「妹に店を譲れ。お前は裏で作ればいい」と父に言われたので、私の名前で初めての注文を受けました
「妹に店を譲れ。お前は今までどおり、裏で菓子を作ればいい」
父は、私の目の前で店の鍵を妹へ渡した。
私は焼きたての菓子を並べる手を止めた。
母が亡くなってから七年間。
毎朝、私が開けてきた店の鍵だった。
「来月、ミレーヌは子爵家へ嫁ぐ。持参金代わりに、この店を持たせることにした」
妹は鍵を掌に乗せ、窓の光へかざした。
「ありがとう、お父様。名前も変えていいかしら?」
「もちろんだ。お前の店になるのだからな」
私の背後には、母の名前を刻んだ木の看板が立てかけてある。
昨夜、金具が緩んでいることに気づいて、取り外した。
今日の閉店後に直すつもりだった。
「お姉様も、いいでしょう?」
妹が尋ねた。
私は、鍵ではなく父を見た。
「私の雇用条件は、どうなりますか」
父が眉をひそめた。
「家族の祝いに、いきなり金の話か」
「店が妹のものになるなら、私は妹に雇われる職人です。賃金と勤務時間を確認したいのです」
「今までどおりでいいだろう」
「今までは、生活費を差し引いた店の利益から、私の取り分をいただいていました」
母が残した建物を相続したのは父だった。
私が店を続ける条件として決めた取り分は、利益の四割。
残る六割から建物の修繕費と父の生活費を出す。
その約束は、母の葬儀のあとに書面にした。
けれど、新しい店主の妹へ利益を渡せば、私の取り分はなくなる。
「妹の持参金を、お前が減らすつもりか」
父はそう言った。
私は粉のついた手を布で拭いた。
「あの約束を続けるのでしたら、店を譲っても私は働けます。続けないのでしたら、雇用の契約が必要です」
「姉妹なのに、契約、契約と」
妹が小さくため息をつく。
「お姉様は、いつもそうね。私は結婚して、お客様とのお付き合いもするのよ。お姉様は好きなお菓子を作っていればいいでしょう?」
好きな菓子。
毎朝四時に起きて、火を入れる。
材料を量り、果物を煮て、生地を休ませる。
店を開けたあとは売り場にも立ち、閉店後に帳面をつける。
私が好きだから、全部してよかったのだろうか。
「分かりました」
妹が笑った。
「そう言ってくれると思ったわ」
「新しい条件では、私は働けません。婚礼の前日までに、引き継ぎを済ませます」
二人の笑顔が、同時に消えた。
◇
家を出る準備には、三週間かかった。
父は、私が意地を張っていると思っていた。
売り場に立つ妹も、機嫌が直れば戻ってくると思っていた。
そのあいだに私は、店の仕入先と定番商品の作り方を、帳面にまとめた。
妹が店をもらったことと、妹が菓子を作れないことは別の問題だ。
建物を持つ父には、店を譲る権利がある。
私には、その店で働くか決める権利がある。
どちらも、自分で選んだことの後始末をするべきだった。
「こんなに書いてくれたの?」
仕入れに来た粉屋のオットーさんが、厚い帳面を見て言った。
「妹が困らないように」
「君は困らないのか」
私は答えに詰まった。
独立のために貯めていた金で、町外れの小さな厨房を借りた。
住むのは、その上の屋根裏部屋。
売り場はない。
注文を受けて作り、取りに来てもらう形なら、始められると思った。
「困ると思います。お客様が来なければ」
「そうか」
オットーさんは、それ以上励まさなかった。
代わりに、新しい厨房へ小麦粉を届ける日を確認してくれた。
それが、ありがたかった。
父からは、顧客の住所録を持ち出すなと言われた。
もちろん持ち出さない。
店の預かっている注文も、その店の仕事だ。
私は、自分の道具と、自分が考えた菓子の配合帳だけを箱へ詰めた。
母の看板は、持っていけなかった。
