「お前の味方は俺だけでいい」と彼は会議室で言った
「この企画書、私が書いたんです」
桐生麻衣先輩の声が、オフィスに響いた。
私は自分のデスクで、その言葉を聞いていた。聞き間違いかと思った。でも、桐生先輩は部長の前で、はっきりと言った。
「三ヶ月前から温めていた企画なんです。瀬尾さんには相談していたので、内容を知っていたとは思いますが……」
嘘だ。
あの企画は、私が書いた。三ヶ月、毎晩遅くまで残って、資料を集めて、構成を練って、何度も書き直した。桐生先輩には一度も相談していない。
「瀬尾」
部長の堂島さんが、私の名前を呼んだ。
「桐生の言う通りか?」
「違います」
声が震えた。
「あの企画は、私が書きました」
部長の目が細くなった。桐生先輩が、困ったように眉を寄せる。
「瀬尾さん、私は責めてるわけじゃないの。ただ、事実を確認したくて……」
「事実は、私が書いたということです」
「でも、証拠は?」
桐生先輩の言葉に、私は言葉を失った。
証拠。
企画書のファイルは、共有フォルダに入っている。作成者の名前は、私になっている。でも、桐生先輩は「瀬尾さんに頼んで代わりに保存してもらった」と言うだろう。実際、そう言い始めている。
「とりあえず、今日のプレゼンは予定通り行う」
部長が言った。
「桐生、瀬尾、両方の企画を聞く。判断はその後だ」
桐生先輩が頷いた。私も頷くしかなかった。
時計を見る。14時30分。プレゼンは15時から。
30分しかない。
デスクに戻ると、周囲の視線が冷たかった。
「瀬尾さん、大丈夫?」
声をかけてきたのは、隣の席の後輩だった。でも、その目は「大丈夫」を心配しているのではなく、「本当に盗んだの?」と聞いている。
「大丈夫」
私は答えた。大丈夫なわけがない。
「神代に取り入って企画を盗んだ」
誰かがそう言っているのが聞こえた。
神代晃。企画部の同期。入社以来、社内で一番モテている男。誰にでも愛想がよくて、軽薄で、私が一番苦手なタイプ。
神代とは、仕事で何度か話したことがある。でも、取り入ったことなんてない。そもそも、神代と私の企画に何の関係があるのか分からない。
「瀬尾」
声がした。
振り返ると、神代がいた。
「ちょっと来い」
「……何?」
「いいから」
神代は、私の腕を掴んで歩き出した。
「ちょっと、離して」
「うるさい。黙ってついてこい」
神代は、私を会議室の裏の廊下に連れて行った。人気のない場所。
「何なの」
「ログを取れ」
「……は?」
「企画書の作成ログ。タイムスタンプ付きで取れ。システム部の宇佐美に頼め」
私は、神代の顔を見た。
「なんで、あなたが……」
「俺は最初から知ってた」
神代の目が、いつもと違った。軽薄な笑みがない。
「お前が毎晩遅くまで残って、あの企画を書いてたのを見てた。桐生が横取りしようとしてるのも、三日前から知ってた」
「……なんで、言ってくれなかったの」
「証拠がなかった。でも、今ならある」
神代は、私の目を見た。
「ログを取れ。俺が出す」
「出すって……」
「会議で、俺がログを出す。お前は何もしなくていい」
「なんで、あなたが」
「うるさい」
神代は、私の手を握った。
「お前は、俺の味方だけしてればいい」
システム部に行くと、宇佐美さんがいた。
「ログ? 企画書の?」
「はい。作成日時と、編集履歴が分かるものを」
宇佐美さんは、少し考えてから頷いた。
「出せるよ。ちょっと待って」
宇佐美さんがパソコンを操作している間、私は時計を見た。14時40分。あと20分。
「はい、これ」
宇佐美さんが、USBメモリを渡してくれた。
「作成日時、編集履歴、全部入ってる。改竄履歴も残るから、誰かがいじってたらすぐ分かるよ」
「ありがとうございます」
「……瀬尾さん、大丈夫?」
宇佐美さんの目は、後輩とは違った。本当に心配している目だった。
「大丈夫です。これがあれば」
「うん。頑張って」
廊下を歩いていると、桐生先輩がいた。
「瀬尾さん」
先輩は、私の前に立ちはだかった。
「何をしてたの?」
「……別に」
「システム部に行ってたでしょ」
先輩の目が、鋭くなった。
「ログなんて取っても無駄よ。改竄なんていくらでもできるんだから」
「できません」
「え?」
「改竄履歴も残るんです。誰かがいじったら、すぐ分かります」
