まあだだよ
競艇場の開門は十時だ。職場に行くのと同じようなタイミングで起きると時間が余るし、さりとて二度寝を楽しめるほどのものでもない。むしろ、二度寝などしてしまうと、開門時間どころか一レースの発走すら寝過ごしてしまうかもしれない。
なので、僕は今日も馴染みの喫茶店でモーニングを食べて時間を調整している。喫茶店は駅と競艇場のちょうど中間地点にあり、人気も少なく居心地が良い。気兼ねなく席で煙草を吸えるというのも、ポイントが高い。
南欧の古民家をイメージしたらしく、テーブルや椅子のひとつひとつが大ぶりな造りをしている。ランチプレートを置いても、テーブルにはまだ余裕がある。そして、なにより、ブックライトが設置されているのが良い。
モーニングを平らげて、携帯で時刻を確認。まだまだ余裕がある。アールデコ調のキノコ型のランプを灯し、文庫本を開いた。今日のお供は小林多喜二の「蟹工船」だ。
空になったランチプレートを脇によけ、煙草をくゆらせながら、ページをめくる。
酒と煙草のすえたにおい、東北なまりのかけ合い、むせるような潮風……。暖房の効いた店内に身を置きつつも、僕の心は船上へと向かっていく。
「今日は地獄さ行っているのか」
突然、がさついた声が耳に届いた。蟹工船の世界に入り始めたばかりのことだったので、驚いて文庫本から顔を上げる。
「先週は黒島伝治で、今日は多喜二か。悩み多き青年ってやつだな。たまには明るいもんでも読んだらどうだ」
ニット帽を深くかぶったじいさんが、蟹工船の表紙をのぞきこんでいた。若作りなパーカー付のフリースを着ている。しわが深く刻まれた色黒の顔には笑いが浮かんでいた。
「なんですか?」
この喫茶店で他の客に話しかけられるのは初めてのことだ。それだけでも不審に思う気持ちと不機嫌な感情を隠せないのに、このじいさんは僕が先週読んだ本まで覚えている。どうしても、ぶっきらぼうな口調になってしまう。
「いやな、青年があまりに暗いのばかり読んでるからさ、つい声をかけちまったんだ」
じいさんのにやっと開いた口から、ヤニで黄色く染まった歯がのぞく。老人独特の防虫剤のようなにおいが鼻についた。
「だからって盗み見ることないでしょ」
「盗み見るってのはおだやかじゃねえな。自然と目に入ってきちまうんだからさ」
僕がにらみつけようが、じいさんはなおも笑い続ける。吸いかけの煙草を灰皿に押し当てて揉み消すと、僕は伝票を持って席を立った。に向かうには早いが、こんなじいさんの相手をするよりは寒空の下で立っていたほうがましだ。
店を出ると、落ち葉交じりの風が肌を突き刺した。ジャケットの前をしっかりと合わせ、ポケットに手を入れる。乱暴に突っ込んでしまった文庫本の角が指先に当たった。
コンビニで立ち読みでもしていこうか。そう思った矢先に、先ほど聞いたばかりの声がまたしても聞こえてきた。
「今日は風が強いな。これはスタート勘が鈍るぞ。特に、一レースは一号艇から三号艇までフライング持ちだからな、びびっちまうだろうな」
先ほどのじいさんが僕の後ろをつけるように歩いている。ひとり言にしては大きすぎるその声は僕に向けられているのだろうか。ため息がもれてしまう。
「なんだよ!」
精一杯、言葉にドスを利かせたつもりだったのだが、じいさんはそれを正面から受け取った上に、事も無げにつぶやく。
「俺も行き先が同じなだけだって。それとも青年は、俺に違う道を歩いて遠回りしろって言うのかい?」
競艇場に行くことまで知られている上に、返す言葉も見つからない自分にいらついてしまう。競艇場へと早足で歩く。コンビニに寄るのは諦めた。店内でもこのように大声で喋りかけられてはたまったものじゃない。
案の定、競艇場はまだ開門していなかった。入場待ちの人の群れが出来ている。
実際にレースが始まるのは十一時頃だが、コアなファンは開門と同時に場内に入るのが常だ。レース前の水面では選手が練習をしているので、そこで調子を確かめるのだ。
入場ゲートの前に立つ売り子に五百円玉を渡して、予想紙を手に入れた。おさらいのつもりで、今日出走する選手の顔ぶれを確かめる。
