いいよ別に」

 「裕子は誰か呼んでるの?」

 「私? うーん、まだ決めて無い」

 「誰かいるのか?」

 「だからまだ決めてないの」

 「ねえ、それじゃ3人でカラオケに行かない?」

 「ああ、いいわねえ」

 「小山君そうしよう」

 「僕は歌は下手だ」

 「下手でいいのよ。別にコンテストじゃないもの」

 「大和田さんも行くのか?」

 「うん、せっかくの文化祭なのに何もしないで終わったら勿体ないから3人で行きましょう、小山君」

 「うん」

 「うんって行くっていうこと?」

 「うん」

 「都合が悪いんじゃ無かったの?」

 「大和田さんが行くなら都合がいい」

 「フン、で、私も行ってもいいの?」

 「うん」

 「小山君、裕子は小山君のお姉さんじゃ無いんだよ」

 「知ってるよ。どうして?」

 「ううん、なんとなく言ってみただけ」

 「小山君のお姉さんは私とは全然違って活発な人みたいよ。オートバイ乗り回しているんですって」

 「大和田さんとは全然違う。田宮は姉さんいないから姉さんってどんなんだか分からないんだろ」

 「田宮さんは一人っ子だものね」

 「うん、姉さんなんか欲しくないけど弟が欲しいな。小山君みたいな」

 「田宮みたいな姉さんなら要らない。1人で沢山だ」

 「あら、お姉さん田宮さんと似ているの?」

 「粕谷がそう言ってた」

 「それじゃやっぱり美人なのね」

 「美人じゃない」

 「だって田宮さんと似ているんでしょ」

 「感じが似てる」

 「あら、私のどんな所?」

 「良く分かんない」

 「良く分からないのに似ているの?」

 「分かるけど何と言えばいいのか分からない」




 「おい良介。ちょっとおいで」

 「・・・」

 「もしもし、お耳は付いてんですかあ?」

 「お前に良介なんて言われたく無い」

 「それじゃ小山君ちょっと来て下さい」

 「何で?」

 「話があんの」

 「話があったら此処で聞く」

 「秘密の話し」

 「お前と僕の間に秘密なんか無い」

 「いいから、ほら」

 「引っ張ったりすんな。行くから」


 3人でラーメンを食べた翌日の昼休み良介は室野芳恵に屋上に連れ出された。


 「あのね。文化祭の後、鹿鳴館のメンバーの何人かでうちに来るんだけど小山君も来なさい」

 「何で?」

 「可愛いがってやるから」

 「馬鹿にするな」

 「馬鹿にしてないよ。2人の間に出来た溝を卒業する前に埋めとこうと思って真面目に言ってんだよ」

 「埋めたくない」

 「人生にたった1回しか無い高校時代なんだよ」

 「だから?」

 「だからうちにおいで」

 「都合が悪い」

 「涼子も来るよ、と言っても小山君には効き目無いか。でもあの子酔うと裸で踊り出すかも知れないよ」

 「興味無い」

 「誰かと約束してんの?」

 「してる」

 「誰と?」

 「お前じゃない奴と」

 「当たり前だよ。誰と?」

 「言いたくない」

 「はーん、裕子だね」

 「言いたくない」

 「裕子だったら大歓迎だから2人でおいで」

 「行きたくない」

 「いいわ。裕子と話そう」

 「そんなことしても無駄だ」

 「大丈夫よ、任せなさい。それじゃうちで会おうぜ」

 「会わない」


 大和田裕子は抜きん出て年上の雰囲気が強いのでちょっと孤立した存在である。しかし嫌われているのではない。大柄で性格も鷹揚なのに細かいことにまで気が付くし、誰にでも優しくて口のききかたも丁寧なのである。だから誰からも敬意を持たれているし、気さくに誰とでも接する。しかし特別に親しく付き合っている友達というのは少なくとも学内にはいないのである。

 室野芳恵はそんな裕子とは逆に口のきき方がぞんざいで顔も美人とは言い難い。悪意のある性格ではないのだが、人をからかったりおどけたりして存在感を示すようなところがある。つまり一種の3枚目的な性格である。同級生の木原涼子と家も近いし非常に仲が良い。涼子は学年で1、2を争うほどの美人であると言われている。

 涼子と1、2を争っているもう一人の美人というのが田宮順子で、良介のクラスにはその2人の美人が揃っているのだった。しかし美人は同性の友人が少ないと言う通り、2人とも男には人気があっても女の子の友達は少なかった。どちらが美人かと周りが騒ぐから意識させられるのか、涼子と順子は同じクラスなのにほとんど口もきかない。しかし仲が悪いというのではなく、互いに敬遠しているという程度のことである。


 裕子は芳恵から文化祭の後うちに来ないかと言われたが、田宮順子と3人で会う約束なので困ってしまった。順子も連れていくと言えば芳恵もそうだが、芳恵と仲の良い涼子がいい顔をしないだろう。第1順子の方が行きたがらないと思う。


 「小山君と約束してんでしょ?」

 「うん」

 「あいつも一緒に連れてくればいいよ」

 「うん、どうしよう」

 「大丈夫だよ。裕子が来ればあいつも来るよ」

 「うん、その時の様子で行けたら行かせて貰う。私1人で行くことになってもいいかしら?」

 「勿論いいよ」

 「それじゃ、とにかく電話するわ」

 「うん、待ってる」



 「お前文化祭のあとどんな予定になってんの?」

 「夜のこと?」

 「ああ」

 「大和田さんとカラオケに行く」

 「へぇー、やるなあ、お前も」

 「2人だけじゃ無いんだ」

 「なんだ、他は誰だ」

 「田宮」

 「えっ? 田宮って田宮順子?」

 「他に田宮っていないだろ」

 「そうだけど、あいつ俺の誘いを断って良介とデートすんのか」

 「デートじゃない、カラオケ」

 「だからそれがデートって言うんだ」

 「そうか」

 「でも、ま、3人ならいいか。許してやろう」

 「粕谷も来たければ来いよ」

 「うん、それが俺には予定がある」

 「どんな?」

 「木原涼子とデート」

 「木原なら室野のうちに行くことになってる」

 「何で? 何でお前知ってんの?」

 「室野が言ってた」

 「室野が? それはいかん。確認しておかないといかんな」

 「でも分かんない。室野から聞いただけだから」

 「お前、室野と話したの?」

 「うん」

 「へえ、お前も大人になったんだな」

 「何で? 前から大人だ」

 「早速木原に念を押しておかないといかんなあ」

 「だから木原から聞いた訳じゃないから」

 「でも室野が言うんなら確かだろ。あいつら仲がいいから」

 「でも木原と約束したんだろ?」

 「それがな、微妙なニュアンスなんだ」

 「どういう?」

 「文化祭の後でデートしようって言ったら、いいわあ、そういう話は大歓迎よって言ったんだ」

 「それで?」

 「それだけ」

 「何処に行くことになってんの?」

 「だからそれはまだ」

 「それは随分微妙だな」

 「そういうことだな」

 「粕谷、田宮と木原とどっちが好きなの?」

 「甲乙付けがたいな」

 「どっちも好きなのか?」

 「まあ、そういうことだな。お前はどっちの方がいいと思う?」

 「分からない」

 「どっちも興味無しか?」

 「うん」

 「お前、女見るとき何処見てんの?」

 「何処って?」

 「顔じゃなくて性格に惹かれんの?」

 「さあ、どうなんだろ」

 「どうなんだろって、自分のこと分かんないの?」

 「そんなこと考えたこと無い」

 「大和田なんて全然色気無いぜ」

 「色気?」

 「ああ」

 「色気って?」

 「やりたいっていう気にさせるとこ」

 「セックスのこと?」

 「ああ」

 「粕谷そんなこと考えて女と付き合ってんの?」

 「そいじゃ、お前何考えて女と付き合ってんの?」

 「まだ女と付き合ったこと無い」

 「なるほど、それは悪かった」


 文化祭の前々日になってクラスの全員による衣装あわせをすることになった。良介は初めて自分の着る服を裕子から見せられた。


 「これ何?」

 「だからお小姓の衣装」

 「これは?」

 「下にそれを穿くの」

 「これブルマじゃないの?」

 「うん、今毎日帰ってから縫ってるんだけどまだ間に合わないから今日はそれでちょっと代用にさせて貰おうと思って」

 「僕がこれ穿くの?」

 「うん、分かってるけど我慢して。誰かが冷やかしたら私がどうにかして上げるから」

 「どうにかって?」

 「その子を教室の外に出してしまうとか」

 「そんなこと言ったってみんなが言ったらどうする? 僕達だけになっちゃうじゃないか」

 「大丈夫。私がそういうことにはさせないから」


 良介は泣きそうな顔をしていたが、裕子は実は粕谷マサルと室野芳恵に予め言い含めて絶対に野次ったり冷やかしたりしないようにと頼んであった。女のブルマなんて穿けば冷やかす奴がいるに決まっているが、そんなことを真っ先に言いそうな者は粕谷マサルと室野芳恵しかいないのである。


 「これは何?」

 「それはタイツ」

 「お姫様がタイツ?」

 「小山君に穿いて貰うの」

 「どうして?」

 「だって小山君真っ黒に日焼けしてるんだもの」

 「日焼けしてるといけないのか?」

 「だってお小姓でしょ?」

 「お小姓だって日焼けしてる人もいるんじゃないか」

 「お小姓はお姫様と同じでいつもお城の中にいるのよ」

 「だから?」

 「だから日焼けする筈が無いと思うの」

 「そうか」

 「ね? これは一種の仮装行列なんだから変な格好するのは仕方無いことなのよ」

 「仮装行列か」

 「そう。ドラキュラの格好したりターザンの格好したりするのと同じことなのよ」

 「ドラキュラの方がいいな」

 「お姫様とドラキュラ?」

 「このタイツ小さいから僕には穿けない」


 良介は痩せてはいるが背は粕谷マサルより幾分大きい。尤も粕谷はがっちりした体型だから大きく見える。


 「大丈夫よ。伸びるから」

 「それにしたって小さすぎる」

 「粕谷君だって楽々穿けるよ」

 「あいつが穿いたの?」

 「そうじゃないけど」

 「じゃどうして分かる?」

 「小山君、ちょっと美術室に行こう」

 「なんで?」

 「それ着て見せて欲しいの」

 「ああ」


 「ちよっと服を脱いでみて」

 「・・・」

 「ズボンも」

 「パンツになるの?」

 「うん、ちょっとこれ穿いてみて」


 裕子は弟の世話をいつも焼いているし、良介はいつも女に囲まれて世話を焼かれながら暮らしているので2人とも良介が下着姿になることを特別意識しなかった。


 「あら、いいわあ。これで鬘被ればお小姓に見えるわ」

 「これおかしく無いか?」

 「おかしく無いよ。全然」

 「なんだか西洋の騎士みたいに見えないか?」

 「それは鬘かぶってないからよ」

 「こんなの穿いたら草鞋履けないよ」

 「あ、そうか。でも足袋を履くから大丈夫よ」

 「どうやって?」

 「大丈夫。タイツは伸びるから。ほら」

 「指が痛い」

 「少し経てば慣れてくると思うけど」

 「ちょっと草鞋履いてみようか」

 「うん」

 「西洋の騎士が草鞋履いてるみたいに見えない?」

 「別に見えないよ」

 「大和田さんの衣装は?」

 「私も着てみようか」

 「うん」


 裕子はセーラー服の上から着物をはおり、後ろを向いて上手にセーラー服を脱いだ。着物の前を合わせながら良介の方を振り返って

 「どう?」

 と言った。


 「化粧は?」

 「今日は衣装あわせだからお化粧はしなくていいの」

 「そうか」

 良介が恥ずかしがるので打ち掛けを良介に被せて2人は教室に戻った。良介は皆の反応を思うと憂鬱だったが、教室には珍妙な格好の生徒が大勢いてあちこち笑いの渦が湧き起こっており、裕子と良介のコンビも特別目立ちはしなかった。口々に冷やかし合う声は飛び交ったが口の悪い室野芳恵と粕谷マサルは彼ら自身が珍妙な格好で笑いの対象になっていたし、裕子が睨み付けて2人が近づいてくるのを妨げていた。乱暴な口を利いたことの無い裕子だがきかん気の妹・弟の扱いには慣れているから睨み付ける態度も慣れていてマサルと芳恵も近づいては来なかった。良介は白いタイツに裕子のブルマを履いていたのだが結局たいしたことも無く衣装あわせは終わった。


 文化祭の後の約束をしたせいか田宮順子と良介・裕子の3人はなんとなく親密なグループになってきて、衣装合わせの後も3人でラーメンを食べに行った。


 「小山君ブルマが似合っていたよ」

 「あれは間に合わなかったから代用品なんだ」

 「記念に貰っておいたら」

 「要らない」

 「良かったら私のも上げるよ」

 「要らない」

 「田宮さんのブルマなら欲しがる男子が大勢いるでしょう?」

 「制服をくれっていう子がいるのよ」

 「女の制服なんか貰ってどうするんだ?」

 「さあ、着るんじゃない?」

 「女の制服を?」

 「卒業の時小山君の学生服私に頂戴よ。私の制服と取り替えっこしよう」

 「僕の学生服どうするんだ?」

 「部屋に飾っておく」

 「親に叱られないのか」

 「どうして? くれるの?」

 「上げないけど僕が学生服部屋に掛けておくと母さんがうるさいんだ。ちゃんとタンスに入れろって」

 「ああ、そういう意味か」

 「でも何か記念になる物を交換しておきたいね」

 「そうよね」

 「何を?」

 「何がいいんだろ」

 「小山君水泳部のジャージがあるじゃない。あれを私欲しいな」

 「駄目だ。そんな物どうするんだ?」

 「飾ったり、着たり」

 「田宮、男の服着たいの?」

 「小山君そういう趣味全然無いの?」

 「あるに決まってるだろ。男の服しか着たこと無い」

 「そうじゃなくて好きな人の服を着てみたいっていう意味よ。好きな男のワイシャツをパジャマの代わりに着たりする人いるのよ」

 「女で?」

 「そう」

 「それでどうするの?」

 「それでどうするってパジャマの代わりだから、それを着て寝るだけよ」

 「ふーん」

 「ね、3人でそれぞれ何か交換しようよ。ちょっとした物でいいから」

 「ちょっとした物って?」

 「何でも。ノートでもいいし何でも」

 「交換してどうすんの?」

 「記念に取っておくの」

 「ふーん」

 「卒業するまでに考えておこう」

 「ふーん」

 「何時まで感心してんの?」

 「記念だったらカラオケに行った時に写真撮ればいいんじゃないか?」

 「あ、そうね。それにしよう」

 「それで裏に3人で何か寄せ書きしよう」

 「寄せ書きって?」

 「何でもいいから3人が何か書いて署名するの」

 「ふーん」

 「写真はいいね。思い出になるね」

 「僕はカメラ持って無い」

 「私も」

 「田宮は?」

 「うちにあると思う」

 「それじゃ持って来れる?」

 「うん、駄目なら誰かに借りるから」


 良介はその日家に帰って夕飯を食べてから恵子の部屋に行った。


 「何?」

 「姉さん、男の友達いるか?」

 「いっぱいいるよ」

 「好きな奴いる?」

 「私が?」

 「うん」

 「いるよ。何で?」

 「そいつのワイシャツ着たことある?」

 「私が?」

 「うん」

 「何で? ある訳無いじゃん」

 「そうか」

 「何で?」

 「何着て寝てる?」

 「え?」

 「夜寝るだろ」

 「あ? 寝間着着て寝るよ。何で?」

 「ただ聞いただけ」

 「変なこと聞くなぁ。どうしたの?」

 「どうもしない」


 良介はこの頃大和田裕子と接触する機会が増えて裕子のことを好きだという気持ちが段々自分にも分かってきた。それでも裕子のブルマを穿いて嬉しいという気持ちには全然ならなかったし、裕子の服を着たいとも思わない。好きになった相手の服を着たいというのはどういうことなのか理解出来なかった。セックスを経験すると何かそんなことを考えたりするようになるのだろうか。すると大和田や田宮はセックスの経験者ということになってしまうが、まさかそんなことは無いだろうと思う。田宮ならあり得るかも知れないが、大和田さんはまさかある筈無いと思う。だから好きになった相手の服を着たがるというのは多分女に特有の気持ちなんだろうと思って恵子に聞いてみたのだ。

