第1話~妹
キラキラとカーテン越しの光が差し込む朝。
窓ガラス越しに反射する鮮やかなプリズムに、深く沈みこんでいた規則正しい寝息のリズムが乱される。
「ん……もう、朝か……」
チラリとベッドの横に目をやると、目覚ましがなる数分前に目が覚めたようだ。
「フッフッフ。俺にしては上出来だな……」
いつもならこんな朝早くに目は覚めない。人にはそれぞれ自分なりのサイクルというものがあり、俺の場合"時間ギリギリ”まで寝るという信念(?)の元起床をしている。まあ要するに朝寝坊というやつだが。
「こんだけ早く起きれば、あいつも来ないだろ」
誰に言うでもなく勝ち誇りながら俺は言った。
そして起き上がろうと手をつくと……。
ムニュ。
「むにゅ?」
シーツ越しに手の中で擦れる柔らかい感触に、俺は首を傾げた。
「こんなところに饅頭が……」
そんなものあるわけがない。じゃあ何故俺の横のシーツはこんなにも膨れ上がっているのか。嫌な予感がして俺は思わず握りしめる手を強めてしまった。
「きゃうん!」
「うお!」
ビクン! と飛び跳ねる"そいつ”に俺も思わず大声を上げてしまった。
「もう兄さん……朝から激しすぎますよぅ……」
そいつは胸を押さえながら非難するような眼差しで俺に言う。
しかし、非難を訴えたいのは俺の方だ。
赤茶のリボンのついた白のパンツ以外、そいつは何もつけていない。子供の頃から何回も見た、そして何一つ成長していない胸元の持ち主は……。
「し、標! どうしてお前がここにいるんだよ!」
それも全裸で。標はふっと微笑みながら言葉を返した。
「どうして? 兄妹なんだから添い寝の一つや二つ普通じゃないですか、何言ってるんですか兄さん」
胸を張って標は答える。つか、見えてる見えてる。
「ふ、普通なわけねーだろ! しかも何で裸なんだ!?」
真っ白な肌はきめ細かく透き通っていて、また穢れを知らない無垢な裸身は呼吸に伴い微かに揺れているのが手に取るように分かった。
「何でって……そっちの方がそそるでしょう?」
首を傾げながら標が言う。女の台詞じゃねー。
「つーか本当にいつの間に入ってきたんだよ……」
「私はいつも兄さんのそばにいますからね」
「ホラーみたいなこと言ってんじゃねー!!」
たく、こいつは神出鬼没か、はたまた謎の宇宙外生命体か?
俺はなるべく下を見ないように目の前の妹を見た。
短く切りそろえられた艶のあるショートボブは高校生としては子供っぽいが、大きめの瞳の下につんと通った鼻が大人っぽさを足している。ぷっくらと咲いたふたつの唇が添えられたその顔は、ずっと見ていても飽きない完璧なバランスで、我が妹ながら美少女と呼ぶに相応しい容貌だ。
こいつは新道標。
俺、新道進の義理の妹だ。
幼い頃から何度『本当に血は繋がってるの?』と聞かれたことか。
はあ……顔面格差社会か……。
俺は顔に手を当てため息をついた。
「と、というか鍵はどうしたんだよ! 鍵は!!」
寝る前に施錠はちゃんとしたはずだ。なのになんで標がここにいる?
その俺の疑問に、標は実に淡々と言い放った。
「ああ、それなら十秒でピッキングしましたよ」
「はや!」
思わず俺は叫んだ。こいつ、将来は天才的大泥棒か。
小さい頃から本当に何でも出来る奴だが、才能の使い方を間違えてないか?
