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気絶するように寝て、それでも出社に間に合う時間には起きてしまう体になっていた前世。そもそも睡眠時間が少なく、体力的にも精神的にも限界を迎えていたのは冷静に考えられる今だからこそ分かる事だ。当時はそれが普通だと思っていた。
心地よい光で徐々に意識が浮上する。ふわふわとした感覚の中で薄っすらと目を開けると、柔らかい陽射しが窓から入ってきていた。
朝である。
大きく伸びをしてベッドから起き上がり、窓を開け放った。眼下に広がる大通りは開店準備や出勤のためだろうか、既にそこそこの人通りがあった。
太陽の光で起き、窓から朝の冷たくも優しい風を受け、一日が始まる。なんと健康的な事だろうか。
そう、この環境で生きることができて初めて知ったのだ。朝はこんなにも気持ちがいいと。
ぼーっとしてる脳を起こす為、昨夜貰った水で顔を洗う。
この世界ではお風呂やシャワーといった概念がない。清潔第一日本で育った私としては耐え難いが、郷に入れば郷に従う。というか無いんだから仕方がない。
布を水に浸して体を拭き、残った水で髪を洗った。一般的にはそれすら毎日しないようで、村では潔癖と笑われたこともあった。しかし、お風呂やシャワーがないとなると、さすがにこれ以上は譲歩できない。
お気に入りの長い髪をタオルドライ。鏡の前でゆるくおさげを作る。
初めて自分を鏡で見たときは、言葉で表せない感動を覚えた。瞳は薄い青色をしていて、髪は淡い桃色。イラストでしか見たことがないファンシーな外見だったのだ。
顔もさすがはファンタジー。長い睫毛の下には大きくくりっとした目が付いていて、ぷっくりとした唇も相まってとても可愛らしい。
15年付き合っている顔なので見慣れてはいるものの、鏡を見る度に思ってしまう。
(私ってかわいい……!)
ナルシストでは決してない。だって事実、可愛いんだからしょうがないじゃないか。
自分自身に言い訳をしつつ、身支度を整えて一階へと降りていく。
「あら、リコリスちゃん早いのね」
モアが厨房から顔を出してにこやかに言った。あら、と言うのがおばさんの口癖なのは世界を越えても同じらしい。
「はい、今日は就職試験なので」
「まあ! じゃあ景気付けにスペシャルメニューを出しちゃおうかしら」
「ほんとですか? ぜひぜひお願いします!」
ここの食事が美味しいと評判なのは調査済みだ。最も、ギルドでご飯が美味しい宿屋を紹介して欲しいと頼んだわけだが。
「はい、就職祈願スペシャルメニューよ!」
程なくして出て来た朝食は、焼きたての食パンとハム、ベーコン、目玉焼きにウィンナー、そしてサラダとスープ。
この世界での基本的な朝食は硬い黒パンと薄いスープなので、とてもリッチな朝食だ。
「ほんとにスペシャルですね! いっただっきまーす!」
柔らかいパンや肉類にフォークが止まらず、ペロリと平らげてしまった。まずい、太りそう……。
「とっても美味しかったです! ご馳走さまでした」
「いいのよ、就職試験頑張ってね!」
手を振るモアに見送られながら活気の出て来た大通りへ出る。
「さぁて、頑張りますか」
きっと私なら大丈夫。やればできる子なのだ。いい匂いが漂ってきた大通りに後ろ髪を引かれつつ、ギルドへ向けて歩き出した。
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「おはようございます、メルクーリさん」
ギルドへ着くと、私に気付いたサラが笑顔を向けてきた。
「おはようございます。今日はよろしお願いします」
ペコリと頭を下げる。
ギルドの雰囲気は相変わらず陰鬱だったが、心なしかそわそわしている人たちがいた。
「もしかして、今日試験なのは私だけじゃないんですか?」
そんな室内を横目に、サラへ問いかける。
「はい、試験は月に一度行ってます。タイミング良くいらっしゃったのでご存じかと思ってました」
「し、知りませんでした……。いいタイミングに来れて良かったです」
到着が一日遅かったら試験は一か月先だったのか。危ない危ない。
「知らずにいらっしゃって一か月待つ方も結構多いですよ。それでは、試験会場へは他の方と一緒にご案内しますので、少々お待ちください」
「わかりました」
手持無沙汰になってしまったので、募集の掲示板を眺めてみる。意外とまともな募集が多かった。
護衛、執事、メイドなどの個人契約業務に始まり、漁業、林業、様々な商店でも人員の募集をしている。中でも土木作業系が多い。
(そういえば、北の方が開拓中だったな……)
ヘリウス王国はバナナのような形をしており、世界地図で言うと下の方に位置している総人口三十万程度の小さな島国だ。海に囲まれているため攻めづらく、メリットも少ないため、他国との戦争はほとんどない。
なにより、山を隔てて東側に魔族領域がある。
タナスと呼ばれるその土地へ足を踏み入れて帰って来た者がいないため、国内外問わず誰も近づこうとしないのだ。
他国と比較的近い、貿易が盛んな西側が発展しており、北や南、もちろん東もあまり発展しているとは言い難い。
その事に危機感を覚えた当時の国王が北の開拓に踏み切ったのだ。
西側からでは道のりが遠く、貿易が困難だった国へも北側からなら行ける。この国の発展を考え、数十年、数百年先を見越した開拓だ。
やっと最近人が住める土地になったと聞くが、その聡明な決断を下した国王が数年前に亡くなってしまっているのが残念である。新しい北の町を見たかっただろうに……。
「本日適性試験を受けられる皆さま、お待たせしました。二階へお上がりください」
ただの求人募集を眺めていたはずが黙祷を捧げるところまで思考が飛躍していた私は、慌てて二階へと上がったのだった。