「新聞の予想なんて当たりっこないのによ。自分の目を信じるのが一番だぜ」
いまだに僕の横を離れないじいさんが茶々を入れてくる。
「人の予想の立て方に注文つけるのはマナー違反じゃないのかよ」
「注文じゃなくて、親切に教えてやっただけさ。年長者の言うことは聞くもんだぜ」
「屁理屈だろうが……」
じいさんと目が合うことがないように、予想紙を顔の前に大きく広げる。一レースから最終レースまでの出走表、記者の短評にいたるまで読みきったところで、ようやく開門の時間となった。
童謡のメロディーが流れ、入場ゲートの前に立ちはだかっていた格子状のシャッターがゆっくりと上がる。一斉に動き出す人の流れに乗って、入場料の百円玉を駅の自動改札の要領でゲートの通貨口に投入した。
低くうなるエンジン音が空気を震わせている。水面にはボートに乗って練習をする選手の姿が見える。
岸辺のちょうど真ん中に設置されたスタート用の大時計の横に陣取り、水面に出ている選手の名前と出走表を付き合わせる。自分なりの評価を出走表の余白に書き込んだ。ずっと横で喋りかけてきたじいさんも、この時ばかりは僕から目を離し、選手の練習風景に見入っていた。
「ターンからの出足はバツ、腰が引けているな……」
じいさんはぶつぶつとつぶやき、メモ帖にびっしりと文字を書き込んでいる。視線は水上の選手と手元のメモ帖にしか向いていない。気づかれないように、僕はじいさんの側からそっと離れた。
場内は、一周六百メートルの水面を見下ろすようにスタンド席がせり立っている。その席の裏側には舟券の投票窓口と売店。全体でちょっとしたテーマパークぐらいの広さがある。人も多く、一度はぐれてしまうと再会は困難、人を隠すなら人というやつだ。
予想紙と水面の選手の動きから買い目を決めて、僕は投票窓口に向かった。一号艇を軸にした舟券を買い、いつもの場所へと小走りに進む。
選手がコースを周回する目印のターンマークを見下ろす位置にある席に腰を落ち着けて、蟹工船を手に取った。蛍光灯の真下にあり、光量も申し分ない。投票窓口から少々遠いのが難点だが、その分、人の往来も少なく、読書にはもってこいの立地条件。僕のお気に入りの場所だ。
煙草に火をつけ、喫茶店で中断されたところから読み始める。蟹工船がオホーツク海に出たところで、舟券の発売締め切り五分前を知らせるアナウンスが響いた。
「やっぱり、本を読むならここだよな」
投票窓口へと急ぐ客のざわめきに混じって、あのがさついた声が届く。ページから目を上げると、やはりそこにはじいさんの顔があった。どこまで僕の安息を邪魔すれば気が済むのだろうか。
「おいおい、ここは元々俺の場所だったんだぜ。最近になって青年にとられちまっただけさ」
声を上げようと口を開いた僕を制止するように、じいさんはパーカーのポケットから文庫本を取り出した。夏目漱石の「こころ」。少年向けの漫画家が表紙絵を描いた版だ。
「若いころに一度読んだんだけどな。こうして衣装替えされたのが気になって、また買っちまったわけよ」
じいさんはくいっと口の端を上げて笑うと、僕の隣に座った。舟券発売締め切り間近を知らせるアナウンスとけたたましいベルが鳴り響く。レースが始まってしまう。
席を替えようかとも思ったが、結局、僕はしおりを挟んで蟹工船を膝の上に置いた。水面に目を向ける。
ファンファーレの音色とともに、白、黒、赤、青、黄、緑に色分けられた胴衣を着た六人の選手がボートに乗って水面に登場する。スタートのタイミングを知らせる大時計の針が回り始める。黄色い針が頂点に近づくのを合図に六艇がエンジンを吹かし、一斉に発進した。
六艇が大時計の前を通過する。一号艇のスタートだけが明らかに遅れている。
競艇では、コースの一番内側を航走する一号艇が断然有利だ。しかし、スタートが遅れたために、他艇にターンマークを先に周回されてしまった。一番先に舳先を元に戻したのは青い胴衣の四号艇だった。引き波に沈んだ一号艇は最後尾に取り残されている。
「まくり一発! やっぱり一号艇はスタートを決められなかったな」
隣でじいさんが叫ぶ。視線は既に二番手、三番手を走る艇に向かっていた。きっと、四号艇を一着と予想した舟券が手の内にあるのだろう。後は、二着、三着がどの艇になるのかが大事なのだ。