 良介が自分の部屋に戻って少しすると今度は恵子がやってきた。


 「良介。タンス開けるよ」

 「何で?」

 「ちょっと所持品検査」

 「所持品検査?」

 「不審な物は無いねぇ」

 「不審な物ってナイフ?」

 「ナイフじゃ無い。女の服」

 「女の服?」

 「ひょっとして女の服持ってないかと思って」

 「何で?」

 「変なこと聞くから」

 「変なことって?」

 「好きな男のワイシャツ着たことあるか聞いたでしょ」

 「ああ」

 「誰か女の子にワイシャツくれって言われたの?」

 「学生服くれって言われた」

 「女の子に?」

 「うん」

 「大和田さん?」

 「違う。田宮」

 「田宮ってどの子。写真見せてごらん」

 「持ってない」

 「クラスの全員が写った奴あるでしょ」

 「ああ、それならある」

 「どの子?」

 「これ」

 「うーん。これが田宮っていうのか」

 「うん。何うなってるの?」

 「これはいかんな」

 「これって田宮のこと?」

 「うん」

 「どうして?」

 「良介には美人過ぎる」

 「美人かな」

 「じゃ何、顔じゃなくて性格が好きなの?」

 「別に好きじゃない」

 「だって学生服くれって言われたんでしょ」

 「だから僕が言ったんじゃなくて田宮が言ったんだ」

 「ああそうか。で、断ったの?」

 「うん」

 「良介って意外に持てるんだね」

 「そんなこと無い」

 「デートしたことあるの?」

 「まだ無い」

 「まだ?」

 「もうすぐする」

 「この子と?」

 「そいつと大和田」

 「何? いっぺんに2人か」

 「うん」

 「どっちが好きなの?」

 「田宮は別に好きじゃない」

 「じゃやっぱり大和田って子が本命か。何処に行くの?」

 「カラオケ」

 「何時行くの?」

 「文化祭の後」

 「こっちの田宮って子とは?」

 「だからカラオケ」

 「何時行くの?」

 「だから文化祭の後」

 「何?」

 「何って何? 姉さんも一緒に行きたいの?」

 「私が行ってどうすんの。3人一緒にカラオケに行くの?」

 「だからさっきからそう言ってる」

 「そんなのデートって言わないんだよ」

 「どうして?」

 「女の子と2人で会うのをデートって言うの」

 「そうか」

 「どうして粕谷君誘わないの?」

 「誘ったけど粕谷は木原とデートするって」

 「木原ってどの子」

 「これ」

 「これも美人だねぇ。粕谷君って持てるのかな」

 「あいつ女慣れしてるから」

 「ああ、家が生け花教室やってるって言ってたね」

 「うん」

 「良介は女慣れなんかしないでいいよ」

 「どうして?」

 「まだ早い」

 「でも粕谷はもう結婚する相手も決まってるんだ」

 「え? 嘘でしょう」

 「親父が決めたらしい。弟子の中で1番才能がある女なんだって」

 「ああ、家を継ぐのか」

 「うん」

 「なるほど。そういう子は早熟なんだよな」

 「僕の結婚する相手も母さんが決めるのかな?」

 「どうして? そんなこと無いと思うよ」

 「そうか」

 「何で? 母さんに決めて欲しいの?」

 「ううん、聞いただけ」 

 「文化祭私も行ってみるわ」

 「何で?」

 「姉としての務め」

 「務め?」

 「大和田さんと田宮さん紹介しなさい」

 「姉さんに?」

 「うん」

 「何で?」

 「どんな子か見たい」

 「2人とも僕より頭がいいよ」

 「そんなこと分かってる」

 「姉さんより頭いいと思う」

 「頭の良し悪し見るんじゃ無いの」

 「顔?」

 「まあ、それもある」

 「紹介してもいいけど変なこと言うなよ」

 「変なことって?」

 「マザコンとか」

 「ああ、言わない。良介の恥になるようなことは言わない」


 いよいよ文化祭の前日になると皆浮かれて早く帰ろうという生徒はいない。もうすっかり準備も出来上がって何もすることは無いのだが、皆何となく学校に残っている。


 「おい。俺、木原と約束取り付けたぜ」

 「そうか」

 「だけど後で一緒に室野の家に行くことにさせられた」

 「室野の家?」

 「お前も後で来いよ」

 「室野の家なんか行きたく無い」

 「まだ大人になりきれないんだな」

 「どうして?」

 「厭な奴でも付き合っておくのが大人っていうもんだぜ」

 「それじゃ大人になりたくない」

 「俺な、婚約者が文化祭見に来るんだ」

 「それじゃ木原はどうするの?」

 「だから親父に頼んで一緒に来て貰うんだ。1人で来たら俺が送ってかないといけなくなるだろ」

 「そうか」

 「お前は誰も来ないの?」

 「姉さんが来ると言ってた」

 「え? 姉さんが来るのか」

 「うん」

 「俺に紹介しろよ」

 「紹介しなくても知ってるじゃないか」

 「だから一緒にお茶を飲みに行くとか、そういう機会を作れっていうこと」

 「そんな暇あるかな?」

 「暇なんて作ればいくらでもあるんだ」

 「それじゃそうする」

 「小山君お姉さんが来るの?」

 「うん」

 「私にも紹介して」

 「姉さんもそう言ってた」

 「そう言ってたって?」

 「大和田さんと田宮さん紹介しろって」

 「わあ光栄ね」

 「田宮はどうしたの?」

 「さっき帰ったのよ。やっぱりお母さんの具合が良くないんですって」

 「そうか」

 「でも明日はカメラ持って絶対来るからって」

 「そうか」

 「カメラって何?」

 「写真機」

 「馬鹿。お前に聞いてんじゃないの」

 「うん、記念の写真を撮っておこうって話したの」

 「こいつと?」

 「うん田宮さんと3人で」

 「そうか、俺もカメラ持って来よう」

 「粕谷君は誰かとデートするの?」

 「うん、木原が俺とデートしたいみたいだから」

 「木原さんとデートなんてやったわね」

 「だからカメラ持ってこないと。いいこと聞いた」

 「私の写真も撮ってくれる?」

 「あん? まあいいけど1枚だけな」

 「あらぁ、随分ケチなのね」

 「粕谷は大和田さんのこと色気が無いって言ってた」

 「え?」

 「おい」

 「粕谷クーン、もう1回衣装合わせするから来て」

 「ホーイ。それじゃ俺は失礼する。木原嬢がああ言ってっから」

 「粕谷君は高校生で色気だなんて言ってるの?」

 「あいつ女慣れしてるから」

 「小山君は女慣れなんてしたら駄目よ」

 「大和田さんは姉さんと同じこと言うんだな」

 「お姉さんもそう言ってたの?」

 「うん」

 「いいお姉さんみたいね」

 「全然」

 「お姉さんに会うの楽しみだな」

 「何で?」

 「だって興味があるもの」

 「どうして?」

 「どうしても」

 「大和田さん、姉さんがいないからじゃないか?」

 「ああ、そうね。そういうこともあるかも知れないわね」

 「姉さんがいると口うるさい母さんが2人いるみたいなもんなんだ」

 「あら、そうなの?」

 「うん、しょっちゅう僕の部屋来て検査するんだ」

 「何を?」

 「ナイフ持ってないかとか」

 「ああ、私も弟の部屋調べたことあるわよ」

 「姉さんってみんなそんなことやるのか」

 「ええ、姉としての務めだから」

 「僕の姉さんもそう言ってた」

 「そうでしょう、年上だと大変なのよ」

 「でも僕は妹の部屋を調べたりはしないな」

 「それはしなくていいの」

 「そうか?」

 「女の子はナイフ隠してたりしないでしょ?」

 「そうか、そうだな」

 「今日は田宮さんいないけど2人で食べに行く?」

 「うん」

 

 店に行くと室野芳恵が1人でラーメンを食べていた。


 「あら、室野さんどうしたの? 1人で」

 「あ、裕子か。今涼子も来るよ。此処に座んな」

 「うん。小山君此処にしよう」

 「僕、その席厭だ」

 「私が隣に座るからいいじゃない」

 「それじゃそうする」

 「文化祭の後田宮さんと3人でカラオケ行くんだって?」

 「誰に聞いた?」

 「そんなことみんな知ってるよ」

 「田宮さんお母さんの具合が悪いらしくて心配なんだ」

 「何か病気?」

 「ただの風邪なんだって言ってたけど」

 「僕の母さんなんか風邪惹いたこと無いけどな」

 「だって仕事してんでしょ?」

 「うん」

 「何の仕事だったっけ?」

 「インテリア・デザイナー」

 「何で室野知ってんだ?」

 「だって名簿に書いてあるじゃん」

 「そうか」

 「凄いのね」

 「何が?」

 「その割には小山君美的センスが無いね」

 「何で?」

 「だって田宮さんにも涼子にも興味示さないじゃない」

 「僕の美的センスは凡人とは違うんだ」

 「へえ、裕子はどう思う?」

 「小山君の美的センス?」

 「うん」

 「あると思う」

 「ほら見ろ」

 「何が?」

 「大和田さんもこう言ってる」

 「裕子は誰の悪口も言わないんだよ」

 「お前も見習え」

 「はいはい」

 「どうした?」

 「何が?」

 「今日はいやに素直じゃないか」

 「私はいつも素直なの」

 「そうは思えない」

 「小山君、ほらラーメンが伸びるよ」

 「ああ、そうか」

 「ほら、もっと丼近づけて食べた方が食べやすいよ」

 「ああ、そうだな」

 「女に囲まれて育つと裕子みたいに細かく世話焼いてくれないと駄目なんだな」

 「小山君は素直に育っているから室野さんも少し口を慎まないとうまく行かないのよ」

 「はいはい」

 「あらー、3人で仲良くやってんじゃないの。お珍しい」

 「ゲッ。木原その格好で学校から出てきたの?」

 「何で? 店の前で着替えたと思ったの?」

 「そんな格好で外に出るなよ」

 「どうして? 目と鼻の先じゃない」

 「粕谷君は?」

 「ラグビー部の後輩とどっか行った」

 「その服買ったの?」

 「これ? 自分で作ったのよ」

 「それだよ」

 「あ、これ? これは服じゃなくてタイツ」

 「タイツって腰から下だけだろ」

 「だからこれは全身タイツ」

 「自分で作ったの?」

 「まさか。これはバレーの練習用で前から持ってたの。どうして?」

 「聞いただけ」

 「小山君もタイツ穿いてたじゃない」

 「うん。西洋の騎士みたいに見えない?」

 「見えない」

 「そうか」

 「小山君脚が長いから格好いいよ」

 「そうか、そうか」

 「でもあのブルマはあんまり良くないな」

 「あれは代用品なんだ」

 「今私毎晩縫ってるの。今日も帰ったらやらないと」

 「間に合いそうか?」

 「うん、大丈夫よ」

 「間に合わなかったら私のブルマ貸してやるよ、小山君」

 「要らないよ、お前のなんか」

 「私のブルマ貸してあげようか」

 「小山君人気者だね。みんなブルマ貸してくれるね」

 「みんなって誰? ああ田宮さんか」

 「僕は好きな女の服を着る趣味は無いんだ」

 「へえ? 何?」

 「木原、日本語分からないの?」

 「好きな女って誰のこと?」

 「誰でも」

 「誰でも好きなの?」

 「違う」

 「小山君の日本語って分からないよ」

 「分からなくていい」

 「裕子、通訳して」

 「例え好きな女の子であっても、その子の服を着る趣味は無いって言ったのよ。ネッ、そうでしょう?」

 「ほら大和田さんはちゃんと理解しているじゃないか」

 「付き合いが長いと分かるようになるのかな」

 「裕子は特別よ」

 「僕の言うこと分からないのがおかしい」

 「ねえ、小山君ナルト食べ無いの?」

 「うん」

 「それじゃ私に頂戴」

 「いいよ。こんなの好きなの?」

 「うん、ナルトって何から出来てるか知ってる?」

 「知らない」

 「魚のすり身なんだよ」

 「だから不味いんだ」

 「だから体にいいんだよ」

 「体に良くても不味い」

 「子供は何でも食べないといけないの」

 「木原はまだ子供だったのか」

 「小山君のこと言ってるの」

 「何で僕が子供なんだ?」

 「だっていつもお母さんと一緒じゃない」

 「何処に?」

 「そこに」

 「これは母さんじゃない。大和田さんだ」

 「そうだったのかぁ・・・って言う訳無いじゃん。裕子の顔と名前くらい知ってるよ」

 「なら変なこと言うな」

 「木原さん駄目よ」

 「はい、お母さん」

 「僕の母さんじゃなくて木原の母さんなんじゃないか」

 「芳恵、この子は駄目だ。冗談が通じない」

 「僕はこの子じゃない」

 「じゃ、この方」

 「それならいい」

 「この方は冗談が通じないよ」

 「木原の冗談が下手なんだ」

 「まあ、私にそんな冷たい言い方する男性はこの方だけだわ」

 「木原さん、いい加減にしなさい。小山君も気にしないのよ」

 「うん、室野の友達だから」

 「あら、小山君いつから芳恵の友達になったの」

 「僕じゃない。木原が室野の友達なんだ」

 「え? 私が芳恵の友達だから何?」

 「類は友を呼ぶんだ」

 「ああ、そういう意味か」

 「木原は日本語が苦手なのか?」

 「小山君の日本語がちょっと苦手みたい」

 「僕の日本語は日本語じゃないか」

 「小山君の日本語は英語だなんて言ってないよ」

 「当たり前だ」

 「当たり前だ」

 「小山君明日お姉さん来るんだって?」

 「何で知ってる?」

 「粕谷君に聞いた」

 「あ、そうか」

 「紹介して」

 「え?」

 「お姉さん私に紹介して」

 「僕の姉さんは女だぞ」

 「えーっ、小山君の姉さんって男じゃ無かったの?」

 「馬鹿」

 「馬鹿はそっちでしょ。姉さんが男だったら兄さんになっちゃうよ」

 「変なこと言うな」

 「男じゃ無くても紹介して欲しいのかって言ってるのよ」

 「なるほど、そうか。裕子は小山君の専属通訳だね」

 「木原の通訳なんだ」

 「女でもいいから紹介して」

 「女に決まってる」

 「だから小山君の女の姉さん紹介して」

 「自分で紹介しろ」

 「自己紹介?」

 「そうだ」

 「それにしても何かきっかけ作ってくれなきゃ自己紹介出来ないじゃん」

 「何で僕の姉さんに興味があるんだ?」

 「だって机並べて勉強してる小山君のお姉さんじゃない」

 「机なんか並べて無い。別の部屋だ」

 「え? 厭だ、私と小山君がだよ」

 「全然離れてるじゃないか」

 「一緒に学んだ仲だっていう意味」

 「それなら初めからそう言え」

 「小山君と話すのは熟練を要するね。段々慣れてきたけど」

 「慣れなくていい」

 「裕子は小山君と話してて困難を感じない?」

 「うん、別にそういうこと無いわよ」

 「ほら見ろ」

 「慣れって恐ろしい」


 文化祭の当日、良介の教室は半分に仕切られ、半分が展示室に、残り半分が生徒の控え室になっている。展示室には各種図版や写真、和服などが展示され、1時半からは全員で校舎内をそれぞれの扮装を身につけて行列行進した。良介の服は無事間に合って誰からもブルマを借りること無く済んだ。行進から戻ると各自余所のクラスを見に行ったり他のクラスや別の学校の友達と合流したりして散らばり、良介は1人でプールに行って泳いだ。去年までは文化祭の日に各クラブもそれぞれ試合や催しをしたのだが、文化祭はクラス単位でやろうということになり、今年はどのクラブも活動していない。1人で泳いでいたら、ターンしようとした頭を誰かがチョンと叩いた。見ると田宮順子だった。


