序章
呻き声と共に瞼を開く。
そこは車がまばらに停められている、閑散とした夜の駐車場であった。
どれほど気を失っていたのだろうか?
そんなことすら、わからない。頭痛がひどい。記憶が曖昧だ。四十代後半の男、中村 哲太は必至に頭を巡らせてここまでの経緯を追想した。
そう。それはいつも通りの日々であった。遺伝子の研究に朝から打ち込んで、夜の八時くらいに研究所を出た。なにも変わりのない、研究者としてのルーティン。だが、その帰り道のことだ。
突如として、頭の中に電流が走るような、激しい痛みに苛まれた。痛みはあっという間に中村の意識を奪っていく。なにかに殴られた、というよりは脳の内側を直接かき乱されるような、不可解な暴力であった。
そうして、気がついて今に至る。
「ま、まさか、拉致とかじゃないよな……⁉」
意識がはっきりしてくると、中村は今更ながら、己の境遇に強い危機感を抱いた。
拉致。誘拐。人攫い。
言い方はなんでもいい。とにかく、これはそういう類に違いない。なぜ四十後半のむさくるしい独身のオッサンを選ぶのかという疑問は出るが、誘拐の理由が金とかだったら、おかしい話ではないだろう。
それになによりも、彼には心当たりが一つあったのだ。
実はこの男、これまで品行方正に生きてきた、というわけではない。二十年前。とある違法な研究に手を染めたことにより、彼の人生は変わった。
人から恨みを買ったり、狙われたりする可能性はゼロじゃない。だからこういうことが起こるのは覚悟していた。むしろ、これまでなにも起きなかったのが奇跡なくらいである。中村は頭の中で、命乞いに使う金額をはじき出す。金はある。重要なのは、今この場を切り抜けることだ。誘拐を行った犯人を警察へ突き出すことは、後にすればいい。
「――人類は。禁断の果実を再び、食べてしまった」
ガラスのように透き通る、中性的な声。
その声に、中村は息を飲んだ。
コンクリートの柱から現れたのは、長身の男であった。声に似合わず、歳は中村と同じくらいか。しかし彼にはどこか、中年には似合わない、引き込まれる美しさがあった。線の細さは女性的な印象を与え、端正な顔立ちは若い美青年を彷彿とさせる。そしてなによりも、雪を彷彿とさせる銀色のベリーショートが、彼を幻想的なものへと昇華させていた。
「アダムとイヴはエデンを追放され、男は汗を流す労働の罰を。女は出産に伴う苦痛の罰を。そして等しく、いつか訪れる「死」を与えられた。それにもかかわらず、あなた達は二度も神との約束を破り、果実を口にすることになった。さて、次の罰は……どうしてくれようか?」
「お、お前は……神塚 統夜⁉」
驚きのあまり、中村は顔面を蒼白とさせた。
彼の考えうる中で、もっとも最悪な人物であったのだ。
なぜなら神塚こそが、中村が加担した違法な研究の被験者であり、被害者なのだから。
「あなたと直接の面識があるわけじゃないけれど、あなたがしてきたことは知っている。あなたは、僕の子供と妻を奪ったんだ。その罪は、決して軽いものではないよね?」
重みのある、厳然とした糾弾。
中村は冷たい汗を流し、哀訴した。
「し、し、仕方なかったんだ! 俺は悪くない! そ、そうだ、国! 国が悪いんだ! あいつらが、お前の子供で、じ、実験しろって!」
「遺言はそれだけかな?」
瞬間、神塚の右手に赤い光を放つタトゥーが浮かび上がった。それはなにかの呪いのような、シンプルながらも不気味な模様であった。
――ソーサリー・タトゥー。
今、神塚が右手に浮かび上がっている光の模様は、世間ではそう呼ばれている。
世界を騒がせた、突如として人類に発現した異能、魔法。それは科学で解明・または証明できない幾多の超常現象を起こした。そしてその魔法を扱える者は全員、力を出す時にはソーサリー・タトゥーが浮かび上がった。