結果はジゴロ、四、五、六の並びだった。高配当を告げる実況放送に場内はどよめき、ため息とともにハズレ船券が宙を舞う。
「なっ! 青年。言ったとおりだろ!」
じいさんはご満悦といった顔で払い戻し窓口に向かう。僕は外れ券を力任せに丸めてゴミ箱に投げ込んだ。
気持ちが沈む。ただ、次のレースのスタート練習は僕のことなんて待ってはくれない。うつむきかけた頭を上げ、予想を始める。
「そんなにかりかりしちゃ当たるもんも当たらなくなるぜ」
じいさんがふくらんだ財布を片手に戻ってくる。もう片方の手にはビールの注がれた紙コップ。
「ほら、ご祝儀」
膝に載せっぱなしだった蟹工船の上に、じいさんが紙コップを置く。続けて、モツ串がのせられたプラスチックトレイが差し出される。
「儲けたら周りの奴に還元するのがマナーであり、粋ってやつだ」
目の前のビールは泡を立て、濃い麦の香りを漂わせている。喉が鳴った。
「ほら、早く飲まないと、本に染みがついちまうぞ」
促すようなじいさんの言葉で、僕はビールに手を伸ばした。
「……ごちそうになります
」 普段飲む発泡酒と違った濃厚な苦味が口内に行き渡る。炭酸の刺激が心地よく、一息に飲み干してしまった。じいさんがやんやと拍手をする。
「勤労は日々を豊かにするとボードレールも言っていたが、今日の曜日を忘れたか?」
空っぽになった紙コップを抱える僕を見て、じいさんが笑う。どのような答えを待っているかは分かった。
「酒は日曜日を幸福にする、だろ?」
「おっ、やっぱり知ってたか!」
じいさんの顔のしわが一層深くなる。こうなっては、僕も笑ってしまうしかない。
結局、そのまま最終レースまでじいさんと一緒に過ごしてしまった。お互いの舟券が当たるたびにお返しにとビールを奢りあったために、顔がすっかり熱くなってしまったのが自分でも分かる。
「一人で辛気臭く博打を打つよりは、こうして飲み合って、文学の話とか馬鹿話でもした方が面白いだろ」
じいさんの顔も赤い。足取りはまだしっかりしているが、ただでさえがさついた声が余計に聞き取りにくくなっている。
確かに、自称安保闘争の生き残りであるじいさんの文学に関する知識は相当なもので、僕に対して演説調に論議をぶつけるほどだった。 僕が駅の改札を抜ける中、じいさんは手をひらひらと振って、駅の向こう側へと続く踏切を渡っていく。その背中を見送るうちに、僕はじいさんのことを気に入りつつあるのを自覚した。
それから、競艇場に行くたびに、僕はじいさんと言葉を交わすようになった。今読んでいる本を紹介し合い、レースを観ながら酒を飲んだ。
「青年よ、博打場でのダチはその場限りのもんだ。お互いの生活の根っこのところには踏み込まないことが長続きのコツさ」
じいさんはその言葉どおり、小説の趣味や舟券の予想以外のことについては、僕に何も聞いてこなかった。職業どころか、名前すらだ。いつまでたっても、僕は「青年」と呼ばれ、僕もじいさんのことを「じいさん」としか呼ぶことがなかった。
今日も僕は競艇場でじいさんと並んで本を読む。水面の冷気をたっぷりと吸い込んだ風が容赦なく体にぶつかる。時折、ダッフルコートのポケットに手を突っ込んで指先のかじかみをほぐしながら、内田百間の「阿房列車」のページをめくる。
「また青年は古臭いもん読んでやがんな」
じいさんが煙草の煙を吹きかける。目深にかぶったニット帽の隙間からじいさんの視線がもれている。
「この時代の旅行事情が分かっていいじゃん。百間先生の語り口は今読んでも面白いよ」「この時代ね……。まさか、青年は国鉄すら知らんか?」「物心ついたときにはJRだったね」「そうか、じゃあ青年からすれば、一周回って、面白いもんかもしれんな」
じいさんは僕の手から阿房列車を抜き取ると、カバーに印刷された内田百間の写真に見入った。手持ち無沙汰になってしまった僕は、仕方なく今日の出走表をひざの上に広げる。次のレースはいわゆる鉄板レースだ。ただでさえコースの利が大きい一号艇に有力選手が座っている。