俺は末恐ろしい妹を前にうなだれた。
「兄さん、逆に聞きますけど、どうして鍵なんかかけたんです?」
美しい形の眉を顰めながら標が聞いてくる。
「兄さんは、私のことが嫌いになったんですか……?」
「い、いや。そうじゃねーけど……」
「ほんとの妹じゃないから、迷惑ですか……?」
「お、おい!」
「う、うぅ……」
標の頬を一筋の涙が伝う。
こういう時、女はズルイって思う。何万の言葉より一粒の涙に男は敵やしねーんだからな。なさけねーもんだ、男ってのは。
「はぁ……」
俺は頭をボリボリかきながらぶっきらぼうに言った。
「おい、標。こっちこい」
「なんですか……いた!」
標を近くに呼んで額にデコピンをする。
額を押さえながら標は不満を述べた。
「いきなりなにするんですか!」
「うるせー、つまんねーこと言うからだ」
「え……」
「俺はそんなに心の狭い人間か?」
俺は標の目を真っ直ぐ見つめながら言った。
「たった一人の妹を嫌うような、そんな奴に見えるか?」
標はふるふると首を横に振った。
「い、いえ。兄さんはいつだって私を大切にしてくれました」
「だったらその兄さんを信じてみろよ。何てったって、お前の兄貴だからな」
「兄さん……」
「お前のこと、嫌いになんかならねーよ。だから泣くな、標」
そう言うとさっきまで泣きそうだった顔が急にパアッと明るくなる。
「兄さん大好きです!!」
「おい、ちょっと!」
ガバッと飛び込んでくるが、受け止めきれずにベッドから転べ落ちる。
「だって兄さんは私のこと好きなんですよね! 愛してるんですよね!」
「んなことは言ってねー!!」
俺の掛け声も聞かず抱きついてくる。むき出しのままの二つの膨らみが押し付けられ、その魅惑の感触に押し倒されながら、俺は思うのだった。
やっぱり女は卑怯だ!
「――あら、今日は早いのね」
標と下のリビングへ降りると、お袋が俺らの顔を見ながら言った。
テーブルの上にはベーコンエッグとサラダ、バタートーストが皿に盛り付けられ、その横には牛乳がコップの淵から淵まで注がれている。
「ふふ、なにかあったの?」
大きな瞳に整った鼻筋は人目を引き、形のいいぷっくらとした唇には少し笑みを浮かべている。もう少し若けりゃ周りもほっとけないぐらい美人なんだろう。
白のカットソーに綿生地のジャケット・スーツをびっしりとキメている。
幼い頃親父が死んでから一人で俺たちを引き取り、ここまで育ててくれた。
女だてらに会社勤めをし、一日中家にいないことなんて珍しくもない。
だから標は早くも自立をし、『料理以外は』何でも出来る超人へと育ったのだ。
「いや、別になんでもねーって」
俺はテーブルに着き、牛乳を飲みながら言った。
朝の騒ぎはお袋には知られたく、ない。
標にも余計なことは言うなとパチパチと目配せをする。
「そうですよ、母さん」
すると早くも席についてた標が得意そうに頷き、胸を張りながら言った。
「ただ兄さんと深く、深~く愛を育んでただけです」
「ぶは!」
器官につまらせ、飲んでた牛乳を鼻から噴出す。
「あら、大丈夫、進?」
「どうしたんですか兄さん?」
人の気持ちも知らず標は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「げほげほ、お前、何言ってんだよ……」
咳をしながらお袋には聞こえないように耳元で標に抗議をする。標もボソボソと小さい声で俺の耳に返す。
「え、『俺とお前のラブラブっぷりをお袋にも聞かせてあげろよ』とアイコンタクトを交わしたのではなかったんですか?」
「んなアイコンタクトするわけねーじゃねーか!」
きょとんとしてる標に大声で叫ぶ。
俺のことなら何でも分かるくせに、こういう時だけ鈍感になりやがって。
そんな俺らを見ながらお袋はクスクスと笑いながら言った。