店名も建物と一緒に妹へ渡す、と父が決めたからだ。
最後の営業日、私は修理した看板を、いつもの場所へ掛け直した。
木の端には、小さな焦げ跡が残っている。
私が十二歳の頃、母に任された砂糖を焦がして、鍋をぶつけた跡だった。
『失敗したら、隠さず呼びなさい』
母はそう言って、私と一緒に鍋を洗った。
私は焦げ跡を撫で、手を離した。
◇
新しい厨房を開けた日、注文は一件もなかった。
二日目も、三日目も。
店の前に貼った紙は、風で片側が剥がれた。
『菓子職人エマ。ご注文を承ります』
母の店では、こんなふうに名乗ったことがない。
看板の名前を聞かれれば、母の名を答えていた。
菓子を褒められれば、うちの店の品です、と答えていた。
自分の名前だけを書いた紙は、頼りないほど小さかった。
四日目の午後、戸を叩く音がした。
立っていたのは、以前の店へよく来ていた老人だった。
「胡桃の焼き菓子を、頼めるかね」
「はい。何個でしょう」
「二つ。明日の昼までに」
私は注文帳を開いた。
最初の頁。
ペン先が、少し震えた。
「お名前をお願いします」
「ベルナール」
老人は、壁に貼った紙を見た。
「君は、エマというのか」
「はい」
「七年も菓子を買って、初めて知った」
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
老人は急かさず、注文を聞き終えるまで立っていた。
◇
翌日、老人は小さな花束を持って来た。
菓子を二つ、別々に包んでほしいという。
「一つは家内に。もう一つは私が食べる」
「記念日ですか」
「毎年、結婚した日に食べている」
私は、覚えていた。
薄い蜜を塗った胡桃の焼き菓子を、二つ。
母の頃から、同じ注文だった。
以前、妹はその老人を見て言ったことがある。
『二つだけなら、並んでいるのを買えばいいのに』
けれど老人は、必ず予約をした。
私はその日、いつもよりゆっくり包みの紐を結んだ。
「こちらは、今食べてもいいかね」
「もちろんです」
老人は椅子に腰を下ろし、菓子を小さく割った。
一口食べて、目を閉じる。
「よかった」
ただ、それだけだった。
けれど私は、胸の奥が熱くなった。
「新しい店へ行ったら、職人が変わったと言われてね。粉屋に尋ねたんだ」
妹は、私の代わりに菓子職人を雇ったらしい。
引き継ぎの帳面があれば、同じ菓子は作れる。
きちんと賃金を払って雇ったのなら、それでいい。
「そちらでも、胡桃の焼き菓子は買えると思います」
「家内は、君の焼いたものを食べていた」
老人はもう一つの包みを、膝へ大事に置いた。
「去年亡くなった。だから今年も、同じものを供えたかった」
私は、返す言葉を見つけられなかった。
老人は半分になった菓子を見て、穏やかに笑った。
「私が買っていたのは、看板だけではなかったんだな」
その日の注文帳には、初めて売上が記された。
たった二つ分。
私は、その頁を何度も見た。
◇
妹の婚礼まで、あと五日。
父が新しい厨房へ来た。
「婚礼の菓子を作れ」
挨拶もなかった。
私は、焼き型から小さな菓子を外していた。
最初の客が、隣人を紹介してくれた。
隣人が、知り合いの茶会へ私の菓子を持って行った。
今は十二件の注文がある。
大きな仕事ではない。
けれど、私が受けた仕事だった。
「婚礼の注文は、新しい職人さんが作るのでしょう?」
「辞めた」
私は手を止めた。
「どうしてですか」
「婚礼の支度は別料金だと抜かした。店で雇っているのだから、店の仕事だろう」
通常の店売りを一人で作るのと、百人分の婚礼菓子を、指定の時間に揃えるのは違う。
追加の人手も、材料も必要になる。
「契約の範囲外だったのでは」
「お前まで同じことを言うのか」
父は卓上の注文帳を見た。