「考えてみりゃ、旅行だ借金だと、百間も勝手気ままな人生を送ったよな。俺もあやかりてえな」
「今でも悠々自適って感じじゃないか。それなら摩阿陀会でも開いてあげようか?」
僕の軽口にじいさんは声を上げて笑う。
「馬鹿野郎! ほら、レースが始まるぞ」 じいさんがぽんと投げ捨てた阿房列車が、ひざに広げていた出走表の上に落ちる。おなじみの黒ぶち眼鏡の百間先生の写真が僕を見つめていた。
レースは僕の予想通り一号艇の圧勝劇に終わった。ただ、その予想は誰しもが思いつくものであったため、配当は雀の涙程度しかない。「青年はつまらない目をよく飽きもせずに買えるもんだよな」「このレースは一号艇が転覆でもしない限り鉄板じゃん」
隣で予想を見ていると、じいさんが典型的な穴党だということが分かる。わざとひねくれた予想をするので、一日に一レースかニレース程度しか当たらない。ただ、その分、当たった時の払い戻しは大きい。手堅い目をちょこちょこと当てる僕を見て、じいさんは若者らしくないとからかうのだ。
僕は当たり券を手に払い戻し窓口に向かった。配当を見る限り、場内の大半の客が的中したのだろう。窓口の前にはもう行列が出来ていた。
ようやく僕に順番が巡った頃には、次のレースの発売開始のアナウンスが流れていた。切符売り場にあるような機械に当たり券を挿入する。液晶画面に配当金額が表示され、紙幣と硬貨が音を立てて吐き出された。
財布を片手に払い戻し窓口から発売窓口に向かうと、トイレの前でじいさんの姿を見つけた。声をかけようと思ったのだが、顔をひどくしかめていたので、ためらわれてしまった。
僕が舟券を買って席に戻っても、まだじいさんの席は空いたままだった。レース開始を知らせるアナウンスが流れる。結局、じいさんが戻ってきたのはレースが終了し、結果が確定した後のことだった。
「長かったね」
「何がだ?」
じいさんは何食わぬ顔で煙草をふかしている。
「ずいぶんと外してたじゃん。舟券は買えたの?」
「ん、ああ、ちょっとな。別んとこで観てただけだよ」
じいさんは僕の顔に煙を吹きかけ、僕が席に置きっぱなしだった阿房列車を手に取った。ぱらぱらと流し読む。
「あっ、このレースも当たったから、ビールでも奢ってやるよ」
いつもなら、ここで黄色く染まった歯をにやっと見せるじいさんのはずなのだが、なぜか渋い表情を見せた。
「いや、今日は休肝日ってやつだ。青年が一人で飲めばいいさ」
いぶかしがる僕を見て、じいさんが取ってつけたように言葉を続ける。
「昨日飲みすぎてさ、吐き気がするんだよ」
じいさんは子犬でも追い払うように手をひらひらと振る。酒の誘いを断るのは初めてのことだった。
横でビールを飲みながら、じいさんの顔をのぞく。確かに改めて見ると、調子が悪そうだった。顔がゆがんでいる。
今日はお互いに当たったり外れたりで、収支はトントンといったところだった。いつものように一緒に駅まで向かう。
競艇場から吐き出された客が一斉に駅に向かうため、歩道は人の波で埋め尽くされている。じいさんが付き合わなかったため、僕も今日はビールを一杯しか飲んでいない。思えば、シラフに近い状態でじいさんと帰り道を行くのは初めてな気がする。
「百間のことなんて、じいさんだ年寄りだと思ってたけどよ。あいつが死んだのって、まだ八十一のことだったんだな」
じいさんがぽつりとつぶやく。
「まだ八十一って。八十過ぎまで生きれば御の字じゃないか」
確か、日本人の平均寿命も八十前後だったと思う。時代も考えれば、百間先生は長生きの部類に入るはずだ。
「そうか、俺も後五、六年生きれば御の字ってやつかな」
「急にどうしたのさ」
「いや、なんでもねえよ」
いつもの軽口のはずだったのだが、じいさんの言葉が細いので、調子が狂ってしまう。
「やっぱり摩阿陀会でも開いてやろうか」
「馬鹿野郎!」
ようやくじいさんが笑う。
駅に着いて改札を抜けると、ちょうど列車がホームに滑り込んだ。 車窓から、踏み切り待ちをするじいさんの姿が見えた。じいさんも僕に気づいたようで、敬礼のようにニット帽の裾をくいっと上げた。
いつものように喫茶店でモーニングを食べて、競艇場の開門を待つ。
