生まれ代わる罪、あるいは運命を知る罰
結局は、ゲームだのなんだのという話ではなく、運命の話なのです。
おぎゃあ、とひと声泣いて、私はすべてを理解しました。
そして続けておぎゃあ、おぎゃあ、とむなしくなって泣いたのです。
生前(あえてこう表現いたします)、私は決して優れた人間ではありませんでした。勉学も運動も大して取り上げるところはなく、容姿も十人並みかそれ以下で、人と交わることの少ない、内気な性格をしておりました。
そうしたごくごく一般的な私の人生が、17年という短さで早々に閉ざされたことは当然やるせないことでありましたが、その先にさらなる不幸せが待っているなど、誰が想像できたでしょうか。
生前の私には、たったひとつ、趣味と呼べるものがありました。恋愛シミュレーションゲーム。なかでも『どこまでも碧き海の遠い果て』という名前のゲームです。
小さな船乗りの町で生まれた娘が、ある日浜辺にまかれた小さな珊瑚のかけらを追いかけて、町の誰も知らない海蝕洞に辿り着く。そこには、娘がこれまで見たこともないようなきらびやかな宝石が打ち上げられており、その秘密を知るために小さな町に探検者が次々にやってきて――。
今でもはじめてこのゲームに触れた日のことは忘れません。現実でも見たことのないような雄大な景色、緻密に絡み合う人間関係、そして海と人の狭間にありながら、気高く強く成長していく主人公。ゲームクリアの表示とともにエンディングが流れたときには、こらえることもなく、涙が流れました。
しかし、それでも。いえ、だからこそ。もういちど生まれた私は、呪わずにはいられませんでした。新しく私が呼ばれるようになったその名前は、エヴェリーン・シーファウン。『どこまでも碧き海の遠い果て』の登場人物であったのです。
あなた方、誰かひとりでも私のこのむなしさがわかる方はいらっしゃるでしょうか。ええ、私は確かにあのゲームが大好きでした。愛していたと言っても、それは過言にはならないでしょう。しかし、こんな仕打ちがあるでしょうか。私はあのゲームを深く愛しているからこそ、それがつくりものだとわかっているのです。つくりものの世界に、不可解にも魂を閉じ込められた、哀れな人間の気持ちが、あなた方にわかるでしょうか。
産声を上げた瞬間に、私はすべてを理解しました。そして、次にはそのむなしさに泣いたのです。
むなしい、むなしい、と泣いていても日は進むものでありまして、いつしか私もエヴェリーン・シーファウンとして初等学校に通うことになりました。
エヴェリーンは生前の私と違い、文武に優れ、容姿も華々しく、またシーファウンの家も公爵としての地位を持つ格式高い家柄でありましたから、すぐに学校中の人気者になりました。
このことの惨めったらしいことと言ったら、全く例えようがありません。周囲が私に向ける尊敬の目は、本当のところは私に向いているのではないのです。ただ私は、つくりものの世界で、エヴェリーンのふりをして、いえ、エヴェリーンの持つ力を勝手にふるって、人々から高きものとして持ち上げられていたのです。人々が私を口々にほめそやすとき、私は自らを本当に滑稽な恥ずべきものだと思いました。
また、何より私は鏡を嫌いました。
鏡に向き合うたびに、美しいエヴェリーンの顔が映るのです。黒くつややかな髪にエメラルド色の瞳。はっきりと通った鼻筋。それは生前の私とは全く似ても似つかないもので、見るたびにきつく乗り物酔いしたような不快が襲い、ひどい頭痛がしました。生前、あれほど不満に思っていた、低い鼻や丸っこい輪郭を恋しく思う日が来るとは、想像もしませんでした。
誰もいないところで、幾度も泣き腫らしました。
いったい私がどんな悪をなしたのでしょう、と、心寒さに毎晩神様に祈りました。罪のわからぬことが一番の罪である、と頭をよぎる言葉が、わけもなく私の心をざわつかせました。
むせかえるように草木の香り立つ夏も、窓の外で世界の終わるように雪の降り積もる冬も、胸のうちにぽっかりと空いた風穴とともに、祈り過ごしてきました。
早く私をこのつくりものの世界から出してください。
祈りは神様に届くことなく、しかし新たな出口の光は違う窓から射し込んできました。
アルフィオ・サーパトリアン。この国の第1王子の名前であり、『どこまでも碧き海の遠い果て』の登場人物の名前でもあり、また、15歳になるエヴェリーンに紹介された婚約者の名前でもありました。
彼と初めて会うその前日、私は何度も何度も食べたものを吐き戻して、床についてからは一度も瞼を閉じることができませんでした。こんな茶番はもうごめんだ、と私の魂が暴れるたびに、運命という名の蜘蛛の吐く糸が、取り返しようもなく私に絡みついていくような気がしました。