「こんな小さな仕事より、妹の祝いを優先しろ。材料は用意する」
「お引き受けできません」
「家族だぞ」
「今、私が約束している方にも、家族がいます」
明日の誕生日。
明後日の退院祝い。
週末に帰って来る息子を迎える茶会。
私にとって小さな注文でも、誰かにとっては、その日を待つ理由だった。
父は注文帳へ手を伸ばした。
私は、それを自分の側へ引いた。
父の手が、宙で止まる。
「店を譲るとき、お前も納得したではないか」
「はい。ですから、店は返してくださいと言っていません」
「ならば――」
「私は働かないと、あの日に申し上げました」
父は顔を赤くして出て行った。
私は、しばらく型を持つ手を動かせなかった。
断れた。
でも、怖かった。
家族を断ることは、店を出たあとも、簡単にはならなかった。
◇
婚礼の二日前、子爵家の家令が訪ねて来た。
手には、菓子の注文書があった。
一番上に、私の名前が書かれている。
『婚礼菓子製作責任者 エマ』
私は、その文字を見て息を止めた。
署名欄には、父の名前。
私の署名はなかった。
「お父上から、あなたが責任をもって作ると伺っております」
「私は、この注文を受けていません」
家令は眉をひそめた。
私は自分の注文帳を見せた。
婚礼の日には、朝から夕方まで引き渡しがある。
それぞれの客と、数量と金額を決めていた。
「お父上との行き違いですか」
「引き受けられないと、直接お伝えしました」
家令は注文書を畳まなかった。
「既に、招待客へ案内を出しております。あなたのお母上の店の菓子を振る舞う、と」
それなら、父は今までどおり私が折れると思ったのだ。
誰かへ約束してしまえば。
もう間に合わないと言えば。
私が、自分の約束を捨てて働くと。
「申し訳ありませんが、私がお約束したことではありません」
沈黙が続いた。
家令は、注文帳から私へ視線を戻した。
「確認のため、お父上を交えた話し合いに来ていただけますか。明日の午後です。婚礼菓子を作る約束ではなく、受注の有無を確認するために」
私は、その条件を書いてもらった。
今度は自分で読み、自分で署名した。
◇
子爵家の応接間で、父は私を見るなり言った。
「こんな場所まで来て、まだ意地を張るつもりか」
妹は、婚礼用の白い靴を履いていた。
その先を、何度も絨毯へ擦りつけている。
「お姉様。私の婚礼を、失敗させたいの?」
「あなたの婚礼に、私は注文を受けていないわ」
「家族のお祝いに注文なんて、冷たい言い方をしないで」
家令が卓上へ三枚の書類を置いた。
父が署名した注文書。
店の職人へ提示した雇用条件。
私が引き受けていないと回答した確認書。
「婚礼の菓子代は、子爵家から店へ支払うことになっています」
私は父を見た。
材料費だけではなかった。
きちんと、代金を取っていた。
「妹への祝いなのか、店が受けた仕事なのか、どちらですか」
父は答えなかった。
妹が口を開く。
「そのお金で、店の内装を直すの。私がお店を持って来ることを、皆様が期待してくださっているから」
「お金を受け取るのは、あなたなのね」
「店主なんだから当然でしょう?」
私は頷いた。
「だったら、作る人へ払って」
妹は、何を言われたか分からないという顔をした。
「家族の私には払わなくていい。雇った職人さんにも、追加分は払わなくていい。それで、誰が作るの?」
「お前が作れば済む話だ!」
父の声が響いた。
私は肩を震わせた。
けれど、座ったまま答えた。
「私が嫌だと言っている話です」
応接間が静かになった。
難しい契約の言葉ではなかった。
父も妹も、分からないはずのない言葉だった。
妹の婚約者が、初めて口を開いた。
「エマさん。あなたへ、製作を依頼した連絡は一度もなかったのですか」