コーヒーのお代わりを頼んで、文庫本を取り出す。トルストイ民話集。兵隊のシモンとふとっちょのタラスが失脚しても、まだじいさんは顔を見せなかった。
仕方なく、一人で店を出る。じいさんの顔を見ない日が続いていた。
冬は明けつつある。町中の商店街では卒業・入学に向けた学用品セールを始めている。最後に会った日のじいさんの顔色の悪さを思い出し、なにか嫌な予感がした。
元々、一人で競艇場に行っていたので、じいさんと出会う前の状態に戻っただけのことだが、変に調子が狂った。舟券が当たったことを報告する相手、外れた愚痴を言う相手、小説の感想を言う相手、いつの間にか僕はじいさんに色々な役柄を与えていたようだ。
年が離れていても、お互いの名前も年も仕事だって知らなくても、じいさんは同じ趣味を持つ遊び仲間だ。
競艇場では、年に一回、開設周年のGⅠ記念競走を行う。今日はその優勝戦だ。きっと、普段の倍以上の客が来るだろう。じいさんのことは気になったが、いつもの場所を誰かに奪われてしまわないようにと歩みを速める。
もう十二レースに行われる優勝戦の参加選手は決まっているので、それまでのレースは消化試合と変わらない。ただ、顔ぶれが豪華なだけあり、場内はにぎやかだ。イベントブースも設けられて活気がある。普段はあまり見ない同年代の客の姿もちらほらと確認できた。僕は記入台から投票用のマークシートを一束抜き取って、いつもの場所へと向かう。
風も温い。ページをめくるのに指がかじかまなくて良い。場内は客が多いにもかかわらず、投票窓口から離れたこのはじっこの席は今日も人影が少ない。僕の横はいまだに空いている。
一レースは大外の六号艇がきれいにまくる波乱の展開。当然、僕が買っていない目。イワンの家に兵隊のシモンが戻り、シモンのお嫁さんがイワンを土百姓とののしる。
二レースは一号艇が手堅く逃げ切る決着。払い戻し窓口に並ぶうちに時間が過ぎる。
三レース、四レースも続いて堅い結果。五レースは二号艇が差し抜け、一号艇は波に沈む。ふとっちょのタラスもイワンの家に戻ってくる。イワンはまた土百姓とののしられている。
風が強くなってくる、スタートタイミングがつかめなくなったのか、六レースはフライング艇が多く出る、返還金を求める人の群れで払い戻し窓口は大混雑。
七レースから九レースまではかすりもせず、イワンはお姫様の病気を治し、あれよあれよという間に王様だ。
十レースは最後の直線で着順が入れ替わる。後半に行くほど、レース間隔が長くなる。年寄った悪魔のもくろみはイワンの馬鹿には通用せず、イワンの国には人々がたくさん集まってくる。
十一レースが終わる。イワンの馬鹿を読みきってしまった僕は急に手持ち無沙汰になってしまう。じいさんがいないだけで時間がたつのがひどくゆっくりだ。文庫本にはイワンの馬鹿以外の作品も収録されている。ただ、一作品読み終わったという感覚が僕の指先の動きを鈍らせている。
最後の優勝戦を迎えるにあたって、場内のにぎわいは一層強くなっている。予想屋の怒声、床を舞うスポーツ新聞と舟券。人の声と気配はそこら中から伝わってくるのに、僕は一人だという思いがやけに強まる。
競艇場に一人でいる時間はこんなにもつまらないものだったろうか。
優勝戦の舟券を窓口で買って、席に戻る。まだ、レース開始まで三十分近くもある。僕はコートの襟を頭にかぶせるように引っ張り上げ、うつむいて、目を閉じた。
コートの布地越しに、舟券の発売締め切りまで後何分と告げるアナウンスが定期的に耳に届く。客の行動を急かすように、場内に流れる音楽がテンポの速いものへと変わっていく。
「間に合ったな」
聞き覚えのないかすれた声とともに、僕の横に人の座る気配がした。優勝戦のこの瞬間が客足のピークだ。ついにこの不便な場所にも人が来るほど、場内が混み合ってきたのだろう。
「おっ、イワンの馬鹿とは懐かしいな」
声の主が僕の手の内にある文庫本に手を伸ばしたのが分かった。コートを払いのけ、僕は前を見据える。
見慣れたニット帽が目に入った。
「よう、あんまりな態度じゃねえか」