先輩の顔が、一瞬だけ強張った。
「……そう」
先輩は、笑った。
「でも、誰が信じてくれるかしらね。あなたより私の方が、社歴が長いんだから」
「証拠があれば、信じてくれます」
「証拠ね」
先輩は、私の横を通り過ぎた。
「30分後に、どっちが正しいか分かるわ」
会議室の前で、神代が待っていた。
「取れたか」
「うん」
私はUSBメモリを渡した。神代は、それをポケットに入れた。
「あと15分。お前は何もしなくていい」
「でも……」
「俺を信じろ」
神代の目が、私を見た。
「俺は、お前の味方だ」
その言葉が、胸に刺さった。
神代は、いつも軽薄だと思っていた。誰にでも優しくて、誰にでも笑顔で、誰のことも本気で考えていないと思っていた。
でも、今の神代は違う。
「……なんで、私なの」
「は?」
「なんで、私の味方をするの。私、あなたに何もしてない」
神代は、少し黙った。
「お前は、俺の前で泣かなかった」
「……え?」
「三ヶ月前、お前の企画が最初にボツになった時。お前は泣かなかった。悔しそうな顔して、でも泣かないで、次の日からまた書き直してた」
神代は、私の顔を見た。
「俺は、そういう奴が好きだ」
「……」
「だから、お前の味方をする。文句あるか」
「……ない」
「よし」
神代は、私の頭をぽんと叩いた。
「行くぞ」
会議室に入ると、部長と桐生先輩、そして数人の社員がいた。
桐生先輩は、すでに資料を配り終えていた。私の席にも、先輩の名前が入った企画書が置いてある。
「では、始めよう」
部長が言った。
「まず、桐生から」
桐生先輩が立ち上がった。
「はい。では、私の企画について説明します」
先輩のプレゼンが始まった。内容は、私が書いたものとほぼ同じだった。構成も、データも、結論も。
当然だ。私が書いたものを、そのまま使っているのだから。
「——以上です」
先輩がプレゼンを終えた。部長が頷いた。
「よくまとまっている。次、瀬尾」
私は立ち上がろうとした。
「待ってください」
神代の声がした。
「神代? なんだ」
「瀬尾の前に、確認したいことがあります」
神代は、立ち上がった。
「この企画書の作成ログを、見ていただけますか」
「ログ?」
「はい」
神代は、USBメモリを取り出した。
「システム部から取得した、正式な記録です。作成日時、編集履歴、全て残っています」
部長の目が、細くなった。
「……見せてみろ」
神代は、会議室のプロジェクターにUSBを繋いだ。
画面に、ログが映し出された。
「これを見てください」
神代が指差した。
「この企画書の最初の作成日時は、三ヶ月前の4月15日、22時34分。作成者は『瀬尾千紗』。以降の編集履歴も、全て瀬尾のIDで記録されています」
会議室が、静まり返った。
「桐生さんのIDは、一度も記録されていません」
神代は、桐生先輩を見た。
「この企画書は、瀬尾のものです。異論はありますか」
桐生先輩の顔が、青ざめていた。
「そ、それは……瀬尾さんに頼んで、代わりに……」
「代わりに保存してもらった?」
神代の声が、冷たくなった。
「三ヶ月間、一度も自分で編集せずに? 一度もIDを残さずに?」
「それは……」
「無理がありますね」
神代は、部長を見た。
「堂島部長。この企画は、瀬尾千紗のものです。証拠は揃っています」
部長は、ログを見ていた。
「……桐生」
「は、はい」
「お前、後で話がある」
桐生先輩の顔が、さらに青くなった。
「ち、違うんです。私は……」
「言い訳は後で聞く」
部長は、私を見た。
「瀬尾。お前の企画だったんだな」
「……はい」
「すまなかった。疑って」
部長が、頭を下げた。
周囲の視線が、変わった。さっきまで冷たかった目が、今は申し訳なさそうに私を見ている。
「瀬尾さん、ごめんね。私、桐生先輩の言葉を信じちゃって……」
「瀬尾、悪かった。俺も疑ってた」
手のひらを返すように、謝罪の言葉が飛んできた。
でも、私はそれを聞いていなかった。
神代を、見ていた。
会議が終わった後、神代は会議室の外で待っていた。
「神代」
「ん?」
「……ありがとう」
神代は、笑った。
「礼なんていらない」
「でも、あなたがいなかったら……」
「俺がいなくても、お前は自分で証明しただろ」