「父から命じられました。断りました。それだけです」
彼は妹を見た。
「君は、お姉さんが承知していると言ったね」
「だって……最後には、いつもやってくれるから」
妹の声が小さくなった。
「お姉様は、お菓子を作るのが好きだから」
私は妹の白い靴を見た。
幼い頃、その靴ほど小さな焼き菓子を、よく作ってやった。
妹が笑うのが嬉しかった。
母が忙しいとき、私が世話をするのも嫌ではなかった。
好きでしていたことが、いつの間にか、断れない理由になっていた。
「好きよ」
私は言った。
「だから、誰のために作るかも、自分で決めたいの」
◇
婚礼は、予定どおり行われた。
私は出席しなかった。
話し合いの場で、妹には直接祝福を伝えた。
そのうえで、先に受けた仕事をするため欠席すると告げた。
子爵家は、別の店へ婚礼菓子を依頼した。
急な注文を引き受けてもらうため、品数を減らし、追加料金を払ったという。
父の店へ払う予定だった代金は、その店へ渡された。
妹が望んだ内装の改装は、延期になった。
それでよかった。
誰かが作るなら、その誰かへ払う。
用意できないものは、用意できないと認める。
私がいなくても、世の中はちゃんと回る。
私が全部引き受けなくても、婚礼はできる。
朝から、私の厨房には客が来た。
誕生日の菓子を抱えた若い父親。
退院した妻を迎える男性。
久しぶりに息子が帰って来るという女性。
最後の注文を渡したとき、空は薄い橙色になっていた。
売り場のない厨房の前で、私は小さく伸びをした。
母の店なら、まだ片づけに追われている時間だ。
「もう閉めるのかね」
ベルナールさんが、道の向こうから声をかけた。
「はい。今日の注文は、全部お渡ししました」
「では、一つ頼んでもいいかな」
私は慌てて戸を開けようとした。
老人が首を振る。
「今日ではないよ。来年の、いつもの日に」
私は笑った。
「少し気が早くありませんか」
「君が来年も、ここで作っているようにと思って」
私は厨房へ戻り、注文帳を開いた。
来年の同じ日。
胡桃の焼き菓子、二つ。
書き終えてから、老人にお辞儀をした。
「お待ちしています」
◇
ひと月後、妹から手紙が届いた。
店には、新しい職人を雇ったという。
以前辞めた職人へ、父が未払いの仕事代を払ったことも書かれていた。
私が引き継いだ帳面は、毎日使っているらしい。
『お姉様は、これだけの仕事を一人でしていたのね』
最後に、それだけ書いてあった。
謝罪の言葉はなかった。
だから私も、許すとも、戻るとも書かなかった。
新しい職人へ、作り方の分からない箇所があれば、有料で相談を受けると返した。
妹ではなく、職人本人から、二日後に返事が来た。
丁寧な手紙だった。
私は、相談料と日時を決めた。
家族の店だからと、働かない。
家族の店だからと、意地悪もしない。
私の仕事として、引き受ける。
それが、今の私にできる距離だった。
◇
春、新しい厨房の前に、小さな棚を置いた。
注文のない日に、少しだけ菓子を並べるためだった。
看板は、オットーさんが届けてくれた木の板に、自分で書いた。
『菓子工房エマ』
母の名ではない。
妹の名でもない。
乾いた文字を指でなぞると、知らずに笑っていた。
棚に最初の菓子を並べていると、小さな女の子が母親の手を引いて立ち止まった。
「これ、誰が作ったの?」
母の店にいた七年間。
何度も聞かれた問いだった。
私は、少女と目を合わせた。
「私よ」
初めて、そう答えた。
少女は私を見てから、菓子を見た。
「じゃあ、あなたのお菓子をください」
私は紙袋を開いた。
店を渡しても。
看板を置いてきても。
私の手に残るものがあった。
今度はそれを、自分の名前で差し出した。