 「何?」

 「裕子が探していたよ」

 「何で?」

 「さあ、知らない」

 「田宮さん、お母さんの具合どうなの?」

 「うん大して変わりない」

 「ただの風邪?」

 「うん、うちの母さん体が弱いから」

 「僕の母さんなんか風邪ひとつ惹かないな」

 「お父さんがいないから気が張ってるんでしょ」

 「そうか」

 「お母さんは来るの?」

 「聞いてない」

 「誰も来ないの?」

 「姉さんが来る。田宮さん紹介してくれって言ってた」

 「私?」

 「うん」

 「それじゃ来たら知らせて。私、呼んでないのに友達が来たから案内しないといけないの」

 「勝手に見ろって言えばいいじゃないか」

 「そうもいかないわ」

 「結構優しいとこあるんだな」

 「あら、知らなかったの?」

 「知らなかった」

 「そう言えば文化祭が近づくまであまり話したこと無かったね」

 「うん」

 「小山君がいつも避けてるからよ」

 「避けてない」

 「本当?」

 「あっ、もうちょっとそっちへ行け」

 「え?」

 「もうちょっと下がれ」

 「どうしたの? 何?」

 「そこにいると下着が見える」

 「あっ、そうか」

 「さっきからあそこで男が手を振ってるけど、あれは田宮さんの友達なんじゃないのか?」

 「あ、こんなとこまで来た。それじゃ私行くわね」

 「うん」

 「教室に戻った方がいいよ。裕子そこにいると思うから」

 「うん」


 「誰か大和田さん知らない?」

 「知ってるよ」

 「何処?」

 「何が?」

 「だから大和田さん何処にいる?」

 「さあ、大和田さんのことは良く知ってるけど今何処にいるかは知らない」

 「そうか。困ったな。誰か知ってる奴いないかな」

 「さっき食堂にいたわよ。凄い女の人と一緒に」

 「凄い?」


 食堂に行ってみると裕子と良介の姉さんが座って話していた。姉さんは全身ひとつながりの黒い皮のライダースーツを着ていた。普通のライダースーツよりずっと細身で女らしい体の線が全部出ていた。普段は束ねている長い髪を下ろして綺麗に化粧までしている。


 「どしたの?」

 「何が?」

 「化粧してるじゃないか」

 「だから?」

 「いつもしたこと無いだろ」

 「いつもしてるよ」

 「してない」

 「外に行く時はいつもしてるんだよ」

 「・・・」

 「良介と外で会うことなんか無いから知らなかったんでしょ」

 「そうか」

 「泳いでたの?」

 「うん」

 「座りなさい」

 「これが大和田さんって言うんだ」

 「もうさっきから話してるよ」

 「だから紹介してやった」

 「田宮さんは?」

 「泳いでたら田宮がプールに来た」

 「一緒に来なかったの?」

 「あいつどっかの学校から友達が呼んでないのに来たから案内してるって」

 「可愛い子だからね。ちょっと良介探しておいで」

 「探してって、どうやって?」

 「足と目を使って」

 「うん分かった」


 「あら、小山君」

 「木原さんか。何?」

 「あの人小山君のお姉さんでしょ。紹介して」

 「忙しい」

 「ねぇ、何処行くの?」

 「それが分からないから困ってる」

 「え?」


 「裕子、その人どなた?」

 「あ、木原さん。良かったら座って。小山君のお姉さんなのよ」

 「そうだと思った。初めまして、木原涼子です」

 「初めまして室野芳恵です」

 「木原さんなら知っているわ」

 「え?」

 「粕谷君と今晩デートするんでしょ?」

 「え、小山君そんなことまで言うんですか」

 「小山君ってマザコンじゃなくてアネコンなんだ」

 「アネコンって何?」

 「シスター・コンプレックスのことです」

 「そうかな、そうでも無いと思うけど」

 「何処へ行ったんですか、小山君。変なこと言って行っちゃったけど」

 「変なこと?」

 「何処へ行くのって聞いたらそれが分からないから困ってるって」

 「田宮さん探しに行ったのよ」

 「順子なら今美術室にいたよ、ぞろぞろ男ども連れて」

 「しまった。口を使えって言うの忘れた」

 「え?」

 「田宮さん探して来なさいとお姉さんが言ったら小山君が『どうやって?』って聞いたの。それでお姉さんが『足と目を使って』と言ったのよ」

 「あ、なるほど。小山君と話す時はそういう感じで喋るんだ」

 「あの子ちょっとトロイからね」

 「でも素直で可愛いですよ」

 「だから芳恵がいつもからかうんだよね」

 「からかうつもりは無いんだけど、そうなっちゃうんだな自然に」

 「あの子は冗談が通じないから」

 「でも粕谷君の言うこと本当だったね」

 「うん、本当なんてもんじゃない」

 「何が?」

 「あ、いえ。お姉さんのことです」

 「私の何?」

 「凄い美人だって」

 「ああ」

 「こんなお姉さんがいるから涼子にも順子にも関心が無いんだわ」

 「あの子はあんまり顔に拘らないみたい」

 「良かったね、裕子」

 「どうせ私はブスです」

 「そんなこと無い。私には美人に見える」

 「あら、有り難うございます」

 「やっぱり小山家の美的センスは独特なんだ」

 「あ、又粕谷君が来た」

 「又?」

 「しつこいからどうせ後で2人になるんでしょって振り切って来たんだけど」

 「やあ、お姉さん。お久しぶりです」

 「先週会ってる」

 「あ、そうですね。1週間のご無沙汰です」

 「テレビ番組の司会じゃないんだよ」

 「え? まあまあ。小山は?」

 「田宮さん探しに行った」

 「木原に田宮か。お姉さんひとりで十分だっていうのに何であいつの所には美人が集まるんだ?」

 「小山君は顔に拘らないからだよ」

 「顔に拘らないと美人が寄ってくるのか」

 「粕谷君は拘りすぎなの。こういう顔と付き合ってごらん」

 「室野と付き合うなら大和田の方がなんぼかマシだ」

 「あらっ」

 「まあ」

 「オートバイに乗って来たんですか?」

 「そう」

 「格好いいですね。その格好で髪を靡かせて走るんですか」

 「髪は靡かせない」

 「え?」

 「丸めてヘルメット被るから」

 「あ、そうか」

 「なんかお姉さんの喋り方って小山君に似ているね」

 「そうだね」

 「それはそうよ。姉弟だもの」

 「裕子んとこも似てる?」

 「そうね、やっぱり人が聞いたらそう思うんでしょうね」

 「大和田さんの喋り方はうちの母さんにちょっと似てる」

 「やっぱり」

 「そうですかぁ」

 「うん」

 「おっ、田宮が来た」

 「あっ、田宮さん、待ってたのよ」

 「うん、お姉さんが来てるの知らなかった。さっき教えてくれれば良かったのに」

 「そうね、ご免ね。私紹介もされずに突然お姉さんに話しかけられたばかりだったので慌てていたのね」

 「初めまして、田宮順子です」

 「小山恵子です」

 「恵子さんとおっしゃるんですか」

 「どうだ、美人だろ」

 「粕谷君のお姉さんじゃないよ」

 「俺の友達の姉さんだ」

 「そんなこと分かってるよ。私の友達の姉さんでもあるよ」

 「お前いつから良介の友達になったんだ」

 「前から」

 「喧嘩してばっかりいるじゃないか」

 「仲がいいから喧嘩するんだよ」

 「そうとは限らない」

 「昨日一緒にラーメン食べた仲なんだよ」

 「お前が?」

 「そう」

 「小山と?」

 「そうだよ」

 「本当か? 信じられん」

 「本当だよね?」

 「うん」

 「木原も一緒?」

 「そうよ、裕子も」

 「あ、なんだ。それなら分かる」

 「分かるでしょ」

 「良介はだいぶ大和田さんに依存しているみたいね」

 「イゾン?」

 「くだいて言うと、甘えている」

 「あ、そうか」

 「そんなことありません」

 「そんなことあります」

 「ほら依存者が来た」

 「田宮、何処いたんだよ。探したんだぞ」

 「うん、知らなかった」

 「さっきから此処にいるんだよ」

 「さっき会った時『順子探してる』って言えばすぐ見つかったのに」

 「なんで?」

 「だって美術室で会ったばかりだったんだもの」

 「何で言わなかった?」

 「だって順子探してるなんて知らなかったんだもん」

 「見れば分かるだろ」

 「何で?」

 「何でも」

 「田宮さんを知りませんかって書いたプラカードかなんか持ってたっけ?」

 「良介、金持ってんの?」

 「持ってる」

 「いくら?」

 「さあ・・・? 500円ある」

 「それじゃこれ上げるから」

 「どうして?」

 「カラオケ行くんでしょ?」

 「あ、そうか」

 「わあー、いいお姉さん」

 「ネ、みんなで写真撮ろう」

 「そうだ、俺お姉さんの隣に座る」

 「粕谷君がシャッター押すんだよ」

 「それじゃ俺写んないじゃないか」

 「それだからいいの」

 「酷いこと言うなあ」

 「僕が押してやる」

 「小山君は駄目よ。折角お姉さんがいるのに」

 「姉さんとはいつも会ってる」

 「それはそうだけど」

 「そこにいる子に私が頼んでみるわ」

 「やっぱり裕子は良く気が付くね」

 「うん、女は顔じゃないんだな」

 「粕谷君が言っても説得力無いよ」

 「あ、お前の顔見るとやっぱり女は顔だって思う」

 「馬鹿にして」

 「芳恵を虐めたら後でデートはしないよ」

 「いやいや可愛いからからかってみたんです」

 「誰かの真似してるな」


 「ねえ、小山君のお姉さんって凄いね」

 「何が?」

 「モデルみたい」

 「モデルだから」

 「え? モデルしてんの?」

 「学生だけどアルバイトでモデルしてる」

 「何のモデル?」

 「バイクの雑誌のモデル」

 「へえー、凄いのね」

 「凄いのか?」

 「今にレース・クイーンになるかも知れないね」

 「もうなってる」

 「えーっ、何で言わないの?」

 「今言ったじゃないか」

 「何で今まで言わなかったの?」

 「聞かなかったから」

 「他にお姉さんがやってることは何かあるの?」

 「学生」

 「違う、テレビとか雑誌に出てるとか」

 「だからバイクの雑誌」

 「他には?」

 「知らない」

 「今度聞いてみて」

 「なんで?」

 「何でも。知りたいから」

 「自分で聞けばいい」

 「小山君のお姉さんなんでしょう?」

 「僕の妹じゃない」

 「何? 姉さんだから妹じゃないのは分かっているよ」

 「妹のことなら何でも聞いてやる」

 「ああ、そういう意味か。姉さんとは話しづらいの?」

 「そんなことも無い」

 「あんまり姉さんと話したくないの?」

 「うんちょっと」

 「ね? 私、小山君と話す要領が分かって来た」

 「良介、通訳が2人になったよ。良かったね」

 「お前に良介なんて呼ばれたく無いって言っただろ」

 「良介君、田宮さんと3人でいいから、夜うちにおいで」

 「僕は小山っていうんだ」

 「それじゃ小山君、夜うちに来て」

 「大和田と田宮に聞かないと分からない」

 「それじゃ聞いてみて」

 「順子には芳恵から話した方がいいよ」

 「そうか。そうだね」

 「順子にはこっちで話すから小山君言わなくていいよ」

 「大和田には?」

 「もう言ってある」

 「もう言ってある?」

 「うん」

 「何て言ってた?」

 「その時の状況で行けたら行く。ひょっとしたら私1人で行くことになるかも知れないって」

 「僕、聞いて無いな」

 「今聞いたでしょ」

 「何で言わなかったんだろ」

 「裕子は人間関係の綾を考えて苦労してんだよ」

 「人間関係の綾?」

 「小山君には分からないの」


 文化祭の後はフォークダンス、ファイアー・ストームと暗くなるまで行事が続く。しかし友達と約束がある生徒は三々五々それぞれのグループごとに散っていく。良介達もフォークダンスには参加しないで学校を出た。カラオケ・ボックスには他のクラスの生徒も来ていた。大体高校生の行くような所は決まっているのだろう。田宮順子はコーラス部に入っているくらいだから歌が上手いのは当然だが、大和田裕子もなかなか上手かった。良介はゆっくりした曲だとまあまあだが、ちょっと早い曲になると上手く歌えなかった。しかし誰もヤジを飛ばしたり冷やかしたりする者がいないので楽しく過ごした。歌いながら沢山の写真を撮りまくった。


 「大和田さん、人間関係の綾って何?」

 「人間関係の綾?」

 「人間関係が入り組んでること」

 「小山君誰からその言葉聞いたの?」

 「室野と木原」

 「人間関係の綾が何だって言ってたの?」

 「大和田さんがそれで苦労しているって」

 「私が苦労してる? 何のことだろう?」

 「裕子、ひょっとして私のことなんじゃない?」

 「田宮さんの話も出たの? その時」

 「うん」

 「何て?」

 「カラオケのあと3人で室野のうちに来いって」

 「ああ、そのことか」

 「何で黙ってたの?」

 「黙ってた訳じゃないけどカラオケの後3人で何処かへ行くことになるかも知れないし、行く所が決まらなければその時に話しようと思ってたの」

 「そうか」

 「裕子は私にどう話を切り出そうか苦労していたという意味よ」

 「何で?」

 「私と芳恵が余り仲が良くないから」

 「僕も良くない」

 「だから小山君にも言わなかったの」

 「そうか」

 「喉が乾いたし、何か持っていった方がいいからコンビニ寄って行こう」

 「そうね」

 「コンビニ寄って何処行くの?」

 「だから室野さんのうち」

 「え? 田宮行くの?」

 「うん、鹿鳴館のメンバー全員が集まると言うし、芳恵に直接頼まれたんじゃね」

 「仲が悪いんじゃ無かったの?」

 「小山君に分かりやすく仲が悪いと言っただけで仲が悪いのとはちょっと違うの」

 「どう違う?」

 「お互い敬遠していたっていうかな、そんな感じ」

 「どんな感じ?」

 「小山君、私が西高の文化祭に行こうって誘った時『行きたくない』って断ったでしょう?」

 「都合が悪いって言ったんだ」

 「だから本当は都合なんて無かったのに行きたく無かっただけでしょ?」

 「まあそうだ」

 「小山君あの頃私のこと嫌いだった?」

 「別に嫌いじゃない」

 「そうでしょ。それなのに私と一緒に行きたくなかったんでしょ?」

 「うん」

 「それと同じよ」

 「そうか」

 「小山君、田宮さんとだいぶうち解けてきたね」

 「うん、下着まで見せた仲だからね」

 「下着を見せた?」

 「気付いたら見えていたんだ」

 「小山君のお姉さんが来た時裕子が小山君探していたでしょ? 私プールで泳いでいる小山君見つけたからプール・サイドにしゃがんで中にいる小山君と話ししていたの」

 「ああ、それで見えたのね」

 「みんなに言ったら駄目よ」

 「言わない」

 「私達の秘密だからね」

 「うん」

 

 芳恵の家は杉並区にあり、鬱蒼とした森に囲まれた大きな家だった。良介は粕谷マサルの家が大きいのでそれより大きい家の子はいないだろうと思っていたが、芳恵の家には驚いた。


 「あいつの親父何やってるの?」

 「社長さん」

 「社長って金持ちなんだな」

 「うちのお父さんも社長だけど貧乏だよ」

 「田宮んちは貧乏なのか?」

 「うん、だから朝は食べないで学校に来るの」

 「何? それで昼まで持つのか?」

 「うん。慣れてるから」

 「それは良くないな。今度からパン持ってきてやろうか?」

 「有り難う。小山君優しいね」

 「田宮さんのお父さんは銀行の頭取なのよ」

 「トードリ? 社長じゃないのか?」

 「銀行の社長は頭取って言うの」

 「銀行の社長? それじゃ金持ちなんだろ」

 「全然。自分で会社を作って社長になった人はお金持ちだけど、前からある会社の社長になった人はサラリーマンと同じだもの」

 「そうか。そういうもんなのか」

 「だから、明日からパン持って来てね」

 「うん。それくらいは何でも無い」


 芳恵の家の客間は粕谷マサルの家の貸しホールくらいの広さがあり、クラスの半分以上の人数が既に来ていた。芳恵の両親らしい人の姿も見えた。裕子はその人の所へ行って挨拶していたが、順子と良介は芳恵にすぐ捕まって席に案内された。と言っても席が決まっている訳では無く、皆適当に座っていた。良介は話をする間もなくすぐに裕子が来て