「……分からない」
「俺は分かる」
神代は、私の前に立った。
「お前は、強い。俺は最初から知ってた」
「……」
「でも、一つだけ言っとく」
神代の手が、私の頬に触れた。
「お前の味方は、俺だけでいい」
「……え?」
「他の奴に頼るな。泣きつくな。助けを求めるな」
神代の目が、真剣だった。
「全部、俺にしろ」
「それって……」
「分かってるだろ」
神代は、私の手を取った。
「俺は、お前が好きだ」
「……」
「三ヶ月前から、ずっと見てた。お前が頑張ってるの、全部見てた。だから、今日も味方した」
「……なんで、言ってくれなかったの」
「言う機会がなかった。お前、俺のこと避けてただろ」
「……避けてない」
「嘘つけ」
神代は、笑った。
「お前、俺のこと『軽薄』って思ってただろ」
「……思ってた」
「だろうな」
神代は、私の手を握った。
「でも、俺は本気だ。お前のことは、ずっと本気だった」
「……」
「だから、もう逃げるな」
神代の顔が、近づいた。
「俺から、逃げるな」
「……逃げない」
私は、神代の目を見た。
「もう、逃げない」
神代が、笑った。
「よし」
そして、神代は私を抱きしめた。
「お前の味方は、俺だけでいい。覚えとけ」
「……うん」
私は、神代の胸に顔を埋めた。
三ヶ月間、一人で頑張ってきた。誰にも頼らず、誰にも助けを求めず、一人で企画を書いてきた。
でも、この人は見ていてくれた。
最初から、ずっと。
「……ありがとう」
「だから、礼はいらないって」
「違う」
私は、顔を上げた。
「見ていてくれて、ありがとう」
神代の目が、少しだけ柔らかくなった。
「……当然だろ」
神代は、私の頭を撫でた。
「俺の女を、見てないわけがない」
「……まだ、あなたの女じゃない」
「今からなる」
「……」
「なるだろ?」
神代の目が、私を見た。
逃げられない目だった。
「……なる」
「よし」
神代は、もう一度私を抱きしめた。
「お前は、俺のものだ。覚えとけ」
翌日。
桐生先輩は、部長室に呼び出された。
「桐生、お前には始末書を書いてもらう。それと、企画部への異動だ」
「い、異動……」
「お前の評価は、今回の件で大きく下がった。広報部には置いておけない」
桐生先輩の顔が、真っ青だった。
「瀬尾さん、私は……」
「私に謝らなくていいです」
私は、桐生先輩を見た。
「ただ、もう二度と、人のものを盗まないでください」
桐生先輩は、何も言えなかった。
部長室を出ると、神代が廊下で待っていた。
「終わったか」
「うん」
「飯、行くぞ」
「……え? 今?」
「今。お前、朝から何も食ってないだろ」
「なんで知ってるの」
「見てたから」
神代は、私の手を取った。
「お前のことは、全部見てる。覚えとけ」
「……重い」
「うるさい。俺の女は黙ってついてこい」
「まだ正式に付き合ってない」
「付き合ってる。昨日からな」
「私、OKしてない」
「した。『なる』って言った」
「……」
私は、神代の顔を見た。
神代は、いつもの軽薄な笑みを浮かべていた。
でも、その目は真剣だった。
「……分かった」
私は、神代の手を握り返した。
「ついていく」
「よし」
神代は、私の手を引いて歩き出した。
その背中は、三ヶ月前から見ていたはずなのに、今日初めて見たように感じた。
私を見ていてくれた背中。
私を守ってくれた背中。
私を選んでくれた背中。
「……神代」
「ん?」
「私も、あなたのこと、見てていい?」
神代が、振り返った。
「当然だろ」
神代は、笑った。
「お前以外に見られても、意味がない」
その言葉が、胸に落ちた。
私は、神代の手を強く握った。
——この人の味方で、いよう。
ずっと、ずっと。
私を見ていてくれた人がいた。
だから私は、その人の味方になる。
それだけで、十分だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「自分の努力を誰かに奪われる」という経験は、本当に悔しいものだと思います。でも、見ていてくれる人は必ずいる——そんな思いを込めて書きました。
千紗と神代の、これからの日々が幸せであることを願っています。
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