「あなたちいつも仲良しねえ。若い頃のあたしとパパみたい」
「まあ。私と兄さんみたいに熱々でした?」
「熱々じゃない。全然熱々じゃない」
とりあえず突っ込む俺の声は完全に無視され、お袋は話を続けた。
「ええ。あの時あたしは会社に入ったばかりの新人でね。パパはその時主任だったの。社長から一目置かれてる立場上、仕事一筋で女に免疫がなくて。でも頑固者でとっても可愛かったわ。私からデートに誘うようになったの」
「ふーん、あっそう」
真面目に聞くのも馬鹿らしいので、とりあえず空返事だけしておく。人のノロケ話ほどイライラするものはないが、標は前のめりになって耳を傾けている。
「強引に誘ったんですか?」
「――そう。この人だけは絶対にって思ってたから。そうでもしないと振り向いてもらえないし、たまたまチケットが二枚手に入ったとか言って映画に誘ったりしたわ。一緒に行ってくれなきゃ死んでやる! とか言ってね」
「なるほど……参考になります」
「いや、参考にすんなよ」
お袋の恋話に夢中になって聞いてる標に小声で言う。
というか、これ以上強引になってどうすんだお前は。
「それから三年かしら。進が生まれて大きくなって。進が五歳の時、ちょうどあなたがうちにきたのよね、標ちゃん」
「……!」
その時、標の顔がわずかに沈んだ。時間にしてほんの数秒ほどだが、唇をぐっと噛み、暗く顔を歪ませるのが俺には見えた。
「それでね、その時お父さんが――」
お袋はそんなことなど気づかず親父とのノロケ話を続けている。
「へ、へえ、そうなんですか。素敵ですねえ」
標は笑いながら聞いていたが、無理やり笑っているのがバレバレだった。
別にいいのにな。確かに俺と標は本当の「兄妹」じゃない。
だがもう十年以上一緒にこの家で暮らしてきて、最初は単純に妹ができて嬉しかった。しかし標は俺らと赤の他人だと一線を引き、少しでも迷惑をかけないようにと「いい子」を取り繕っていた。
――他人だから? 関係ないから?
「はあ……」
ったく、めんどくせえ妹だな……俺はパンをかじりながら言った。
「お袋、いいのかよ? そろそろ行かないと、会社に遅れるぜ?」
駆け落ち同然で結ばれたエピソードを熱く語るお袋の熱を冷ますように、あえて大きな声で言ってみる。お袋はハッとして、
「え? あ、もうこんな時間? そうね。そろそろ行かないと――」
そう言ってバッグをつかむと立ち上がった。
「じゃあ行ってくるわね。進、標ちゃん。今日は遅くなるから晩は適当にすませちゃってね」
「はい、お母さん。行ってらっしゃい」
どたどたと慌しく足音を立て、お袋がダイニングを出て玄関へと向かった。
それを見届けると、標は泣き笑いみたいな顔を俺に向けた。
「兄さん。ありがとう」
「べ、別に。お袋のノロケ話ウザかったからな」
テレてるのがバレないように俯きながら言う。
それを見て標は笑いながら言った。
「いつもそうですね兄さんは。私のこと何でも分かってくれる……」
「妹のことが分からない兄貴なんているかよ」
「――まったく、素直じゃありませんね」
標は肩をすくめた。
「だから兄さんは私以外の女子の人気が少ないのかと」
「俺には手のかかる妹の世話だけで手一杯だからな」
俺はぷいと標に背を向けながら答えた。
「もう! 兄さんたら。でも、そうですね」
下を向きながら標はつぶやいた。
「そういうことに、しておきましょう――」
標が俺の背中にそっと手を回し抱きつきながら言う。
腰に当てる指が小さく震えているのが伝わってくる。
「兄さん――」
「標――」
「早く行かないと、私たちも遅刻しちゃいますよ!」
パッと離れながら標が言う。
「いきましょ、兄さん!」
その顔は、思わずハッとするほど、大人びてて――
「ああ、そうだな」俺は笑いながら言う。
――子供みたいだった。
暑い暑い夏。俺たちの始まりの朝だった。