 「ちょっと芳恵のお父さんが小山君と話してみたいようだから、一緒に行きましょう」

 「何の話?」

 「ただの挨拶よ」

 「挨拶しないといけないか?」

 「田宮さんも行こう」

 「そうね」

 「僕も?」

 「そうよ」

 「何と言えばいいんだ?」

 「名前だけ言えばいいのよ」

 「そうか、それだけでいいのか」


 「小山君と田宮さんです」

 「おお、これは可愛い。いや、可愛いではなくて美人と言わないと叱られるかな」

 「いえ、どちらにしても有り難うございます」

 「お父さん、銀行の頭取されてるそうだね」

 「はい」

 「以前1度お会いしたことがありますよ」

 「そうですか」

 「宜しくお伝え下さい」

 「はい、申し伝えます」

 「小山君ですね」

 「良介です」

 「小山良介君と言うのか。いつもうちの芳恵がお世話になっているみたいだね」

 「別に世話なんてしたことは無いです」

 「え?」

 「凄いうちですね。此処だけでうちよりずっと広い」

 「そうかね。気に入ったらこれからちょくちょく来るといい」

 「何しに来るんですか?」

 「え?」

 「遊びに来なさいという意味」

 「何で?」

 「あのね、よろしくお願いしますってよく言うでしょ? 遊びに来なさいというのはそれと同じなの」

 「ああそうか」

 「そうだよ。よろしくお願いします」

 「困ったな」

 「困らなくていいの。小山君も、よろしくお願いしますと言えばいいのよ」

 「よろしくお願いします」

 「ハハハ。まあゆっくりして行きなさい」

 「小山君はもういいよ。田宮さんお願いね」

 「うん。小山君あっちのグループの所に行ってみよう」

 「うん。あれっ? 粕谷がいる。行ってみよう」

 「お気を悪くしないで下さい。小山君は口下手で社交辞令が言えない子なんです」

 「そうか。しかし芳恵の話に良く名前が出てくるから仲良しなんだと思うが」

 「はい。うちのクラスはみんな仲がいいんです」

 「君はどうやらみんなのまとめ役のような人なんだね」

 「いいえ、そんなことはありません」

 「まあ今日は君たちにとっては正月みたいなもんなんだろうから、大いに羽目を外してゆっくり楽しんで行きなさい」

 「はい。有り難うございます」


 「粕谷、木原と何処行った?」

 「喫茶店」

 「そうか」

 「飲みに行こうって言ったんだけど固くて駄目だ」

 「固い? 何が?」

 「ガードが」

 「そうか」

 「カラオケ面白かったか?」

 「うん、面白かった」

 「田宮、歌が上手いだろ」

 「うん、驚いた」

 「あの顔と声だからな」

 「だから何?」

 「箱入りでなきゃ歌手になってるぜ」

 「箱入り?」

 「あいつの親父何やってっか知らないの?」

 「知ってる」

 「そうか。芳恵の親父は何だか知ってるか?」

 「うん、社長だろ」

 「流石だよな、この家見ろよ」

 「粕谷の家よりデカイな」

 「当たり前だろ。室野グループの室野だぜ」

 「それって凄いのか?」

 「お前今知ってるって言ったんじゃ無いの?」

 「さっき聞いたばかりだから」

 「いつ聞いたって分かるだろ。凄い金持ちなんだせ」

 「粕谷のうちより?」

 「当たり前だろ。家見りゃ分かるだろ」

 「うん、粕谷のうちよりデカイもんな」

 「広さの問題じゃない」


 暫く歓談した後芳恵がピアノを弾いた。日頃の芳恵に似合わずピアノに向かうと真剣そのものの態度で一生懸命弾き、驚くほど上手かった。ショパンのワルツを2曲弾き、その後CDで音楽を流して、涼子が行列行進の時の衣装で踊った。途中で毛皮風の服を脱ぎ捨て、白い全身タイツだけになってクルクル回り、1礼して終わった。

 田宮順子が芳恵のリクエストに応じて芳恵の伴奏で『菩提樹』を歌った。それは予め練習を重ねたように息が合って見事だった。二人とも音楽学校に進学する予定なのだから、素人芸ではないのである。


 帰りは、木原涼子は芳恵の家から近いので歩いて帰ると言い、マサルが送って行った。残りの大多数は、芳恵の家の使用人らしい若い男が運転するマイクロバスで中野駅まで送ってもらい、そこで散会した。


 「田宮さん、小山君に送ってもらう?」

 「大丈夫。お手伝いさんが駅まで迎えに来ると思うし、小山君に明日からパンを持ってきて貰いたいから」

 「あ、そうか」

 「お手伝いさんがいるのに貧乏なのか?」

 「お手伝いさんと言っても親戚の子よ」

 「そうか。送ってやってもいいよ」

 「小山君、私と2人きりになってもいいの?」

 「どうして?」

 「なんでも無い。やっぱりいいわ。明日からパン持ってきて貰いたいから」

 「なんで? 送ってもパンくらい持ってきてやるよ」

 「ううん。そんなに小山君に甘えてはいけないから」

 「構わないよ」

 「小山君と2人になるチャンスを逃すのは惜しいけど、毎日小山君にパン貰う方が嬉しいから」

 「だからパンは持ってきてやるけど、箱入りなんだって?」

 「箱入り? 別に箱に入れなくてもポリ袋でいいよ」

 「ポリ袋入り?」

 「大和田さんは、どうやって帰る?」

 「うちはもうバスがなくなってるからタクシーで帰るわ」

 「そうか」

 「楽しかったね」

 「うん」

 「それじゃ明日また会おうね」

 「うん」

 「さようなら」

 「うん、さようなら。小山君タクシー乗り場まで送って」

 「ああ、いいよ」

 「凄く楽しかったわね」

 「うん」

 「小山君、本当に田宮さんにパン持ってきて上げるの?」

 「うん」

 「小山君って本当に優しいんだね」

 「別にそんなこと無いけど、箱入りってどういう意味なの?」

 「箱入り?」

 「粕谷が田宮のことそう言ってた」

 「ああ、そうなの」

 「何が箱入りなの?」

 「さあ。箱に入って育ったっていう意味かな」

 「箱に入って? ああ、分かった。未熟児だったんだな」

 「うーん。ひょっとすると本当にそうかも知れないわね、お母さん体が弱いって言ってたし」

 「それじゃポリ袋入りって?」

 「それはパンの話でしょ? それじゃタクシー来たから乗るわね」


2  順子


 文化祭が終わると後は卒業まで何も行事は無い。修学旅行も体育祭も進学準備の為に学年初めに設けられていてとっくに終わっている。良介のクラスは就職志望者と芸術系大学への進学希望者が集められたクラスで、それだけでは1クラスを編成するのに人数が足りないから文化系の進学希望者も何人かおり、良介はその1人である。

 木原涼子は宝塚音楽院に入る希望であり、室野芳恵はピアノ、田宮順子は声楽の進学希望、マサルはどこにも就職せず卒業と同時に婚約者とアメリカに数ヶ月行き、なんとかクラフト・インスティテュートという所に私費留学して帰ると父親の経営する一葉流生け花教室の正式な教授になるのだという。大和田裕子は新宿にある服飾専門学院に進学希望で、将来はデザイナー志望、駄目でも実家がブティックを経営しているから無駄にはならない。

 他のクラスが文化祭終了と同時に受験勉強の追い込み時期となるのに対して、良介のクラスにはそういう雰囲気は全く無い。芸術関係に進学する希望者はそれぞれ独自に予備校なり家庭教師なりに1年生の時からついており、学校の授業など内申書には関係するが受験そのものには全く関係ないということらしい。


 「お前少しは受験勉強しなくていいの?」

 「してるよ」

 「塾か何か通ってる?」

 「通ってない」

 「そんなんで大丈夫なのか?」

 「そんなんで大丈夫な大学選ぶから」

 「なるほど。大学ってもいろいろあるからな」

 「うん」

 「そいで大学出たらどうすんの? 就職すんだろ?」

 「まだ考えて無い」

 「まだ考えて無いったって、大学出てうちでブラブラしてる訳には行かないだろ?」

 「そうだな」

 「どっか就職すんだろ?」

 「そうだろな」

 「お前暢気だな」

 「いろいろ大学あるから会社もいろいろあるだろ」

 「お袋さん何か言わないの?」

 「何かって?」

 「粕谷君の家なんか遊びに行かないで少しは受験勉強しなさい、とか」

 「僕が遊びに来ると迷惑なのか?」

 「そうじゃ無いよ。俺は全然構わないけどお前大丈夫なのかと思って」

 「母さんは何も言わないな」

 「母さんは?」

 「姉さんがうるさく言う」

 「何て?」

 「良介は馬鹿なんだから少しは勉強しろって」

 「そうだろ」

 「だけど馬鹿は勉強しても無駄だろ」

 「それはそうだな」

 「先生もうるさいな」

 「小泉が?」

 「うん」

 「勉強しろって?」

 「うん、内申書は最高に書いてやるからそれにふさわしい受験成績取ってくれって」

 「何処受けんの?」

 「先生に任せてある」

 「先生に任せてある?」

 「うん」

 「それってどういうことだよ?」

 「どういうことって?」

 「自分の希望って無いの?」

 「僕の希望?」

 「ああ、この大学に行きたいとか、こういう大学がいいとか」

 「それなら無いことも無い」

 「どこ?」

 「安い所」

 「安い所?」

 「うん余り金の掛からない所」

 「お前んちあんまり金が無いの?」

 「どうだろ? 良く分かんないな」

 「それじゃどうして安い所がいいんだ」

 「どうせ何処行っても大して変わりないから」

 「そうだな。それはそうだな」

 「僕なんか勉強してちょっといい所に入っても、授業料高い所に入っても、それで何が変わるっていうことは無いだろ?」

 「そうだな。お前もお前なりに考えてはいるんだな」

 「うん、無い知恵絞ってる」

 「受験勉強に知恵絞るより、それのが利口かも知れないな」

 「うん、僕もそう思うんだ」

 「俺なんか卒業したら芳恵とアメリカ行くってんで英語を習い始めたんだ」

 「室野と?」

 「違う。けった糞悪いな。室野と同じ名前なんだよ、あの女」

 「あの女って?」

 「だから前にお前見たことあるだろ? 俺の婚約者」

 「ああ、あれか」

 「まあ、あいつと一緒だから英語はあいつに任せるつもりなんだけど、親父が英語を習いに行けって言うんだ」

 「英語かあ。日本語の通じる国に行けばいいのに」

 「日本語の通じる国なんてあるのか?」

 「どうだろ。外国のことは余り良く知らないな」

 「そんなのあったら俺もそこへ行きたいよ」

 「でも帰ってきたら英語ペラペラなんて格好いいじゃないか」

 「ペラペラな訳無いだろ」

 「そうか」

 「俺な、お前の姉さんの写真見っけたぜ」

 「皆で撮った奴?」

 「皆で? ああ、文化祭の時のか。違う、雑誌に載ってる写真」

 「雑誌に載ってる写真?」

 「これだよ」

 「本当だ。姉さんだな」

 「綺麗だよなぁー。こんな女と一発やりたいよ」

 「姉さんと?」

 「姉さんみたいな女と」

 「こういうのが好きなのか」

 「こういうのが好きだよ。普通はこういうのが好きなんだぜ」

 「そうか」

 「お前は幸せだよな。毎日この姉さんと顔合わせるんだから」

 「僕はこの姉さんと毎日顔会わせるから、なんて不幸なんだろと思ってるんだけど」

 「何で?」

 「勉強しろ、勉強しろって、今日も喧嘩しちゃったよ」

 「なんで?」

 「姉さんに金出して貰う訳じゃ無いって言ってやった」

 「そうだな」

 「そうだろ」

 「そしたら何だって?」

 「馬鹿、良介の為に言ってやってんだよって」

 「そうだな、それは姉さんに座布団1枚」

 「そうか?」

 「俺もこんな美人に叱られてみたいよ」

 「粕谷ってマゾだったの?」

 「マゾじゃ無いけど、こんな美人ならマゾでも何でもなっちゃうぜ」

 「それじゃこれから一緒にうち行ってみる? 叱りつけて貰えるかも知れない」

 「俺が?」

 「うん」

 「何で?」

 「粕谷んち行くって言ったら、あの子がガンなんだなって言ってたから」

 「俺が悪者にされてるのか」

 「自分の弟を悪者にしたい姉さんなんていないからな」

 「ヒデエ。姉さんに好かれたいっていうのにお前のせいで嫌われるんじゃ叶わないな」

 「ナニ、僕が大学に入るまでのことだよ。大学に入ってしまえば、いいお友達だなんて言い出すさ」

 「それじゃ是非とも大学入ってくれよ、俺の為にも」

 「うん、どっか入るだろう」

 「そんな暢気なことで大丈夫なのかな」

 「粕谷までそんなこと言うなよ。此処は僕の避難所なんだから」

 「俺は全然構わないけど、やっぱり姉さんの言うとおり勉強した方が自分の為だぜ」

 「そんなこと分かってるんだ。分かってたって出来ないからやらないんで、出来れば言われる前にやってるだろ」

 「そうだな。小山良介君に座布団1枚」

 「それが姉さんは、分かっているならやんなさいって言うんだ。こういうのを何て言ったっけ? 泥棒に追い銭?」

 「ちょっと違うんじゃないか?」

 「割れ鍋に綴じ蓋?」

 「さあー?」

 「死に馬にムチ打つ?」

 「それが良さそうな感じ」

 「勉強ばっかしてるから、すぐこんなこと考えちゃうんだよ」

 「結構やってるんだ?」

 「うん、それなりに」


 良介は帰りにお腹をすかして泣いている子猫を拾って帰った。庭の片隅に昔使っていた犬小屋があって、此処に座布団の古いのを敷いてやり、帰りに買ってきた魚の缶詰を与えた。


 「良介、何やってるの?」

 「子猫拾った」

 「またあ?」

 「うん」

 「それで何匹目なの」

 「だって放って置いたら死んじゃうだろ」

 「それはそうだけど、困ったわね」

 「1人で生きていけるようになれば自然に出ていくからいいんだ」

 「御近所から苦情が出なければいいんだけど」

 「苦情って?」

 「野良猫が増えて困るって」

 「母さん、これは野良猫じゃない。順子っていう名前なんだ」

 「また。良介、拾ってきた猫に女の子の名前付けてないで本物の女の子と付き合いなさい。その方がよっぽど健全だわ」

 「付き合ってるよ。付き合ってる子の名前付けてやるんだ。そうすると覚えやすくて間違えないだろ」

 「それじゃ今まで付けた名前、全部付き合ってた女の子の名前なの?」

 「うん、付き合ってたという程でも無いけど」

 「母さん、良介は今受験勉強に打ち込まないといけない時期なんだよ。本物の女の子と付き合いなさいなんて、母さんがそんなこと言ってちゃ駄目じゃないの」

 「でも良介は勉強しても大して変わらないから」

 「あーあ、母さんがそんなこと言うから良介が居直っちゃうんだ」

 「居直ってないよ」

 「そんなら粕谷君の所なんて行く暇無い筈でしょ」

 「ちょっと息抜きしたんだ」

 「息抜きばっかりしてたら空っぽになっちゃうよ」

 「そしたら思いっ切り空気吸うから」

 「馬鹿。空っぽになるのは頭だよ」

 「さあーて、空っぽの頭に詰め込んで来るかな」

 「ちょっと待ちなさい」

 「勉強しないと」

 「いいからこっちおいで」

 「暴力はいかん。話せば分かる。板垣退助。違うかな? 誰だったかな」

 「何、訳分かんないこと言ってんの」

 「勉強のし過ぎですぐこうなる」

 「良介、今田宮さんと付き合ってんの?」

 「どうして?」

 「だって付き合ってる子の名前猫に付けるんだって言ったじゃない」

 「だから、どうして?」

 「大和田さんはどうしたの?」

 「どうもしないよ」

 「もう付き合って無いの?」

 「そんなことも無い」

 「それじゃ2人と付き合ってんの?」

 「うーん。付き合ってるという語の定義を述べよ」

 「何?」

 「付き合ってるという意味によるな」

 「どういう付き合いしてんの?」

 「それは循環論法である。違うかな、あっ、問いをもって問いに答えるだ」

 「良介、息抜きのし過ぎで頭がおかしくなったね」

 「姉さんは鬼だね。鬼の写真見てため息ついてる粕谷の気が知れない」

 「何?」

 「こっちの話」


 「あんまりギシギシ言うのお止しなさい。あの子はあんたとは違うんだから」

 「違うから余計言わないと駄目なのよ」

 「勉強より母さん良介の交友関係が心配だわ」

 「女の子?」

 「うん」

 「それは大丈夫よ。あの学校に変な女の子はいないから。むしろ向こうの親が良介みたいなのと付き合って心配するくらいでしょ」

 「違うわ。そういうことじゃなくて、普通に女の子とつきあえるような男の子になってるのかということよ。猫に女の子の名前なんか付けてるからそれが心配なのよ」

 「それは心配無いんじゃないかな。猫の名前が裕子から順子に変わったから」

 「それはどういうことなの? あんた裕子とか順子とかいう子知ってるの?」

 「うん、2人とも文化祭の時会ってきた」

 「そう。それでどんな子だった?」

 「裕子って子は母さんより世話好きな子だね。あれと付き合ってるといつまでもマザコンから抜けられないけど、順子って子は普通だよ」

 「そう? そっちの方面は母さん全面的にあんたに頼ってるからお願いね。もう母さんなんか時代が違うから今風の付き合いなんて分からなくて」

 「うん、心得てる」


 「小山君、受験勉強進んでる?」

 「進んでるけどゴールが見えない」

 「そうかぁ。こればっかりはやってみないと分からないものね」

 「うん、試験って運があるだろ?」

 「そう。どうしてもね」

 「だから僕は小山式勉強法を考え出した」

 「どういう?」

 「運を初めから計算に入れて勉強するんだ」

 「運を計算に入れてって、どうやるの?」

 「勉強する所を半分に削るんだ」

 「半分に削る?」

 「うん。全体をまんべんなく勉強すると全体が分からなくなるから半分だけ集中して勉強するんだ」

 「なるほど。でもそうすると運が悪いと零点だね」

 「そうだ。でも例えば合格点が50点だとするだろ。そうすると全体を勉強すると運に関係なく49点しか取れないんだ。49点でも合格しないから零点と同じだろ。でも小山式だと運が良ければ50点取れるんだ」