ニット帽の下にある顔はじいさんのものだった。ただ、それは僕の記憶の中のものとは違った。頬は張りが失われて、たるんだ皮がしわを深くしていた。目もくぼんでいる。声もかすれた小さいものになっていた。
「じいさんだったのか」
僕は自分の感じたことが言葉ににじんでしまわないよう、ゆっくりと区切るように声を出した。
「この場所でトルストイを知ってる奴が俺と青年の他に何人いると思ってんだよ」
じいさんが笑う。しぼみかけた風船のように弱い笑いだ。
「ずいぶんと久しぶりじゃないか」
「ちょっと病院の世話になっちまってよ。ようやく投薬療法にまで戻ってさ、この優勝戦には間に合ったってことよ」
じいさんが懐からカプセルケースを取り出し、じゃらじゃらと音を鳴らす。
「青年に摩阿陀会を開いてもらわなくたって、先は知れてるよな」
節々が痛むのか、じいさんは体を動かすたびに顔をゆがめる。そして、吐き気をがまんするように、口をぐっとすぼめる。そんなじいさんを見ていて、僕は悲しさよりも怒りがわいた。
「辛気臭い面するんじゃねえよ! じじい!」
やせこけたじいさんの体がびくりと震える。それにも無性に腹が立った。
「僕に茶飲み友達にでもなってもらいたいのかよ! 違うだろ。博打場での遊び仲間じゃないのかよ」
じいさんがこんな弱い年寄りなわけがない。僕のことを若者のくせに辛気臭いとからかって、文学と競艇の話をするのがじいさんのはずだ。
優勝戦の開始を告げるファンファーレが鳴り響く。六艇が水面に滑り出し、スタートに向けた隊形を整えていく。僕はまだまだ出尽くしていない言葉を一旦止めて、水面に目を向ける。じいさんもそれに続いた。
六艇は舳先をゆっくりとスタート方面に向ける。大時計の針が頂点へと進んでいく。まず最初にエンジンをうならせたのはコースのアウト側に構えた艇だ。続いて、イン勢も発進する。大時計の針が頂点に達した瞬間、六艇がきれいにスタートラインを通過した。
横一線に揃ったスタート、ターンマークを先に回る一号艇を引き波に沈めようと、二号艇、三号艇がその横を全速で旋回する。一号艇が船体を外側に振り強襲を凌ごうとしたその時、ぽっかりと空いた懐を貫く姿が見えた。
ターンマークを抜けて、直線コースの先頭を走るのは緑の胴衣の六号艇。場内がどよめく。僕はオッズ表示を確かめた。六号艇からはどの並びでも百倍以上付く。万舟だ。
六号艇の少し後ろに一号艇が続く。三番手以降は混戦だが、大勢は決していた。その後、六号艇は危なげなくコースを三周し、六、一、二の着順が確定した。
払い戻し窓口に向かう人はまばらで、多くの客はうなだれて出口へと向かっている。僕も当然外れている。
「決まっちまった」
じいさんのつぶやきは蚊が鳴くような小さなものだったが、はっきりと僕の耳に届いた。
「もしかして、今の?」
僕の問いかけに、じいさんは握り締めてくしゃくしゃになった舟券を見せた。六号艇から総流しした買い目が印刷されている。
「やった! 今日はじいさんに奢ってもらうからな」
喜ぶ僕を尻目に、じいさんの表情は浮かない。舟券を握る手にぐっと力が加わったのを見て、僕はそれを引き剥がしにかかった。機械で読み込めなくなっては困る。
「なあ、あのよ・・・・・・」
堅く握り締められた拳から舟券をもぎ取るのを諦め、うにゃむにゃと唇を動かし続けるじいさんの腕をつかんで払い戻し窓口へと引っ張る。
「俺は、もうお粥だって戻しちまうんだ。今までのように酒も付き合えないし、そのうち歩くことさえ出来なくなっちまうかもしれないし、青年に何もやることができないんだ」
僕に引きずられながら、じいさんは駄々っ子のように言葉を続ける。なんにも分かっちゃいない。
「鉛筆を握れれば舟券は買えるし、歩けなくなったところで、今時、携帯からでも投票は出来るんだ。死ぬ間際まで遊ぼうと思えば遊べるだろ!」
払い戻し窓口の前で、僕は携帯電話をじいさんの前にかざす。
「もう、老け込んじゃっていいのかい?」
僕がけしかけると、じいさんはようやく、ためらいがちにだけど、小さく口を動かした。
「まあだだよ」
じいさんの目尻のしわに濡れるものが見えたけど、気付かない振りをしてやった。それが遊び友達ってやつだと思う。