どんなに駄々をこねても太陽は昇り、紫色の毒薬を飲んだようなひどい顔色で、わたしはアルフィオ様とお会いすることになりました。
初めて出会ったアルフィオ様は、私の顔を見るとたいそう驚かれて、しかしすぐに、わずらわしい気遣いのにおいがかけらもしない、快活な調子でこう言われました。
「海へ行きましょう」
本当のところを言うと、私は海なんて見たくも嗅ぎたくもありませんでした。あれほど生前の私の心をとらえて離さなかった碧い海は、いまや私に一層の憂鬱を与える、意地の悪い水たまりにしか思えなかったのです。海の国と呼ばれるこの国で、エヴェリーンとしての私が海を見たのはたったの3度しかありませんでした。
それでも、私を絡め取る蜘蛛が、逃げてはならぬと囁くのです。涙目を気付かれないように、何度も拭いながら、アルフィオ様とふたり、海へと参りました。
「海は。海は、いいですね。どこまでも碧くて、遠くて」
海風に金の髪をなびかせながら、海と同じ色の碧い瞳で、地平線を見つめながら語るアルフィオ様の横で、私はひっそりと、そうは思えません、と考えていました。こんなものはただ空の色を盗み取っただけの、星の巨大な排水です、と昏く心で思っておりました。
「エヴェリーン嬢は、海はお嫌いですか」
「……こんなことを言うのは、興ざめかもしれませんが、その、あまり好きにはなれなくて……」
「そうですか」
私の失礼な物言いにも、ただ事実をそうあるようにごく自然に頷いて、
「でも、いつかきっと好きになれますよ」
だって、と夢見るような碧い視線は地平線から外さぬままに、
「僕たちは海と生きていくのですから」
あのとき、私は、海に恋する青年に恋してしまったのです。はじめは、それを受け入れられませんでした。
つくりものの世界で、つくりものの命を与えられて、つくりものの人間を演じる。その上、つくりものの人間に、定められたように恋するなど、全く私の心の耐えられるところではありませんでした。
だけれども、その恋は無理からぬものであったのです。だって、人は父母と神様の手によるつくりものなのですから。つくりものの魂がつくりものの人間に恋することに、なんのおかしいことがありましょうか。
ふたりで何度も海へ行きました。
街へ行きました。
日が暮れても語り合いました。
魂の通い合う、とはこうした関係なのだと、生前も知らなかった感を得ました。
私はアルフィオ様に、目いっぱい、初めての恋をしました。
それでも、私の幸せはアルフィオ様の幸せではないのです。
アルフィオ・サーパトリアンは、海に恋する青年です。彼の真実の魂は、国ではなく、海へと向いているのです。
エヴェリーン・シーファウンは、国を愛する少女です。彼女の真実の魂は、海ではなく、国へと向いているのです。
アルフィオ・サーパトリアンは、エヴェリーン・シーファウンと一緒になって、幸せになることはできません。海に奪われた彼の魂は、決して国の中にあって満足するものではないからです。
エヴェリーン・シーファウンは、アルフィオ・サーパトリアンと一緒になって、幸せになることはできません。国にとらわれた彼女の魂は、決して海へと解き放たれるものではないからです。
エヴェリーン・シーファウンは、決して悪人ではありません。しかし、アルフィオ・サーパトリアンが真実の魂に従う生き方をするために、彼が主人公の少女とともに傷だらけになりながら、痛みを耐えながら、大いなる覚悟で以て断ち切るべき、最も優しく残酷な錨、そして悪役。それが彼女なのです。
そして、すべての運命を知る私は、エヴェリーン・シーファウンでした。
ゆえに、私は告げなければならないのです。
「アルフィオ様」
靴を脱ぎ捨て、まくりあげた服の裾を海水に濡らしながら笑うアルフィオ様は、呼びかけに、砂浜に立つ私を見ました。
「私たちって、これ以上ないほど気が合いますわ」
アルフィオ様は、嬉しそうに答えてくださいました。
「ええ、全くその通りです。僕はこんなに心の通じ合う人がこの世にいるなんて、思いもしなかった」
背中に隠した左手を、爪が食い込んで血がにじむほど、強く握りました。泣いてはいけない、そう強く自分に言い聞かせました。
「だから私たち、きっと本当のお友達になれますわ」
「本当の友達……?」
怪訝な顔に構わず、そのまま舌を動かし続けます。
「そうです。本当のお友達です」
えづく喉にも構わずに。
「だって、私たち、きっと一緒になっても、幸せになれませんもの」
顔中をかきむしるような痛みが走りました。
アルフィオ様は、一瞬ひどく傷ついたような顔をして、しかしどこかに安堵と納得を浮かべたあと、私から視線を逸らして、また碧い瞳で、海を見ました。