 「運が良ければ70点くらい取れそうだね」

 「そこまで頑張る必要は無い。50点取れば合格なんだから」

 「なるほど。考えたわね。でもそれ、人には言わない方がいいよ。特に先生には」

 「どうして? 先生に言えばみんなに教えてやれるじゃないか」

 「ううん、悪いこと言わないから先生には言わない方がいい」

 「そうかあ? 田宮がそう言うなら言わないけど」

 「お姉さん元気?」

 「元気過ぎる」

 「うちのお父さんが小山君とお姉さん連れて来ないかって言ってたけど、勉強で忙しいかな?」

 「勉強は忙しくない時にやるからいいけど、何で?」

 「うーん、お姉さんの写真雑誌に載ってたでしょう? それを見てたから『これ私の友達のお姉さんなのよ。文化祭の時に紹介されたのよ』って言ったの。そしたら是非ともうちに連れてきなさいって」

 「それじゃ姉さんにそう言ってみる」

 「小山君も一緒に来るのよ」

 「僕も? 僕は別に雑誌に載ってないよ」

 「そうだけど本当は小山君に会ってみたいのよ。ついでに雑誌に載ってる美人にも会えたらいいなっていうんでしょ」

 「そうか。雑誌に載るってそんなに凄いことなのか?」

 「うん、男の人にはそうみたい」

 「粕谷もその雑誌持ってたな」

 「小山君は?」

 「毎日本物見てうんざりしてるのに、雑誌買って見る気になんかなんないよ」

 「そうか、うんざりしているの?」

 「鬼の顔見て美人だ美人だって騒ぐ気が知れない」

 「酷いこと言うのね。凄い美人じゃない」

 「田宮の方が余程美人だと思う」

 「あら、小山君私のこと美人だと思ってくれてるの?」

 「みんなそう言うだろ?」

 「みんなはどうでもいいの。小山君がそう思ってくれてるかどうかが聞きたいの」

 「美人だと思うって今言ったじゃないか」

 「私も涼子も美人だなんて思わないって、前は言ってたんでしょう?」

 「なんで知ってるの?」

 「いろいろ情報網があるから」

 「うーん、この頃だんだん美人に見えてきた」

 「そう、有り難う。嬉しいわ」

 「でも僕が言わなくても前から美人だったんじゃないか。僕が気が付かなかっただけで」

 「そうだけど小山君が気が付いてくれたということが大切なことなの」

 「おかしなこと言うな。田宮の顔は前から変わらないで僕の見方が変わっただけなんだよ」

 「木原さんとどっちが美人に見える?」

 「さあー、木原のことは今でもどこが美人なのか良く分からない」

 「嬉しいわ。有り難う」

 「嬉しい?」

 「うん」

 「田宮ってやっぱり木原と仲が良くないんだな」

 「どうして? そんなこと無いわよ」

 「まあいい。喧嘩なんかしないで仲良くするんだよ。それが大人ってもんなんだ」

 「あら、小山君にそんなこと言われるとは思わなかった」

 「僕も少しずつ大人になってきてるんだ」



 「姉さん」

 「あら珍しい。どうしたの?」

 「田宮が家に遊びに来いって言うんだけど」

 「また息抜きか。でも何でわざわざ私に言いに来たの。こそこそ隠れて私に会わないようにしてたじゃないの、この頃」

 「別にそんなことは無い」

 「そんなこと無いこと無いでしょ? 同じうちに住んでて何日顔会わして無いと思ってんの」

 「たまたまだろ」

 「そんなこと無い」

 「そんなこと無いこと無い」

 「まあいいわ。で、何だって?」

 「だから田宮が家に遊びに来いって」

 「いいわよ、行ってらっしゃい。駄目だって言ったってどうせ行くんでしょ」

 「良く分かっているじゃないか。それでもし良かったら姉さんも一緒に来ないかって言うんだけど、都合が悪いよね。じゃ」

 「待てっ」

 「僕、勉強しないといけないから」

 「ちょっと、こっちおいで」

 「何? 話なら此処でも聞こえるから」

 「此処に来なさい」

 「女性の部屋に入るのは失礼だから」

 「何が失礼だよ。いいから来なさい。取って食ったりするんだから」

 「取って食ったりしないからって、普通言うんじゃないの?」

 「良介も近頃減らず口になったね。此処に座りなさい」

 「へい」

 「それは粕谷君の影響だね。へい、なんて返事は駄目」

 「はい」

 「良し。今なんて言った?」

 「はいって言った」

 「その前」

 「取って食ったりしないからって、普通言うんじゃないの?」

 「その前」

 「さあ? あ、女性の部屋に入るのは失礼だから」

 「その前だよ。田宮さんの家に呼ばれたって?」

 「うん」

 「それで私も連れて来いって?」

 「そんなこと言って無いよ。もし万一ひょっとしての話、あの、僕は唯の社交辞令で付け足したんだと思うんだけど、万々が一その気になったら一緒に来ないかって言ってたような気がする」

 「万々が一その気になっちゃった」

 「え?」

 「だからその気になった」

 「社交辞令だと思うよ」

 「社交辞令には答えないといけない」

 「え? 社交辞令って答えないのが礼儀なんじゃ無いの?」

 「良介に礼儀を教わりたくない」

 「いつ行くの?」

 「それは先方の都合に合わせるのが礼儀なんだよ」

 「それじゃ聞いてみるけど、姉さんいつなら都合が悪いの?」

 「いつなら都合がいいのって聞くんじゃ無いの、普通」

 「ああ、間違えた。いつなら都合がいいの?」

 「いつでもいい」

 「いつでも? 1日くらい都合の悪い日は無いの?」

 「無い」

 「もしそういう日に当たっちゃうといけないから予め聞いておいた方がいいと思うんだけど」

 「じゃ、良く聞きなさい。都合の悪い日は無い」

 「行ってもつまらないと思うよ」

 「面白くて行くんじゃ無い」

 「じゃ何で?」

 「先方は、あんたの弟をうちの娘に近づかせんでくれって言いたいから私を呼んだんだ」

 「え?」

 「だから私に用があるんで、良介は付け足しだ」

 「えー? 本当かよ?」

 「うん、多分そうだろう。そうに違い無い」

 「そ、そうだったのか」

 「そうで無きゃ私を呼ぶ筈が無いだろ」

 「うーん」

 「だからこっちの都合を言って断る訳には行かないんだ」

 「そうだったのか」

 「まあ、その失意を勉強のバネにしなさい」

 「そうだったのかあ」


 「姉さんはいつでもいいって」

 「わあ、本当? それは楽しみね」

 「田宮浮かれてるなぁ」

 「だって素敵なお姉さんだったじゃない」

 「何の為に姉さん連れて来いって言ったと思う?」

 「何の為に?」

 「あんたの弟さんをうちの娘に近づかせないでくれって言う為に呼んだんだよ」

 「え?」

 「それ以外に考えられないって言ってた」

 「厭だ、それは考えすぎよ」

 「そうならいいけど、何か厭な予感がするな」

 「何で? 私が誰と付き合おうと口出しするようなお父さんじゃないわ」

 「でも、どうせ付き合うならもっと頭のいい男にしなさいとか言うんじゃないのかな?」

 「あのね、中庸の法則って知ってる?」

 「中庸の法則? 知らないな、それ何?」

 「頭のいい男女が結婚すると頭のいい子が産まれるんだけど、それを何代も繰り返してると逆に今度は少しづつ頭の悪い子が生まれてくるの。そういう遺伝の法則」

 「それは知らないなあ。生物は受験に関係無いから勉強してないんだ」

 「うん。でも、そういう法則があるから私は頭のいい男の子と結婚すると却って馬鹿な子が出来る可能性が強いのよ」

 「すると僕みたいな馬鹿が丁度いいっていう訳?」

 「そう。だから安心して」

 「うーん」

 「それじゃお父さんと日取りを打ち合わせてまた知らせるね」

 「うーん」

 「どうしたの?」

 「うーん」

 「何考えてるの?」

 「あのさ。今の中庸の法則だけど、あれってもしかすると僕と結婚すること考えて言ったの?」

 「そういうことも視野に入れて言ったということかな」

 「視野に入れて?」

 「そう」

 「それって、どの程度具体性があるっていうことなのかな」

 「具体性と言うより可能性かな。それもポシビリティよりプロバビリティの方が近いかな」

 「ん? そんな突然横文字出されても分からないよ」

 「分からなくていいわ」



 「あのさ。ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」

 「まあ珍しい。小山君が一体何ですか?」

 「うん。室野、クラスで1番英語が出来るだろ?」

 「そうでも無いけど何? 小山君英語の出ない大学受けるんじゃ無かったの?」

 「うん。受験とは関係無いんだけど、教えて欲しいんだ」

 「何?」

 「ポシビリティとプロビリティってどういう意味なんだ?」

 「ポシビリティは可能性だけど、プロビリティって何だろう。知らないな」

 「室野も知らないのか」

 「小山君、それプロバビリティなんじゃないの?」

 「あ、そうだ、プロバビリティでしょ? それなら分かる」

 「うーん。そうだったかも知れない。それだとどういう意味?」

 「それも可能性という意味だよ」

 「ちょっと芳恵。此処は私に任せなさい。小山君と話すのは私の方が上手いから。ね、小山君、単語だけポツンと持ち出して意味を聞いても分からないよ。だってどういう文脈でその言葉が使われたのか分からないと正確な意味も説明出来ないよ」

 「本当か?」

 「そうよ。日本語だってそうでしょ? 朝って言ったって昼頃まで含むこともあるし、6時から8時くらいまでに限ることもあるし、朝の3時という場合は午前というのと同じ意味に使われている訳でしょ? だから言葉の意味を聞く時はどういう状況で使われたのか前後の言葉も説明してくれないと駄目よ」

 「そうか。それじゃある人があることを視野に入れていると言ったとするだろ? で、視野に入れてるってどういう意味なんだって聞いたら、そういう可能性もあるかな、それもポシビリティじゃなくてプロビリティかなって言うんだ」

 「プロバビリティ」

 「そう、それ」

 「あることって何? それが分からないと説明も出来ないよ」

 「うーん、それじゃ例えば、例えばの話だよ。例えば結婚とかまあそんなようなことだとして」

 「誰かが結婚を視野に入れてるって小山君に言った訳ね?」

 「うん。いや、例えばの話なんだ」

 「勿論例えばの話よ。それで小山君が例えば、それってどういう意味なんだって聞いたとしたら、その人が例えばの話し、そういう可能性もあるかな、それもポシビリティじゃなくてプロビリティかなって答えたっていう訳ね?」

 「涼子、プロバビリティ」

 「あ、そうだ移っちゃった。ポシビリティじゃなくてプロバビリティかなっていう訳ね?」

 「まあ例えばの話ね」

 「うん、例えばの話、それは誰なのかな?」

 「それは例えばの話だから木原でもいいんだ」

 「いいよ。涼子、もう分かったから」

 「そう?」

 「うん、大体」

 「何だよ。何2人でこそこそ話してんだよ」

 「ああ、その、どう説明するか分かったっていう話」

 「それで、どういう意味?」

 「可能性より蓋然性っていう意味」

 「蓋然性って何?」

 「それは日本語だから自分で調べなさい」


 良介は早速家に帰ると辞書を引いて調べてみたら、次のように書いてあった。


  『その事柄が、実際に起こる、あるいは真であることもあり、そうでないこともあるという性質をもつさま』


 「何だこれは。全然分からないじゃないか。随分難しい日本語なんだな。それを英語で言うんだから凄いことだな。田宮って天才だな。それにしても分からないな。姉さんに聞いたって分かる筈ないし、困ったもんだな、これは」

 と長い独り言を言った。受験勉強を始めて以来なんでも自分の部屋では声に出して考える癖が付いてしまったのである。

 「要するに可能性という程ではなくてひょっとするとひょっとする、なんて程度のことを言ったんだろうな。それならあり得るかもなあ。でも大学に入るのが先だな、どう考えても。浪人と結婚する訳無いんだから。大学入って何処か就職が決まったらひょっとするっていうことかな。結局大学に入らないとこれから先の人生は無いみたいだな。粕谷みたいに大学に行かなくてもいいような人生が羨ましいな。こういうのを生まれによる差別と言うんだろうな」


 良介は田宮順子と結婚したいと思っている訳では無い。少し晩生の良介は結婚なんておよそ考えたことも無かった。結婚すればセックスというのをするようになるらしいという程度は知っていた。しかし、そもそもセックスについて良く知らなかったし、良く知らないものについてどうしてもやりたいと考える筈も無い。

 ただ大和田裕子と一緒にいると楽しくて安心した時期があったように、今は田宮順子と一緒にいるととにかく楽しいのである。安心するという感じは余り無いが、心が躍るような楽しさは裕子の時には感じなかったものである。順子は顔や動作と同じように心の動きがいつもはつらつと躍動していて話が楽しい。良介はあまり口数が多い方ではないが、順子と話しているとどんどん引きずられて出てくるように喋ってしまう。こういうのが恋と言うのかと思うこともあるが、どうも良く分からない。恋焦がれるという言葉があるけれども、そういう感じはしないのだ。会っていれば楽しくて時間が経つのを忘れる程だが会っていない時には別に順子のことを考えたりはしない。


 良介は文化祭の翌日から毎日パンをポリ袋に入れて順子に持って行ってやっていた。良介は中学に通っていた頃は登校途中にある家の犬にやるのだと言ってパンを持っていったことが良くあるし、今でも捨てられた子猫を見ると放ってはおけない性格だから毎日学校へパンを持っていっても良介の家族は誰も不審に思わない。

  順子は良介にパンを貰うとそれを取って置いて昼に食べた。だから順子はいつも弁当のおかずだけ食べてご飯は残すことになる。順子は一人娘だから、いや、1人娘で無くとも、朝は食べないし昼はおかずだけというのでは親は心配することだろう。


 果たして順子の親は心配していた。別にやつれた様子は無いが何か悩み事があるのでは無いかと考えたのである。受験については特に悩んでいる様子は見られないし、何が何でも国立大学に入れなどとは言っていない。本人もそこまで国立大学に固執しているようではない。声楽科のある私立大学は日本全国いくらでもあるし、本人の希望は別として、経済的な意味では何処の私立大学に入っても通わせたり下宿させたりするだけの余裕はある。順子もそういう家計の事は知っている筈である。すると何か交友関係の悩みでもあるのだろうかと考えた。

