沈黙の帝国の夜
廃神社の夜から二週間。
世界は、一人の男の「帰還」に沸き立っていた。
都心の一等地にそびえ立つ、
地上五十階建ての超高級ホテル。
その最上階にある
プレジデンシャル・スイートが、
今の蓮の「根城」だった。
一泊数十万をくだらないその空間も、
今の蓮にとっては、かつての四畳半の
ボロアパートとさほど変わらない
無機質な檻に過ぎない。
窓の外には、
東京の夜景が宝石を散りばめたように
広がっている。
かつてはあの光の粒の一つ一つが、
自分を嘲笑う眼差しのように感じられた。
だが今は違う。
あの光の一つ一つが、
自分という「偶像」に命を捧げる信者たちの
呼吸のように思える。
「……重いな」
蓮はソファに深く腰掛け、右腕を持ち上げた。
シルクのシャツの袖を捲り上げると、
そこにはもはや人間の皮膚は
ほとんど残っていなかった。
肘の関節を越え、
石化は上腕の筋肉を侵食し始めている。
その石は、ただの石ではなかった。
深い闇の色をしたそれは、時折、血管のように
朱色の細いラインが明滅する。
蓮が指を動かすと、パキ、パキと、
薄い氷が割れるような、
あるいは乾燥した骨が擦れるような音が
室内に響く。
この右腕が重くなるたびに、
蓮の「影響力」は増大していく。
それは等価交換というよりは、
自分の人間としての実体を削り、
代わりに「概念としての神」へと
作り変えられている感覚だった。
テーブルの上には、最新型のスマートフォンが
数台置かれている。
蓮は、感覚のない石の指先で画面に触れた。
ハッキングは、もはやSNSに投稿するような
手間にすらならない。
蓮が画面を通して「念じる」だけで、
電波に乗った彼の意志は、手順を越え、
ファイアウォールを貫き、
受信者の脳内へと直接流し込まれる。
今の蓮にとって、
世界は巨大な**「楽器」**だった。
適当に弦を弾けば、
世界中から賞賛が返ってくる。
強く叩けば、
誰かを社会的に抹殺することなど容易い。
「……まずは、地盤を固めようか」
蓮は、かつて自分を切り捨てた
芸能関係者、広告代理店の人間、
自分を叩き続けたインフルエンサーたちの
リストを画面に呼び出した。
石の指が、流れるようにスワイプされる。
その瞬間、何百、何千という人間の脳内で、
蓮という存在に対する
「認識の書き換え」が行われた。
罪悪感、恐怖、そして抗いがたい崇拝。
彼らは一斉に、深夜にもかかわらず
活動を開始した。
"『有馬蓮こそが、
今の日本に足りない唯一の光だ』 "
"『これまでの誹謗中傷を謝罪します。
彼は神でした』"
"『独占:有馬蓮、完全復帰。
その圧倒的なオーラを見よ』"
ネットの海が、一瞬にして朱色に染まっていく。
だが、蓮はそれを眺めながら、
デリバリーで頼んだ最高級のステーキを
口に運んだ。
「……味がしない」 肉の感触はある。
だが、味覚が失われ始めている。
それは、まるで冷たい石を噛んでいるような、
無機質な感覚だった__。