アルフィオ様は、口を少しだけ開いて、しかし何も言わずにまた閉じられました。
太陽の光が、碧い海面をきらきらと照らし、遥か遠くで魚が跳ね、海鳥が小波と揺れていました。
緩やかに髪を撫でる潮風が吹いて、少しだけ、海が香りました。
すべての音は跳ね返ることなく、海の果てへと呑まれていきました。
そのとき、確かに、海は生きていました。
そして、浜辺に打ち寄せる波は、どうしようもなく、私とアルフィオ様との境界線でありました。
「僕たちは……」
海の果てより遠く、碧い瞳の呟きが聞こえました。
「僕たちは、なれるでしょうか。本当の友達に」
「なれますとも」
海はどこまでも碧く、遠い。
それがすべてでした。
その夜、私は夢を見ました。
寝室に、本物のエヴェリーン・シーファウンが座っていたのです。
私はそれを認めた瞬間、胸のつぶれる思いがしました。
アルフィオ様との日々を経て、私はもはやこの世界を、この世界の人間を、すべて私と同じものだと扱っていたのです。
アルフィオ様から幸福を与えられれば与えられるほど、私はエヴェリーン・シーファウンというひとつの命の得る幸福を、意地汚く強奪しているような、そんな罪悪感を抱きました。
どんな罵詈雑言を浴びせられるのかと思いました。私は、自分の意思がどうあれ、彼女の存在を塗りつぶして生きているのです。よくも、と顔をひっ叩かれて、己の命を返せ、と殺されても文句は言えないと思いました。
近付いてきたエヴェリーンが腕を振り上げるのに、びくり、と身体を震わせました。
しかし、彼女の取った行動は、私の予想したものではありませんでした。
優しい抱擁でした。
そして彼女が、私の背中を静かに撫でながら、何も言わずしめやかに涙を流すものですから、私は、もう、たまらなくなってしまって、子供のようにわんわん泣きじゃくりました。
そして、目が覚めると、そこに彼女の姿はもうなく、ぐっしょりと湿ったベッドのシーツだけが残されていました。
夢でなければよかったのに。そう思ってしまう私の弱さを、どうかお許しください。
「エヴェリーン嬢、こちらですよ!」
しばらくして、私はアルフィオ様に呼ばれ、小さな船乗りの町にやってきました。そこは宝石の打ち上げられる不思議な海蝕洞の見つかった町で、いまや国中からその秘密を探ろうと、探検者が押し寄せてきているのです。
「そんなに急がなくても、海は逃げませんわ」
「海は逃げない……。はは、やっぱり面白いことを言いますね、エヴェリーン嬢は」
夕日を背負って大きく手を振り私を呼ぶ姿に、呆れて返すと、アルフィオ様は、その言葉を咀嚼するようにしたあと、愉快そうに笑いました。
離れていた少しの間に、アルフィオ様は肌が焼け、首や背中にかたく筋肉がついて、すっかり逞しくなられました。
「すごいものですね。この海蝕洞というのは」
「ええ。僕もはじめて見たときは驚きました。朝ならもっと碧くて綺麗なのですが、今は夕方ですからね」
少しばかり不満そうな顔で、入口から射し込む朱い陽と、その陽を反射して朱く洞窟を照らす水面を見ながら言うアルフィオ様に、私は苦笑しました。
「アルフィオ様、私は特別、碧ばかりが好きなのではありませんよ。朱だってとても綺麗ではありませんか」
「確かにそうですが、せっかくだから、友達のあなたには、僕の好きな一番の景色を見てもらいたかったと……」
アルフィオ様が唇を尖らせたとき、洞窟の入り口からひょっこり人影が現れて、野太い大声を張り上げました。
「おォーい!王子様よォーい!ルカが呼んでっぞー!」
「はーい!いま行きますよー!」
入り口の船乗りらしき大柄の男性に合わせて、同じくアルフィオ様も声を張り上げる。そして私に向かって申し訳なさそうに、
「すみません、ちょっと行ってきます。呼んだのはこっちなのに、忙しなくて申し訳ありません」
「いえ、構いませんよ。少しひとりで見ていても?」
「ええ、存分に!」
そう言って海蝕洞の入り口に戻っていくアルフィオ様。入り口にはいつの間にか、大柄の男性だけでなく、少し小柄な少女もおりました。
鳶色の髪に、意志の強そうな面立ち。そして、海を見る人の、碧い瞳。
これから、アルフィオ様を様々な苦難が襲います。
人間も、そして大いなる碧い海も、きっとあなたを深く傷つけ、そのたびアルフィオ様は立ち上がらねばなりません。真実の魂とともにあるために。
鳶色の髪の少女と言葉を交わすアルフィオ様の、紅潮する頬が、夕日の見せる幻でありますように、なんて。そんな気持ちを心の深くへ押し込めて。
少しだけ、神様に祈りを捧げました。
アルフィオ様に出会ってから、一度も祈らなかった神様へ。
ふたりの行く道が、祝福されますように。
そして、どうか、誰も見つけないでください。あの日、砂浜に埋めた、私の恋を。