 そんな時に順子が雑誌を示して「その写真のモデルは私のボーイフレンドのお姉さんなのよ」と言うから、そのボーイフレンドが悩みの種なのかどうかは別として1度会っておきたいと思った。何気なしに姉さんも一緒に家に呼びなさいと言ったのは、綺麗なモデルに会って見たいからと思わせておくつもりだった。どんな少年と付き合っているのか見ておきたいなどと言うと却って不穏当に思われてしまいそうである。しかし順子の父は遅い子持ちで祖父と言える程年が離れていたから、勿論娘のボーイフレンドの姉さんになど関心は無い。都市銀行の頭取をしている程の人物だから、今更若い女性モデルの写真を見て本人に会ってみたいなどと思う程通俗ではないのである。

 一方順子は毎日良介が自分の為に家からパンを持ってきてくれるということが嬉しくて、要するにちょっとした恋人気分を味わって楽しかったのだが、家に招待すれば貧乏で無いことはすぐにバレルから親に紹介したいという気持ちと毎日パンを持ってくることを続けて貰いたいという気持ちとのジレンマで多少悩んだりはしたが、親に認められた交際というのはやはり1歩進んだ確実性が備わるような快感がある。それで良介と姉さんを呼ぶ方に決めたのだが、良介に『変な虫を追い払う為に呼んだのだろう』と言われて、まさかと思った。しかしまさかと思う一方で、ひょっとするとそうなのだろうかと考えたりもしてしまう。悩みを自分から求めるのは恋に落ちた若い女性特有の傾向なのである。

 自分の娘にはやさしい理解ある父親の顔を見せておいて、相手が来れば態度を豹変させるということもなるほどあり得ないでは無い話である。このように、良介と姉さんが田宮家に招待されるという出来事はそれぞれの人達の心にさまざまな波紋を引き起こしたのだが、時間はそれに関わりなく経っていき、いよいよ2人が荻窪の田宮家に行く日が来た。


 恵子は日頃モデルとして仕事をする時以外は女らしい服装などしたこと無いのに、今日は鮮やかな蒼いワンピースを着ている。極細のニットのワンピースで、上は水着のような形になっている。つまり体に密着し、面積が小さく、細い肩紐が付いている。それが腰の下から急に豊かなドレープを描いて広がり、歩くたびに裾が揺れて女らしい雰囲気を振りまく。上にはアンサンブルのカーディガンをはおっているから肌が露出し過ぎるということは無い。背の高い良介と並んでもハイヒールを履いているので殆ど変わらない。真ん中に1粒の真珠が着いた黒いベルベットのチョーカーをしている。恵子は胸元でぶらぶらするネックレスが嫌いで、何かするときはいつもチョーカーである。


 「姉さんまるで見合いに行くみたいじゃないか」

 「そうよ。果たし合いに臨む時は最高にドレスアップして心の準備をするもんなんだよ」

 「果たし合い?」

 「そう、良介みたいな不出来なぼんくらでも私にとっては可愛い弟だからね」

 「不出来なぼんくらは酷いなあ」

 「それが事実だから」

 「例え事実でも可愛い弟に言う言葉じゃないと思うよ」

 「弟思いの姉さんにそんなこと言わせる方が悪い」

 「別に言わせて無い。勝手に言ってる」

 「言いたく無いけど良介見てると言葉が出てきちゃうんだ」

 「マスクをしてたら?」

 「マスクの端から良介の悪口がゾロゾロ出てくる」

 「あーあ。やり切れない。姉さんちょっと離れて歩くよ」

 「何で?」

 「みんなこっち見るから恥ずかしい」

 「私が美人だからしょうがない」

 「ふん。それじゃ先に行くから」

 「待てっ。こらっ」

 「大きな声を出すなよ。待てっ、こらって、そういう服着て言う言葉じゃ無いだろ」

 「服が喋る訳じゃない。ハイヒール履いてんだから離れて歩くな。ピッタリくっついて歩きなさい」

 「どうして?」

 「よろけたらとっさに良介につかまる」

 「よろけるような靴履くなよ」

 「女だからしょうが無い」

 「あーあ、たまんないな」

 「ため息ばかり付くんじゃないの。若い癖して」

 「へいへい」

 「粕谷君の癖がすっかり移ったね。それも止しなさい」

 「はいな」

 「何それは?」

 「イエス・サーの若者言葉だよ」

 「私は女だからサーじゃなくてマームって言うんだよ」

 「マームって何?」

 「マダムの略」

 「マダムって結婚してる女のこと言うんじゃないの?」

 「そうだったかな? サーよりはいい」

 「さー、どうだか」

 「洒落てんじゃ無い」

 「田宮んちは貧乏らしいから何か途中で買ってった方がいいんじゃないか?」

 「そりゃ手ぶらでは行かないけど、貧乏ってことは無いだろ」

 「どうして?」

 「名簿みたら銀行員って書いてあった」

 「銀行員? あ、そうか」

 「どこの銀行?」

 「知らない」

 「それくらい聞いておきなさい」

 「うん。銀行員って貧乏では無いの?」

 「まあ金持ちとは言えないとしても貧乏では無いんじゃないの? どういう肩書きなのかっていうことにもよるけど」

 「肩書きは社長だって」

 「社長? 銀行って頭取っていうんじゃ無かったかな」

 「そう、それ」

 「何? 銀行の頭取?」

 「うん、そう言ってた」

 「田宮さんの親父さんが?」

 「うん」

 「それ田宮さんが言ってたの?」

 「うん。それと大和田も」

 「何? それじゃ良介は銀行の頭取の娘と付き合ってんのか」

 「頭取って言ってもサラリーマンと同じだから全然金持ちじゃないって言ってた」

 「誰が?」

 「田宮が」

 「馬鹿」

 「何で?」

 「それは謙遜っていうんだよ」

 「そうか?」

 「やっぱりドレスアップしてきて良かった」

 「田宮も室野の家見てた時だから金持ちとは言えなかったのかな」

 「室野って?」

 「木原といつも一緒にくっついてる奴。眼鏡掛けてて髪がチリチリにカールしてる」

 「ああ、あれか。文化祭の時に会ったね」

 「うん、食堂に居たな。一緒に写真に写ってる」

 「あの子のうちは金持ちなの?」

 「当たり前さ。室野グループの室野だよ」

 「良介、室野グループって知ってるの?」

 「良くは知らない」

 「全然知らないんだろ」

 「詳しくは知らない」

 「乗っ取り屋だよ」

 「乗っ取り屋? 室野の親父って暴力団だったのか?」

 「暴力団じゃない。株を買い占めて会社を乗っ取るんだよ」

 「そういうことが出来るのか」

 「そう、金があればね」

 「それじゃ凄い金持ちってことなんだな」

 「まあそうだね」


 その時同じ電車に乗っていた大学生らしいグループが近づいてきてその中の1人が言った。

 「小山恵子さんでしょう? サインお願いします」

 「人違いです」

 「そうですかあ? 小山恵子さんじゃ無いですかあ?」

 「私は田宮順子です」

 「そうですか・・・」

 男は納得していない様子だったが渋々引き下がった。


 「姉さん凄いじゃないか。サインしてくれだなんて何時の間にスターになっちゃんたんだ?」

 「スターじゃない」

 「でもサインしてくれって言われるのはスターだってことじゃないか」

 「いつも私がこういう格好しない訳が分かっただろ?」

 「ああ、姉さんって知らない内に有名人になっていたんだ?」

 「有名人の弟にふさわしい大学に入って欲しいわね」

 「よし、それじゃ奮発して国立大学でも受けてみようかな」

 「受験料の無駄」

 「でも小山式勉強法を発明したから」

 「何それ?」

 「何それって言われても、田宮の許可がないと話せない」

 「何で? あの子がそれの特許でも持ってるの?」

 「そうじゃないけど、まあ代理人かな。いやマネージャーだ。マネージャーを通さないと話は出来ない」

 「何気取ってんだよ。それじゃ良介の方が有名人じゃないか」

 「うん、有名人の弟だから」

 「馬鹿。勉強に何式も無い。地道に勉強しなさい」

 「地道に勉強して受験に失敗したらどうする」

 「やっぱり地道じゃないやり方を考えてるんだな」

 「合理的と言って欲しい」

 「ほら、降りるよ。着いたよ」

 「何処で買い物する?」

 「駅ビルで買い物しよう」

 「うん。何買うの?」

 「そうだな。何か食べる物がいいと思う」

 「パンとか?」

 「馬鹿。人のうち訪ねるのにパン持って行く人がいるもんか」

 「それじゃ何?」

 「菓子折って言うくらいだから何かお菓子がいい」

 「饅頭とか?」

 「今時饅頭は流行らない」

 「じゃ今の流行って何?」

 「まあ見てから決めよう」

 「なるほどそうだね」


 結局マロングラッセの詰め合わせにして、待ち合わせの改札口に戻ると既に順子が来ていた。


 「あらあー。お久しぶりです。わぁー素敵なお洋服ですね」

 「有り難う」

 「電車の中でサインしてくれっていう男がいたよ」

 「そうですか。今やもう有名人ですものね。有名人でなくともその姿だとみんなに見られるでしょう」

 「だから一緒に歩くの厭なんだ」

 「良介が見られる訳じゃないよ」

 「それじゃ歩いても遠くは無いんですけどタクシーで行きましょうか」

 「うん」


 「やあ、良くいらっしゃいました。どうぞお上がり下さい」

 「はい。この度はお招き有り難うございます。小山良介の姉の恵子と申します。良介がお世話になっております」

 「いえいえ、まあとにかくお上がり下さい」

 「はい」

 

 「凄い家だね。姉さん」

 「当たり前よ。銀行の頭取だもの」

 「やっぱり金持ちだったんだ。驚いた」

 「覚悟はいいね?」

 「何の?」

 「お前のような貧乏人の息子にうちの娘はやれるかって言われるんだよ」

 「僕っていつから姉さんの息子になったの?」

 「今日は母さんの代理で来てんの」

 「それじゃ代理じゃなくて母さんに来て貰えば良かった」

 「もう遅い」


 「そちらへどうぞ」

 「はい。では失礼します」

 「順子の父の順一郎と申します」

 「恵子の弟の良介と申します」

 「え? あ、いつも順子がお世話になっています」

 「いいえ僕の方がお世話になっています」

 「良介は少し黙ってなさい」

 「いやいや、どうぞお気楽に。それにしても大変な美人のお姉さんでいらっしゃる」

 「有り難うございます」

 「雑誌で拝見しました。ああいった写真はプロが撮るから美人に見えるのは当然で、実物に会うとたいしたことは無いということが多くてね。それでがっかりさせられものなんだけど、恵子さんは写真より遙かに美しい」

 「お父さん眼福でしょう?」

 「ん? ああ確かに」

 「ガンプクって何?」

 「眼が幸せっていうこと」

 「眼が幸せだから眼福か。するとおいしい物を食べると口が幸せで口福か」

 「そういう言い方はしないの」

 「田宮、貧乏だって嘘付いてたな」

 「ご免ね。もう明日からパンはいいよ」

 「何のことかね?」

 「あっ? 良介毎朝持っていくパンは犬にやるんじゃ無かったのか?」

 「うん」

 「ご免なさい。私が貧乏だから朝は食べないで学校に行くと言ったら小山君が可哀想だからと毎日パンを持ってきてくれたんです。私小山君がそんなことしてくれるのが嬉しくて今更貧乏で食べない訳じゃ無いとは言えなくなってしまって」

 「すると順子」

 「そう。毎日お弁当のご飯に手を付けなかったのは小山君に貰ったパンを食べていたからなの」

 「そうかー。それを聞いて安心した。どんなに心配したと思っているんだ?」

 「ご免なさい。でも友達にパンを貰ってるからとは言えなくて」

 「それはそうだ。しかしそういうことだったのか。余り親を心配させるもんでは無いぞ」

 「はい」

 「何で朝食べないの?」

 「朝は食欲が無いし、慣れてるからそれで平気なの」

 「それは良く無いな」

 「うん。分かっているけど食べられないものは食べられないもの」

 「そうかあ」

 「小山君ご免ね」

 「うん、パンなんかどうでもいいけど貧乏じゃなくて良かったね」

 「うん。有り難う」

 「それでやっぱり貧乏人の息子と付き合うなってこと?」

 「え?」

 「良介っ」

 「だってどうせ言われるなら早い方がいいだろ」

 「小山君違うよ。そんなことじゃないの」

 「何か誤解があるようですな。今日はただ順子がお付き合いさせて貰っている人がいるというのでおいで頂いただけですよ」

 「うちの娘と付き合うなと言う為では無いんですか?」

 「まさか。大事な娘に毎日パンを運んでくれるような親切な人に付き合うなと言ったりするもんですか」

 「ああ良かった。ほら見ろ姉さん」

 「はい?」

 「はい?じゃ無いだろ。果たし合いに行くって言ったのは誰だよ」

 「えーと。素敵なシャンデリアですね」

 「シャンデリアじゃないの。果たし合いだから最高にドレスアップしただの、ぼんくらでも可愛い弟だの言いたいこと言ってた癖に」

 「ハハハ、それは良かった。果たし合いに臨む意気でドレスアップされたんですか」

 「いえ、その、雑誌でご覧になったと聞きましたのでイメージを裏切ってはいけないと思いまして」

 「そんなこと言って無いだろ」

 「まあまあ。ちょっと可愛い弟さんをからかってみたんでしょう」

 「小山君。はい。お持たせですけどマロングラッセ」

 「お持たせって何?」

 「こちらで用意した物ではなくて持ってきてくれた物だという意味」

 「田宮は本当に物知りだな」

 「そうでも無いよ。小山君よりは多少知ってるという程度」

 「真に受けるんじゃ無いよ、良介」

 「えーと、素敵なシャンデリアですね」

 「真似すんじゃないの」

 「仲のいい御姉弟ですね」

 「本当。小山君から聞いていたのと全然違う」

 「何と言ってましたか? 良介は」

 「鬼って言ってました」

 「何?」

 「違う、違う。心を鬼にして僕を励ましてくれてると言ったんだ」

 「その件については後で決着を付けようね」

 「いいよ。遠慮しとく」

 「良介君は幸せだな。こんな美人のお姉さんに叱られるなんて普通の人には経験出来ないことだよ」

 「粕谷もそう言ってたな。こんな人に叱られてみたいって」

 「私が姉さんで良かったね」

 「だけど僕は田宮の方がずっと美人だと思うよ」

 「厭だ。そういうことは人の前で言わないの」

 「そうか? あれを言うな、これを言うなって段々田宮も大和田に似てきたな」

 「裕子? そうか。随分世話を焼くんだなって思ってたけど、小山君と付き合うと自然にそうなっちゃうんだ」

 「そうか?」

 「良介が子供だから女は仕方なく世話を焼くことになっちゃうんだよ」

 「僕も段々大人になってきてるつもりなんだけど」

 「当たり前よ。大人にならないと困るわ」

 「きっとお姉さんが良介君のことを猫みたいに可愛がっていらっしゃるんでしょう」

 「出来の悪い子ほど可愛いというのは本当ですね」

 「姉さん、いつもと大分違うね」

 「違わなくない」

 「僕のこと可愛いなんて言ったこと無いじゃないか」

 「さっき言ったでしょ? ぼんくらでも可愛いって」

 「そうか」

 「まあ、これから受験を控えているというのに、ぼんくらぼんくらと言うと本人のヤル気を損ねてしまいますよ」

 「ヤル気なんて初めから無いんです」

 「そうでも無い。結構やってる」

 「結構じゃなくて必死にやらないと駄目なの」

 「結構必死にやってる」

 「結構は余計」

 「ほら、マロングラッセが冷えちゃうよ」

 「蒸かし饅頭じゃ無いの、マロングラッセは」

 「やっぱり蒸かし饅頭の方が良かったんじゃないかな」

 「小山君蒸かし饅頭好きなの?」

 「うん、腹減った時あれ食べると最高に美味いと思う」

 「そうか、良介君は蒸かし饅頭が好きなのか。僕も若い頃近所に蒸かし饅頭の店があってね。当時は甘いものというと今のようにいろいろ沢山は無くてね。あの蒸かしたてのふかふかの熱い饅頭を買って食べるのが最高の楽しみだった。今コンビニで中華饅頭を売っているが、あれとは全然違って皮がふわふわして然もべたべたしていたんだけど、それが又美味かったね」

