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たかがそれくらいで、すれ違う。

掲載日:2026/07/20

 

 後輩が結婚した。


 社内でも評判になるような恋愛結婚だった。新婚旅行から戻ってきた後輩は、日に焼けた顔で部署のみんなに土産を配っていた。


「先輩には、これです」


「ありがとう。ずいぶん奮発したね」


「いつもお世話になっていますから」


 そう言いながら、後輩は照れくさそうに鼻の下をこすった。


 結婚式の写真も見せてもらった。白いドレスを着た奥さんは華やかで、後輩も借り物のような礼服姿で幸せそうに笑っていた。


 いい家庭を築くのだろう。


 そのときは、なんとなくそう思っていた。


 しばらくして、久しぶりに後輩と同じ営業先へ行くことになった。


 会社を出て駅へ向かって歩き始めて間もなく、隣を歩いていた後輩が口を開いた。


「先輩。聞いてください」


「なに? 遠慮なく惚気ていいよ」


 新婚なのだ。朝食の味噌汁がうまいとか、休みの日に二人で家具を見に行ったとか、そんな話だろうと思っていた。


 ところが後輩は、思い詰めたような顔をしていた。


「それが……僕、ずっとジャンプを買っているんですよ」


「うん」


 何の話だろう。


「学生の頃から、毎週買っています」


「うん」


「おかしくないですよね?」


「うん。べつにおかしくないと思うよ」


 わたし自身漫画を読んでる。社会人になってから大人買いをしたときは感動した。


 それに、週に一冊の雑誌だ。給料のほとんどをつぎ込んでいるわけでもない。


 すると後輩は勢いよく言い出した。


「それが、彼女がやめろ、おかしいって言うんですよ」


「おかしい?」


「結婚したのに、いつまで漫画なんか読んでいるんだって」


「なるほど」


「読みたいなら立ち読みしろって言うんです」


「立ち読みって……本屋で?」


「そうです。本屋で読めばいいって」


「そう……」


 それにしても、毎週立ち読みしろとは、ずいぶん思い切った提案である。


「どうしてでしょう?」


「どうしてって……奥さんは、なんて言ってるの?」


「もったいないって言うんですよ」


「もったいないって? お金が?」


「はい。読み終わったら捨てるものに、お金を出すなんてもったいないって」


 私は曖昧にうなずいた。


 こういう夫婦の話で、うっかり変な相槌を打つのは危険だ。


 後輩に同意すれば、奥さんの悪口を言ったことになる。かといって奥さんの肩を持てば、後輩は話を聞いてもらえなかったと思うだろう。


 慎重に、慎重に。


「奥さんは漫画を読まないの?」


「全然読みません。興味がないみたいです」


「それなら、毎週買う気持ちがわからないのかもしれないね」


「でも、自分は毎日ケーキを買ってくるんですよ。ビールも飲むのに」


「毎日?」


「そうです。毎日です」


 後輩は指を折りながら数え始めた。


「駅前のコンビニでケーキを一つか二つ買って、夕食のあとに食べるんです。それからビールも一本。ケーキとビールが悪いって言っているんじゃないですよ。彼女が自分の給料で買っていますし、好きなら買えばいいと思っています」


「うん」


「でも、それなら僕が週に一冊ジャンプを買ってもいいと思いませんか?」


「まあ、そうだね」


 ようやく、少しだけ踏み込んだ返事をした。


「ジャンプ一冊で家計が傾くわけじゃないんだろう?」


「傾きませんよ。僕だって働いているんですから」


 後輩は、いかにも納得できないという顔をした。


「僕はケーキをやめろなんて言っていません。ビールだって好きに飲めばいいと思っています。それなのに、どうして僕だけ立ち読みしなくちゃいけないんですか」


「そこは、二人で話し合ったほうがいいんじゃないかな」


「話し合っているんですけど、『漫画なんか』って言われるんですよ」


 おそらく問題は、ジャンプ一冊の値段ではない。


 奥さんにとって、ケーキやビールは一日を終えるための楽しみで、漫画雑誌はなくても困らない無駄なものなのだろう。


 けれど後輩にしてみれば、その逆だ。


 ケーキを食べる習慣のない人間にとっては、毎日のケーキのほうがよほど贅沢に見える。酒を飲まない人間なら、ビール代をもったいないと言うかもしれない。


 結局、人は自分の楽しみに使う金には理由をつけられるが、興味のないものに使われる金は無駄に見えるものなのだ。


「先輩なら、どうします?」


「私?」


 返事に困っているうちに、目的地へ着いてしまった。


「あ、ここだ」


「ああ……着いちゃいましたね」


「その話は、また帰りにでも」


「はい」


 けれど営業先での話が思いのほか長引き、帰り道はそこで聞いた噂話で持ちきりになった。担当者が異動するらしいとか、今度の責任者は細かい人だとか、次に持っていく資料をどうするとか。


 ジャンプの話に戻ることはなかった。


 それから、後輩夫婦がどういう話し合いをしたのか、私は知らない。


 ただ、社会人には、一日の疲れや仕事のストレスを解消するための小さな楽しみが必要なのだと思う。


 家に帰って晩酌する人もいる。


 家族と今日あったことを話す人もいる。


 上司は、犬をかまいながら飲むのが一番の楽しみだと言っていた。テレビと会話しながら飲む人もいれば、気に入りの店に寄ってから帰りたい人もいるだろう。


 たぶん、後輩にとって、それがジャンプなのだ。


 一週間働いて、いつもの雑誌を買う。家に帰ってページを開き、好きな漫画の続きを読む。その時間があれば、また次の一週間をやっていける。


 奥さんにとっては、ケーキとビールがそれだったのだろう。


 自分の楽しみは必要なものに見える。


 相手の楽しみは、理解できなければ無駄に見える。


 どちらが正しいという話でもない。


 漫画を買うくらい好きにさせてあげればいいとも思うけど……


 片方だけが我慢することになれば、ジャンプ一冊ほどの不満が、いつかもっと大きなものになるかもしれない。


 これはもう、二人で折り合いをつけてもらうしかない。


 ジャンプ禁止なら、ケーキも禁止かな?


 その後のことは聞いていない。


 ただ、ときどき思い出す。


 あのとき後輩が不満だったのは、雑誌を買えないことだけではなかったのだろう。


 自分が大切にしているものを、いちばん身近な人から「おかしい」「もったいない」と言われたことが、寂しかったのだと思う。



いつもお読みいただき、ありがとうございます!


誤字や脱字をご指摘いただけることにも、心より感謝しております。

とても助かっています。


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― 新着の感想 ―
この問題、実は根深い可能性があります。 実はその奥さん、実は漫画が「無駄」ではなく「嫌い」という可能性です。 両親から「いい大人は漫画など読むべきではない!」と刷り込みされてるんじゃないかなあ。 これ…
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