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田中信一、三十六歳、独身。
学生時代は男友だちとばかり遊んでいて、就職してからは仕事が恋人だった。
つまり、見栄を張った言い方をすると女性経験が少ない。
だからこそ今、混乱している。
「どういう状況だ、これ……」
ぽつりと呟く。
正面に座った女性が、二人分のコーヒーを注文していた。
そわそわしていると、女性が首を傾げて言う。
「あまり好みのお店じゃないですか? 少し落ち着いて話せる所が良くて」
ここはいつも僕が行くような安いチェーン店ではなく、コーヒーの値段は倍もするお洒落な店だ。
BGMも有線放送ではなく、レコードを回しているらしい。とてもゆったりと時間が流れていた。もちろん、僕以外の時間が、だが。
「あ、いえ、そういう訳じゃないんですけど。どういったご用件でしょうか?」
「えっと、ちょっと田中さんを探してまして」
彼女は僕の会社の前で、片っ端から人に声をかけて田中か聞いていたのだ。
それほど大きな会社ではないので、程なくして捕まったのが僕である。
「それは知ってます。なんで探してたんですか?」
女性に声をかけられて、ついつい付いて来てしまったが怪しすぎる。
冷静になれば分かる事だが、会った時にはそう思いもしなかった。
決して浮かれていた訳ではない。
「はい、それなんですけど……。私、博楽堂の佐藤と言います。あ、今は辞めているので、元、ですけど」
「は、はあ」
博楽堂は去年広告をお願いした会社だ。仕事関係だったか。
それもそうだ。それ以外に女性から声をかけられる事なんてないだろう。
既に辞めているという事は、転職先からの営業だろう。
「えっと、田中さんは……」
何かを言いかけた彼女は、口をパクパクさせながら首を傾げる。
「どうしたんですか?」
怪訝な顔をして言うと、彼女は困った顔をした。
「いえ、その、うーん。そうか、言えないのか」
何かボソボソと言いながら一人頷いている。この人、大丈夫だろうか。
「今広告系でお願いしたい仕事はないんですが、新しい営業ですか?」
そう聞くと、佐藤と名乗ったその女性は慌てて手を振った。
「すみません、お仕事の話じゃないんです。個人的なお話で」
まさか、ついに僕にも春が……と言いたいところだが、この女性とは仕事でも会った事すらないはずだ。
「面識、ありましたっけ?」
女性をじろじろ見るのは失礼と思いつつ、改めて彼女を見る。
黒のボブヘアーに、赤いメガネ。綺麗よりは可愛い雰囲気を持った彼女に、会った事があるのだろうか。いや、ない。
「まだ二千十九年だし、ここではないんですけど、えっと、あ!」
彼女は自分のバッグをガサゴソと漁り始め、メモとペンを取り出して何かを書き始めた。
「やはり、今日が初めてですよね?」
彼女は顔を上げず、書き終えた紙を僕に渡してきた。
「あの、言ってる事が分からないかもしれませんが、数年後に私の事を知るはずです。その時に連絡してほしいんです」
そう言って渡された紙を見ると、花の模様が描かれた紙に、佐藤という名前と電話番号が書かれていた。
「それって、どういう……」
「すみません! これで失礼します!」
急に立ち上がって伝票を持ち、追いかける間もなく彼女は店を出て行ってしまった。
「な、なんだったんだ」
残された僕は、独りごちった。
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「先生! 先生! 田中さんが目覚めました!」
白い天井が見える。
どうやらベッドに寝かされているようで、体が思うように動かせなかった。
頭をなんとか動かして周りを確認すると、ここは病院の様である。
「田中さん、気分はどうですか?」
答えようにも、上手く声が出せない。
「ゆっくりでいいですからね。ゆっくりと体の機能を回復させましょう」
どうやら一年ほど昏睡状態だったらしい。両親も同僚も見舞いに来てくれて、体の機能も回復したが、一つだけ引っかかっている事がある。
夢で片付けるには難しい程、鮮明に異世界での記憶が残っているのだ。
退院した僕は、真っ先に家の机に向かい、一番上の引き出しを開けた。
あの意味も、今なら分かる。彼女も自分の記憶が本物かどうかを確かめたかったのだろう。
僕は引き出しの中から、リコリスの花が描かれた一枚のメモを取り出したーー。
【モブな私としましては。】いかがでしたでしょうか?
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