 「やっぱり日本人は餡こですよね」

 「そうそう。僕は酒を飲むようになって甘い物は苦手になってしまったけれども、偶に甘い物を食べたいという時にはやはり餡がいいね。西洋のバターとかクリームとかが混ざった甘みというのはどうも年取るとなじめないもんなんだね」

 「お父さん。マロングラッセ頂いておいてそれは無いでしょう」

 「あっ、そうだった。これは失敬。しかしマロングラッセは順子の大好物だろう?」

 「ええ、私は大好き」

 「今度は蒸かし饅頭持って来ますよ。な、姉さん。だから僕は饅頭にしようって言っただろう?」

 「いやいや、この次は是非手ぶらで来て下さい」

 「良かったね、良介。社交辞令にしても、又来て下さいと言われてるみたいだよ」

 「いえいえ、決して社交辞令ではありません。心から申し上げている」

 「社交辞令だってそれに答えるのが礼儀だって言ってたじゃないか」

 「は?」

 「何の話?」

 「姉さんまで呼ばれたのは社交辞令だと思うよって僕が言ったら、姉さんはそう言ったんだ」

 「それは良介がなんとか私を行かせまいとしているから、そう答えただけ」

 「ほう、お姉さんと一緒に来るのがそんなに厭なのかな」

 「お父さん、高校生くらいの年頃の男の子で、姉さんとか妹と出歩くのが好きだっていう子はちょっとおかしいよ。そういう子がいるのは私も知ってるけど、それはシスター・コンプレックスだと思うわ」

 「うーん。確かにそうかも知れないね。自分の姉や妹を恋人代わりにする精神は余り健全なものでは無いね」

 「でも良介が私を嫌うのは少し行きすぎよ」

 「別に嫌ってない。敬遠してるだけ」

 「敬遠か。それは良かったね」

 「はい。それが姉と弟の正しいあり方だと僕は思います」

 「偉そうに。幼稚園で泣かされてる良介をいつも私が迎えに行って仇取ってやったのを忘れているね」

 「えー? そんなことあったの?」

 「あったよ、毎日だよ。小学校の帰りに毎日幼稚園に寄って迎えに行ってたんだから」

 「ああ、やっぱり姉弟っていいもんだわね。私って1人っ子だから羨ましい」

 「それは小さい時の話。大きくなると煩わしいだけなんだ」

 「そうやって憎まれ口きくのも1人っ子だと出来ないのよ」

 「それじゃ僕の代わりに好きなだけ憎まれ口きいてやっていいよ」

 「まさか。でもこんな綺麗なお姉さんがいたら素敵ね」

 「それじゃいつでもうちに遊びに来て下さい。但し良介は受験勉強で忙しいらしいから私の部屋に直行して下さいね」

 「ちっとも忙しくないよ」

 「忙しいの」

 「勉強は暇な時にやる主義だから」

 「そんなこと言ってるから駄目なんだって分からないの?」

 「はいはい。唯の冗談です」

 「全く。頭が良くて勉強しないなら分かるけど、頭が悪い癖に勉強しないんだからどうしようも無い」

 「いや。頭がいいというのは結構なことかも知れないけど、私は必ずしもそう思いません。私の勤めている銀行には国立大学を出た頭のいい若者が毎年沢山入って来ますけども、そういう人達を見ていると頭がいいというのは必ずしもそんなに褒められたものでは無いという気がします。頭がいいというよりも私どもが求めているのは人間としての総合力と言ったらいいか、性格とか行動力とかそういったすべてを総合しての能力を求めているんですけど、最近の教育は学力重視が行きすぎていてペーパー・テストの点数に現れないものは何も評価しないで切り捨てているという欠点があるように私は思いますね」

 「そうですかあ」

 「そうですかあじゃ無い。良介はまず大学に入るのが先決。人間の総合力を磨くのはそれからの話」

 「はいはい。並行して磨くっていうのはどうかな?」

 「駄目」

 「良介君、総合力というのは別に遊ぶことで磨かれる訳では無いんだ。自分で問題を見つけだす能力と言うか、常識に疑問を持つことの出来る柔軟な考え方をすると言うか、そういったことで磨かれていくものなんだよ。例えば、銀行という大きな組織には何事にもシステムがあってそのシステムに従って動いて行くのが尤も効率的で誤りが少ないんだ。高度に完成されたシステムというのはそういうものなんだ。しかし全てのシステムは時代の産物なんだね。例えば現在のようにコンピューターが発達してくるとそれ以前のコンピューターが無かった時代のシステムをそのまま利用していていいものか。勿論コンピューター化されたことを前提にシステムは変化して行ってるんだが、もっと根本的に全く違う観点から新しいシステムを組み立てるということを試みてもいいし、若い人はコンピューター社会に育っているんだから僕らとは全然違った考えを持っているのでは無いかと期待するんだが、実際には時代が変わったんだからシステムも根本的に変える必要があるんじゃないかと疑問を持つのは大抵私らのような年寄りなんだ。結局点数で表せないものを切り捨てていってしまう現在の教育の在り方が創造力とか柔軟な思考とかいったものを育てるのに不向きなんだね。記憶力と理解力と応用力だけの教育なんだ」

 「はあ」

 「ふんふん」

 「ふんふんじゃないの。良介何処まで理解出来てるの?」

 「半分くらい」

 「何が半分なんだか」

 「でも小山君、この間現代国語の授業で小泉先生に堂々と反発して自分の意見を述べていたじゃない」

 「そんなことがあったんですか?」

 「ええ。梶井基次郎の『檸檬』という小説が教科書に載っているんです。その中に主人公がフルーツパフェを食べたという場面があって、小泉先生が『何故汁粉や黄粉餅では無くてフルーツパフェを食べたのか』と聞いたら誰も答えられなかったんですけど、小山君は『フルーツパフェが食べたかったから食べたんだろう』って答えたのよね。そしたら先生が『何故フルーツパフェが食べたかったのか、何故汁粉を食べたくなかったのか』と聞いたんです。で、小山君は『人がその時何を食べたくなるかはその人の腹具合によるんだから他人には分からない』と答えたのね。小泉先生は、『分かった。小山君はもう座っていい。先生が説明するから』と言って『主人公はこの時新しい時代の息吹に触れて高揚した精神でいた。そこで食べる物も古来からある汁粉や黄粉餅では無くて新しく西洋から入ってきたフルーツパフェを食べたくなったんだ』と説明したんです。すると小山君が『先生はそんな風に考えながら小説を読んでるんですか。それだと小説が面白くなくなるし、書いてる人もそんなこと考えながら書いてるとしたらそれは小説ではなくて小説風の論文なんじゃないのかな』って言ったのよね。私その時は小山君が屁理屈言ってるように思ったんだけど後で考えたらなんだか段々小山君の言う方が正しいように思えて来たの。国語の授業だから先生の言ったことは正しいと思うし、その時の腹具合だなんて言ったら国語の問題が成り立たなくなってしまうんだけど、でも小説をそんな風に解釈するように強制するのはおかしいんじゃないのかなって思ったの。小説なんて詩と同じでそれを読んでどう感じるかなんて人それぞれだと思うし、又そうでなくてはおかしいと思うの。作者がどういう考えで書いたかは勿論あるでしょうけど、小説を読む人が作者の意図にとらわれる必要は無いんじゃないかと思うんです。今、お父さんの話を聞いていてそのことを思い出したの」

 「そうか。それは重要な問題だね。小山君はどこまで意識して発言したのか知らないが、順子の疑問は全く正しいと僕は思うね。小説なんてたまたま僕らが話す言葉というものを手段にしているから作者の意図はなんていうことを誰でも不思議がらずに言い出すんだが、言葉を使わない芸術、例えばダンスとか絵画とか彫刻とかについて考えると作者の意図なんていうことは余り論じたりしないんだね。ただ素直にダンスなり絵なり彫刻なりを眺めてそれが自分の心に響いてくるかどうかを判断するだけなんだ。だから小説や詩を読んで作者の意図はなんていうことを考えるのは、そもそも芸術の鑑賞では無いんだな。小山君が言ったとおり小説を1つの論文と見なして解釈を問うているんだ。それが国語の授業なんだと言ってしまえばそれきりのことだが、現代の教育の在り方の問題点は正にそこにあるんだと思う。ある小説を読んでどう感じたかなんて読んだ人の数だけ答えがあっていい筈なのに、小説が国語の授業に出てきた途端にそういう自然な事実が否定されてしまうんだな」

 「姉さん、聞いた? 僕もいいこと言ってるでしょ?」

 「まあ屁理屈にしても先生と堂々とやりあったのは偉い。良介なんか学校では居眠りしてるかぼんやりしてるかのどちらかだと思っていた」

 「可愛い弟を馬鹿にしてはいけないよ」

 「まあ、もうちょっと聞いて欲しいんだが、実は私も昔々の話になってしまうが高校の受験に失敗した経験があってね。当時その地域で1番難しいとされている高校を受験したんだ。私らの中学からそこに8人受験して仲良く揃って発表を見に行ったんだな。私はてっきり受かったと思っていたから気楽なもんなんだ。ところが発表を見ると私ともう1人だけ落ちていてあとの6人は合格していた。思いも寄らなかったので私は呆然としてしまってね、後の記憶がすっぽり抜け落ちているんだ。合格した友達は慰めてくれたに違いないし、落ちたもう1人とは同病相哀れむで何か話したかも知れない。結果の報告を待っている家の者には電話しただろうし、帰って何か言われたに違いない。しかし家に帰って自分の部屋に籠もってレコードを聴いている場面から後は思い出せるんだが、発表会場からそこまでの記憶が全く無い。それくらいショックだったんだね。で、部屋でレコードを聴いたのは聴きたくて聴いた訳では無いんだ。何も音がしないと家の者が心配するといけないと思ってレコードを掛けただけで、掛けたのはその時偶々ターンテーブルに乗っていたレコードを掛けただけなんだ。と言うことはそのレコードは買ったばかりだったということだ。当時金を貯めてレコードを買うとターンテーブルに乗せっ放しにして飽きるまで何度も聴くという習慣があったからね。そのレコードがアルフレッド・コルトーという昔のピアニストが弾いているシューマンのクライスレリアーナという曲でね、私はこれを聴くとも無しに聴きながら何も考えることが出来ずにただボロボロ涙を流していたんだ。それでその時の私の感情とその曲とが私の気持ちの中で一体となってしまったんだね。ところがそのクライスレリアーナという曲は幻想的な曲だけれどもシューマンの妻に捧げられているくらいだから悲しい曲とは言えない筈なんだが、私には実に悲しい曲に聞こえる。今でもこれを聴くとそう感じるんだ。モーツァルトやベートーベンに有名な葬送行進曲があるけれども、私にはシューマンのクライレリアーナがそれと同じような曲に聞こえるんだ。芸術が人に与える印象・感動といったものはそういうものなんではないのかな。人それぞれに違った受け止め方をしていて、どれが正しいとか間違っているとかいうことを問題にする方がおかしいのでは無いかと思うんだよ。小説とか詩とか演劇とかいうものは偶々私らが意思を伝達する道具に使っている言葉というものを利用しているから、つい作者の意図はなんてことを考えたりするんだが、それではさっき小山君が言ったというとおり小説ではなくて小説風の論文になってしまうんではないかな。何かのメッセージを伝える為に小説を書いた、芝居の台本を書いたとすれば、それは小説に良く似た、あるいは芝居に良く似た別の物になってしまっているんだと私は思う。だから小山君の言ったということは私に言わせれば全く正しいと思うよ」

 「僕はそんな難しいことまで考えてた訳じゃ無いんですけど、まあ無意識に考えてたのかな」

 「良介がそこまで考えていたら大変だよ」

 「私が大学生の時に文学の教授が吉田健一という英米文学者だったんだ。戦後長く首相を務めた吉田茂の息子さんだが、私は彼の講義を受けていた。で、その講義の試験に『サルトルは、文学は飢えた子供を前にして無力であると言ったが、それについてどう思うか』という問題が出たんだがね。良介君どう思う?」

 「さあー。文学は食べ物では無いですから当たり前だと思います」

 「うん。そのとおりだね。でもサルトルというのは文学者でもあり、哲学者でもあって歴史に残るような大人物なんだ。そんな人が文学は食べ物だと誤解する筈が無いよね」

 「そうですね」

 「私はその時どんな解答を書いたかもう記憶に無いんだけども、今でもその問題だけは覚えていてね。時々ふっと頭に浮かんだりするんだ。良介君もこのサルトルの言葉を覚えておいて、何故彼がそんなことを言ったのかを、勉強に疲れた時とか暇なときに考えてみてくれないかな。文学が飢えた子供に対して何をすることが出来るのだろうか、又そもそも何かをしてやらないといけないのだろうか、文学と小説というのは同じなのか違うのかとかいろいろな疑問が湧いてきていい頭の体操になるんだ」

 「はい。暇な時はいっぱいありますから」

 「勉強に疲れた時っていうのは無いんだろう?」

 「それもいっぱいある。すぐ疲れちゃうから」

 「本当に、まあ」

 「何?」

 「あいた口が塞がらない」

 「今度、口紅に瞬間接着剤を混ぜておいてやろうか?」

 「そんなことしたら、その口紅良介に塗ってやるから」

 「僕は男だからいい」

 「どうも文化祭を境にして良介は急に減らず口になった」

 「小山君、文化祭を境にして急に大人になったような気がする。前は可愛い弟みたいな感じだったし、悪く言うと裕子のペットみたいだったけど、この頃急に男らしくなったように感じる」

 「そうかな。自分では分からないけど」

 「だって前は私と2人きりになるのが苦手で避けていたじゃない。私だけじゃなくて裕子は別にして女の子と2人きりになったことなんて無いんじゃないの?」

 「うん、前は女の子と付き合ったこと無かったから」

 「その裕子という子はどういう子なんだね」

 「裕子は誰からも好かれているけど誰とも特に親しくしていない変わった子なの。でも文化祭で小山君と組むことになってからもっぱら小山君の保護者みたいになって小山君が誰かにからかわれていると救ってやるし、からかわれそうになると前に立ちはだかって妨げていたっていう感じ」

 「ほう。その子も良介君のことが好きなんだね」

 「うーん。嫌いでは無いと思うけど特に好きだというんでも無いと思う。いつも妹や弟の世話をしているらしいから、それと同じ感覚で小山君と接していただけだと思うな。だって私が小山君と段々親しくなっていくのを近くで見ていたのに嫉妬したり邪魔したりということは無くて却ってそれを喜んで助けてくれたみたいに感じるの」

 「あの子は母性愛が強い子なのよ、きっと。私も文化祭の時に会っただけだけど、そう感じたもの」

 「そうなんでしょうね」

 「そうか。だけど今のはいい話だな。お母さんのような女の子と付き合って、それから成長して今度は普通に女の子と付き合えるようになったというのは、異性との関係を通じて成長していくという男にとっては理想的な姿だと思うし、そういうことが出来る環境にいるということは素晴らしいことだと思うよ。私らの若い頃は今のように異性関係がオープンでは無かったから精神的な成長が少し歪んだ形で進んだような気がするね。だから私らの年代は皆女性との付き合い方が下手で、恋愛関係はいいんだけど、そうでは無い例えば職場の同僚とか取引先の女性担当者との職業上の関係とか、そういった場合の男女関係がどうもぎこち無いんだな」

 「それは、お父さんの時代にはまだ女性の社会進出が進んでいなかったからじゃ無いかしら」

 「そう、それも勿論ある。だけど、その以前の学生時代の環境からして今とは違うんだな」

 「うちの学校なんか女の子の方が2倍もいるからね」

 「羨ましいことだと思うよ。まあ2倍は必要無いんだが、この社会が男と女で成り立っている以上学校だろうと職場だろうとやはり男女同数が望ましい姿だと思うね」

 「でもうちは女が2人で男は僕だけ、母さんを入れと女が3人で男が1人なんだ。粕谷のうちは男の兄弟2人で母さんがいないから、男だけ3人の家族なんだ。うまいこと行かないもんだなと思うんだけど、それが社会全体としてみると大体男と女は同じ数になるんでしょ? なんかそれが不思議だと思うなあ」