魔法に目覚める人間は、全体で約一割程度と言われている。左利きが生まれるのと同じくらいの割合だ。生まれつき扱える者もいるし、大人になってから突然使えるようになる者もいる。そのタイミングは千差万別だ。
「ひいぃ⁉ や、やめてくれ、殺さないでくれ!」
魔法の恐ろしさ、そして神塚が卓越した魔法使いであることを知る中村は、尊厳をすべてかなぐり捨て、その場にひざまずいた。
逃げる、という選択肢はない。
拘束もされていないのに、そういうことは考えない。
神塚という男の前に、それは無意味なことだと知っているのだ。
「んー、どうしようかなあ」
「な、なにを知りたいんだ? そ、そうか! 実験のこと、「ゴット・ファミリー計画」のこと、知りたいんだろ? あ、ああ、そうだ。い、言っておくが、お前の子供にはなにもしてないぞ! 本当だ、信じてくれ! あいつらは生きている!」
「ああ、ごめんね」
神塚は子供のような、にっこりとした笑みを浮かべた。
「なにを言っても、あなたは助からないって決まっているんだ」
神塚が右手を伸ばす。刹那、指先から赤色の美しい魔法陣が生まれた。そこから放たれたのは、大玉の赤い炎。
「ひっ――」
避けよう、と思った時にはもう遅かった。
赤い炎は弾丸のような速さで中村の右肩に飛び込んでいく。しかし服や体が燃え上がることはなく。赤い炎はまるで消しゴムが線を消すかのように、中村の右腕だけを的確に消滅させた。
「ぎ、ぎやあああああああ⁉ 痛い、痛い、いだい、いだいぃぃぃぃ⁉」
中村が慟哭を上げる。
切断された断面は、赤い光が瞬いていた。魔術痕、と呼ばれるものだが、中村にとって今はそんなことどうでもよかった。右腕からほとばしる、もう死んだ方がマシだと思えるような激痛から、一刻も早く解放されたかった。
そんな中村へ慈悲をかけることなく、神塚は赤い炎を再び放ち、正確に中村の体を刈りとった。左腕、右足、左足。そうして手足を失った中村は悲鳴も上げず、打ち上げられた魚のように、全身をびくびくと痙攣させていた。時折激痛のあまり気を失うこともあったが、痛みによって意識を呼び戻されるという、この世の地獄絵図が繰り広げられている。
「不思議なものだよね。僕は微塵も死者の痛みを知らない。生者は、死の痛みを理解することは出来ないんだ」
神塚は目の前で苦しんでいる人間がいるのに、ましてやそうさせた本人だというのに、淡々とそんな心中を吐露した。
人をいたぶりながら世間話をする彼の様子は、まともな精神の持ち主でないことを如実に証明している。
「さあ、最後に言うことはあるかい?」
「ろ、じて」
「ん?」
「ごろ、じて」
懇願する中村に、神塚は重いため息をついた。
「やれやれ。面白くない。神への懺悔のわりには、ユーモアに欠ける」
神塚はそう言って、パチン、と指を鳴らした。
「さて、僕の子供達。食事の時間だよ」
宵闇の中から、息をひそめていた不気味な怪物が何体も姿を現した。
それはこの世に存在するような生き物の形ではなかった。人間の頭をした、紫色の皮膚をした、牛ぐらいの大きさの蜘蛛。人間のような体をしながらも、全身が茶色い毛に包まれた、四足歩行の犬の頭をした者。女の足と体を持ちながらも、腕だけは大きな翼が伸びている者。
まさに化け物と呼ぶべき異形の存在が、悠然と中村を見据えていた。
それを見た中村は、ああ、と心中で嘆いた。
これは裁きだ。神様からの、怒りの天誅だ。
だってこの化け物達を作ったのは他の誰でもない。
自分達、なのだから。
「――さあ。鉄槌の夜だ」
神塚の言葉の終わりと同時に、化け物たちが群がる。中村の体は引き裂かれたり、噛み砕かれたりして、最終的には化け物達に喰われていった。鮮血が辺りに飛び散る。食事はものの一分程度で終わった。彼の長年の人生の終わりは、死を前にしてはそんな程度であった。物事は作るよりも、破壊することの方が容易い。後に残されたのは、血に濡れた彼の骨だけ。骨の断面には、まだ赤い光の魔術痕が煌々と放たれていた。
神塚の姿も、忽然と消えている。