 「良介君、それは詳しく言うともっと不思議に感ずるよ。出生率というのを調べると何処の国・どの時代でも大体男の方がほんの少し多いんだ。ところが男の染色体はXYという組み合わせで、女の染色体はXXという組み合わせなんだが、やはりXYという異質の組み合わせはXXという同質の組み合わせより弱いらしい。それで乳幼児の死亡率というのはどうしても男の方が女より高くなるそうだ。だから少し男が余分に生まれていて丁度結果的には同じくらいの数になるんだ。そうするとまるでいろいろ考え合わせて男女同数になるように誰かが調整でもしているように思えて来るだろう?」

 「本当ですね」

 「そういう理屈では説明出来ないようなうまい仕組みがこの世には沢山あってね、それできっと神様というものがいるに違いないという考え方が出てくるんだね」

 「神様かあ」

 「田宮さんは何か宗教をお持ちなんですか?」

 「いえ、私は全く不信心で。唯、人間の体の仕組み1つ取ってみても何故こんなに精巧に出来ているんだろうと驚くような所が沢山ありますよね。建築物にしたって科学が進んで素晴らしいビルはあちこちに建っているけれども1000年も持つビルというのは考えられない。昔は鉄筋コンクリートのビルは永久建築だなどと言われたりしたんだが、50年も経つと内部はボロボロになっているらしい。しかし法隆寺なんて木造建築なのに1000年以上も寿命があったりする。その建築物が乗っかっている土だって考えると不思議な物で、元はスコップで簡単に掘り返せるような物なのに何十トン、何百トンという重さのビルを建てても平気で土は支えてくれる。水だってそうだ。大きな船を浮かべても水は潰れたりしない。そんな風に自然というものは極く身近を見ても不思議でいっぱいなんだな。そういうのを謙虚に受け止めると、神と言うかどうかは別にして何か大きな存在があって、それらの不思議を支配しているというような気分になってしまう。それを宗教感情と言っていいと思うんだが、そういう宗教感情はとても大切なもので、大事にしたいと思っている。だから特定の宗教は信じていないけれども、神を信じるかと聞かれたら私は信じると答える。まあ誤解される虞があるので、そんな質問にうっかり答えたりはしないんだけども」

 「お父さんって銀行屋で数字と経済以外に興味は無いんだと思っていたけど、随分いろいろなことを考えているのね」

 「そうだよ。まあ順子1人を相手にこんな演説ぶつ訳には行かないからね。今日は小山君が来てくれたお陰で娘にもちょっとは見直されたようだし、これからも勉強に差し障りが無ければいつでも遊びに来て下さい」

 「はい」

 「どうも有り難うございます」

 「果たし合いはしませんので、今度はどうぞラフな服装でおいで下さい。尤も私はその方が見ていて楽しいけれども」

 「はい。精々お洒落して参ります」


 「お母さんって何か病気なの?」

 「特にこれっていう病気は無いらしいけど弱いんだって。ちょっと風邪惹いても一ヶ月くらいは寝ちゃうらしい」

 「そう。それで田宮さんは?」

 「あいつは別に弱いこと無いみたい」

 「そう。それはお気の毒ねえ」

 「うん、凄い美人らしい」

 「美人薄命って昔から言うからね」

 「それじゃ姉さんは長生きするね」

 「馬鹿。だから私も長生き出来ないんだから生きてるうちに大事にしなさいって言ってるんだよ」

 「姉さんが長生き出来ない?」

 「そう。美人だから」

 「うーん。早く死んだら美人だったって認めてやる」

 「良介に認められなくてもいいんだよ」

 「じゃ認めるから早く死んで」

 「そんなこと言ってると良介より何が何でも先には死なない」


 翌日良介のクラスでは良介と田宮順子が将来結婚するらしいという噂でもちきりだった。

 「お前、田宮と結婚するんだって?」

 「田宮と結婚?」

 「なんか田宮がそんなこと言ってるらしいじゃないか」

 「へ? まさか」

 「木原と室野が言ってたぞ」

 「へえ。なんでだろう?」

 「そういう話は無いの?」

 「さあ、昨日姉さんと田宮の家に遊びに行ったけど、結婚なんて話は出なかった」

 「姉さんと遊びに行ったぁ?」

 「ああ」

 「何で?」

 「何でって、遊びに来ないかって言うから」

 「それで、どうして姉さんまで行くんだよ」

 「勘違いして」

 「勘違いして姉さんも行ったぁ? それってどういうことだよ」

 「うん大したことじゃない」

 「大したことだろ」

 「そうか?」



 「昨日、小山が田宮んち遊びに行ったんだって?」

 「うん」

 「小山の姉さんも行ったんだって?」

 「うん。最高にドレスアップして綺麗だったわよ。駅で待ち合わせしたんだけど、まるでスターが歩いて来たみたいだった。目立つし、みんな見てるし」

 「ドレスアップってどんな格好?」

 「ブルーのニット・スーツで女らしくてもう最高だった。あんなに綺麗な人実際に見たのは初めて」

 「へえ、俺も見たかったな。でも何で小山の姉さんまで呼んだんだよ」

 「お父さんがたまたま雑誌の写真見てたからよ。それ私の友達のお姉さんなのよって言ったら、じゃうちに遊びに来るように言ってごらんと言うからお姉さんも招待したの」

 「へえ。俺も姉さんうちに招待してみようかな」

 「してみたら」

 「お前、良介と結婚するっていう噂があるけど本当なのか?」

 「そんな噂があるの?」

 「うん、田宮がそう言ったらしいってもっぱらの噂だぜ」

 「私が? さあ記憶に無いわね」

 「それじゃ結婚するって噂は間違いか」

 「高校生で結婚なんか出来る訳無いじゃないの」

 「だから先の話だよ」

 「先の話は分からないわ。先の話なら、私と粕谷君が結婚するっていうことだってあるかも知れないし」

 「そんな気全然無い癖に」

 「だから、先になればその気になるかも知れないし、先のことは分からないという話」

 「それじゃ暫く俺と付き合ってみるか?」

 「先になって私がもしその気になったらね」

 「チェッ、何で小山がいいんだ。俺の方がよっぽどいい男だと思うけどな」

 「何処が?」

 「顔が」

 「ああ」

 「ああって?」

 「いえ別に。でも粕谷君の顔は4~500年時代遅れなんじゃないかと思うな」

 「何だ、それは。4~500年は酷いな。せめて4~5年にしてくれよ」

 「大丈夫よ。男は顔じゃないから」

 「それにしても4~500年は酷いぜ」

 「傷ついた?」

 「ああ、ズタズタだよ」

 「じゃ室野さんに慰めて貰うといいわ。婚約しているんでしょ?」

 「ゲッ。良介から聞いたな。室野とたまたま同じ名前なんだよ。参ったな本当に。よりによって室野と同じだなんて」

 「きっと室野さんみたいに素敵な女性なんでしょうね」

 「皮肉がきついな」

 「あら、皮肉じゃ無いわ。皮肉だなんて室野さんに失礼よ」

 「ふん、そうですかい」


 良介は先生の勧めに従い5つの大学を受験した。受験日は大体どこも似たような時期に集中しているから5つ受験するというのは殆ど現実的に可能な最大数だった。下手な鉄砲も何とかという諺通り先生は沢山受験すればどれかに引っかかると思ったのだ。しかし良介はどれも全く自信が無かった。手応えを感じたものが1つも無かった。今更就職は出来ないし、どう考えても浪人することになるなと覚悟していたら名前の知られていない大学の社会福祉科という新設された所に受かっていた。発表を見に行くたびに落ちていて流石に沈んでいた良介はうちに帰って報告しながら涙を浮かべていた。


 「姉さん、本当に有り難う。お陰様でなんとか1つ引っかかりました」

 「うん、良かったね。良介おめでとう」

 「今日はささやかだけど急遽ご馳走を用意したから、お祝いしましょう」

 「有り難う。母さん」

 「田宮さんにはもう知らせたの?」

 「うん、帰る途中で電話した。本当に喜んでくれて、彼女の喜んでくれる声を聞いてたらなんか喜びがこみ上げて来ちゃって涙が出てきちゃったんだよ」

 「良かったね。落ちて泣きながらレコード聴く人もいるんだからね」

 「うん。人生最大の喜びだな。受からなきゃ受からなきゃってプレッシャーが強くて参ってたんだ」

 「そういうのを経験して段々大人になるんだよ」

 「うん。今日の姉さんは何だか女神様みたいに優しいね」

 「何言ってるの。優しいから心を鬼にして良介の尻を叩いていたのよ」

 「うん。有り難う。僕って姉さん大好きだよ。今まで減らず口ばかり言ってたけど本心じゃ無いんだ」

 「分かっているよ。20年近く一緒に暮らしてきんだから、良介のことなんか何でも分かってるんだ」

 「さあ。良介は余り魚が好きでは無いから、すき焼きにしたのよ。その代わり鯛焼きが買ってあるから、それがお頭付きの代わりなの」

 「すき焼きと鯛焼きかあ。焼いてばっかりだね」

 「まあ、お腹を壊さない程度に沢山食べて頂戴」

 

 「良かったな。とうとう引っかかったな」

 「うん。聞いたこと無い大学だけど校舎はデカクて新しいんだ」

 「良介もいよいよ大学生になるんだな」

 「粕谷は一足飛びに社会人じゃないか」

 「うん。俺は試験が無いから楽だけど良介は大変だったな」

 「うん。もう人生2度とこんなに頑張ることなんて出来ないよ」

 「それで社会福祉学科って何やるんだ?」

 「さあ? 何やんだろ」

 「大学でも水泳やる?」

 「もうやらない」

 「どうして?」

 「大学でやる程のレベルじゃ無いもん」

 「それもそうだな。それはそうと、田宮はどうなった?」

 「3カ所受けて2カ所はもう受かってる。あとの残りが第1希望の国立なんだけど、これはまだ発表になってない」

 「まさかプロを目指してるんじゃ無いだろうな」

 「さあ、どうだろう」

 「聞いて無いの?」

 「プロになりたいけど体が小さいから無理だろうって言ってた」

 「体が小さいと駄目なのか?」

 「そうらしい」

 「何で? お相撲さんじゃなくてプロ歌手になるんだろ?」

 「プロ歌手にも新弟子検査みたいなもんがあるのかな」

 「まさか」

 「でもプロは体が大きくないと駄目だからって言ってた」

 「それじゃなれたらなるつもりなんだな」

 「そうかも知れない」

 「室野は国立が落ちたら外国の学校に行くらしいな」

 「あいつは金があるから」

 「田宮だって金があるだろ」

 「うん。銀行の頭取だからな」

 「そんなのと結婚したら大変だぞ」

 「どうして?」

 「中小企業じゃないから親父が頭取だって出世なんかしないぜ」

 「そうか。僕は銀行員て柄じゃないしな」

 「そうだな。ところで大学にも女はいるのか?」

 「半分女だな。それに看護科というのもあるから大学全体だと女の方が多いかも知れない」

 「良介はどこまで行っても女に囲まれるんだな」

 「うん。世の中の半分は女だから男女半々の所が1番いいんだ」

 「可愛い子も沢山いるだろうな」

 「生け花教室だって女ばっかりじゃないか」

 「それは仕事だから違うの」

 「アメリカに行けば外人と知り合えるじゃないか」

 「芳恵が一緒について行くの」

 「何だか可哀想だな」

 「可哀想なんてもんじゃないよ。やっぱり受験を経験しないで済んだ分だけ楽しみも少ないっていう訳なんだな」

 「そうかあ。僕は受験で苦労した分これから楽しみが待っているんだ」

 「まあ精々楽しんでくれや」


 良介は合格祝いに母から札入れを貰い、姉からはその中に入れるものを貰った。5万円だった。モデルのアルバイトをしているから結構金を持っているのだ。良介はこれで順子に何か合格祝いを買ってやろうと思い、何がいいか頭を悩ましていた。自分自身これと言って欲しい物は無いし、まして女が欲しがる物など分からないのだ。それで悩んだ末に、指輪だとちょっと何かを期待したり暗示したりするような感じで不適当と思い、ネックレスを贈ることにした。第1希望の大学の結果が分かってから渡すつもりで順子からの知らせを待っていたら、発表会場の直ぐ近くから電話しているのだと言って、合格した旨知らせて来た。


 「まだ私お母さんにも知らせて無いの。この電話後ろに大勢並んでいるからお母さんには家の近くまで行ってから電話しようと思う。取りあえず小山君に知らせたくて」

 「うん。良かったな。本当におめでとう。帰ったらもう1回電話くれないか」

 「うん。分かった。それじゃ切るね」



 「もしもし、私」

 「ああ、待ってた。もう1回おめでとう」

 「有り難う。もう落ちてもいいとは思ってたんだけど、やっぱり第1希望だから嬉しい」

 「そうだろうな。僕お祝いをプレゼントしようと思って用意してあるんだ」

 「まあ、何?」

 「うん、高く無い奴だけど18金のネックレス」

 「まあ素敵。高く無いって言ったって高いでしょ?」

 「姉さんに合格祝いで金貰ったから」

 「あ、そうか。それじゃ私も何か小山君にプレゼントしないとね」

 「僕はいいよ。そんなにして貰う程の大学じゃ無いんだ。誰に言ってもそんな大学聞いたこと無いなあって言われちゃんだから」

 「それだって大学は大学よ。立派なもんよ。私ね、2人揃って大学生になれたことが何より嬉しいの」

 「うーん。本当だな」

 「これから早速うちに来ない?」

 「でも今日はうちの人と合格祝いをするだろう?」

 「いいよ。小山君が一緒なら余計楽しいもん」

 「でも一家で水入らずの所に僕が入るのは良くないから」

 「何で? 小山君も段々世間の常識を身につけて来たのね。それって嬉しい感じもするし寂しい感じもするわ」

 「何で?」

 「だって小山君がどんどん成長して行って追いつけなくなりそうな気がするんだもの」

 「何言ってるのかな。僕は田宮に追いつく為にどんどん成長しているんだ。田宮の方が僕より遙か先を進んでいるんだよ」

 「そうか。小山君が成長するのを寂しいなんて言ってはいけないわね。2人で成長していかないと」

 「うん。お父さんも言ってただろう? 異性との交友を通じて成長して行くのは理想だって」

 「そうだったわね。お互いにいい影響を与え合って行きたいわね」

 「うん。だから僕はいずれ日を改めて行くよ」

 「うん、日を改めてなんて言わないで明日にしよう」

 「いいよ。僕は明日入学手続きに行くから、終わったら電話する」

 「ね? 小山君の通う大学見てみたいから一緒に行ってもいいかしら」

 「いいよ。入学金持っていくから姉さんが一緒に行くことになってるけど構わないだろ?」

 「うん、お姉さんにも又会いたいな」

 「それじゃ丁度いいから来ればいい」

 「行ってもいいかしら?」

 「勿論だよ」

 「私お姉さんと会うの楽しみ」

 「そしたらこっちを出るのが大体9時頃の予定なんだけど、出る時に電話するからホームで待っていてくれるかな。それならそのまま降りずに行けるだろ」

 「そうね。行き違いにならないかしら」

 「大丈夫だよ。いなければ降りてホームで待ってるから」

 「あ、そうか。分かったわ」


 翌日、ジーンズにコートをはおった姉と良介は出かけた。大学は三鷹だから良介の家から行くと順子のいる荻窪を通っていくので、電車の真ん中へんに乗った。スピードを落としていく電車の窓からホームを探したら、順子の方から既に良介達を見つけていて小走りに駆けてきた。見慣れたセーラー服姿が何故か新鮮に見えて改めて順子のことを好きだと思った。セーラー服のリボンが揺れて派手な顔立ちの美人顔をくしゃくしゃにして笑っている。笑顔で駆けてきて電車に飛び乗った。良介はポケットの中でネックレスの入った箱を握りしめていた。やっぱり指輪にすれば良かったかなと思いながら、いややはり指輪はまだ早い。2人でもっと成長してからでいいんだと思い直した。順子はもう姉さんと古くからの友達のように親しげに話している。その楽しそうな横顔を見ながら良介はこれから始まる大学生活を様々に思い描いていた。2人はこの先どうなるか分からないが、その時その時を大事にしながら付き合って行こうと思った。



50年くらい前の私自身の高校生時代を思い出しながら書きましたが、話それ自体は全くの創作です。情報化されていない時代のことで、今の高校生ほどませていないことが楽しいと感じていただけるか、時代遅れでつまらないとお感じになるか、それとも基本的には今と変わらないということか、感想をお聞かせ下さると光栄です。

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